まだ出ぬ芽を待って、花壇に水を撒いていく。
春になれば種は芽吹き、綺麗な花を咲かせることだろう。鮮やかな色彩を思い浮かべ、笑みが浮かぶ。
「そんなに水をやるな。芽が出る前に腐ってしまう」
いつの間にか後ろに立つ彼が、呆れたように声をかけた。はっとして水を止め、誤魔化すように手にした如雨露を片づけに立ち上がる。
ざわり。風もないのに周囲の木々が葉を揺らす。ふわりと甘い花の香りに、ざわつく心が次第に落ち着いていく。
「楽しみなのは分かるが、あまり世話を焼きすぎるのは良くないことだ。甘やかされるばかりの花は、一人で咲いた花の美しさには敵わない」
「ごめんなさい」
肩を落とし謝るものの、彼の反応はない。
言ったところで無駄だと思っているのだろう。種を植える度に繰り返すこのやりとりは、もう何度目になるのかすら覚えていない。
理解はしているのだ。けれど種を植え、次第に囁く声が聞こえてくると、つい手を出しすぎてしまう。
地上への憧れ。生長する自身の期待。どんな花を咲かそうかと囁き語る種の声は、皆そろって楽しげだ。
「お前たちはそろって、見て聞いたモノを甘やかす傾向にあるのだから困ったものだ。与えられる優しさを求めたモノらがまた諍いを起こすぞ」
「それは……」
溜息と共に呟かれた言葉に思わず言い返しかけ、口を閉ざす。
このやり取りも初めてではない。彼の言葉の真意が心配ではないことを察して、込み上げる笑いを必死にかみ殺す。
「――言いたいことがあるのならば、素直に言葉にすればいい」
「別に言いたいことはないけど、ただ……お父さんって、本当にお母さんが好きなんだなぁって思って」
気にかけるモノに対して、嫉妬を露にするほどに。
心の中で付け加え、如雨露を片付けながら小さく笑う。
風に乗って届いた声が教えてくれたこと。それに気づいてから、前よりも素直に彼の言葉を聞けるようになった。
「声を聞けるというのは本当に厄介だ。人間の世界で生きていくうえで足枷しかならないだろうに」
「ここしか知らないから、よく分からないや」
「困ったものだ。独り立ちはまだ難しそうだな」
聞こえた溜息に、少しだけ眉を顰める。
独り立ちをしなければいけないと、何度か言われているものの、ここを離れる想像ができない。
どうして離れなければいけないのだろう。聞こえる声たちは皆優しく、ずっとここにいればいいと言ってくれるというのに。
種を植えた場所に視線を向ける。耳を済ませれば聞こえる囁きは、いつもと変わらず芽吹きを楽しみにしているものばかり。
「ずっとここにいたいのに」
「ここにいたままでは、番を見つけることが容易ではないだろう」
ぽつりと溢れ落ちた言葉に、静かな言葉が返る。
番。寄り添ってくれる誰か。やはり何一つ想像できない。
不意に風が吹き抜けた。誘う声を追って、彼の元から逃げるように駆け出した。
「もうすぐ昼時だ。あまり遠くには行くな」
「分かってる。行ってきます!」
振り返らず、ただ駆けていく。
周囲の草木が笑っている。まだまだ子供だと揶揄われ、似たもの親子だと楽しげに言われて、恥ずかしさに頬が熱くなる。
「似てないし」
彼と似ていると言われることに悪い気はしない。けれどそれを素直に認められず文句を言えば、また周りに笑われた。
「笑わないで」
そう言いながら崩れかけた石段を上り、一番上で振り返る。
種を植えた広間の奥、深い森を見遣り、目を細める。
森の先には、母が生まれ育った街があるという。
母が何故故郷を離れ、この誰もいない地で暮らし始めたのかは分からない。聞いたことがあるのは、ここは昔草一つ生えない、死んだ土地だったということ。そしてここに、母の大切な家族が眠っていることくらいだ。
家族の側にいたかったからなのか。それとももっと別の理由があるのか。
気になったことはあるものの、あえて聞こうとは思わなかった。
「何にもなくなったって聞いたけど、冬みたいなものだったのかな」
石段に腰掛け思い浮かんだことを口にすれば、冬の時期よりも何もないのだと風は答えた。
木々は焼けて枯れ、雑草一つ生えることはなかった。生き物の気配は失われ、文字通り死んだ土地だったのだと髪を揺らしながら伝えてくれる。
「死んだ土地、か……」
見下ろす広間にその光景を重ねようとするが、何もないという想像はやはりできなかった。
代わりに浮かぶのは一面の花畑。種々折々の花に囲まれ笑う両親と自分の姿だった。
「何もなくても、種を蒔けば芽が出て花が咲くよ」
じゃれつく風に伝えれば、そうだねと声が返る。
種を蒔き、育てる誰かがいれば、小さくともまた命は宿る。死んだと言われた不毛の大地も、命が巡る花畑へと戻ることができる。
もしかしたら、母がここで暮らす理由はそこにあるのかもしれない。
「陽が高い……そろそろ戻らないとな」
そう呟きながらも体は動かない。
独り立ち。ここから、両親から離れるということ。それが頭の中でぐるぐると巡り、体を重くする。
ずっとここにいたい。両親の側から離れたくない。そんな子供じみた思いもいつかは消えて、ここを離れていくのだろうか。
ゆっくりでいいよ、と風は囁く。無理に背伸びをする必要はない、と草木が慰めてくれる。
それにありがとうと笑って、こちらに近づく彼の姿を認めて立ち上がった。
空を見上げれば、澄んだ青がどこまでも広がっている。
「いい天気」
大きく伸びをして、石段を駆け降りる。
暖かな日差しが心地良い。まとわりつく風も、いつもよりも柔らかだ。
急がなくていいと聞こえる声たちは告げる。彼も口にするだけで、本心は違うのだと教えてくれる。
独り立ちを望むのならば、こうして迎えには来ないだろう。
笑いを堪えた声に、確かにと笑った。
「今日はとてもいい日になりそう」
水を上げた種を思いながら、この陽気に誘われて芽が出るのではと想像する。
一足早い、春の訪れ。
小さな命たちの芽吹きを待ち望みながら、駆け降りる勢いのまま迎えに来た彼に抱きついた。
20260224 『小さな命』
2/25/2026, 9:59:15 AM