sairo

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目を閉じて、ゆっくりと落ちていく。
布団の中、ベッドの上で体は眠っている。けれど心はどこまでも深く、地の底を目指すかのように沈んでいく。
静かだ。外の音も部屋の中の音も、何もかもが聞こえない。それほどにまで深く沈み落ちているのだろう。
不意に、足裏に冷たい地面の感覚がした。横になっていたはずの体は、いつの間にか地に足をつけて立っている。目を閉じていても、誰かと対峙しているのを感じていた。
一つ深呼吸をして、そっと目を開ける。
何もない部屋の真ん中に、自分は立っていた。
目の前には、大きな姿見が一つ。そこに映る自分と目を合わせていれば、鏡の中の自分は唇の端を上げ、意地悪く笑った。

「また?最近多いねぇ。今度は何から逃げてきたのかな?」

相変わらず鏡の中の自分は意地悪だ。分かっていて聞くのだから、本当にタチが悪い。

「テストのための勉強?進路が決まらないこと?それとも……先輩が目の前で好きな子の特徴を話したこと?」

くすくすと笑われ、何も言い返せずに俯いた。
本当に酷い。この子は自分自身だと言うが、未だに信じることができない。
けれどそれを口にすれば、また嬉々として自分だという証拠に隠し事を曝け出すのだろう。信じるからそれ以上は止めてほしいと願っても最後まで語る姿が容易に想像できて、気分が沈む。ここにいたくはないのにここしか逃げ場がないことに、耐えきれなかった溜息が溢れ落ちた。

「何でそんなに嫌がるかな。というか嫌なら逃げなきゃいいだけの話なんだけど」
「――うるさい」
「毎日しっかり授業を聞いて、予習復習をしていればテストなんて難しくもないし、将来どうなりたいかを考えれば進路も決まる。先輩のことは……ちゃんと気持ちを伝えないと、いつまで経っても変わらないよ。今日も顔見て話してたら、とっても面白いことになってたのに」
「うるさいってば!」

耳を塞ぎ、目を閉じる。
彼女が言っていることは正しい。全部後回しにして、こうして今現実から逃げ出している。
分かっているのだ。けれどやりたいことがたくさんあって勉強などは後回しになるし、今が忙しすぎて将来という先のことを考える余裕はない。先輩に対してはそもそも思いを口にした所で何も変わらないだろう。
楽しそうに好きな子の話をする先輩を、どんな顔をして見ればいいというのか。
泣きそうになるのを手を強く握り締めることで必死に耐える。泣いても彼女は慰めない。ただ淡々と事実を突きつけられて、苦しくなるだけだ。

「そうやって逃げ続けても意味がないって分かっているでしょうに。何で私がここにいるのか、もう一度教えてあげようか?」

耳を塞いでも聞こえる彼女の言葉。これ以上は逃げられないのだと突き付けられて、のろのろと手を離し顔を上げた。
ここが底なのだ。改めて実感する。
自分が逃げることのできる一番奥底。自分の本心であり、影である彼女と顔を合わせて話せる場所がここだと、忘れてはいない。
小さく息を吐いて目を開ける。鏡の向こうの自分は、呆れた顔をしながらも笑ってくれた。

「そんな顔ができるなら、現実逃避を止めて上がることができるね」
「仕方ないからね。ここにいても酷いことを言われるだけだから、それよりはマシ」
「相変わらず素直じゃない……じゃあ、起きて学校に行ったら、放課後に図書室で勉強しな。先輩が来たら勉強を教えてもらうついでに、進路の相談をすればいい」

現実の話に思わず顔を顰めた。特に先輩と話す勇気が出ずに、底から上がることを躊躇してしまう。

「話さなきゃ、ダメなの?」
「そりゃあね。ちゃんと顔を見て話さないと鈍感な私は気づかないから、仕方がない」

態とらしく、彼女は溜息を吐いた。揶揄うような仕草に悪いことにならない予感がして、体の力が抜けていく。
力が抜ければ体が軽くなり、ふわふわと上へ浮き始める。
目が覚めるのだろう。遠くなる鏡の向こう側で彼女は手を振り、にこにこと笑っていた。

「現実逃避の時間は終わり。ちゃんと頑張っておいで」

優しい声に頷いて目を閉じる。
沈んでいた体が地上に向けて上がっていく。足の裏の地面の感覚がなくなり、代わりに体を包み込む暖かい布団の重さを感じ始める。
深呼吸をひとつ。瞼の向こうの明るさに、そっと目を開ける。
見慣れた天井。勉強机や本棚。いつもの自分の部屋に戻ってきていた。
カーテンの向こうが明るい。枕元の時計は、そろそろ起きる時間を指し示していた。
ゆっくりと起き上がる。眠る前と違い、体も気持ちもとても軽い。

「――頑張ろう」

呟いてベッドを抜け出す。
身支度を整え、いい一日になればいいと思いながら迷いなくカーテンを開け、朝の陽ざしを浴びながら目を細めた。





「珍しいな。こんな所で勉強してるなんて」

聞こえた声に、思わず顔を上げた。
ノートを覗き込む先輩の姿に、肩が跳ねる。突然のことに何も言えずに固まっていると、彼はノートの一点を指さした。

「ここ、スペルが間違ってる。お前よくケアレスミスをするから、ちゃんと見直さないともったいないぞ」
「あ……気をつけます」

指摘された単語を直し、見直すふりをしながら俯く。
話をする。今までは当たり前にできていたことが、とても難しい。
前はどのように勉強を教えてもらっていたのか。考え込む自分に刺さる先輩の視線が、さらに落ち着かなくさせる。
不意に、隣の椅子が引かれる音がした。視線を向けると隣に座った先輩と目が合い、息を呑む。

「そういや、進路は決めたのか?」
「あ、えと……まだ全然決まってなくて……」

しどろもどろになりながらなんとか答えると、先輩は目を細めて笑う。
何か悪戯を思いついたような笑い方。この表情をする時の先輩は、突拍子もないことを言い出すことが多い。
何を言い出すのか身構えれば、先輩は顔を近づけて囁いた。

「決まらないなら、俺の所にくるか?」
「――え?」

何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
つまりは、先輩が進む大学を選べばいいということだろうか。先輩はどこへ進学したのだっただろうか。
それにしても距離が近い。このままでは触れてしまいそうだ。少しは離れた方がいいだろう。先輩が近すぎて、心臓が痛いくらいに暴れている。
頭の中で色々なことがぐるぐると回る。考えすぎて、何もできない。答えなければ、距離を取らなければと考えてはいるのに体は動かず、ただ先輩を見ているだけ。

「本当に鈍感だな。そこが可愛いけど、影は大変だってぼやいてたぞ」
「え、何……言って……?」
「遠まわしじゃなくてはっきり言ってくれってアドバイスをもらったからな」

影、と言われて、鏡の中の自分を思い出す。
そんなはずはない。先輩が彼女を知るはずはないのだとすぐに否定するものの、それ以外に影に思い当たるものはなかった。
先輩は何を言っているのだろうか。問いかけようとした瞬間、腕を掴まれ強く引き寄せられた。

「ひゃっ……」
「好きだ。真面目な所も、少し天然な所も。優しくて鈍いお前が大好きだ」
「せ、先輩っ!?」
「だから俺の所に来い。幸せにしてやるから」

囁かれる言葉に、心臓が跳ねる。じわじわと顔が熱を持ち、呼吸の仕方が分からなくなってくる。
先輩の腕の中。ふと、不自然に伸びる影が目についた。
先輩と抱き合い、寄り添う影。けれどこちらを見つめ、軽く手を振られた。

――ほら、面白いことになったでしょ?

楽しげな声が、頭の中で響く。にやりと笑う姿が脳裏に浮かび、思わず声にならない悲鳴を上げていた。

「――っ!!」
「相変わらず仲がいいな、お前ら。そろそろ返事がほしいんだが」

悪戯めいた声が降る。視線を向ければ至近距離で先輩と目が合い、咄嗟に目を閉じた。
見えない分強く感じる温もりに、彼の腕の中にいるのだと思い知る。逃げ出すことも、況してや言葉を返すこともできず、混乱した思考は無意識に先輩の背中に腕を伸ばす行動をとった。

「ちゃんと言葉で返事がほしかったが……まあいいか」

面白がっているような彼の声。そして頭で響く彼女の笑い声。
いつものような逃げ場はもうない。
向き合わなければいけない現実。せめてもの抵抗に、目を閉じたまま目の前の温もりに強くしがみついた。



20260227 『現実逃避』

2/28/2026, 9:44:10 AM