sairo

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立ち止まり、一度だけ振り返る。
夕暮れでもないのに、影が長く伸びていた。まるで引き返そうとでもいうかのように、来た道を黒く染めていく。

「駄目だよ」

静かに告げれば、影は途端に動きを止める。しかしまだ迷いがあるのだろう。戻る気配は一向にない。

「駄目。それは置いていかなければならないものだ。過ぎ去ったものに手を伸ばすなんて意味のないことをしないで」

淡々とした無慈悲な言葉に、影は小さく震えた。
力なく項垂れながらも、最後に歩いてきた道の先へと腕を伸ばす。だがその手に触れるものはなく、やがて腕を下した影はゆっくりと元の大きさへと戻っていった。

「随分と酷い言葉。意味がないなんて、どうして言えるのかしら」

不意に声が聞こえた。
咎めるような響きを持ちながらも、柔らかな声音が鼓膜を揺する。

「別れは仕方のないこと。廃れるのもまた致し方ない……けれど過ぎ去った日々は決して意味がないものではないわ」

振り返れば、いつの間にか道の端に少女が佇んでいるのが見えた。
その腕には何かが抱えられている。湾曲した長方形の何か。白にも銀にも見える無数の糸は、まるでざんばらに切られた髪のように、風になびき揺れている。
黒く濡れた目が瞬いて、開いた口から言葉の代わりに旋律が溢れ落ちた。
聞いた覚えはないはずなのに懐かしさを感じるその音色。思わず眉を顰めた。

「いつまでも昔に縋っていることに意味はあるの?誰にも見向きもされない古いだけの音なんか、ただの雑音と変わらないよ」
「本当に?」

少女は微笑み、そっと腕の中のそれを撫でた。
物悲しい旋律が響く。壊れて現実には鳴らない琴が、泣くように歌っている。
音に惹かれ、元に戻ったはずの影が伸びていく。首を傾げ、歌う琴に触れようと手を伸ばす。

「駄目だよ」

咎めれば、影の動きは止まる。けれどもやはり、元には戻らずその場に佇んでいる。
迷っているようには見えなかった。見えない目が、見定めるかのようにこちらを向いている。そんな気がして落ち着かない。

「本当は戻りたいのね。でも諦めてしまっている。過ぎ去ってしまった日々には手が届かないと言い訳をして、顔を背けている……手を伸ばさなければ、届かないけれど傷つくこともないから」
「っ、煩い!」

気づけば声を荒げていた。
影が体を震わせている。だが少女は臆することなくこちらを見つめ、腕に抱かれた琴もまた、視線を逸らすことはなかった。

「知った口をきくな!何も知らないくせに。何も知ろうともしないくせにっ!」

酷く不快だった。無遠慮に内側に入り込み、上澄みだけを暴き立てる。そこに沈む思いを知ろうともしない独りよがりな行為に、怒りと侮蔑が込み上げる。

「もう、うんざりだ!これ以上構わないでくれ。そっとしておいてくれよ」

思いをすべて吐き出し、残るのは奥底に沈んだ悲しみだけだ。肩で息をしながら睨む視界の端がじわりと滲む。
どれだけ叫ぼうとも少女が変わらないことが、酷く苦しかった。

「――確かに、何も知らないわ」

ぽつりと、少女の静かな声が落ちる。

「あなたが私の痛みを知らないように。この子の嘆きを聞かないように」

琴が歌う。悲しげで、寂しげな旋律が身に染み込み、胸を締め付ける。
自分の悲しみよりも深く沈むそれは壊れたからか、それとも絶えてしまったからなのか。

「何も言わないのだから、知りようがないわ」

告げられた言葉が棘となって突き刺さり、思わず息を呑んでいた。
確かにそうだ。伝えようとしなければ、何一つ伝わらない。
理解して、急に恥ずかしくなった。さっきまでの自分が駄々をこねる子供と重なって、怒りや悲しみが萎んでいく。

「あ……えっと……」

何かを言わなければいけない気がした。けれど何を言えばいいのか分からずに、意味のない言葉だけが溢れていく。
そんな自分を馬鹿にするでもなく、少女は変わらず穏やかに告げた。

「戻れるわ」

不思議とその言葉に反発する気持ちはなかった。少女の腕の中で歌う壊れた琴が笑っているように見えたからなのかもしれない。

「過ぎ去った長い日々の中で絶えてしまったものでも、いつか誰かに目を向けられて手を伸ばしてもらえる時がくるもの。それにあなたには、気にかけてくれる人がいるでしょう?だから戻れるわ」
「気にかけてくれる、人……」

思い浮かぶのは、家族や友人たちの顔。
そういえば、と思い出す。
皆、待つと言ってくれた。協力は惜しまないと笑っていた。

「――もう一度、始めてみようか」

ぽつりと呟けば、少女は柔らかく微笑む。
あれだけ元に戻ることを拒んでいた影が、するすると戻ってくる。
その単純さに、自分の影ながら呆れて笑った。

「戻れるかは分からない。でも過ぎ去った日々に置き去りにしたものを、もう一度だけ拾いに行ってくるよ」
「頑張って。大丈夫、ちゃんと拾えるわ」

少女の言葉に背を押され、振り返り歩いてきた道を引き返す。
餞別なのか、琴の音色が聞こえた。どこか楽しげで、その旋律は壊れているとは思えないほど美しかった。
笑みが浮かぶ。足取りは軽く、あれだけ戻ることを怖がっていたのが嘘のように気分は爽やかだ。

「もう一度だけ……」

道の先に見える、小さな光。
その向こう側から微かに聞こえる、琴の音とは違う響きが聞こえている。
時に力強く、時に物悲しい弦の音。思わず走り出していた。

「大丈夫」

怖くはない。
あるのは、初めて音を鳴らした時の胸の高鳴り。過ぎ去った遠い過去に生きた人々を音と言葉で紡ぐ時のざわめき。
影が伸びる。待ちきれないとばかりに、光の中に飛び込んでいく。

「せっかちだなぁ」

たまらず声を上げて笑った。
声は出る。手の痛みや痺れは感じない。
手を伸ばせば、きっと置いて行った自分に届くのだろう。

「大丈夫」

繰り返して、速度を上げる。
影のように、迷わず光の中へと飛び込んだ。



20260309 『過ぎ去った日々』

3/10/2026, 9:48:37 AM