好きだ。
その言葉の軽さに、泣きたくなるのを必死で耐えていた。
自分は彼にとっての特別ではない。その他大勢よりも少し上の、けれども変わりはいる存在なのだと突き付けられているようで、ただ苦しさばかりが込み上げる。
「誰かの唯一になるのは、とても難しいことだよ」
後ろの暗がりから声がする。慰めるかのような手が、背を撫でる。
「誰だって自分自身が一番で唯一なんだ。自分以上になんて誰もなれはしない」
囁く声は淡々としながらも、傷口や隙間から入り込むような甘さを宿している。
咄嗟に目を閉じた。その姿を見てはいけない。見てしまったのなら、きっと自分はもう自分ではなくなるのだろう。
「怖くはないよ。姿を見ても、死んだりなんてしない。深く眠って、幸せな夢を見ることだってできる」
背を撫でる手が肩に触れ、気配が後ろから前へと移動する。怖くないと何度も繰り返し、両手で頬を包まれた。
逃げられない。込み上げる恐怖が、じわじわと諦念に塗りつぶされていく。
彼の特別になれない自分。好き以上の感情を持たれないのならば、このまま眠ってしまってもいいのではないだろうか。
「私は、私が一番大事。愛している。だからこれ以上傷が増える前に、深く眠らせてあげたい」
言葉が自分の隙間を埋めていく。目じりを優しくなぞられて、瞼が震えた。
久しぶりに感じる、ふわふわとした心地の良い感覚。夢現に愛の言葉を囁かれ続ける。
誘惑に抗えず、ゆっくりと瞼が開いていく。
「愛している、私。だからこのまま眠っていてね」
自分と瓜二つの顔。もう一人の自分が、優しく笑っていた。
行き交う人々の中に見慣れた背を見つけ、男は息を呑んだ。
咄嗟に追いかける。角を曲がるその小さな少女の背を見失わないように、人の波を擦り抜け急いだ。
先を行く少女はいくつもの角を曲がり、細道を進む。段々と人気のない場所へ向かう少女に男は足を速めて追いつくと、華奢な肩を掴んだ。
「待て」
肩を掴まれ、少女の足が止まる。だが男に答えることも、振り返る様子もない。
「どうしてこんな場所にいる。いつ目が覚めた」
男の知る限り、ここ数日少女は昏々と眠り続けていたはずであった。
原因が分からず、何をしても目が覚めず。無力さに眉を顰めながら、男は少女を見舞ったばかりだった。
人違いではない。男が少女のことを見間違うことは決してない。
「答えろ。何故、このような場所にいる」
男の問いに、少女はゆっくりと振り向いた。眠りにつく前に会っていた頃と変わらぬその姿。
だがほんの僅かな違和感に、男の目が鋭くなる。
「影法師か」
低く呟かれた言葉に、少女は目を瞬いた。驚きの後に薄く笑みを浮かべ、肩を掴んだままの男の手を振りほどく。
「よく知っているね。確かに私は影だけど、私自身だよ」
鋭さを増す男の目など気にもかけず、少女はくるりと回る。その足元に影はない。
軽やかにステップを踏みながらさりげなく男と距離を取ろうとする少女に、男は無言で足を踏み出した。
「来ないで。私は私を愛している。好きという軽い感情しかくれないあなたよりも、よっぽど強く想っているの。今更踏み込もうとしないで」
「軽い感情?」
男は足を止め、俯いた。
失ったことで、後悔しているのだろうか。沈黙する男からは何を思っているのかは分からない。
「私はあなたとは違う。私を愛しているから」
表情の見えない男を一瞥し、少女は背を向け去っていく。
しかし数歩歩いた所で、その足は不自然に止まった。何かが絡みついたように、足が前へと進まない。
「――え?」
足元に視線を落とし、目を凝らす。光を反射し煌めく何かを認め、少女は驚愕に目を見張った。
「愚かだな。言葉の重みを理解していないのは、お前の方だ」
顔を上げた男の姿に、少女は声にならない悲鳴を上げた。逃げ出そうと踠くものの、足に絡む無数の糸がそれを許さない。
男が一歩、少女に近づく。揺れる影から糸が伸び、少女を逃すまいと絡みつく。
「愛とは執着。離れられないだけのお前が、軽々しく口にするべきものではない」
「い、いやっ……こないで!」
糸は少女の四肢を捕え、全身を覆い尽くそうとしていた。踠くほどに絡みつくと知りながら、少女は必死に糸を解こうと身を捩る。そんな儚い抵抗を嘲笑うように、男は殊更ゆっくりと少女に近づき、自身の影から糸を紡いでいく。
「やめて!私に近づかないでっ……この、化け蜘蛛が!」
「お前は本当に、あの子の影とは思えぬ程愚かだ。隠していた愛を曝け出してのはお前だろうに」
男は笑う。
指先一つ動かせなくなった少女の頬に触れながら、赤く煌めく目を細める。
「欲しいのならば、いくらでも言葉にしよう。離れていかぬように、糸を絡めながら」
「っ、やめて……私は、あなたの獲物じゃない」
怯え涙を流しながらも気丈に睨みつける少女から手を離し、男は最後の糸をかける。
その瞬間、少女の姿は跡形もなく消えた。糸が解け男の影に戻っても、そこには何一つ残ってはいない。
「最後まで愚かだったな。獲物に愛を囁くなど、あるはずがないだろうに」
無感情に言い捨てて、男は踵を返した。
目が覚めただろう、本当の少女の元へ。失った影の代わりに、自身の糸を与えるために。
「愛している」
これから先、男は少女に好きと紡ぐことはないのだろう。
隠し、封じていた執着が顕になった今、言葉にする意味はない。
くつくつと、喉を鳴らして男は口元を歪める。
伸びる影が形を変えていく。八つの赤い目が、男の仄暗く深い執着を表すかのように鈍い光を灯し瞬いた。
20260223 『Love you』
2/24/2026, 9:25:55 AM