目を閉じて、ゆっくりと落ちていく。
布団の中、ベッドの上で体は眠っている。けれど心はどこまでも深く、地の底を目指すかのように沈んでいく。
静かだ。外の音も部屋の中の音も、何もかもが聞こえない。それほどにまで深く沈み落ちているのだろう。
不意に、足裏に冷たい地面の感覚がした。横になっていたはずの体は、いつの間にか地に足をつけて立っている。目を閉じていても、誰かと対峙しているのを感じていた。
一つ深呼吸をして、そっと目を開ける。
何もない部屋の真ん中に、自分は立っていた。
目の前には、大きな姿見が一つ。そこに映る自分と目を合わせていれば、鏡の中の自分は唇の端を上げ、意地悪く笑った。
「また?最近多いねぇ。今度は何から逃げてきたのかな?」
相変わらず鏡の中の自分は意地悪だ。分かっていて聞くのだから、本当にタチが悪い。
「テストのための勉強?進路が決まらないこと?それとも……先輩が目の前で好きな子の特徴を話したこと?」
くすくすと笑われ、何も言い返せずに俯いた。
本当に酷い。この子は自分自身だと言うが、未だに信じることができない。
けれどそれを口にすれば、また嬉々として自分だという証拠に隠し事を曝け出すのだろう。信じるからそれ以上は止めてほしいと願っても最後まで語る姿が容易に想像できて、気分が沈む。ここにいたくはないのにここしか逃げ場がないことに、耐えきれなかった溜息が溢れ落ちた。
「何でそんなに嫌がるかな。というか嫌なら逃げなきゃいいだけの話なんだけど」
「――うるさい」
「毎日しっかり授業を聞いて、予習復習をしていればテストなんて難しくもないし、将来どうなりたいかを考えれば進路も決まる。先輩のことは……ちゃんと気持ちを伝えないと、いつまで経っても変わらないよ。今日も顔見て話してたら、とっても面白いことになってたのに」
「うるさいってば!」
耳を塞ぎ、目を閉じる。
彼女が言っていることは正しい。全部後回しにして、こうして今現実から逃げ出している。
分かっているのだ。けれどやりたいことがたくさんあって勉強などは後回しになるし、今が忙しすぎて将来という先のことを考える余裕はない。先輩に対してはそもそも思いを口にした所で何も変わらないだろう。
楽しそうに好きな子の話をする先輩を、どんな顔をして見ればいいというのか。
泣きそうになるのを手を強く握り締めることで必死に耐える。泣いても彼女は慰めない。ただ淡々と事実を突きつけられて、苦しくなるだけだ。
「そうやって逃げ続けても意味がないって分かっているでしょうに。何で私がここにいるのか、もう一度教えてあげようか?」
耳を塞いでも聞こえる彼女の言葉。これ以上は逃げられないのだと突き付けられて、のろのろと手を離し顔を上げた。
ここが底なのだ。改めて実感する。
自分が逃げることのできる一番奥底。自分の本心であり、影である彼女と顔を合わせて話せる場所がここだと、忘れてはいない。
小さく息を吐いて目を開ける。鏡の向こうの自分は、呆れた顔をしながらも笑ってくれた。
「そんな顔ができるなら、現実逃避を止めて上がることができるね」
「仕方ないからね。ここにいても酷いことを言われるだけだから、それよりはマシ」
「相変わらず素直じゃない……じゃあ、起きて学校に行ったら、放課後に図書室で勉強しな。先輩が来たら勉強を教えてもらうついでに、進路の相談をすればいい」
現実の話に思わず顔を顰めた。特に先輩と話す勇気が出ずに、底から上がることを躊躇してしまう。
「話さなきゃ、ダメなの?」
「そりゃあね。ちゃんと顔を見て話さないと鈍感な私は気づかないから、仕方がない」
態とらしく、彼女は溜息を吐いた。揶揄うような仕草に悪いことにならない予感がして、体の力が抜けていく。
力が抜ければ体が軽くなり、ふわふわと上へ浮き始める。
目が覚めるのだろう。遠くなる鏡の向こう側で彼女は手を振り、にこにこと笑っていた。
「現実逃避の時間は終わり。ちゃんと頑張っておいで」
優しい声に頷いて目を閉じる。
沈んでいた体が地上に向けて上がっていく。足の裏の地面の感覚がなくなり、代わりに体を包み込む暖かい布団の重さを感じ始める。
深呼吸をひとつ。瞼の向こうの明るさに、そっと目を開ける。
見慣れた天井。勉強机や本棚。いつもの自分の部屋に戻ってきていた。
カーテンの向こうが明るい。枕元の時計は、そろそろ起きる時間を指し示していた。
ゆっくりと起き上がる。眠る前と違い、体も気持ちもとても軽い。
「――頑張ろう」
呟いてベッドを抜け出す。
身支度を整え、いい一日になればいいと思いながら迷いなくカーテンを開け、朝の陽ざしを浴びながら目を細めた。
「珍しいな。こんな所で勉強してるなんて」
聞こえた声に、思わず顔を上げた。
ノートを覗き込む先輩の姿に、肩が跳ねる。突然のことに何も言えずに固まっていると、彼はノートの一点を指さした。
「ここ、スペルが間違ってる。お前よくケアレスミスをするから、ちゃんと見直さないともったいないぞ」
「あ……気をつけます」
指摘された単語を直し、見直すふりをしながら俯く。
話をする。今までは当たり前にできていたことが、とても難しい。
前はどのように勉強を教えてもらっていたのか。考え込む自分に刺さる先輩の視線が、さらに落ち着かなくさせる。
不意に、隣の椅子が引かれる音がした。視線を向けると隣に座った先輩と目が合い、息を呑む。
「そういや、進路は決めたのか?」
「あ、えと……まだ全然決まってなくて……」
しどろもどろになりながらなんとか答えると、先輩は目を細めて笑う。
何か悪戯を思いついたような笑い方。この表情をする時の先輩は、突拍子もないことを言い出すことが多い。
何を言い出すのか身構えれば、先輩は顔を近づけて囁いた。
「決まらないなら、俺の所にくるか?」
「――え?」
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
つまりは、先輩が進む大学を選べばいいということだろうか。先輩はどこへ進学したのだっただろうか。
それにしても距離が近い。このままでは触れてしまいそうだ。少しは離れた方がいいだろう。先輩が近すぎて、心臓が痛いくらいに暴れている。
頭の中で色々なことがぐるぐると回る。考えすぎて、何もできない。答えなければ、距離を取らなければと考えてはいるのに体は動かず、ただ先輩を見ているだけ。
「本当に鈍感だな。そこが可愛いけど、影は大変だってぼやいてたぞ」
「え、何……言って……?」
「遠まわしじゃなくてはっきり言ってくれってアドバイスをもらったからな」
影、と言われて、鏡の中の自分を思い出す。
そんなはずはない。先輩が彼女を知るはずはないのだとすぐに否定するものの、それ以外に影に思い当たるものはなかった。
先輩は何を言っているのだろうか。問いかけようとした瞬間、腕を掴まれ強く引き寄せられた。
「ひゃっ……」
「好きだ。真面目な所も、少し天然な所も。優しくて鈍いお前が大好きだ」
「せ、先輩っ!?」
「だから俺の所に来い。幸せにしてやるから」
囁かれる言葉に、心臓が跳ねる。じわじわと顔が熱を持ち、呼吸の仕方が分からなくなってくる。
先輩の腕の中。ふと、不自然に伸びる影が目についた。
先輩と抱き合い、寄り添う影。けれどこちらを見つめ、軽く手を振られた。
――ほら、面白いことになったでしょ?
楽しげな声が、頭の中で響く。にやりと笑う姿が脳裏に浮かび、思わず声にならない悲鳴を上げていた。
「――っ!!」
「相変わらず仲がいいな、お前ら。そろそろ返事がほしいんだが」
悪戯めいた声が降る。視線を向ければ至近距離で先輩と目が合い、咄嗟に目を閉じた。
見えない分強く感じる温もりに、彼の腕の中にいるのだと思い知る。逃げ出すことも、況してや言葉を返すこともできず、混乱した思考は無意識に先輩の背中に腕を伸ばす行動をとった。
「ちゃんと言葉で返事がほしかったが……まあいいか」
面白がっているような彼の声。そして頭で響く彼女の笑い声。
いつものような逃げ場はもうない。
向き合わなければいけない現実。せめてもの抵抗に、目を閉じたまま目の前の温もりに強くしがみついた。
20260227 『現実逃避』
何をするでもなく、無言でソファに座る弟を見つめ、眉を寄せる。
一月以上戻らなかった間に、弟はすっかり変わってしまった。以前はそれなりに活発であったというのに、今は課せられた役目がある時以外はこうにて部屋に篭ったまま。無表情で微動だにせず座っている姿はまるで人形のようで、どう接すればいいのか分からない。
まだ納得するには至っていないのだろうか。弟が出て行った時のことを思い出す。
雲を作る役目を、弟は誇りに思っていた。一切の妥協を許さず、一から雲を作ることに拘っていた。
だからだろうか。作るのではなく雲を呼び寄せる他に対して、弟は強く非難していた。
幼さ故に妥協を許せず、ズルは悪いことだと一方的に責め立てる。何度説得しても、弟には届かなかった。
あの日も、弟は雲を呼んだ幼馴染に対して声を荒げていた。周囲の非難めいた視線など気にしない弟に耐えきれず、気づけば肩を掴み怒りをぶつけていた。
――いい加減にしろ!もう、うんざりだ。
あの時、弟はどんな表情をしていただろうか。自分と同じように怒りを露わにしていたのか、泣いていたのか。
覚えているのは、外に駆け出していく小さな背中だけだ。
今の弟からはもう、以前の姿を重ねることはできない。
あの時感情的にさえならなければと思うものの今更だ。
「こんな所にいても退屈だろ?一緒に出かけないか」
声をかければ、ガラス玉のような目が向けられる。
無言で見つめられ、息が詰まる。重い空気に眉が寄ったのをどう捉えたのか、弟は視線を外し首を振った。
「大丈夫です。気にしないでください」
以前の弟からは想像もつかない言葉。それが今の自分たちの距離だと突きつけられているようで、そうかとだけ告げ、逃げるように部屋を出た。
その日。
眩いばかりの光を連れて、滅多に訪れることのない客が広間に降り立った。
金の翼を持つ三本足の烏。大きく翼を広げ、その姿は揺めきと共に年若い女性に変わった。
弟を迎えに行った際に側にいた女性のうちの一人だと気づき、無意識に体が強張る。弟と何を話していたのか聞きたいと思う気持ちと、何を言われるのかを恐れる気持ちが混ざり
言葉一つ出てこない自分を気にもかけず、烏はどよめく周囲を見回した。
「随分と落ちぶれたものだね」
落胆を隠しもしない呟きに、さらに周りが騒めく。不機嫌さを笑みで誤魔化しながら近づく大人たちを視線だけで止め、烏は眉を寄せ嘆息する。
「一方の意見だけを聞くつもりはないのだけれど、こうやって実際を見れば聞かずとも分かるな」
「どういう意味でしょうか?」
「まあ、あの子がいない一月以上は雨が降らなかったことから、大方察してはいたけれど」
烏の口から出たあの子という言葉に、思わず肩が跳ねる。詳しく聞かずとも、それが弟のことを指していることは理解できた。
弟から聞いた話とは、やはり雲のことだろうか。敢えて聞かずとも、弟がただ我儘なだけなことは察せられるはずだが、何を落胆しているのだろうか。
疑問が顔に出ていたのか。烏はこちらに視線を向けると、顔を顰めてまた深く溜息を吐いた。
「まったく自覚がないのか。自覚がある奴らは何人かいるみたいだが、知らぬふりを通そうとするなら、余計たちが悪いな」
「それは……どういう……?」
問いかけようとした時、背後で扉の開く音がした。
振り返れば、扉に手をかけたまま弟が呆然と立ち尽くしている。その視線は烏に向けられ、震える唇がどうして、と動くのが見えた。
「ちょうどよかった。君を迎えに来たんだよ」
「ぼくを?」
「君は今、何も言えないだろう?あの時の雲のように、憂鬱に沈んでいるんだと思ってね」
烏の言葉に、弟の表情がくしゃりと歪んだ。戻ってきてから一度も見せたことのない変化に、驚くと同時に虚しさが込み上げる。
家族である自分の言葉は届かなかったのに、出会ったばかりだろう烏の言葉は染み込むように届いている。それがただ悲しかった。
「でも、お役目が……」
戸惑う様子を見せるものの、烏が手招けば弟は小走りで彼女の元まで近寄っていく。思わず引き止めようとした手は一瞥もされず、空を掴んで力なく下ろした。
「君が少し長めに雨を降らせたから、まだ当分は大丈夫。それに、ここにいる奴らに現実を見せるいい機会だ」
「どういうこと?」
不思議そうに弟は首を傾げる。周りは誰一人動くことも口を挟むこともできず、二人の会話を聞くことしかできない。
何かを言いかけたモノはいたが、それが言葉になる前に烏に視線を向けられ小さな呻きとともに誰もが口を閉ざしてしまっていた。
「君以外は、怠け癖が染み込んでいるようだから……君から搾取するのではなく、自分たちでどうにかすることを思い出してもらわないといけない」
搾取という言葉に、不快に眉が寄った。弟から何を搾取しているというのか。そんな非常識なモノはこの一族の中にいるはずもない。
何も知らずに好き勝手に口を出す烏に、段々と気分が悪くなる。
耐えきれず、止めようと足を踏み出した。
「別に他所から余剰分の雲を呼び寄せることは悪いことではない。けれど他所の雲をそのままにしているだけじゃあ、すぐに散ってしまうだろう……昔はちゃんと呼び寄せた雲に手を加えて馴染ませていたのに、今は何もせずにいるのだから呆れてしまう」
「みんな、ズルばかりするんだよ」
「確かにな。近くで見るとよく分かる。呼んだ雲に君の作った雲を混ぜるなんて、確かにズルでしかないだろう。搾取する側はそれが当たり前になってしまって、搾取される側の言葉は疎ましいとしか感じられなかったのだろうな」
しかし文句を言おうと開いた口は、真っすぐな烏の目と容赦のない言葉によって掠れた吐息しか出てはこなかった。
あまりの衝撃に息がうまく吸えない。無意識に体は後退り、告げられた言葉を必死で否定しようと踠く。
弟を搾取などしてはいない。ただ少しだけ、協力をしてもらっていただけ。
考えれば考える程、言い訳にしかならない。周りも同じように感じているのか、皆一様に俯いて烏と弟から逃げていた。
「君の作る雲に頼らなくなるまでは様子見だな。変わらなければ存在が消えるのだから、精々頑張ってくれ」
冷たく告げて、烏は揺らめきと共に金色の翼を広げ、止める間もなく弟と共に飛び去ってしまう。
後に残されたのは、烏曰く搾取する側の自分たちだけ。
弟たちのいた場所を暫し見つめ、ゆっくりと両親へと視線を向けた。一瞬だけ交わった視線はすぐに逸らされ、両親は知っていて何も言わなかったことに気づいた。
そういえばと思い出す。戻った弟の変化を、誰も心配しようとしなかった。当たり前に受け入れて、もしかしたら静かになったと喜んでいたのかもしれない。
何も気づこうとしなかった不甲斐なさに、強く手を握り締める。これ以上この場にいたくなくて、足早に広間を出て外へ向かう。
弟がしていたように、一から雲を作り上げていく。雲を呼び寄せるよりも疲労感が強く、手の平ほどの大きさに作り上げただけでも息が切れた。
これを弟はずっと一人で行っていた。それを考えるだけで、自分自身に怒りが沸く。
込み上げる涙を乱暴に拭い、もう一度最初から雲を作る。涙の向こうで無表情な弟の姿が浮かび、歯を食いしばり泣くのを耐えた。
ふと横を見ると、幼馴染や友人たちが同じように雲を作る練習を始めていた。視線を合わせ、気まずげではあるが笑う。
大人たちのようにはなりたくない。弟に謝るため、自分たちは変わりたい。
言葉にせずとも伝わる思いに、お互い頷き意識を集中させる。
次に弟に会えた時に、笑顔でおかえりと言えるように。
今はただ、無心で雲を作り続けていた。
20260226 『君は今』
青を隠した灰色の雲を見上げ、溜息を吐く。
雨が降りそうで降らない、中途半端な天気に気分が沈んでいく。逸らした視線が公園の時計を認め、益々憂鬱になり項垂れた。
待ち人はまだ来ない。約束の時間はすでに十五分も過ぎているが、一向に来る気配はない。
いつものことだ。彼女が時間通りに待ち合わせ場所に辿りついた試しがない。
今度は何に巻き込まれているのか。何度か忠告はしているものの、お人好しな性格はそう簡単には変わらないのだろう。
「困ったね」
思わず嘆息するものの、彼女の優しさに惹かれ一緒にいる身としては強く言えない所だ。
もう一度空を一瞥し、肩を竦めて歩き出す。
待ち合わせに来ない彼女を迎えに行くのもいつものこと。込み上げる溜息を飲み込んで、彼女を探しに公園を出た。
しん、と静まり返った道を歩いていく。
辺りには誰もいない。見上げた空は待ち合わせ場所で見た時と同じような雲に覆われているものの、不気味な程に変化がなかった。
絵や写真のように、雲に動きがない。もう一度辺りを見回せば、空と同じく固まったまま微動だにしなかった。
このまま空が落ちてきそうだ。雲の重苦しい灰色を見ていると、そんな暗いことばかり考えてしまう。世界から切り離されて閉じられたこの空間は元には戻れず、潰され消えるしかないのだろう。
「――馬鹿みたい」
そんなことはあるはずがないと、頭を振る。先ほどから気分が沈みおかしなことを考えているのも、中途半端な空のせいに違いないのだろう。八つ当たり気味に考えながら、足早に彼女の元へ向かい歩いていく。彼女の居場所に心当たりはないものの、耳を済ませれば微かに聞こえる音の方へ向かえば出会えるような確信があった。
「今度は一体何に巻き込まれているんだか」
思わず乾いた笑いを溢しながら、困ったものだと繰り返す。泣くような、何かを怒るような声に足を速めれば、脇道の向こう側に見慣れた彼女の背が見えた。
「あ……ごめん。待ち合わせしたのに」
こちらに気づいた彼女が、眉を下げる。それに気にするなと肩を竦めながら、彼女にしがみつく小さな影に眉を顰めた。
震える体は泣いているかのように見えるのに、泣き声は聞こえない。彼女の側に寄れば、必死に唇を噛み締め泣くのを耐えている幼い少年の横顔が見えた。
「ごめんね。一人きりで寂しそうにしているのを見てたら、放っておけなくなっちゃって」
「まあ、待ち合わせに来ないのはいつものことだし……変な争いに巻き込まれているみたいな状況じゃなかったからよかったというか」
思わず本音を溢せば、彼女も泣きそうな顔になってしまった。ごめんと俯く姿に慌てて、話題を変えるべく声を上げる。
「それより、この子どうしたの?仲間とはぐれたとか?」
「ぼく、わるくない……」
今まで黙っていた少年が、こちらを向き呟いた。
「わるくないもん。ズルした方がわるい。なのに、みんなぼくがわるいって言うんだ……」
一度口にしてしまえば止まらなくなってしまったのか、少年は悪くないと繰り返す。
背を撫で慰める彼女を見ながら、飲み込めなかった溜息を溢す。事情が何も分からないが、ずっとこのままという訳にはいかない。仕方がないと膝をつき、少年と目を合わせた。
「悪くないってちゃんと皆に伝たの?」
「どうせ信じてくれないよ。ぼくはじぶんで雲を作ったけどあいつはお山の方でできた雲を持ってきただけだって前に言ったけど、信じてくれなかったもん」
きゅっと唇を噛み泣くのを耐える少年に、大方の事情を察し眉が寄る。
重苦しく物憂げな空模様。誰もいない、止まったままの空間。
随分と業が深い。一度や二度ではないのだろう。
「信じるよ」
目を合わせ、はっきりと口にする。
大きく見開かれた目にほんの僅かな期待が灯るのを見て、苦笑しながら頭を撫でる。
「私も信じるよ」
「ほら、信じているのが二人になった……どうする?望むのなら、君が嘘をついていないって説明してあげるけれど」
そう言って少年の背後を指さした。
迎えに来たのだろう。先ほどから青年がこちらの様子を伺っていた。
「――いい。大丈夫」
青年の姿を見て、少年の目から期待が消える。代わりに諦念を浮かべて彼女から離れ、立ち上がる。
「ありがとう。信じてくれて嬉しかった」
丁寧にお辞儀をして、引き留める間もなく少年は青年の元へと歩いていく。青年の差し出す手を見ない振りして、そのまま姿が揺らぎ霞み消えてしまった。
「あの子、最後まで泣かなかった」
「泣けなくなってしまったんだろうな」
「大丈夫かな。心配だよ」
少年が消えた方向をいつまでも見ながら、不安げに彼女は呟いた。
今にも泣きそうな彼女の髪を風が揺らし、過ぎていく。遠くから車の音や雑踏が聞こえ、戻ってきたことを感じさせた。
見上げる空は、変わらず暗い雲に覆われている。しかし先程よりも雲の淀んだ灰色が薄くなっているように見えた。
「今度会ったら、三人で遊びに行こうか」
「え?」
雲を見ながら、気づけばそんなことを口にしていた。
驚いたように息を呑みこちらを向く彼女を見つめ、笑ってみせる。
「嫌なことを忘れるくらい、楽しいことをして美味しいものを食べればいい」
「そう、だね……また会えたら。今度は一緒に」
頷いて、彼女は笑う。
「じゃあ、次に会えた時のために、たくさんいい所を探しに行かないとね」
そう言って手を差し出す彼女は、やはり底抜けのお人好しだ。呆れながら手を取り、態とらしく溜息を吐いてみせる。
「本来の待ち合わせ時間はとっくに過ぎているけどね」
「そういうこと言わないでよ。意地悪」
途端に気まずげな顔をする彼女に笑いかけ、手を引いて歩き出す。
お人好しな彼女と関わっていければ、きっといつか少年も心から笑い、泣くことができるのだろう。今まで関わってきたモノたちのように。
そんなことを思いながら空を見る。次に会えた時にはきっと、物憂げな灰色は白に染まってくれるのだろう。
20260225 『物憂げな空』
まだ出ぬ芽を待って、花壇に水を撒いていく。
春になれば種は芽吹き、綺麗な花を咲かせることだろう。鮮やかな色彩を思い浮かべ、笑みが浮かぶ。
「そんなに水をやるな。芽が出る前に腐ってしまう」
いつの間にか後ろに立つ彼が、呆れたように声をかけた。はっとして水を止め、誤魔化すように手にした如雨露を片づけに立ち上がる。
ざわり。風もないのに周囲の木々が葉を揺らす。ふわりと甘い花の香りに、ざわつく心が次第に落ち着いていく。
「楽しみなのは分かるが、あまり世話を焼きすぎるのは良くないことだ。甘やかされるばかりの花は、一人で咲いた花の美しさには敵わない」
「ごめんなさい」
肩を落とし謝るものの、彼の反応はない。
言ったところで無駄だと思っているのだろう。種を植える度に繰り返すこのやりとりは、もう何度目になるのかすら覚えていない。
理解はしているのだ。けれど種を植え、次第に囁く声が聞こえてくると、つい手を出しすぎてしまう。
地上への憧れ。生長する自身の期待。どんな花を咲かそうかと囁き語る種の声は、皆そろって楽しげだ。
「お前たちはそろって、見て聞いたモノを甘やかす傾向にあるのだから困ったものだ。与えられる優しさを求めたモノらがまた諍いを起こすぞ」
「それは……」
溜息と共に呟かれた言葉に思わず言い返しかけ、口を閉ざす。
このやり取りも初めてではない。彼の言葉の真意が心配ではないことを察して、込み上げる笑いを必死にかみ殺す。
「――言いたいことがあるのならば、素直に言葉にすればいい」
「別に言いたいことはないけど、ただ……お父さんって、本当にお母さんが好きなんだなぁって思って」
気にかけるモノに対して、嫉妬を露にするほどに。
心の中で付け加え、如雨露を片付けながら小さく笑う。
風に乗って届いた声が教えてくれたこと。それに気づいてから、前よりも素直に彼の言葉を聞けるようになった。
「声を聞けるというのは本当に厄介だ。人間の世界で生きていくうえで足枷しかならないだろうに」
「ここしか知らないから、よく分からないや」
「困ったものだ。独り立ちはまだ難しそうだな」
聞こえた溜息に、少しだけ眉を顰める。
独り立ちをしなければいけないと、何度か言われているものの、ここを離れる想像ができない。
どうして離れなければいけないのだろう。聞こえる声たちは皆優しく、ずっとここにいればいいと言ってくれるというのに。
種を植えた場所に視線を向ける。耳を済ませれば聞こえる囁きは、いつもと変わらず芽吹きを楽しみにしているものばかり。
「ずっとここにいたいのに」
「ここにいたままでは、番を見つけることが容易ではないだろう」
ぽつりと溢れ落ちた言葉に、静かな言葉が返る。
番。寄り添ってくれる誰か。やはり何一つ想像できない。
不意に風が吹き抜けた。誘う声を追って、彼の元から逃げるように駆け出した。
「もうすぐ昼時だ。あまり遠くには行くな」
「分かってる。行ってきます!」
振り返らず、ただ駆けていく。
周囲の草木が笑っている。まだまだ子供だと揶揄われ、似たもの親子だと楽しげに言われて、恥ずかしさに頬が熱くなる。
「似てないし」
彼と似ていると言われることに悪い気はしない。けれどそれを素直に認められず文句を言えば、また周りに笑われた。
「笑わないで」
そう言いながら崩れかけた石段を上り、一番上で振り返る。
種を植えた広間の奥、深い森を見遣り、目を細める。
森の先には、母が生まれ育った街があるという。
母が何故故郷を離れ、この誰もいない地で暮らし始めたのかは分からない。聞いたことがあるのは、ここは昔草一つ生えない、死んだ土地だったということ。そしてここに、母の大切な家族が眠っていることくらいだ。
家族の側にいたかったからなのか。それとももっと別の理由があるのか。
気になったことはあるものの、あえて聞こうとは思わなかった。
「何にもなくなったって聞いたけど、冬みたいなものだったのかな」
石段に腰掛け思い浮かんだことを口にすれば、冬の時期よりも何もないのだと風は答えた。
木々は焼けて枯れ、雑草一つ生えることはなかった。生き物の気配は失われ、文字通り死んだ土地だったのだと髪を揺らしながら伝えてくれる。
「死んだ土地、か……」
見下ろす広間にその光景を重ねようとするが、何もないという想像はやはりできなかった。
代わりに浮かぶのは一面の花畑。種々折々の花に囲まれ笑う両親と自分の姿だった。
「何もなくても、種を蒔けば芽が出て花が咲くよ」
じゃれつく風に伝えれば、そうだねと声が返る。
種を蒔き、育てる誰かがいれば、小さくともまた命は宿る。死んだと言われた不毛の大地も、命が巡る花畑へと戻ることができる。
もしかしたら、母がここで暮らす理由はそこにあるのかもしれない。
「陽が高い……そろそろ戻らないとな」
そう呟きながらも体は動かない。
独り立ち。ここから、両親から離れるということ。それが頭の中でぐるぐると巡り、体を重くする。
ずっとここにいたい。両親の側から離れたくない。そんな子供じみた思いもいつかは消えて、ここを離れていくのだろうか。
ゆっくりでいいよ、と風は囁く。無理に背伸びをする必要はない、と草木が慰めてくれる。
それにありがとうと笑って、こちらに近づく彼の姿を認めて立ち上がった。
空を見上げれば、澄んだ青がどこまでも広がっている。
「いい天気」
大きく伸びをして、石段を駆け降りる。
暖かな日差しが心地良い。まとわりつく風も、いつもよりも柔らかだ。
急がなくていいと聞こえる声たちは告げる。彼も口にするだけで、本心は違うのだと教えてくれる。
独り立ちを望むのならば、こうして迎えには来ないだろう。
笑いを堪えた声に、確かにと笑った。
「今日はとてもいい日になりそう」
水を上げた種を思いながら、この陽気に誘われて芽が出るのではと想像する。
一足早い、春の訪れ。
小さな命たちの芽吹きを待ち望みながら、駆け降りる勢いのまま迎えに来た彼に抱きついた。
20260224 『小さな命』
好きだ。
その言葉の軽さに、泣きたくなるのを必死で耐えていた。
自分は彼にとっての特別ではない。その他大勢よりも少し上の、けれども変わりはいる存在なのだと突き付けられているようで、ただ苦しさばかりが込み上げる。
「誰かの唯一になるのは、とても難しいことだよ」
後ろの暗がりから声がする。慰めるかのような手が、背を撫でる。
「誰だって自分自身が一番で唯一なんだ。自分以上になんて誰もなれはしない」
囁く声は淡々としながらも、傷口や隙間から入り込むような甘さを宿している。
咄嗟に目を閉じた。その姿を見てはいけない。見てしまったのなら、きっと自分はもう自分ではなくなるのだろう。
「怖くはないよ。姿を見ても、死んだりなんてしない。深く眠って、幸せな夢を見ることだってできる」
背を撫でる手が肩に触れ、気配が後ろから前へと移動する。怖くないと何度も繰り返し、両手で頬を包まれた。
逃げられない。込み上げる恐怖が、じわじわと諦念に塗りつぶされていく。
彼の特別になれない自分。好き以上の感情を持たれないのならば、このまま眠ってしまってもいいのではないだろうか。
「私は、私が一番大事。愛している。だからこれ以上傷が増える前に、深く眠らせてあげたい」
言葉が自分の隙間を埋めていく。目じりを優しくなぞられて、瞼が震えた。
久しぶりに感じる、ふわふわとした心地の良い感覚。夢現に愛の言葉を囁かれ続ける。
誘惑に抗えず、ゆっくりと瞼が開いていく。
「愛している、私。だからこのまま眠っていてね」
自分と瓜二つの顔。もう一人の自分が、優しく笑っていた。
行き交う人々の中に見慣れた背を見つけ、男は息を呑んだ。
咄嗟に追いかける。角を曲がるその小さな少女の背を見失わないように、人の波を擦り抜け急いだ。
先を行く少女はいくつもの角を曲がり、細道を進む。段々と人気のない場所へ向かう少女に男は足を速めて追いつくと、華奢な肩を掴んだ。
「待て」
肩を掴まれ、少女の足が止まる。だが男に答えることも、振り返る様子もない。
「どうしてこんな場所にいる。いつ目が覚めた」
男の知る限り、ここ数日少女は昏々と眠り続けていたはずであった。
原因が分からず、何をしても目が覚めず。無力さに眉を顰めながら、男は少女を見舞ったばかりだった。
人違いではない。男が少女のことを見間違うことは決してない。
「答えろ。何故、このような場所にいる」
男の問いに、少女はゆっくりと振り向いた。眠りにつく前に会っていた頃と変わらぬその姿。
だがほんの僅かな違和感に、男の目が鋭くなる。
「影法師か」
低く呟かれた言葉に、少女は目を瞬いた。驚きの後に薄く笑みを浮かべ、肩を掴んだままの男の手を振りほどく。
「よく知っているね。確かに私は影だけど、私自身だよ」
鋭さを増す男の目など気にもかけず、少女はくるりと回る。その足元に影はない。
軽やかにステップを踏みながらさりげなく男と距離を取ろうとする少女に、男は無言で足を踏み出した。
「来ないで。私は私を愛している。好きという軽い感情しかくれないあなたよりも、よっぽど強く想っているの。今更踏み込もうとしないで」
「軽い感情?」
男は足を止め、俯いた。
失ったことで、後悔しているのだろうか。沈黙する男からは何を思っているのかは分からない。
「私はあなたとは違う。私を愛しているから」
表情の見えない男を一瞥し、少女は背を向け去っていく。
しかし数歩歩いた所で、その足は不自然に止まった。何かが絡みついたように、足が前へと進まない。
「――え?」
足元に視線を落とし、目を凝らす。光を反射し煌めく何かを認め、少女は驚愕に目を見張った。
「愚かだな。言葉の重みを理解していないのは、お前の方だ」
顔を上げた男の姿に、少女は声にならない悲鳴を上げた。逃げ出そうと踠くものの、足に絡む無数の糸がそれを許さない。
男が一歩、少女に近づく。揺れる影から糸が伸び、少女を逃すまいと絡みつく。
「愛とは執着。離れられないだけのお前が、軽々しく口にするべきものではない」
「い、いやっ……こないで!」
糸は少女の四肢を捕え、全身を覆い尽くそうとしていた。踠くほどに絡みつくと知りながら、少女は必死に糸を解こうと身を捩る。そんな儚い抵抗を嘲笑うように、男は殊更ゆっくりと少女に近づき、自身の影から糸を紡いでいく。
「やめて!私に近づかないでっ……この、化け蜘蛛が!」
「お前は本当に、あの子の影とは思えぬ程愚かだ。隠していた愛を曝け出してのはお前だろうに」
男は笑う。
指先一つ動かせなくなった少女の頬に触れながら、赤く煌めく目を細める。
「欲しいのならば、いくらでも言葉にしよう。離れていかぬように、糸を絡めながら」
「っ、やめて……私は、あなたの獲物じゃない」
怯え涙を流しながらも気丈に睨みつける少女から手を離し、男は最後の糸をかける。
その瞬間、少女の姿は跡形もなく消えた。糸が解け男の影に戻っても、そこには何一つ残ってはいない。
「最後まで愚かだったな。獲物に愛を囁くなど、あるはずがないだろうに」
無感情に言い捨てて、男は踵を返した。
目が覚めただろう、本当の少女の元へ。失った影の代わりに、自身の糸を与えるために。
「愛している」
これから先、男は少女に好きと紡ぐことはないのだろう。
隠し、封じていた執着が顕になった今、言葉にする意味はない。
くつくつと、喉を鳴らして男は口元を歪める。
伸びる影が形を変えていく。八つの赤い目が、男の仄暗く深い執着を表すかのように鈍い光を灯し瞬いた。
20260223 『Love you』