sairo

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2/26/2026, 9:44:22 AM

青を隠した灰色の雲を見上げ、溜息を吐く。
雨が降りそうで降らない、中途半端な天気に気分が沈んでいく。逸らした視線が公園の時計を認め、益々憂鬱になり項垂れた。
待ち人はまだ来ない。約束の時間はすでに十五分も過ぎているが、一向に来る気配はない。
いつものことだ。彼女が時間通りに待ち合わせ場所に辿りついた試しがない。
今度は何に巻き込まれているのか。何度か忠告はしているものの、お人好しな性格はそう簡単には変わらないのだろう。

「困ったね」

思わず嘆息するものの、彼女の優しさに惹かれ一緒にいる身としては強く言えない所だ。
もう一度空を一瞥し、肩を竦めて歩き出す。
待ち合わせに来ない彼女を迎えに行くのもいつものこと。込み上げる溜息を飲み込んで、彼女を探しに公園を出た。



しん、と静まり返った道を歩いていく。
辺りには誰もいない。見上げた空は待ち合わせ場所で見た時と同じような雲に覆われているものの、不気味な程に変化がなかった。
絵や写真のように、雲に動きがない。もう一度辺りを見回せば、空と同じく固まったまま微動だにしなかった。
このまま空が落ちてきそうだ。雲の重苦しい灰色を見ていると、そんな暗いことばかり考えてしまう。世界から切り離されて閉じられたこの空間は元には戻れず、潰され消えるしかないのだろう。

「――馬鹿みたい」

そんなことはあるはずがないと、頭を振る。先ほどから気分が沈みおかしなことを考えているのも、中途半端な空のせいに違いないのだろう。八つ当たり気味に考えながら、足早に彼女の元へ向かい歩いていく。彼女の居場所に心当たりはないものの、耳を済ませれば微かに聞こえる音の方へ向かえば出会えるような確信があった。

「今度は一体何に巻き込まれているんだか」

思わず乾いた笑いを溢しながら、困ったものだと繰り返す。泣くような、何かを怒るような声に足を速めれば、脇道の向こう側に見慣れた彼女の背が見えた。

「あ……ごめん。待ち合わせしたのに」

こちらに気づいた彼女が、眉を下げる。それに気にするなと肩を竦めながら、彼女にしがみつく小さな影に眉を顰めた。
震える体は泣いているかのように見えるのに、泣き声は聞こえない。彼女の側に寄れば、必死に唇を噛み締め泣くのを耐えている幼い少年の横顔が見えた。

「ごめんね。一人きりで寂しそうにしているのを見てたら、放っておけなくなっちゃって」
「まあ、待ち合わせに来ないのはいつものことだし……変な争いに巻き込まれているみたいな状況じゃなかったからよかったというか」

思わず本音を溢せば、彼女も泣きそうな顔になってしまった。ごめんと俯く姿に慌てて、話題を変えるべく声を上げる。

「それより、この子どうしたの?仲間とはぐれたとか?」
「ぼく、わるくない……」

今まで黙っていた少年が、こちらを向き呟いた。

「わるくないもん。ズルした方がわるい。なのに、みんなぼくがわるいって言うんだ……」

一度口にしてしまえば止まらなくなってしまったのか、少年は悪くないと繰り返す。
背を撫で慰める彼女を見ながら、飲み込めなかった溜息を溢す。事情が何も分からないが、ずっとこのままという訳にはいかない。仕方がないと膝をつき、少年と目を合わせた。

「悪くないってちゃんと皆に伝たの?」
「どうせ信じてくれないよ。ぼくはじぶんで雲を作ったけどあいつはお山の方でできた雲を持ってきただけだって前に言ったけど、信じてくれなかったもん」

きゅっと唇を噛み泣くのを耐える少年に、大方の事情を察し眉が寄る。
重苦しく物憂げな空模様。誰もいない、止まったままの空間。
随分と業が深い。一度や二度ではないのだろう。

「信じるよ」

目を合わせ、はっきりと口にする。
大きく見開かれた目にほんの僅かな期待が灯るのを見て、苦笑しながら頭を撫でる。

「私も信じるよ」
「ほら、信じているのが二人になった……どうする?望むのなら、君が嘘をついていないって説明してあげるけれど」

そう言って少年の背後を指さした。
迎えに来たのだろう。先ほどから青年がこちらの様子を伺っていた。

「――いい。大丈夫」

青年の姿を見て、少年の目から期待が消える。代わりに諦念を浮かべて彼女から離れ、立ち上がる。

「ありがとう。信じてくれて嬉しかった」

丁寧にお辞儀をして、引き留める間もなく少年は青年の元へと歩いていく。青年の差し出す手を見ない振りして、そのまま姿が揺らぎ霞み消えてしまった。

「あの子、最後まで泣かなかった」
「泣けなくなってしまったんだろうな」
「大丈夫かな。心配だよ」

少年が消えた方向をいつまでも見ながら、不安げに彼女は呟いた。
今にも泣きそうな彼女の髪を風が揺らし、過ぎていく。遠くから車の音や雑踏が聞こえ、戻ってきたことを感じさせた。
見上げる空は、変わらず暗い雲に覆われている。しかし先程よりも雲の淀んだ灰色が薄くなっているように見えた。

「今度会ったら、三人で遊びに行こうか」
「え?」

雲を見ながら、気づけばそんなことを口にしていた。
驚いたように息を呑みこちらを向く彼女を見つめ、笑ってみせる。

「嫌なことを忘れるくらい、楽しいことをして美味しいものを食べればいい」
「そう、だね……また会えたら。今度は一緒に」

頷いて、彼女は笑う。

「じゃあ、次に会えた時のために、たくさんいい所を探しに行かないとね」

そう言って手を差し出す彼女は、やはり底抜けのお人好しだ。呆れながら手を取り、態とらしく溜息を吐いてみせる。

「本来の待ち合わせ時間はとっくに過ぎているけどね」
「そういうこと言わないでよ。意地悪」

途端に気まずげな顔をする彼女に笑いかけ、手を引いて歩き出す。
お人好しな彼女と関わっていければ、きっといつか少年も心から笑い、泣くことができるのだろう。今まで関わってきたモノたちのように。
そんなことを思いながら空を見る。次に会えた時にはきっと、物憂げな灰色は白に染まってくれるのだろう。



20260225 『物憂げな空』

2/25/2026, 9:59:15 AM

まだ出ぬ芽を待って、花壇に水を撒いていく。
春になれば種は芽吹き、綺麗な花を咲かせることだろう。鮮やかな色彩を思い浮かべ、笑みが浮かぶ。

「そんなに水をやるな。芽が出る前に腐ってしまう」

いつの間にか後ろに立つ彼が、呆れたように声をかけた。はっとして水を止め、誤魔化すように手にした如雨露を片づけに立ち上がる。
ざわり。風もないのに周囲の木々が葉を揺らす。ふわりと甘い花の香りに、ざわつく心が次第に落ち着いていく。

「楽しみなのは分かるが、あまり世話を焼きすぎるのは良くないことだ。甘やかされるばかりの花は、一人で咲いた花の美しさには敵わない」
「ごめんなさい」

肩を落とし謝るものの、彼の反応はない。
言ったところで無駄だと思っているのだろう。種を植える度に繰り返すこのやりとりは、もう何度目になるのかすら覚えていない。
理解はしているのだ。けれど種を植え、次第に囁く声が聞こえてくると、つい手を出しすぎてしまう。
地上への憧れ。生長する自身の期待。どんな花を咲かそうかと囁き語る種の声は、皆そろって楽しげだ。

「お前たちはそろって、見て聞いたモノを甘やかす傾向にあるのだから困ったものだ。与えられる優しさを求めたモノらがまた諍いを起こすぞ」
「それは……」

溜息と共に呟かれた言葉に思わず言い返しかけ、口を閉ざす。
このやり取りも初めてではない。彼の言葉の真意が心配ではないことを察して、込み上げる笑いを必死にかみ殺す。

「――言いたいことがあるのならば、素直に言葉にすればいい」
「別に言いたいことはないけど、ただ……お父さんって、本当にお母さんが好きなんだなぁって思って」

気にかけるモノに対して、嫉妬を露にするほどに。

心の中で付け加え、如雨露を片付けながら小さく笑う。
風に乗って届いた声が教えてくれたこと。それに気づいてから、前よりも素直に彼の言葉を聞けるようになった。

「声を聞けるというのは本当に厄介だ。人間の世界で生きていくうえで足枷しかならないだろうに」
「ここしか知らないから、よく分からないや」
「困ったものだ。独り立ちはまだ難しそうだな」

聞こえた溜息に、少しだけ眉を顰める。
独り立ちをしなければいけないと、何度か言われているものの、ここを離れる想像ができない。
どうして離れなければいけないのだろう。聞こえる声たちは皆優しく、ずっとここにいればいいと言ってくれるというのに。
種を植えた場所に視線を向ける。耳を済ませれば聞こえる囁きは、いつもと変わらず芽吹きを楽しみにしているものばかり。

「ずっとここにいたいのに」
「ここにいたままでは、番を見つけることが容易ではないだろう」

ぽつりと溢れ落ちた言葉に、静かな言葉が返る。
番。寄り添ってくれる誰か。やはり何一つ想像できない。
不意に風が吹き抜けた。誘う声を追って、彼の元から逃げるように駆け出した。

「もうすぐ昼時だ。あまり遠くには行くな」
「分かってる。行ってきます!」

振り返らず、ただ駆けていく。
周囲の草木が笑っている。まだまだ子供だと揶揄われ、似たもの親子だと楽しげに言われて、恥ずかしさに頬が熱くなる。

「似てないし」

彼と似ていると言われることに悪い気はしない。けれどそれを素直に認められず文句を言えば、また周りに笑われた。

「笑わないで」

そう言いながら崩れかけた石段を上り、一番上で振り返る。
種を植えた広間の奥、深い森を見遣り、目を細める。
森の先には、母が生まれ育った街があるという。
母が何故故郷を離れ、この誰もいない地で暮らし始めたのかは分からない。聞いたことがあるのは、ここは昔草一つ生えない、死んだ土地だったということ。そしてここに、母の大切な家族が眠っていることくらいだ。
家族の側にいたかったからなのか。それとももっと別の理由があるのか。
気になったことはあるものの、あえて聞こうとは思わなかった。

「何にもなくなったって聞いたけど、冬みたいなものだったのかな」

石段に腰掛け思い浮かんだことを口にすれば、冬の時期よりも何もないのだと風は答えた。
木々は焼けて枯れ、雑草一つ生えることはなかった。生き物の気配は失われ、文字通り死んだ土地だったのだと髪を揺らしながら伝えてくれる。

「死んだ土地、か……」

見下ろす広間にその光景を重ねようとするが、何もないという想像はやはりできなかった。
代わりに浮かぶのは一面の花畑。種々折々の花に囲まれ笑う両親と自分の姿だった。

「何もなくても、種を蒔けば芽が出て花が咲くよ」

じゃれつく風に伝えれば、そうだねと声が返る。
種を蒔き、育てる誰かがいれば、小さくともまた命は宿る。死んだと言われた不毛の大地も、命が巡る花畑へと戻ることができる。
もしかしたら、母がここで暮らす理由はそこにあるのかもしれない。

「陽が高い……そろそろ戻らないとな」

そう呟きながらも体は動かない。
独り立ち。ここから、両親から離れるということ。それが頭の中でぐるぐると巡り、体を重くする。
ずっとここにいたい。両親の側から離れたくない。そんな子供じみた思いもいつかは消えて、ここを離れていくのだろうか。
ゆっくりでいいよ、と風は囁く。無理に背伸びをする必要はない、と草木が慰めてくれる。
それにありがとうと笑って、こちらに近づく彼の姿を認めて立ち上がった。
空を見上げれば、澄んだ青がどこまでも広がっている。

「いい天気」

大きく伸びをして、石段を駆け降りる。
暖かな日差しが心地良い。まとわりつく風も、いつもよりも柔らかだ。
急がなくていいと聞こえる声たちは告げる。彼も口にするだけで、本心は違うのだと教えてくれる。
独り立ちを望むのならば、こうして迎えには来ないだろう。
笑いを堪えた声に、確かにと笑った。

「今日はとてもいい日になりそう」

水を上げた種を思いながら、この陽気に誘われて芽が出るのではと想像する。

一足早い、春の訪れ。
小さな命たちの芽吹きを待ち望みながら、駆け降りる勢いのまま迎えに来た彼に抱きついた。



20260224 『小さな命』

2/24/2026, 9:25:55 AM

好きだ。
その言葉の軽さに、泣きたくなるのを必死で耐えていた。
自分は彼にとっての特別ではない。その他大勢よりも少し上の、けれども変わりはいる存在なのだと突き付けられているようで、ただ苦しさばかりが込み上げる。

「誰かの唯一になるのは、とても難しいことだよ」

後ろの暗がりから声がする。慰めるかのような手が、背を撫でる。

「誰だって自分自身が一番で唯一なんだ。自分以上になんて誰もなれはしない」

囁く声は淡々としながらも、傷口や隙間から入り込むような甘さを宿している。
咄嗟に目を閉じた。その姿を見てはいけない。見てしまったのなら、きっと自分はもう自分ではなくなるのだろう。

「怖くはないよ。姿を見ても、死んだりなんてしない。深く眠って、幸せな夢を見ることだってできる」

背を撫でる手が肩に触れ、気配が後ろから前へと移動する。怖くないと何度も繰り返し、両手で頬を包まれた。
逃げられない。込み上げる恐怖が、じわじわと諦念に塗りつぶされていく。
彼の特別になれない自分。好き以上の感情を持たれないのならば、このまま眠ってしまってもいいのではないだろうか。

「私は、私が一番大事。愛している。だからこれ以上傷が増える前に、深く眠らせてあげたい」

言葉が自分の隙間を埋めていく。目じりを優しくなぞられて、瞼が震えた。
久しぶりに感じる、ふわふわとした心地の良い感覚。夢現に愛の言葉を囁かれ続ける。
誘惑に抗えず、ゆっくりと瞼が開いていく。

「愛している、私。だからこのまま眠っていてね」

自分と瓜二つの顔。もう一人の自分が、優しく笑っていた。





行き交う人々の中に見慣れた背を見つけ、男は息を呑んだ。
咄嗟に追いかける。角を曲がるその小さな少女の背を見失わないように、人の波を擦り抜け急いだ。
先を行く少女はいくつもの角を曲がり、細道を進む。段々と人気のない場所へ向かう少女に男は足を速めて追いつくと、華奢な肩を掴んだ。

「待て」

肩を掴まれ、少女の足が止まる。だが男に答えることも、振り返る様子もない。

「どうしてこんな場所にいる。いつ目が覚めた」

男の知る限り、ここ数日少女は昏々と眠り続けていたはずであった。
原因が分からず、何をしても目が覚めず。無力さに眉を顰めながら、男は少女を見舞ったばかりだった。
人違いではない。男が少女のことを見間違うことは決してない。

「答えろ。何故、このような場所にいる」

男の問いに、少女はゆっくりと振り向いた。眠りにつく前に会っていた頃と変わらぬその姿。
だがほんの僅かな違和感に、男の目が鋭くなる。

「影法師か」

低く呟かれた言葉に、少女は目を瞬いた。驚きの後に薄く笑みを浮かべ、肩を掴んだままの男の手を振りほどく。

「よく知っているね。確かに私は影だけど、私自身だよ」

鋭さを増す男の目など気にもかけず、少女はくるりと回る。その足元に影はない。
軽やかにステップを踏みながらさりげなく男と距離を取ろうとする少女に、男は無言で足を踏み出した。

「来ないで。私は私を愛している。好きという軽い感情しかくれないあなたよりも、よっぽど強く想っているの。今更踏み込もうとしないで」
「軽い感情?」

男は足を止め、俯いた。
失ったことで、後悔しているのだろうか。沈黙する男からは何を思っているのかは分からない。

「私はあなたとは違う。私を愛しているから」

表情の見えない男を一瞥し、少女は背を向け去っていく。
しかし数歩歩いた所で、その足は不自然に止まった。何かが絡みついたように、足が前へと進まない。

「――え?」

足元に視線を落とし、目を凝らす。光を反射し煌めく何かを認め、少女は驚愕に目を見張った。

「愚かだな。言葉の重みを理解していないのは、お前の方だ」

顔を上げた男の姿に、少女は声にならない悲鳴を上げた。逃げ出そうと踠くものの、足に絡む無数の糸がそれを許さない。
男が一歩、少女に近づく。揺れる影から糸が伸び、少女を逃すまいと絡みつく。

「愛とは執着。離れられないだけのお前が、軽々しく口にするべきものではない」
「い、いやっ……こないで!」

糸は少女の四肢を捕え、全身を覆い尽くそうとしていた。踠くほどに絡みつくと知りながら、少女は必死に糸を解こうと身を捩る。そんな儚い抵抗を嘲笑うように、男は殊更ゆっくりと少女に近づき、自身の影から糸を紡いでいく。

「やめて!私に近づかないでっ……この、化け蜘蛛が!」
「お前は本当に、あの子の影とは思えぬ程愚かだ。隠していた愛を曝け出してのはお前だろうに」

男は笑う。
指先一つ動かせなくなった少女の頬に触れながら、赤く煌めく目を細める。

「欲しいのならば、いくらでも言葉にしよう。離れていかぬように、糸を絡めながら」
「っ、やめて……私は、あなたの獲物じゃない」

怯え涙を流しながらも気丈に睨みつける少女から手を離し、男は最後の糸をかける。
その瞬間、少女の姿は跡形もなく消えた。糸が解け男の影に戻っても、そこには何一つ残ってはいない。

「最後まで愚かだったな。獲物に愛を囁くなど、あるはずがないだろうに」

無感情に言い捨てて、男は踵を返した。
目が覚めただろう、本当の少女の元へ。失った影の代わりに、自身の糸を与えるために。

「愛している」

これから先、男は少女に好きと紡ぐことはないのだろう。
隠し、封じていた執着が顕になった今、言葉にする意味はない。

くつくつと、喉を鳴らして男は口元を歪める。
伸びる影が形を変えていく。八つの赤い目が、男の仄暗く深い執着を表すかのように鈍い光を灯し瞬いた。



20260223 『Love you』

2/23/2026, 12:04:09 PM

彼のことを、誰もが太陽のような人だと言う。
明るく気さくで、そこにいるだけで誰もが笑顔になる。彼の周りには自然と人が集まり、笑顔が絶えることはない。

教室の中心。友人たちと楽しげに話している彼を見て、眉を寄せた。
正確には彼の影を見て、だ。周りの影と比べ明らかに濃い色。誰も気づかないのが不思議なほどの濃い黒に、小さく肩を震わせた。
視線を逸らし、読みかけの本に意識を向ける。内容など頭には入らないが、無心に文字を追いかけページを捲った。
そうしなければ、彼に気づかれてしまう。気づかれてしまったらもう戻れない。
そんな気がして、顔を上げることができなかった。



夕暮れに染まる通学路は、いつもと違いとても静かだ。
歩きながら空を見る。朱から紺へと変わる曖昧な空に、小さく溜息を吐いた。
委員会の活動で遅くなる日は、こうして誰ともすれ違わない時がある。
まるで異世界に迷い込んでしまったかのような、世界に一人取り残されてしまったかのような、そんな違和感。心細さと不安を感じながら、急ぎ足で家へと向かう。
伸びる影の輪郭がぼやけている。このまま解けて消えてしまいそうに見えて、顔を上げ、できるかぎり影から目を逸らした。

家のすぐ側にある公園の前まで来た時だった。

「――あ」

ぷつん、と何かが切れてしまった感覚。慌てて辺りを見回し、視線を下へと向ける。

「え……?」

影が離れていた。
何が起こっているのか理解できず、呆然と立ち尽くす。しかし離れた影が公園へと向かっていくのを見て、慌ててその後を追いかけた。

「待って……!」

影は公園の奥へと進んで行く。それを追いかけながら、公園内のあちこちで影が消えているのに気づいた。
公園内の遊具の影は変わらずそこにある。けれど公園に植えられた草木の影の殆どがなくなっている。
影をなくした木が随分と薄く見える。自分もこのまま影を失ったら同じように薄くなり、最後には消えてしまうのではないかと想像して、必死に影を追って駆け出した。

影は木々に囲まれた広間まで進み、そこでようやく止まる。
だが足は動かず、影の元へと進めない。影の側にいる不思議な生き物から、目を逸らせなかった。
雪のように真っ白な猫。けれどもその背には、猫にはあるはずのない大きな翼があった。

「アレ?間違って違う影まで呼んできちゃった」

首を傾げて影を見つめ、そして猫はこちらに視線を向ける。無邪気に見えるその目と声を、知っている気がした。

「なんだ。キミの影だったんだ」

くすりと笑い、猫は影を踏みつける。途端に影は形を歪め、猫の影と混ざり合って消えていく。
影が猫の影と完全に混じってしまった瞬間、体の力が抜けて崩れ落ちた。

「あ、あ……」
「さて、どうしよっか。バレちゃったからなぁ」

楽しげに目を細めながら、猫がゆっくりと近づいてくる。動けない自分の前までくると、手に頭を摺り寄せ機嫌よく喉を鳴らした。

「やっぱり、口止めはしておかないとね。トクベツにこんなのはどうだろう」

翼を広げ、羽根を散らす。咄嗟に目を閉じれば、温かな何かに体を包まれる感覚がした。
ふわり、と柔らかな風が吹き抜け、瞼の向こう側が明るくなる。無意識に体を包む何かにしがみつき、陽だまりにいるような温もりと匂いを感じて息を呑んだ。

「そんなに抱き着かなくても落とさないって。それともう、目を開けてもいいよ」

くすくす笑う声。優しく背を撫でられ促されて、おそるおそる目を開ける。

「え……あお、ぞら……?」
「キレイだろ?お仕事してる間、空の旅を楽しむといいよ」

さっきまで夕暮れだった空は一面の青空に変わっていた。
落ちないようにと抱きしめる腕。笑う彼と目が合って、思わず視線を逸らした。
訳が分からない。目を閉じる前までいた猫の姿はどこにもなく、太陽のようだと皆から言われる彼が自分を抱きしめ空を飛んでいる。
彷徨う視線を、地面に向ける。小さく微かに動く影は彼のものだろうか。
動く影は、影を失った木に近づき触れる。次の瞬間には木に新しい影ができ、心なしか木に活気が満ちているように見えた。

「影は本体を映しているからね。影の元気がない時は、本体も元気がないってことだ。だからこうして影に元気を上げて返せば、本体もすぐに元気になるんだよ」
「元気?」
「そ。キミの影も随分元気がなかったけど、お仕事終わりに返してあげるよ」

困惑するばかりの自分とは対照的に、彼は上機嫌に語っている。時折、悪戯に速度や高度を変化させ、その度にしがみつく自分の反応を見てとても楽しそうに笑った。

「これで最後。じゃ、地上に戻るから、しっかり掴まってた方がいいよ」

その言葉と同時、今までよりも速く下降していく。まるで落ちていくかのような浮遊感に、声にならない悲鳴を上げながら目を閉じ強く彼に抱き着いた。

「ゴジョウシャ、ありがとうございました。お足もとにお気をつけください」

ふわり。風が吹いて、落下する感覚が緩やかになる。
とん、と足に土の感触がして、そっと目を開ける。辺りを見回せば、そこは青空の中ではなく、夕暮れの公園だった。

「楽しい体験ができたんだから、皆にはヒミツな」

地面に降り立っても離れない彼が、顔を近づけ囁く。その近さに顔が熱を持ち、恥ずかしさに身じろぐが、彼は少しも離れない。

「それとさ。いい機会だから言っておくね」

彼の顔が見れず俯く自分の耳元に彼は唇を寄せる。吐息が耳にかかり体の熱が一気に上がって、くらりと眩暈がした。

「オレさ、ずっとキミのことが気になってたんだ。真剣に授業を受けてる姿とか、本を読んでる横顔とか……あと、委員会で花の手入れをしている時の笑顔とか。すごくカワイイなって思ってた」

彼の言葉が鼓膜を揺すり、熱が上がっていく。心臓が痛いくらいに忙しなく動き出しているのを感じる。

「オレ、キミのことが大好き。だから、オレのオヨメサンになってよ」

俯く視線が、戻ってきた影に向けられる。彼と同じような濃さになった自分の影。
戻ってきたのに、影は自分とは違う動きをする。彼と向き合い、恋人のように抱き合っている。
その先を見れず顔を上げれば、彼と視線が絡み合った。太陽のような強い色をした目に見つめられ、動けない。

――彼は太陽のような人だ。

ふと、皆が言っていた言葉を思い出す。周囲を明るく照らす、穏やかで優しい彼。
咄嗟に否定する。
彼は確かに太陽のようだ。けれど決して穏やかではない。
じりじりと焼き焦がすような強さを持った、煌めく太陽。近づきすぎれば、影が焼き付いて、もう離れられない。

「ダメ?」

首を傾げて彼は言う。疑問形でありながら、受け入れられると信じているその響き。
彼は気づいているのだろう。自分がずっと彼を見ていたことに。
その視線に含まれる感情もすべて、彼は強い光と共に暴いてしまっている。

ずるい。そう口には出さず呟いた。
真っすぐな彼の目。正面からその目を見返して、手を伸ばす。
言葉は返さない。代わりに自分の影を真似て、強く彼を抱きしめた。



20260222 『太陽のような』

2/22/2026, 9:52:19 AM

柔らかな日差しを感じ、目を開けた。
見上げれば、青空がどこまでも広がっている。高く昇った陽が、遠くまで明るく照らしていた。
とても静かだ。生き物の気配はここにはない。
苦笑して、戯れに枝を揺らした。葉がすべて落ち枯れた枝は軋んだ音を立てるばかりで、寂しさだけが募っていく。
慰めるような柔らかな風が幹を撫でるが、積み重なる思いは溶けそうにない。

「寂しいな」

誰にでもなく呟いた。
ここには何もない。何もかもが流され燃えて、無くなってしまった。
自分もそろそろ消えるのだろう。枯れた枝にはもう、新しい芽が出ることはない。
結局待ち人は来なかった。約束をしてはいたものの、すでに何十年も前のこと。元より帰れぬ覚悟で出征したのを知っている。残される自分を憐れんだ言葉だったのだろう。

「酷い男だ」

思わず恨み言めいた言葉が口をついて出る。
彼の前にも自分に優しくしてくれた人間がいた。色々な話を聞かせてくれ、笛を教えてくれた人間は、ある日を境に姿を消し二度と戻ってくることはなかった。
悲しくはあったが、すぐに諦めもついた。木と違い、人間の生は短い。その貴重な時間を自分に割いてくれたのだと思えば、逆に感謝の念すら抱いた。

「本当に、酷い男だった」

何も言わず消えた人間と待ち人を比べ、酷いと繰り返す。
彼も何も言わずに去ってくれればよかったのだ。そうすればこうしていつまでも約束にしがみつき、終わりの刻《とき》を見誤ることはなかったというのに。
そうは思うものの、不思議と彼と出会ったことを後悔していない。難儀なものだと思いながら、笑みを浮かべ目を閉じる。
何も聞こえない。ただ優しい風が幹や枝を撫でていく。日差しが遠ざかり、深く暗い場所へと落ちていく感覚に身を委ねる。

誰かの声が聞こえた気がして、最後まで約束を忘れられない自分に呆れながら笑った。





「また、こんな所で寝ていたのか」

揺り起こされて、目が覚めた。

「少しは暖かくなってきたとはいえ風は冷たいし、陽が暮れれば一気に寒さが強くなるんだぞ。昼寝をしたければ家の中にしろ」

呆れた顔をして彼は溜息を吐く。
気まずさに視線を逸らし、体を起こす。大丈夫だと伝えたいが、それを言ってしまえばさらに彼の機嫌が悪くなるのだろう。何度も繰り返したやり取りに、出かけた溜息を飲み込んだ。

「いい加減、人なんだって認識してくれ。百日紅だった頃とは違って、風邪を引いただけで大事に至ることもあるんだぞ」
「分かっている」
「分かっていないから、こうして何度も言っているんだ。ただでさえお前に気づかれないまま何十年もいたんだ。これ以上俺から離れようとしないでくれ」

そう言われてしまえば何も言えなくなってしまう。
彼はずっと側にいた。自分はひとりではなく彼と寄り添っていたというのに、積もる悲しみや寂しさに何も見えなくなってしまっていた。

「熱はないな。だが体が冷えている」

頬を包まれ、額を合わせて熱を測られる。気恥ずかしいが、同時に触れる温もりに安心する。
彼がいる。悲しみの代わりに積もる愛おしさに笑みが浮かぶ。手を引かれて立ち上がり、彼に肩を抱かれながら歩いていく。

「――頼みがある」

ふと思いついて彼を見た。立ち止まりこちらを見る彼に微笑んで、先程まで眠っていた場所を指さした。

「いつか、新しい木を植えたい」

ここはもう、静かな場所ではない。戦火により燃やされ、天災により流されてすべてをなくしても草木は芽吹き、生き物たちが営みを始めている。
去っていった人々も道を作り、家を建て、新しい街を作っていた。
無からの始まり。自分たちの新しい始まりに、新たな木を植えたかった。

「いつか、でいいのか?」

意地悪く彼が笑う。すべて分かっているのだと、風のように柔らかく髪を撫でる。

「酷い男だ」

視線を逸らし、呟いた。けれども頬が赤いことに、きっと彼は気づいているのだろう。

「お前よりは酷くない。何十年どんなに呼びかけても触れても気づかれず、勝手に約束を反故にされたと思い込まれて、愚痴を吐く姿を見続けているより可愛いものだろう?」
「そういう所が酷いと言っている」

口では勝てぬと、肩を叩く。声を上げて笑われ、赤い顔を隠すように叩いた肩に額を擦り付けた。
宥めるように髪に口付けられた。そのまま耳に唇を近づけ、囁く。

「俺たちが大人になって、結婚したら百日紅を植えよう。だからそれまで健やかにいてくれよ」

優しい声に、ただ頷く。
恥ずかしくとも幸せな約束に、強くしがみつきながら想いが滴となって溢れ落ちるのを感じていた。





海辺の街の外れに、一本の百日紅が植えられている。
古くからそこに根を張る百日紅は海水を浴び枯れて朽ちてしまったが、とある夫婦が新しく木を植えたのだ。
かつては誰もいないはずの夜中に笛の音が聞こえると恐れらた百日紅は、今では子供たちの集まる場として穏やかにそこに立っている。

笛の音はまだ聞こえる。
それは木を植えた夫婦が奏で、それを継いだ子供たちの旋律。
長い時の中で何度も失われ、それでも何度も零から始まるこの場所を、祝福するかのような響き。

子供たちが歌う。笛の音が空に解けていく。
終わり、そして始まる繰り返しを、百日紅は見届けていく。



20260221 『0からの』

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