――誰かのお気に入りになるのは、とても怖いこと。
学校で囁かれる噂話。お気に入りになってはいけない誰かの正体も、怖いこととは具体的に何なのかも分からない。
ただ、誰もがその噂を信じているかのように目立たず、型にはまったように個性を殺して過ごしていた。
「早く帰りなさい。――様のお気に入りになってしまうよ」
教室で一人、何をするでもなくぼんやり残っていれば、見回りに来た先生にそう忠告される。
誰のお気に入りになるのか、やはり分からない。皆のいう誰かの名は、自分にはいつも雑音にしか聞こえなかった。
それは自分がよそ者だからだろうか。引っ越してきてから半年は過ぎているが、未だに友達の一人も作れてはいない。
誰かのお気に入りになることの怖さも、きっとよそ者だから理解できないのだろう。
「お気に入りになってはいけないの?」
「お気に入りになると、とても怖いことになるからね」
先生はそれだけを言って去ってしまう。呼び止めることもできず、溜息を吐くと鞄を手に立ち上がった。
時計を見るが、まだ五時を過ぎたばかりだ。立春も過ぎ、陽が伸びてきているために窓の外はまだ明るい。
もう一度溜息を吐いた。帰った所で、両親は仕事で家にはいない。一人きりの家に帰る憂鬱に、足を引き摺るようにのろのろと教室の外へ向かい歩いていく。
廊下はしんと静まり返り、辺りは人影すら見えない。
皆、部活終わりの五時にすぐさま下校してしまったのだ。残っているのは先生たちと自分くらいなものだろう。
込み上げる寂しさに、慌てて頭を振り昇降口に向かう。家でも学校でも一人なのには慣れてしまったと思っているが、誰もいない学校の不気味さをも受け入れられるわけではない。急いで靴を履き替え、外へと駆け出した。
「今日はどうしようかな」
呟きながらも、足は自然と小さな神社へと向かっていた。
無人の寂れた神社。引っ越して一週間ほど過ぎた時に見つけた、自分だけの秘密の場所。
社の前に僅かに残る雪を掃き、上り口に座る。ここでも一人には違いがないが、何故か他で感じる寂しさや空しさはなく、温かな何かに包まれているような柔らかな空気が好きだった。
ぼんやりと空を見上げ、暗くなっていく空に瞬き出す星を数えていく。今日あった色々なことを思い返し、何も変わらない日々に無意識に眉を寄せていた。
「早く帰った方がいいよ」
ふと声がした。
この神社で初めて聞く自分以外の声。視線を下ろして声のした方を向けば、自分とさほど年の変わらぬ少女がこちらを見て首を傾げていた。
見覚えのない少女だ。さほど生徒数の多くない学校内で見たことはない。
「帰った方がいいよ」
繰り返される言葉に眉を顰めた。
理由もなく突然帰れと言われても、納得ができない。学校で感じていた不満をぶつけるように、少女を睨み疑問を口にする。
「どうして帰らないといけないの?」
「だって、お気に入りにはなりたくないのでしょう?」
「どうしてお気に入りになってはいけないの?」
問い返せば、少女は首を傾げたまま不思議そうに目を瞬いた。そして視線を彷徨わせ、おずおずと近づいてくる。
まるで野生の小動物のようだ。少し前までの嫌な気持ちが萎んで、微かに笑みが浮かぶ。
「お気に入りになるのが怖くはないの?」
「怖いことが何か分からないから、怖がりようがない」
「変な子ね。普通は皆、怖がるものなのに」
すぐ側まで近づいた少女が、そっと手を差し出した。その手に自分の手を重ね、繋ぐ。
その瞬間脳裏を過ぎていったのは、おそらくこの神社の過去なのだろう。
いくつもの映像が流れていく。自分よりも年下の、あるいは同い年くらいの少女や少年が、一人社の前で祈っている。ゆっくりと開く社の中へ足を踏み入れ、扉が閉じた後は二度と出てくることはない。
「お気に入りだって誰かに思われたらね、ここから出してもらえなくなるの。それってとても怖いことでしょう?」
映像が消えていく。目を瞬き、どこか夢見心地な意識で、離れようとする手を無意識に繋ぎ留めていた。
「大人たちに見つかるのは、確かに怖い。でも」
少女を見つめる。戸惑いおろおろと繋いだ手とこちらを見つめる少女に笑ってみせた。
「友達になりたいなって思う気持ちは、怖いものではないよね」
「え……?」
「私、あなたと友達になりたい」
流れてきた映像の片隅にいた、一人ぼっちの少女。社に入っていく子たちの背を見ながら、悲しげに目を伏せていたのが忘れられなかった。
「駄目?」
「駄目じゃ、ない。でも……友達ってお気に入りってことにならないのかな?」
「じゃあ、秘密にすればいい。私とあなただけの秘密」
不安そうな少女の手を包み込み、目を見つめてはっきりと告げる。小さく息を呑んだ少女は、やがてふわりと微笑んだ。
「秘密ね。それってとっても特別……わたし、ようやく本当のお気に入りができたのね」
包み込んだ手を引かれ、抱き着かれた。嬉しそうに擦り寄って、鼻をひくつかせる。
少女から伸びる、二つのしなやかな尻尾が体に絡みつきこそばゆい。思わず身じろぐが尻尾は少しも解ける様子はなく、逆にさらに強く絡みついてきてしまった。
「あなた、外から来た人間なのね。それに、微かにだけどわたしと同じ匂いがする」
少女に指摘され、そういえばと思い出す。自分の祖先は海外から来た猫と人の間に生まれたという話を。
ただのおとぎ話だと思っていた。けれど少女が言うのだから、それは本当のことだったらしい。
「あなたはわたしのお気に入りで友達だもの。特別な加護を上げるからね」
「それよりも、友達なんだから一緒に遊びたいな」
「欲のない人間ね。それなら、好きなだけ遊びましょうか」
手を引かれ、いつの間にか戸が開いていた社の中へと入っていく。一瞬の眩暈の後、暗闇が散って目の前が一面の花畑へと変わっていた。
「さぁ、行きましょう」
少女と共に花畑を駆け出した。甘い匂いに目を細め、少女と二人花畑に倒れ込む。
顔を見合わせ、お互いにくすくすと笑う。久しぶりに心から笑えた気がした。
ごろりと仰向けになり、空を見る。雲一つない青空が心地よい。
ちらりと横目で見た少女は、白い二股の尻尾の猫の姿で丸くなり眠っている。彼女を真似するように丸くなり、ゆっくりと目を閉じていく。
眠りに落ちる一瞬前、この社の中に入っていった子たちのことが頭に浮かんだ。
あの子たちはどこに行ったのだろう。大人たちに少女のお気に入りだと決めつけられ、社の中に押し込められた子たち。この花畑のどこにも気配を感じない。
けれどそんな疑問もすぐに解けて消えていく。
眠る少女に擦り寄られ、その温もりに何も考えられなくなっていく。
どこまでも深い夢の世界へと、少女と二人落ちて行った。
20260217 『お気に入り』
目を開けると、目の前に黒の大きな毛玉があった。
そっと手を伸ばし触れてみる。固めの毛の感触とじんわりとした温もりに惹かれ、そのまま顔を埋めた。
温かい。陽の匂いがして、深く吸い込んでみる。遠い昔、自由に野を駆けていた記憶が巡り、懐かしさに吐息を溢した。
「なんだ、まだ朝は先だぞ。もう少し眠ってろ」
もぞりと毛玉が動き、黒い狐がこちらを向く。眠そうに欠伸をして、それにつられて同じように欠伸が漏れた。
まだ朝は先なのか。窓のないこの部屋では外の様子は分からない。だが彼が言うのだから間違いはないと、小さく丸まり目を閉じた。
「今日は冷えるな。こっちに来い」
そう言いながら抱き込まれ、瞬きの間に彼の腕の中にいた。一瞬のことに驚くものの、暖かさにすぐに瞼が落ちてしまう。
まだ朝ではない。ならば、彼が言うようにもう一度眠ってしまってもいいのだろう。
途端に意識が微睡むが、物足りなさに気づいて瞼をこじ開けた。
暗い室内を見回す。彼と自分以外に気配はない。
もう一匹、白い狐はどこにいるのだろう。
不安が込み上げ体を起こそうとするも、抑え込まれて起き上がることができない。
「こら、起きるな」
「だって」
「あいつなら、朝飯を狩りに行ってる。戻ってきた時におまえが起きてると怒られるのはおれなんだ。おとなしく寝てろ」
ぶっきらぼうな言葉だが抱き込む力も、宥めるような毛繕いの仕草も優しい。
彼は昔からそうだった。冷たく見えて、実は誰よりも優しい狐。領地争いをしていた時から、きっと変わっていない。
促されて、おとなしく目を閉じる。温もりに包まれてすぐに意識は夢の中へと落ちていった。
吹き抜ける風の匂いを感じ、目を開けた。
見上げる空は快晴。どこまでも続く草原を、柔らかな風が駆け抜けていく。
風に乗って、微かに花の匂いを感じた。誘われるように前足を踏み出し、風を追って駆け出す。
体が軽い。今ならばどこまでも行けそうで、次第に速度が上がっていく。力強く後ろ足で地を蹴れば、空も飛べそうな気がして高く鳴いた。
空を飛ぶ自分を想像する。そうすれば自分の姿が揺らぎ、三色の羽を持つ鳥に代わっていく。大きく翼を広げ陽を目指して飛べば、たちまち草原が遠くなる。
今の自分は誰よりも自由だ。好きな所に行き、好きなことができる。人間も妖も関係なく、ただ自分としてここに在る。
ふと見下ろせば、かつての自分の領地が見えた。のどかに行きかう人々に、ほんの僅か、悪戯心が芽生えた。
また観音菩薩となってみようか。そうしたら人間はどんな反応を見せてくれるのだろうか。
けれどそれもすぐに消え、領地の先、彼らとの約束の場所へと大きく羽ばたいた。
小さく見える二匹の狐の姿。白い三本の尾を持つ狐と、黒い尾のない狐。誰よりも優しく、誰よりも心配性な二匹の元へと、さらに速度を上げて向かっていく。
姿が揺らぎ、元の狐に戻る。後ろ足の感覚はない。このまま落ちれば二度と草原を駆け抜けることはないのだろう。
それでも構わなかった。自由な一匹で在るよりも、不自由でも二匹と一人でいたい。
二匹の腕の中へと落ちていく。再び姿が揺らぎ、今の自分に戻って強く二匹にしがみついた。
「おかえり」
二匹が笑う。頭を撫でるその手に擦り寄り、同じように笑顔を浮かべる。
「ただいま!」
今の自分は、きっと誰よりも幸せだった。
柔らかな日差しに、目が覚めた。
「あぁ、起きたんだ。おはよう」
気づけば、人間の姿を取った白い狐の腕に抱きかかえられていた。どこかに向かっているのか、ゆったりとした歩みに合わせ、心地の良い振動が伝わってくる。
まだ重い瞼を開け、目を瞬く。視線を巡らせれば、隣にいた同じように人間の姿を取った黒い狐と目が合った。
「ようやく起きたか。いい夢でも見てたみたいだな。ふにゃふにゃ笑って、涎まで垂らしてたぞ」
「どんな夢を見てたんだい?」
問われて、夢の内容を思い出す。
懐かしい夢を見ていた。彼らと同じ、妖だった頃の自由な過去の名残。
懐かしくはあるけれども未練はない。こうして人間として不自由に生きていくことに、幸せすら感じるのだから。
「お前たちが誰よりも優しくて、心配性だった夢、かな」
「なんじゃそりゃ」
「人間を化かして饅頭を貰わなくても、ここにいるだけで美味い菓子が出てくるってことだ」
眉を寄せる黒い狐に小さく声を上げて笑う。そんな自分を見て、白い狐は呆れたように息を吐いた。
「誰よりも優しくて心配性なのは、お前だろう?でなければ、俺は退治されたお前をこうして別の形で留めようとは思わなかったよ」
「そうだよな。おせっかいで、悪戯好きで、誰よりも寂しがりの食いしん坊だったから、離れていくのは惜しいと思ったんだ」
好き勝手に言う二匹から視線を逸らす。文句の一つでも言いたいが、それより赤くなっているだろう顔を見られたくはなかった。
しばらくして、目的地に着いたのだろう。そっと体を下ろされる。周りを見れば、どこか懐かしい景色が広がっていた。
「今日は暖かいからね。たまには外で朝食にしようかと思って」
広げた敷物の上に、手際よく二匹が準備を整えていく。少し歪な握り飯は黒い狐が握ったのだろうか。そんなことを思いながら、差し出された湯呑みに大人しく口をつけた。
「さて、準備もできたことだし食べようか」
いただきます、の声で、それぞれ食べ始める。
「――美味い」
「だろ。おれが握ったんだから当然だな」
黒い狐が胸を張る。それに適当に頷いて答えながら、白い狐がほぐした魚の身を口にする。相変わらず過保護だが、今更何かを言うことはしない。
ふと、柔らかな風が吹き抜けた。顔を上げれば、雲ひとつない晴天が広がっている。
あぁ、そういえば。夢で見た空も同じだったと思い出した。
「どうしたの?」
「鳥に化けて飛んだ夢の空は、どうやらここだったらしい」
目を細め、笑みを浮かべた。
やはり自分にはこの空よりも、二匹の側の方が向いている。
そんなことを思っていれば、急に黒い狐に抱えられ膝に乗せられた。手には新しい握り飯を渡され、腹を抱えられる。
「黒羽《くろは》?」
名を呼ぶが、答えはない。仕方なしに握り飯に齧り付き、文句と共に飲み込んだ。
「白花《しらはな》?」
「それじゃあ、他のおかずに手が伸びないからね。特別だよ」
そう言いながら、白い狐は魚の身を箸で目の前に運んだ。食べさせられることに、流石に何か言わなければと口を開くが、その前に口の中に魚を入れられてしまう。
眉を寄せながら、咀嚼する。二匹の狐を交互に見て、込み上げる不満はするすると萎んでいった。
「誰よりも寂しがりなのは、お前たちもじゃあないか」
笑うのに失敗して泣きそうに歪んだ顔。呆れたような、それでいて泣きたいほどに嬉しいような気持ちに胸が苦しくなる。
誤魔化すように握り飯に齧り付く。口元に運ばれる魚や野菜を受け入れ、腹を満たしていく。
結局、自分たちは似た者同士なのだろう。込み上げる笑いを噛み殺し、差し出された茶を啜った。
二匹の側は心地が良い。
食事が終わり、微睡む意識の中思う。
だが、もう少しだけ何も語らないでおこう。自分の何気ない言葉で一喜一憂する二匹を見ているのも悪くない。
人間を揶揄っていた時よりよほど楽しいことだと、二匹に囲まれ寄り添いながら穏やかに眠りについた。
20260216 『誰よりも』
――拝啓、十年前の私。
夕暮れの図書館。偶然見つけた手紙の書き出しに、目を瞬いた。
「十年後じゃないんだ」
思わず声に出てしまい、慌てて辺りを見回した。
今日は珍しく、図書館には誰もいない。私語を咎められないことに安堵して、手にした紙に視線を落とす。。
読んでいた本の最後のページに挟まっていた四つ折りの紙。誰かが挟んだまま忘れたのだろうそれに何が書いてあるのかが気になって、つい開いてしまった。
丸みを帯びた字は女子のものだろうか。どこかで見たことがあるような気がするその字を不思議に思いながら、もう一度書き出しの文字を見る。
十年前。何度見ても、その文字は変わらない。
書き間違いだろうか。それとも過去の自分に当てた手紙なのだろうか。色々と考えながら、続きの文字を指で追い始める。
誰かの手紙を盗み見ることの罪悪感は、好奇心に負けて萎んでしまっていた。
――まず最初に、友チョコという流行りには乗らない方がいい。肝心の想いを伝えたい人に、正しく伝わらなくなってしまうから。
自分自身に当てた手紙だからなのか、最初から遠慮をしない文字が心を抉る。昨日友達とチョコを交換し合い、その流れで彼に本命のチョコをあげたけれど反応がいまいちだったことを思い出した。
この手紙の主も、同じだったのだろうか。恥ずかしくて誤魔化したチョコに込めた想いが、相手に届かなかったのだろうか。
切ない気持ちに眉を寄せ、続く文字を追っていく。
――次に、相手の優しさを当然だと思わないで。彼が優しいのは、あなたを大切に思っているから。誰にでも優しい訳じゃない。
きゅっと唇を噛み締める。
彼はいつだって優しかった。他の人にもそうなのだと、自分が特別だからではないのだと、そう思い込もうとしていた。
自分に宛てられた手紙ではない。それは分かっていても、どうしても彼のことが思い浮かんでしまう。
もしも彼の優しさが特別なのだとしたら。期待しても、いいのだろうか。
――自分の気持ちを誤魔化して手を離していると、本当に彼が離れていく日がくる。それが嫌なら、勇気を出して向き合わないといけない。
文字を追っていた手を握り締めた。
彼が離れていってしまう。その言葉の意味を、すぐには理解できない。
彼とはいつも一緒だった。幼い頃、いつも遊んでいたのは彼とで、学校で他に友達ができた後でも、彼と会わない日はなかった。
いつも一緒の帰り道を、一人で帰る時がくる。
当たり前だ。変わらない関係はないのだから。この先も無条件で彼の隣にいられるはずはない。
別れの予感が胸を苦しくさせる。息がうまく吸えず、頭がくらくらした。
「勇気を出せば……」
言葉にしてみるものの、それはとても困難なことのように思えてしまう。途方に暮れながら最後の文字に視線を落とした。
――最後に、後悔はしないで。未来なんて、きっといくらでも変えられるのだから。だから何でもすぐに諦めて、後悔するのだけは止めてほしい。
後悔の文字から目が離せない。
自分もこの先、後悔するのだろうか。そして過去の自分に宛てて、手紙を書くのかもしれない。
深く息を吐いた。手紙を戻そうと四つ折りにして、本に挟む。
「――あれ?」
手紙の隅に、小さく殴り書きのような少し乱れた文字が書かれているのに気づく。この手紙の文字とは違う、見慣れた字。
目を見開いて、文字に触れようとした時だった。
「ここにいたんだ。そろそろ閉館時間だよ」
彼の声がして、咄嗟に本を閉じ振り返る。いつもと変わらない笑顔を浮かべて、彼が近づいてきていた。
「それ、借りるなら早く手続きに行かないと」
「ううん、大丈夫。丁度読み終わった所だから」
曖昧に笑って、本を返しに棚に向かう。心臓が煩いくらいに跳ねて、落ち着かない。
ちらりと見る彼に、変わった所はない。少なくとも自分にはそう見える。それなのにこんなにも苦しいのは、手紙を読んでしまったからだろうか。
「どうしたの?」
本を返しても戻らない自分を不思議に思ったのか、彼が首を傾げて近づいてくる。図書館の静けさがやけに重たく感じる。まるで世界に二人だけ取り残されてしまったような心細さに慌てて頭を振り、何でもないと笑って彼に駆け寄った。
「こら、図書館では走らない」
「ごめん。早く帰りたくなっちゃって」
溜息を吐く彼が手を差し出し、それに迷いなく自分の手を重ねる。繋いだ手が温かい。いつもと同じ、彼との距離。
そう思うのに、息苦しさは続いている。不安が消えなくて、いつもより少しだけ強く彼の手を握った。
彼がこちらを見る。笑顔で誤魔化しながら、繋いでいない手をこっそりと握り締めた。
「何かあった?いつもと違う気がする」
「そう?変わらないと思うけど……ちょっといつもと違うジャンルの本を読んだからかな」
偶然手に取った本の内容など、とっくに頭から抜けている。
代わりに頭の中を占めているのは手紙の内容と、殴り書きの一文だった。
右上がりの少し崩れた字。それは確かに自分の字だった。
書いた覚えはない。そもそもあの手紙も、偶然本を手に取らなければ気づくこともなかっただろう。
――嘘つき。
たった一言。それが何を差しているのかは分からない。
十年前の自分自身に宛てたということか。手紙の内容自体が嘘なのか。
誰が嘘つきで正直なのか。何も分からないから、何も言えない。
「あの、ね。聞いてほしいことがあるの」
ならば嘘つきを探すよりも、嘘にしたくないものを本当にすればいい。
「昨日あげたチョコなんだけどね――」
勇気を出して彼に告げる。そうすれば、少なくとも自分の想いは伝わるから。
誰もいない、夕暮れの帰り道。
いつもと変わらないはずの彼との関係に、一歩だけ踏み込んだ。
20260215 『10年後の私から届いた手紙』
――どうしよう。
不安げな聲に、顔を上げた。
時計を見れば、夜の十一時を過ぎている。何かあったのかと、意識を集中させる。
彼女の心の聲は、日に日に強く感じられるようになってきていた。今更意識を集中させる必要はないが、いつの間にか癖になってしまっている自分に苦笑する。
本当ならば、聞くべきではないのだろう。彼女が助けを必要としている時にだけ聞き取れるのならそれが一番だ。そうは思うのに自分のこの生まれ持った能力は儘ならず、それでいいとすら思うようになってしまった。
――割れちゃった。
今にも泣き出しそうなか細い聲。眉を寄せ、カレンダーに視線を向けた。
二月十四日。
明日は土曜日で学校はない。そんなどうでもいいことを思いながらも、日付から目を逸らせない。
「バレンタインか」
思わず呟いた。口の端が持ち上がるのを止められない。
彼女とは明日会う約束をしている。果たして気づかない振りができるのか、彼女が切り出す前に余計なことを言ってしまわないかと、浮ついた思考が止まらない。
割れたというのは、きっとチョコレートのことだろう。また作り直すのか、それとも割れたままのチョコを渡されるのだろうか。
きっと落ち込んでいるのだろう。今すぐ気にするなと連絡をしたいが、それでは聲を聞いていたことが丸わかりだ。バレンタインチョコを楽しみに盗み聞きをしていたようで、恰好がつかない。スマホに伸びようとする手を握り締め、必死に衝動を抑え込む。
もう寝てしまおう。どちらになるのか分からない楽しみはあった方がいい。彼女の聲から意識を逸らしつつ、電気を消してベッドに横になる。
遠足前の子供のように浮かれながら、目を閉じた。
――食べちゃった……どうしよう。
聞き逃せない聲が聞こえた。反射的に目を開け、体を起こす。
「食べた……?」
嫌な予感が胸を過ぎた。
――仕方ないから、忘れた振りをしよう……大丈夫。ずっと忘れてたって思ってれば、きっとバレないはず。
浮かれていた気分が一気に萎む。彼女らしいと言えば彼女らしいが、それでもどうしてという不満が込み上がる。
「明日、どんな顔して会えってんだよ」
苛立ちを溜息と共に吐き出せば、空しさが残ってしまう。
彼女は自分が心を覚れると理解して、忘れた振りをしようとしている。それなら自分も聞いていない振りをしなければ、彼女の努力が台無しになってしまう。
もう一度大きく溜息を吐いて布団を被る。目はすっかり冴えてしまったが、無理矢理に眠ることにした。
「ごめん!待った?」
「別に」
駆け寄る彼女を一瞥し、一言返す。
内心で舌打ちする。機嫌が悪いと思われていないだろうか。いつもならば気にならないことがやけに気になってしまう。
――怒ってる?でもいつもと変わらなそうだし……もしかしてまだ気づいてないのかな。
聞こえてくる聲と、そわそわと落ち着かない彼女の気配に眉が寄る。溜息を吐いて、彼女に視線を向けた。
「あからさまに何かありますみたいな雰囲気を出されても困るんだけど」
「あ、えっと、その……」
途端に視線が彷徨う彼女に、もう一度溜息を吐いてみせる。びくりと肩を揺らすが何かを話す様子はない。彼女の聲もどうしようと繰り返すばかりだ。
このままでは、いつまで経っても何も進まない。仕方がないとポケットに手を入れ、小さな箱を取り出した。
「これやる」
「え……?」
軽く放り投げれば、彼女は慌てたように両手でその箱を受け取った。一応綺麗にラッピングされている箱とこちらを交互に見て、戸惑うように眉を下げた。
「開けてみれば?」
「え、いいの?」
「好きにすればいいだろ」
また不愛想に返してしまった。だが彼女は箱の方が気になる様子で、迷いながらもリボンを解いていく。
丁寧に包装紙を剥がし、箱を開ける。中に入っていた蝶の髪留めを見て目を見開いた。
「これって……」
「この前遊びに行った時、ずっと見てただろ」
「っ、ありがとう」
微笑む彼女からさりげなく視線を逸らす。聞こえる聲はとても嬉しそうで、気を抜けば口元が緩んでしまいそうだ。
折角のバレンタインを何もなく終わらせるのが嫌で別に用意していたものを持ってきたが、喜んでもらえたようで安堵する。別にチョコレートにこだわる必要はなかったと、一人満たされた気持ちで彼女を見た。
「何?気に入らなかった?」
「そんなことはないよ!ただ……」
慌てて否定するものの、さっきまで笑っていた彼女の眉が寄っている。何故プレゼントを貰えたのかが分からず、戸惑っている聲が聞こえてきた。
確かに急すぎただろうか。バレンタインのプレゼントだと伝えてもいなかったと思い出し、やってしまったと密かに息を吐いた。
「今日、バレンタインデーだろ。元々誕生日プレゼントにしようかと思ってたやつだったけど、チョコ代わりにいいかなって持ってきたんだよ」
「え……」
一瞬不思議そうに目を瞬いた彼女は、次の瞬間には泣きそうに顔を顰めて持っていた鞄を漁り始めた。そして中から手のひらサイズの袋を取り出した。
「これっ!」
押し付けられるような形で袋を渡される。可愛らしいピンク色のリボンの巻かれた透明な袋の中には、少し形の崩れたチョコレートやクッキーが入っていた。
明らかに手作りのお菓子に目を瞬く。昨日食べたと言っていたはずなのに、いつ作ったのだろうか。
「ハッピーバレンタイン。驚かそうと思って必死に忘れたとか頭の中で考えてたのに、全然うまくいかなかった」
俯きがちに彼女が言う。何故そんな反応をするのだろうか。訳も分からず手にしたバレンタインのプレゼントを見ていると、泣きそうな彼女の聲が聞こえてきた。
――どうしよう。変なことを考えてたから、私のお誕生日に一緒に過ごしてもらえなくなっちゃった。このまま嫌われちゃったりとかするのかな……。
予想もしていなかった聲に硬直する。嫌うはずなどないのに、彼女は何を考えているのだろうか。
思わず溜息を吐く。びくりと肩を揺らす彼女は、今にも泣き出してしまいそうだ。
「馬鹿なことを考えるのを止めろ。それを覚る俺の気持ちにもなれ」
「でも……」
「まず、俺がお前を嫌いになる訳はないし、お前の誕生日は一か月も先だろうが。その時には別のプレゼントを用意してちゃんと祝ってやるから、それ以上嫌われたくないとか繰り返すな」
手を伸ばして彼女の頭を撫でる。それだけで泣きそうだった顔がふわりとした笑みに変わった。
頭を撫でていた手を取られ、繋がれる。そのまま軽く手を引かれ、隣に並んで歩き出した。
「今日はどこに行くんだ?」
「公園、とかかな。一応味見はしたから大丈夫だとは思うんだけど、チョコとクッキーの感想が聞きたいから」
何気ない振りをしているが、味の感想が気になって仕方がないのだというのが態度から分かる。
相変わらず分かりやすい。堪え切れなかった笑みが浮かんで、袋を見た。
「正直な感想しか言わないから、覚悟しとけよ」
そう言いながら、きゅっと繋いだ手を握る。
素直になれない自分も相変わらずだ。
本当は自分のために作ってくれたお菓子を食べるのがもったいないと思っていることを、いつ彼女に言えるだろうか。
20260214 『バレンタイン』
待って。
その一言が言えなかった。
伸ばしかけた手を握り締め、唇を噛んで俯く。
――待ってて。
いつも言われる言葉。重く苦しいだけの呪い。
後ろを振り向くことのない彼は、気づくことはないのだろう。
待つことの苦しさを、不安を。待たせる側はいつだって気づくことはないのだ。
小さく息を吐いた。
顔を上げれば、彼の姿はもうどこにも見えない。いつもと変わらないこと。そしてこれからも変わることはないのだろう。
潮時なのかもしれない。
待つのは嫌いではなかったはずだった。それなのに、今は彼の姿が見えなくなるだけで息がし難くなっていく。
まるで浜に打ち上げられた魚だ。彼という波がなければ呼吸もままならない。
ぽつり。
不意に雨の滴が頬を濡らした。
見上げた空は、黒い雲に覆われている。見ているうちに、ぽつり、ぽつ、と大粒の雨が落ちてくる。
視線を下ろし、手にしていた傘を広げ差した。
途端にざあざあと勢いを増す雨に隠れるように、踵を返す。
待ってて。
その言葉を振り切るように、歩き出す。
もう待たない。会うこともこれきりにしよう。潮が満ちるのを待ち続けては、いつか呼吸ができずに死んでしまう。
傘を差し、俯きながら歩いていく。
お気に入りの長靴が、傘の中で降る雨の滴に濡れていた。
会わないと決めてしまえば、幾分か呼吸が楽になった気がした。
日常の中に、彼がいないだけ。最初は苦しかったそれも、次第に慣れて何も感じなくなっていく。
天気予報は今日も快晴。バターを塗った食パンを齧りながら、テレビに映る晴れのマークを見るともなしに見ていた。
彼を待たなかったあの日、夜中に土砂降りの大雨が降った後は雨は降っていない。窓越しに見える澄んだ青空に、今日はどこに行こうかとぼんやり考える。
公園を気ままに散歩してみようか。街に行ってお店を見て回るのでもいい。
それとも今日は、家の中でゆっくり過ごそうか。
一日の予定をいろいろと考えながら食べ終わった皿を片付け、洗い物を済ませていく。
込み上げる寂しさも、じくじくとした胸の痛みも、もう少しすれば気にもならなくなるはずだ。忘れてしまえば、最初からなかったことと同じになる。
呪文のように何度も自分に言い聞かせて、痛みを吐き出すように深く息を吐いた。
不意に玄関のチャイムが鳴った。
「誰だろ?」
首を傾げながら玄関に向かう。心当たりのない来客に、押し売りだったら嫌だなと少し眉が寄った。
「どちらさまですか?」
玄関越しに声をかけるが返事はない。
誰だろうか。どうすればいいのか分からず立ち竦んでいると、微かに音が聞こえた気がした。
そっと扉に近づき、耳を澄ませる。聞こえた啜り泣く声に、咄嗟に扉を開けていた。
「何で……」
呆然と呟く。伸ばされた腕に引き寄せられ、強く抱きしめられても何も反応ができない。
どうして。何で。疑問がぐるぐると頭の中で回り、体が凍り付いたように動かない。
「――のに」
啜り泣きの合間に聞こえた声に、のろのろと顔を上げる。泣き腫らした赤い目と視線が合って、ずきりと胸の痛みを覚えた。
「待っててって、言ったのに」
泣きながら彼は言う。そのか細い声の響きを、どこかで聞いたことがあるような気がした。
幼い頃、よく聞いていたように思う。腕を伸ばし、滔々と流れ落ちる彼の涙を拭いながら記憶を巡らせる。
確かあの時もよく彼は泣いていた。その涙を止めたくて、約束したのではなかっただろうか。
「待ってるって言ったのに。ちゃんとここにいるよ、置いていかないよって、いつも待っててくれたのに」
「あ……」
涙を拭う手を取られ、彼は小指を絡ませた。
その瞬間、思い出す。行きたくない、置いていかれたくないとぐずる彼に、小指を差し出して約束したのは自分だった。
空を見上げる。晴れ渡る空には雨の気配はない。もう何日も雨は降っていなかった。
「雨を……」
「やだ。もう行かない。離れたくない」
しがみつくように抱き込まれ、息が詰まる。小指が絡んだままの手を解いて彼の胸を叩いて訴えれば、ほんの少し腕の力が緩みほっと息を吐いた。
けれど相変わらず彼が離れていく様子はない。約束を忘れて待たなかった選択を後悔しながら、もう一度彼の頬を伝う涙を拭ってみる。
「ごめん」
彼の目を見ながら謝る。
「約束を忘れてた。だから段々待つのが苦しくなってたの」
一度言葉にしてしまえば、もう止まらない。言いたくて、でも言えなかった思いをぶつけるように言葉が次々と溢れてくる。
「本当は待ってって言いたかった。待っててって言われる度に何も言えなくて、それがとっても寂しかった」
彼は何も言わない。涙はいつの間にか止まり、静かに話を聞いている。
ずっとこのままなら、苦しくも寂しくもないのだろう。ふとそんな滑稽なことを考えてみる。
ただの夢物語。なんだか可笑しくなってきて、小さく笑いながら彼の胸を押した。
「でももう大丈夫。約束を思い出したから、今度はちゃんと待てるよ。だからいってらっしゃい」
けれど彼は離れない。
どうすれば分かってもらえるだろうか。戸惑いながら空を見上げた瞬間、視界が暗転した。
「え……?」
見えない不安に、咄嗟に彼にしがみつく。体の感覚がおかしくなっているのか、やけに体が軽く感じられた。
まるでふわふわとどこかを漂っているみたいだ。それが怖くてさらに強くしがみつけば、彼が小さく笑う気配がした。
「大丈夫。もう目を開けてもいいよ」
言われて、いつの間にか目を閉じていたことに気づいた。だから目の前が暗くなったのだろうか。
そんなことを考えながら、恐る恐る目を開ける。何度か瞬きをして辺りを見回せば、そこは一面真っ白な世界だった。
正確には白というよりも灰色だろうか。困惑して彼を見れば、さっきまでとは違い上機嫌でどこかに向かって進んでいく。
「離れるのは嫌だしね……最初からこうして一緒に行けばよかった」
何も分からない自分を置き去りに、彼はどこまでも進んで行く。鼻歌でも歌い出しそうなほど楽しげで、戸惑うばかりの自分のことなど見えていないようだ。
思わず溜息を吐く。もう一度辺りを見るが、灰色の世界に変化はない。
そっと手を伸ばしてみる。灰色に飲み込まれていく手と触れる冷たい水の感覚に、もう一度溜息が溢れ落ちた。
湿った空気の流れを感じる。よく目を凝らせば、灰色の奥から光が差し込んでいるのが分かる。
ここは雨雲の中だ。
そう理解して、彼の頬に手を伸ばし力任せに抓る。
「痛っ!何、急に」
「急にはこっちのセリフ。待ってるって言ったのに」
「だってもう待たせるのは嫌だし。離れたくないし」
子供のような言い訳に、何度目かの溜息が漏れる。
文句を言いたいが、そうさせたのは自分なのだからあまり強く言うこともできない。
彼に支えられているとはいえ、雲の中にいるという不安が落ち着かなくさせる。きゅっと彼の服を握り締めると、彼が笑う声がした。
――待ってて。絶対に待っててね。ちゃんとここにいてね。
ふと思い出す。彼の最初の待っててという言葉を。
泣きながら何度も繰り返していた。その時の不安そうな声の響きが、さっきの言葉と重なって、ふふと笑みが浮かぶ。
幼い頃、初めて会った時から彼は変わらない。人一倍寂しがりやで泣き虫な、頑固者。
きっとこれから先も、雨が降る時にはこうして連れて行かれることになるのだろう。なるべく早く、彼と自分を安心させる案を考えなければ。
梅雨時が来たら、四六時中彼に連れまわされる未来を予想して、笑みが引きつった。
何があるだろうか。どうすれば待っててという言葉に不安を覚えなくなるだろうか。
考えて、一つだけ思いつく。思いついて、頬が熱くなるのを感じた。
待つ場所を家にすれば。戻ってくる場所を、帰る場所にしてしまえば。
ちらりと彼を見る。上機嫌な彼はまだこちらには気づいていない。
彼はどんな反応をするだろうか。不安と期待を抱きながら、一つ深呼吸をする。
「どうしたの?」
気づいた彼がこちらを向く。
恥ずかしい。けれど言いたい。
もう一度深呼吸をして、彼の服を握り締める。
そして、ゆっくりと口を開いた。
20260213 『待ってて』