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「明日は、学校の花壇の花が咲くよ」

微睡む意識の中、声を聞いた。
誰の声かは分からない、穏やかな声。確かめようにも、意識は半分以上夢の中に沈んでしまっている。
今日も誰かは分からなかった。ただ言われた学校の花壇を記憶に留めながら、眠りに落ちていく。



次の朝。
目が覚めて、辺りを見回した。
誰もいないことを確認して、小さく息を吐いた。自分の部屋に誰もいないのは当たり前だというのに、それがどこか悔しい。

「一体、誰なんだろう」

いつからか聞こえてくるようになった不思議な声。眠りに落ちる寸前に聞こえるため、誰が言っているのかはまったく分からない。
昨夜のように花が咲くことを知らせることもあれば、水たまりができる、虹がかかるなど、とても些細なことを眠りに落ちる寸前に伝えられる。恐怖はない。ずっと隣で囁く声の正体が気になって、怖いと感じている暇などはなかった。
欠伸をかみ殺しながら、身支度を整えていく。

「学校の花壇……」

声が伝える出来事が外れたことは一度もない。だからきっと、花壇のチューリップが咲き始めたのだろう。

「本当に誰なんだか」

ぼやきながら、いつもより早く家を出る。
正体の分からない声に思う所はあるものの、植えたチューリップが咲いたのならば早く見に行きたかった。



その夜に聞こえた声は、いつもと違いどこか険しさが滲んでいた。

「人間の手が入った場所で山が崩れる。切り開かれたために、他より弱くなってしまった」

抽象的すぎて、どこを指しているのか分からなかった。けれど今までとは違い、良くない知らせだということだけは理解できた。
閉じた瞼をこじ開けようとするが、ほんの僅かすら開かない。焦る気持ちとは裏腹に睡魔が思考を鈍らせ、そのまま夢の中へと沈んでしまう。

揺れる感覚がして目を開けた時、夜の空を飛んでいた。
正確には、誰かの肩に乗っていた。山より高い彼は月明かりの下で山を動かし、掬った水で湖を作っていく。
その作業を見守りながら、何故かとても嬉しくなった。笑みが浮かび、彼に擦り寄る。
ふと目についた山の中腹を指さした。示した場所を彼が整え、開けた場所ができる。

――ここにしよう。

そう思った。彼も同じように思ったのか、穏やかな笑い声が降ってきた。

瞬きの間に、時が過ぎていく。
作った場所に人が訪れ、生活が始まる。時折薪として木を切り倒すことはあるものの、それは微々たるもので山は気にすることはない。
時が流れ、次第に変化が訪れる。
木を切り倒す量が増えた。生活する人の数が増え、さらに広い土地が必要になっていた。
山に動きはない。静かに人々の営みを見守っている。
そしてまた時が流れ、今度は麓で変化が訪れた。
木々を根こそぎ倒していく。人にとっては必要なことなのだろう。
けれど微かに山から悲鳴が聞こえ始めた。
恐ろしくて、彼にしがみつく。見ていることしかできないのが苦しい。山の悲鳴は次第に大きくなっていくのに、誰一人気づかないのが、ただ悲しい。
悲しみが雨となり、山に降り注ぐ。強い雨だった。染み込む水の重さに、山が叫びを上げている。
その声に気づいた人は、どれだけいたのだろうか。
叫ぶ声は山を崩し、麓の家を襲う。
咄嗟に目を閉じ、深く俯いた。最後まで見届ける勇気はなかった。

「ごめんなさい」

気づけば言葉が溢れていた。見ていることすらできなかった後悔が、痛みとなって押し寄せる。
痛くて苦しくて、紛らわせるように強く手を握り締めた。


「――花が咲くよ」

どれだけそうしていただろう。
不意に、彼がそっと囁いた。その声に促され顔を上げ、目を開ける。
指さす先の木々に白い花が咲いていた。

「お前の愛した花々は、何度でも咲き誇る」

優しい声が降る。

「山も、人間も同じだ……大丈夫」

彼が柔らかく微笑んだ。
その後ろ。気づけば東の空がほんのりと明るくなってきていた。
夜が明けるのだろう。そろそろ戻らなくてはいけない。

「大丈夫」

別れを惜しんで抱き着けば、彼は目を細めて囁く。
何度でも繰り返し告げる。

「私はいつも隣にいる。ずっと一緒だ」

今までも。そしてこれからも。
伝わる彼の思いに、そっと手を離した。
寂しさが恥ずかしさに変わる。このやりとりが初めてではないと思い出してしまった。
何度も繰り返してきた。彼の肩の上から大地に降りると決めたのは自分だというのに、寂しくなって彼の元に戻ってきてしまう。

「いつもありがとう……行ってきます」

頬が熱を持つのを感じながら、彼の肩から飛び降りる。
風を浴びながら眼下に見える家々を見下ろした。その中から今の自分の家を見つけ、降りていく。
意識が揺らぐ。叩きつけるような勢いの風が、次第に全身を柔らかく包み込んでいく。
そっと目を閉じた。落ちていく感覚が、浮かび上がる感覚に変化していく。

彼に見守られている気配を感じながら、ゆっくりと目を覚ました。





ぼんやりとテレビを眺めながら、食パンを齧る。
今日は朝から外が騒がしい。ちょうど今テレビに映っている映像が原因なのだろう。
大雨の影響で、昨夜遅くに麓の街で土砂崩れが起きたという。けれどいち早く山の異変に気付いた誰かが避難を呼びかけ、奇跡的に巻き込まれた人はいなかったようだ。

「なんか見た気がするなぁ」

既視感、というものなのだろうか。テレビを見ながら思い出そうとするが、どこで見たのか思い出せない。逆に段々と霞んで消えて、溜息を吐きテレビを消した。パンを牛乳で流し込み、立ち上がる。
昨夜聞いた声を思い出しながら急いで片づけを済ませ、出かける準備を整えていく。
学校の裏山にある木蓮の木に花が咲いたらしい。何年も花を咲かせなかった木に花が咲いたのだから、見に行かなければ。

「誰なんだろうなぁ」

夜に聞こえる不思議な声。誰の声か気にはなるが、きっと知らないままでも大丈夫だ。

「これからもずっと一緒にいてくれたらいいな」

そんなことを思いながら、玄関を出た。
風に乗って、ふわりと花の香りがする。温かな日差しに笑みが浮かぶ。
春が来ている。色鮮やかな花の咲き乱れる、一番好きな季節が訪れている。
今夜もきっと声は聞こえるのだろう。今からその声を楽しみに、跳ねるように駆け出した。



20260313 『ずっと隣で』

3/14/2026, 2:51:40 PM