何をするでもなく、無言でソファに座る弟を見つめ、眉を寄せる。
一月以上戻らなかった間に、弟はすっかり変わってしまった。以前はそれなりに活発であったというのに、今は課せられた役目がある時以外はこうにて部屋に篭ったまま。無表情で微動だにせず座っている姿はまるで人形のようで、どう接すればいいのか分からない。
まだ納得するには至っていないのだろうか。弟が出て行った時のことを思い出す。
雲を作る役目を、弟は誇りに思っていた。一切の妥協を許さず、一から雲を作ることに拘っていた。
だからだろうか。作るのではなく雲を呼び寄せる他に対して、弟は強く非難していた。
幼さ故に妥協を許せず、ズルは悪いことだと一方的に責め立てる。何度説得しても、弟には届かなかった。
あの日も、弟は雲を呼んだ幼馴染に対して声を荒げていた。周囲の非難めいた視線など気にしない弟に耐えきれず、気づけば肩を掴み怒りをぶつけていた。
――いい加減にしろ!もう、うんざりだ。
あの時、弟はどんな表情をしていただろうか。自分と同じように怒りを露わにしていたのか、泣いていたのか。
覚えているのは、外に駆け出していく小さな背中だけだ。
今の弟からはもう、以前の姿を重ねることはできない。
あの時感情的にさえならなければと思うものの今更だ。
「こんな所にいても退屈だろ?一緒に出かけないか」
声をかければ、ガラス玉のような目が向けられる。
無言で見つめられ、息が詰まる。重い空気に眉が寄ったのをどう捉えたのか、弟は視線を外し首を振った。
「大丈夫です。気にしないでください」
以前の弟からは想像もつかない言葉。それが今の自分たちの距離だと突きつけられているようで、そうかとだけ告げ、逃げるように部屋を出た。
その日。
眩いばかりの光を連れて、滅多に訪れることのない客が広間に降り立った。
金の翼を持つ三本足の烏。大きく翼を広げ、その姿は揺めきと共に年若い女性に変わった。
弟を迎えに行った際に側にいた女性のうちの一人だと気づき、無意識に体が強張る。弟と何を話していたのか聞きたいと思う気持ちと、何を言われるのかを恐れる気持ちが混ざり
言葉一つ出てこない自分を気にもかけず、烏はどよめく周囲を見回した。
「随分と落ちぶれたものだね」
落胆を隠しもしない呟きに、さらに周りが騒めく。不機嫌さを笑みで誤魔化しながら近づく大人たちを視線だけで止め、烏は眉を寄せ嘆息する。
「一方の意見だけを聞くつもりはないのだけれど、こうやって実際を見れば聞かずとも分かるな」
「どういう意味でしょうか?」
「まあ、あの子がいない一月以上は雨が降らなかったことから、大方察してはいたけれど」
烏の口から出たあの子という言葉に、思わず肩が跳ねる。詳しく聞かずとも、それが弟のことを指していることは理解できた。
弟から聞いた話とは、やはり雲のことだろうか。敢えて聞かずとも、弟がただ我儘なだけなことは察せられるはずだが、何を落胆しているのだろうか。
疑問が顔に出ていたのか。烏はこちらに視線を向けると、顔を顰めてまた深く溜息を吐いた。
「まったく自覚がないのか。自覚がある奴らは何人かいるみたいだが、知らぬふりを通そうとするなら、余計たちが悪いな」
「それは……どういう……?」
問いかけようとした時、背後で扉の開く音がした。
振り返れば、扉に手をかけたまま弟が呆然と立ち尽くしている。その視線は烏に向けられ、震える唇がどうして、と動くのが見えた。
「ちょうどよかった。君を迎えに来たんだよ」
「ぼくを?」
「君は今、何も言えないだろう?あの時の雲のように、憂鬱に沈んでいるんだと思ってね」
烏の言葉に、弟の表情がくしゃりと歪んだ。戻ってきてから一度も見せたことのない変化に、驚くと同時に虚しさが込み上げる。
家族である自分の言葉は届かなかったのに、出会ったばかりだろう烏の言葉は染み込むように届いている。それがただ悲しかった。
「でも、お役目が……」
戸惑う様子を見せるものの、烏が手招けば弟は小走りで彼女の元まで近寄っていく。思わず引き止めようとした手は一瞥もされず、空を掴んで力なく下ろした。
「君が少し長めに雨を降らせたから、まだ当分は大丈夫。それに、ここにいる奴らに現実を見せるいい機会だ」
「どういうこと?」
不思議そうに弟は首を傾げる。周りは誰一人動くことも口を挟むこともできず、二人の会話を聞くことしかできない。
何かを言いかけたモノはいたが、それが言葉になる前に烏に視線を向けられ小さな呻きとともに誰もが口を閉ざしてしまっていた。
「君以外は、怠け癖が染み込んでいるようだから……君から搾取するのではなく、自分たちでどうにかすることを思い出してもらわないといけない」
搾取という言葉に、不快に眉が寄った。弟から何を搾取しているというのか。そんな非常識なモノはこの一族の中にいるはずもない。
何も知らずに好き勝手に口を出す烏に、段々と気分が悪くなる。
耐えきれず、止めようと足を踏み出した。
「別に他所から余剰分の雲を呼び寄せることは悪いことではない。けれど他所の雲をそのままにしているだけじゃあ、すぐに散ってしまうだろう……昔はちゃんと呼び寄せた雲に手を加えて馴染ませていたのに、今は何もせずにいるのだから呆れてしまう」
「みんな、ズルばかりするんだよ」
「確かにな。近くで見るとよく分かる。呼んだ雲に君の作った雲を混ぜるなんて、確かにズルでしかないだろう。搾取する側はそれが当たり前になってしまって、搾取される側の言葉は疎ましいとしか感じられなかったのだろうな」
しかし文句を言おうと開いた口は、真っすぐな烏の目と容赦のない言葉によって掠れた吐息しか出てはこなかった。
あまりの衝撃に息がうまく吸えない。無意識に体は後退り、告げられた言葉を必死で否定しようと踠く。
弟を搾取などしてはいない。ただ少しだけ、協力をしてもらっていただけ。
考えれば考える程、言い訳にしかならない。周りも同じように感じているのか、皆一様に俯いて烏と弟から逃げていた。
「君の作る雲に頼らなくなるまでは様子見だな。変わらなければ存在が消えるのだから、精々頑張ってくれ」
冷たく告げて、烏は揺らめきと共に金色の翼を広げ、止める間もなく弟と共に飛び去ってしまう。
後に残されたのは、烏曰く搾取する側の自分たちだけ。
弟たちのいた場所を暫し見つめ、ゆっくりと両親へと視線を向けた。一瞬だけ交わった視線はすぐに逸らされ、両親は知っていて何も言わなかったことに気づいた。
そういえばと思い出す。戻った弟の変化を、誰も心配しようとしなかった。当たり前に受け入れて、もしかしたら静かになったと喜んでいたのかもしれない。
何も気づこうとしなかった不甲斐なさに、強く手を握り締める。これ以上この場にいたくなくて、足早に広間を出て外へ向かう。
弟がしていたように、一から雲を作り上げていく。雲を呼び寄せるよりも疲労感が強く、手の平ほどの大きさに作り上げただけでも息が切れた。
これを弟はずっと一人で行っていた。それを考えるだけで、自分自身に怒りが沸く。
込み上げる涙を乱暴に拭い、もう一度最初から雲を作る。涙の向こうで無表情な弟の姿が浮かび、歯を食いしばり泣くのを耐えた。
ふと横を見ると、幼馴染や友人たちが同じように雲を作る練習を始めていた。視線を合わせ、気まずげではあるが笑う。
大人たちのようにはなりたくない。弟に謝るため、自分たちは変わりたい。
言葉にせずとも伝わる思いに、お互い頷き意識を集中させる。
次に弟に会えた時に、笑顔でおかえりと言えるように。
今はただ、無心で雲を作り続けていた。
20260226 『君は今』
2/27/2026, 9:57:53 AM