sairo

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昔から、知りたいという欲は他の人よりも強かった。
知らないことを知る度、何でもできるような高揚感があった。それこそ世界を作ることすらできるような気がして、いつからか図書館に通い詰めることが日常になっていた。

その本を見つけたのは、ただの偶然だった。
普段は足を運ぶことのない、宗教学の本が並ぶ棚。背表紙を目で追いながら、ただぼんやりと歩いていた。
ふと、足が止まる。同じようなタイトルの並びに、明らかに異なるものが紛れ込んでいるのを見て、無意識に手が伸びていた。
重みのある古ぼけた本。黄ばんだ紙に手書きで書かれているのか、インクの滲む文字が並んでいる。
英語、だろうか。読めないアルファベットの文字に、途端に興味が掻き立てられた。
読書スペースまで戻る手間すら惜しみ、その場で本を開く。
無心で文字を追うものの、どのページも何と書いてあるのかは分からなかった。
眉を寄せ、肩を落とす。
文字が読めないことも悲しかったが、何より新しいことを知れなかったのが悔しかった。
例えば遠い国の伝統や風習。まだ見たことのない景色や知識など、尽きない好奇心が湧き上がり止まらない。文字を一撫でし、これが先日見た古城の話について書かれていたものだったのならと、想像してもう一度深く溜息を吐いた。

「――え?」

一瞬、文字が波打ったように見えた。
気のせいだったのだろうか。瞬きの間に文字は元に戻っており、指でこすってみても何も変わらない。
しかし何かが違う。
見た目には変わらない。では何が違うのかと、ページを捲りながら眉を寄せ考えた。

「――あれ?読める……」

もう一度最初から見直そうと、ページをめくった時だった。
ただの文字の羅列だったはずのページ。そこに書かれている内容が、すっと頭の中に入ってきた。

――城塞の成り立ちと役目。

文字が読めるようになった訳ではないのに、次々と内容がイメージとなって頭に浮かぶ。
恐怖はない。知りたいと思っていた本の内容が理解でき、そしてそれが気になっていた内容だったことから、この不可思議な現象に対して、高揚感すら感じていた。
ページを捲る手が速くなる。知りたい欲が膨れ上がり、だがその手はあるページで止まった。
文字が読めない。どうやら古城に関する話から離れて、別の内容が書かれているようだ。
何が書かれているのだろうか。読めない文字を追いながら、頭の片隅でふと別のことが思い浮かぶ。
この本は他の本と比べ、遥かに古いものだ。この本はどのようにして作られ、またどんな目的で書かれたのだろうか。

「――あ」

文字が揺らぐ。
読めなかったはずの文字の内容が、頭の中に入り込んでくる。

――我が断章の起こり。

流れ込んできたのは、とある誰かの記憶。
自身の持つ知識を少しでも多く残したいと、文字として書き記している。けれど伝えたいものは多すぎて、文字だけでは正確に伝えきることができない。
悩んで、誰かは決意する。文字として書き記しきれないのならば、いっそ自身が本となり、あるがままの知識を残そうと。
ぐらり、と視界が揺れる。記憶と共に膨大な知識が流れ込んできて、酷い目眩がした。
濁流のように中に入り込み、染み込んでいく。自分の中の知識と混ざり合い広がって、自分のものと本のものとの区別がつかなくなってくる。

「っ、いやだ……!」

気づけば、本を投げ出していた。どさり、という本にしては重い音。古い紙とインクの匂いが鼻をつく。
肩で息をして、数歩後ずさる。
今まで、知識が増えることに恐怖を抱いたことはなかった。それなのに、本から流れてきた知識が恐ろしくてたまらない。
これは良くないものだと、自分の中の何かが警鐘を鳴らしている。

「大丈夫ですか?」

さらに一歩下がった時、すぐ後ろから声がした。

「あぁ、驚かせてしまいましたか。すみません」

肩を大きく震わせ弾かれたように振り返る自分を見て、背後にいた誰かは気のない謝罪を口にする。

「だ、れ……?」

声を震わせ問うも、誰かは肩を竦めるだけで答える様子はない。
そのまま硬直する自分の横を通り過ぎて、投げ捨てた本を拾い上げた。

「踏み止まれてよかったですね」

高くもなく低くもない、特徴のない声が淡々と告げる。意味が分からず眉を寄せれば、感情の乗らない黒の眼がこちらを向いた。
声と同じく特徴のない顔。僅かに首を傾げ、浮かぶ疑問を見透かしたように口を開く。

「これを手放すのがあと少しでも遅かったら、そのまま喰われて新しい断章になってましたよ」

ひゅっと、息を呑み込んだ。
それは嘘でも、大げさな表現でもないのだろう。根拠はないが、確信はあった。
呆然としながら、視線は無意識に目の前の誰かから、その手にある本へと移る。瞬きすらも忘れて見つめていれば本の表紙が波打ち、苦悶に歪んだ人の顔を浮かばせた。

「えっ……?」

ほんの一瞬。瞬きと共に元の表紙に戻ってはいたが、その顔に見覚えがある気がした。

「あの、それ……」
「それでは失礼します……そろそろ閉館のようですし、気を付けて帰ってください」

だがそれ以上何かを言うのを拒むように誰かは一礼し、止める間もなく去っていく。
その姿が本棚の向こう側に消えて見えなくなり、そこで閉館時間を告げる音楽が流れていることに気づいた。
去っていった誰かを追って本棚の向こうを見るが、誰の姿もない。辺りを見回しても人の姿は見えず、困惑しながらも図書館を出るため歩き出した。



「夢……だった?」

家路につきながら考える。
思い返してみれば、夢だと思えるほどの出来事だった。
頭の中に入ってきた知識を何も覚えていないことも、さらに現実味を薄くしていた。
小さく息を吐く。
夢だとしてしまえば、数日もすれば忘れることができるのだろう。
けれども本当に忘れてしまってもいいのか。最後に一瞬だけ見えた本に浮かぶ人の顔を思い出す。
見覚えのある顔だ。こうして落ち着いて考えると、それが同じゼミの学生だったように思える。
自分と同じく、知識を得ることに対して貪欲だった男だ。得た知識を周りにひけらかすような、それでいて知識を得るための手間を惜しむような人物だった。
数日前から姿を見ていない。行方不明になっていると噂されていた。

「ただの白昼夢だ。現実なんかじゃない」

言い聞かせるように声に出す。浮かぶ可能性を必死に否定する。
人が本になることなどありえない。自分があの時もっと知りたいと本を求めていたとしたら同じ末路を辿っていたなど、考えたくもない。
どちらにしろ、もう二度とあの本には出合えない。
特徴のない声と顔。男か女かすら判別がつかなかった誰か。
すれ違ったとしても、きっと気づくことはできないだろう。

軽く頭を振り、足を速める。
知る必要のないことをいつまでも覚えていても意味がない。それよりももっと別の、まだ知らないことを知るために動くべきだ。
明日も図書館へ行こう。そのためにも今日は早めに休まなければ。
意識を切り替えれば、次第に今日のことが霞んでいく。
家に帰る頃にはただの夢として、薄れ消えてしまっていた。



20260312 『もっと知りたい』

3/13/2026, 9:35:14 AM