三月。梅の花が咲き綻ぶ、温かな日差しが差し込む午後のこと。
黙祷を済ませて、一番奥の部屋へと向かう。主のいなくなった部屋は、今日も変わらず薄暗い。
空気が澱んでいる気がして窓を開けた。途端に感じるのは近くに咲く梅の花の香りではなく、潮の匂い。ざざ、ざざ、と寄せては返す波の音が鼓膜を震わせる。
窓の向こうに広がる海は、とても穏やかだ。
「また、一年経ったなぁ」
呟いて机に向かい、その上に置かれた古い腕時計を手に取った。秒針は動かず、針は二時五十九分で止まっている。
じっと見ていると、不意に秒針が震えた。長い眠りから目覚めたように震えながら数秒巻き戻り、そしてゆっくりと時を刻み出す。
かち、こち、と音が響く。一秒、また一秒と時が進んでいく。
そして、ぐるりと一周した後、秒針はまた最初のように動きを止めた。
「――やっぱり、今年も進まないかぁ」
秒針が一周しても、短針と長針は動かない。時間はいつまでも二時五十九分のままで、三時に進むことはない。
ほぅ、と息を吐いた。腕時計を一撫でして、机の上にそっと戻す。
「お父さん……」
呼びかけても、当然答えはない。
父の腕時計は沈黙したまま、父の書斎には自分以外誰もいない。
そもそも、父がどんな人なのかを自分は知らなかった。
周りはとても立派な人だったと言う。一人でも多く助けるため、最後まで声を上げて動いていたのだと誇らしげに語る。
けれど自分の中の父は、写真の中で穏やかに微笑む姿ばかりだ。
尊敬する人だと言われる度密かに困惑し、反発しそうになる。
立派だというのならば、何故自分たちを置いていったのか。母が今も一人で泣いていることに何も思わないのか。
決して口には出さない思い。母を困らせるつもりはなく、誰かに同情されたいわけでもなかった。
けれど、どうしても考えてしまう。
こうして一年に一度、たった一分間だけ動く、進まない時計の秒針を見ていると溢れてしまう。
「お父さんは、私より知らない子の方が大事だったのかな……」
物心つかない幼い自分を避難所に置いて、戻ってしまうくらいには。
それが父の仕事だったと、頭では理解している。
信頼しているからとはいえ、身重の母に自分を託していくのはとても心苦しかったのだとも想像できる。
けれど。
今日この日だけは駄目だった。母が仏間で泣いているように、自分も記憶にない過去に引きずられて沈んでしまう。
「駄目、だなぁ。もっとしっかりしないと……四月からは一人、なんだから」
もうすぐ、自分は慣れ親しんだここを離れ、遠くの街に進学する。
海の見えない場所。潮騒の代わりに喧騒が響く都会に出るのだ。
帰省することはあるだろう。しかしここで暮らすことは二度とないのだとも思う。
故郷が嫌いになったのではない。それだけははっきりと言える。
ただ、ここにいては、自分は先に進むことはできないと気づいた。
父の腕時計と同じだ。自分は一年かけて進んでいるつもりで、元の場所へと戻ってきてしまう。
「ごめんなさい……お母さんをよろしくね」
動かない腕時計に向け呟く。
来年からは、秒針が動くことを確認するために戻りはしない。今年が最後だと最初から決めていた。
不意に、強く風が吹き抜けた。
カーテンが大きく波打ち、陰影を作る。ざあざあと風と潮騒の音に合わせて揺れ動き、まるで踊っているように見えた。
「閉めないと……」
少しばかり見入ってしまい、慌てて窓へと手を伸ばす。しかしじゃれつくようにカーテンが腕にまとわりつき、思うように手が伸びない。
解こうとカーテンを掴めば、ふわりと広がり視界が真っ白に染まった。
海の匂いがする。それに混じり、仄かに梅の甘い香りがした。
「――っ」
その瞬間、目の前が白から青へと変わった。
雲一つない快晴。どこまでも続く草原を、風が自由に駆け抜けていく。
遠く、白い花をつけた木が目についた。離れているのにはっきりと香る甘い匂いが、あの木が梅の木だと告げている。
近づこうとして誰かがいることに気づいて足が止まる。背の高い男の人。こちらに背を向けているため、顔は見えない。
きゃあ、と楽しそうにはしゃぐ声が聞こえた。視線を向けると、男の人の所へと駆け寄る小さな影が見える。
「――あぁ」
思わず声が漏れた。
じわりと滲む視界の中、子供が駆け寄る勢いのまま男の人の足に抱き着いた。そのまま甘える子を抱き上げて、父が笑う。
こちらを振り向く父を遮るように、風が梅の花を散らして過ぎていく。
視界が再び白に染まり、咄嗟に目を閉じる。
「――あれ?」
次に目を開けた時、そこは外ではなく父の書斎の中だった。風の勢いを失い、力なく垂れるカーテンがするりと腕から離れていく。
目を瞬く。
一瞬だけ、夢を見ていた。梅の木と父に抱き上げられ笑う幼い自分。
「なんだ……覚えてるじゃん」
思わず声を上げて笑う。
今まで何もないと思っていた。自分にとって写真の中の父がすべてだった。
けれどたったひとつだけ残っている。
青空と梅の匂い。優しい笑顔と温もり。
平穏な何の変哲もない日常の一コマ。
思い出せなかったことが不思議なくらいだ。
手を伸ばして窓を閉める。乱暴に目元を拭うと、少しだけクリアになった視界で青空を見上げた。
「行ってきます。お父さん」
不格好な笑顔で、それでもはっきりと言葉にする。
父を忘れる訳ではない。故郷を捨てるつもりもない。
前に進むのに障害となってしまうものを、ここに置いていくだけだ。
「行ってきます」
繰り返して、部屋の外に出る。
かちこちと、自分の中で響く秒針の音に背を押され、力強く足を踏み出した。
20260311 『平穏な日常』
3/12/2026, 9:26:47 AM