彼のことを、誰もが太陽のような人だと言う。
明るく気さくで、そこにいるだけで誰もが笑顔になる。彼の周りには自然と人が集まり、笑顔が絶えることはない。
教室の中心。友人たちと楽しげに話している彼を見て、眉を寄せた。
正確には彼の影を見て、だ。周りの影と比べ明らかに濃い色。誰も気づかないのが不思議なほどの濃い黒に、小さく肩を震わせた。
視線を逸らし、読みかけの本に意識を向ける。内容など頭には入らないが、無心に文字を追いかけページを捲った。
そうしなければ、彼に気づかれてしまう。気づかれてしまったらもう戻れない。
そんな気がして、顔を上げることができなかった。
夕暮れに染まる通学路は、いつもと違いとても静かだ。
歩きながら空を見る。朱から紺へと変わる曖昧な空に、小さく溜息を吐いた。
委員会の活動で遅くなる日は、こうして誰ともすれ違わない時がある。
まるで異世界に迷い込んでしまったかのような、世界に一人取り残されてしまったかのような、そんな違和感。心細さと不安を感じながら、急ぎ足で家へと向かう。
伸びる影の輪郭がぼやけている。このまま解けて消えてしまいそうに見えて、顔を上げ、できるかぎり影から目を逸らした。
家のすぐ側にある公園の前まで来た時だった。
「――あ」
ぷつん、と何かが切れてしまった感覚。慌てて辺りを見回し、視線を下へと向ける。
「え……?」
影が離れていた。
何が起こっているのか理解できず、呆然と立ち尽くす。しかし離れた影が公園へと向かっていくのを見て、慌ててその後を追いかけた。
「待って……!」
影は公園の奥へと進んで行く。それを追いかけながら、公園内のあちこちで影が消えているのに気づいた。
公園内の遊具の影は変わらずそこにある。けれど公園に植えられた草木の影の殆どがなくなっている。
影をなくした木が随分と薄く見える。自分もこのまま影を失ったら同じように薄くなり、最後には消えてしまうのではないかと想像して、必死に影を追って駆け出した。
影は木々に囲まれた広間まで進み、そこでようやく止まる。
だが足は動かず、影の元へと進めない。影の側にいる不思議な生き物から、目を逸らせなかった。
雪のように真っ白な猫。けれどもその背には、猫にはあるはずのない大きな翼があった。
「アレ?間違って違う影まで呼んできちゃった」
首を傾げて影を見つめ、そして猫はこちらに視線を向ける。無邪気に見えるその目と声を、知っている気がした。
「なんだ。キミの影だったんだ」
くすりと笑い、猫は影を踏みつける。途端に影は形を歪め、猫の影と混ざり合って消えていく。
影が猫の影と完全に混じってしまった瞬間、体の力が抜けて崩れ落ちた。
「あ、あ……」
「さて、どうしよっか。バレちゃったからなぁ」
楽しげに目を細めながら、猫がゆっくりと近づいてくる。動けない自分の前までくると、手に頭を摺り寄せ機嫌よく喉を鳴らした。
「やっぱり、口止めはしておかないとね。トクベツにこんなのはどうだろう」
翼を広げ、羽根を散らす。咄嗟に目を閉じれば、温かな何かに体を包まれる感覚がした。
ふわり、と柔らかな風が吹き抜け、瞼の向こう側が明るくなる。無意識に体を包む何かにしがみつき、陽だまりにいるような温もりと匂いを感じて息を呑んだ。
「そんなに抱き着かなくても落とさないって。それともう、目を開けてもいいよ」
くすくす笑う声。優しく背を撫でられ促されて、おそるおそる目を開ける。
「え……あお、ぞら……?」
「キレイだろ?お仕事してる間、空の旅を楽しむといいよ」
さっきまで夕暮れだった空は一面の青空に変わっていた。
落ちないようにと抱きしめる腕。笑う彼と目が合って、思わず視線を逸らした。
訳が分からない。目を閉じる前までいた猫の姿はどこにもなく、太陽のようだと皆から言われる彼が自分を抱きしめ空を飛んでいる。
彷徨う視線を、地面に向ける。小さく微かに動く影は彼のものだろうか。
動く影は、影を失った木に近づき触れる。次の瞬間には木に新しい影ができ、心なしか木に活気が満ちているように見えた。
「影は本体を映しているからね。影の元気がない時は、本体も元気がないってことだ。だからこうして影に元気を上げて返せば、本体もすぐに元気になるんだよ」
「元気?」
「そ。キミの影も随分元気がなかったけど、お仕事終わりに返してあげるよ」
困惑するばかりの自分とは対照的に、彼は上機嫌に語っている。時折、悪戯に速度や高度を変化させ、その度にしがみつく自分の反応を見てとても楽しそうに笑った。
「これで最後。じゃ、地上に戻るから、しっかり掴まってた方がいいよ」
その言葉と同時、今までよりも速く下降していく。まるで落ちていくかのような浮遊感に、声にならない悲鳴を上げながら目を閉じ強く彼に抱き着いた。
「ゴジョウシャ、ありがとうございました。お足もとにお気をつけください」
ふわり。風が吹いて、落下する感覚が緩やかになる。
とん、と足に土の感触がして、そっと目を開ける。辺りを見回せば、そこは青空の中ではなく、夕暮れの公園だった。
「楽しい体験ができたんだから、皆にはヒミツな」
地面に降り立っても離れない彼が、顔を近づけ囁く。その近さに顔が熱を持ち、恥ずかしさに身じろぐが、彼は少しも離れない。
「それとさ。いい機会だから言っておくね」
彼の顔が見れず俯く自分の耳元に彼は唇を寄せる。吐息が耳にかかり体の熱が一気に上がって、くらりと眩暈がした。
「オレさ、ずっとキミのことが気になってたんだ。真剣に授業を受けてる姿とか、本を読んでる横顔とか……あと、委員会で花の手入れをしている時の笑顔とか。すごくカワイイなって思ってた」
彼の言葉が鼓膜を揺すり、熱が上がっていく。心臓が痛いくらいに忙しなく動き出しているのを感じる。
「オレ、キミのことが大好き。だから、オレのオヨメサンになってよ」
俯く視線が、戻ってきた影に向けられる。彼と同じような濃さになった自分の影。
戻ってきたのに、影は自分とは違う動きをする。彼と向き合い、恋人のように抱き合っている。
その先を見れず顔を上げれば、彼と視線が絡み合った。太陽のような強い色をした目に見つめられ、動けない。
――彼は太陽のような人だ。
ふと、皆が言っていた言葉を思い出す。周囲を明るく照らす、穏やかで優しい彼。
咄嗟に否定する。
彼は確かに太陽のようだ。けれど決して穏やかではない。
じりじりと焼き焦がすような強さを持った、煌めく太陽。近づきすぎれば、影が焼き付いて、もう離れられない。
「ダメ?」
首を傾げて彼は言う。疑問形でありながら、受け入れられると信じているその響き。
彼は気づいているのだろう。自分がずっと彼を見ていたことに。
その視線に含まれる感情もすべて、彼は強い光と共に暴いてしまっている。
ずるい。そう口には出さず呟いた。
真っすぐな彼の目。正面からその目を見返して、手を伸ばす。
言葉は返さない。代わりに自分の影を真似て、強く彼を抱きしめた。
20260222 『太陽のような』
2/23/2026, 12:04:09 PM