sairo

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目を開けると、目の前に黒の大きな毛玉があった。
そっと手を伸ばし触れてみる。固めの毛の感触とじんわりとした温もりに惹かれ、そのまま顔を埋めた。
温かい。陽の匂いがして、深く吸い込んでみる。遠い昔、自由に野を駆けていた記憶が巡り、懐かしさに吐息を溢した。

「なんだ、まだ朝は先だぞ。もう少し眠ってろ」

もぞりと毛玉が動き、黒い狐がこちらを向く。眠そうに欠伸をして、それにつられて同じように欠伸が漏れた。
まだ朝は先なのか。窓のないこの部屋では外の様子は分からない。だが彼が言うのだから間違いはないと、小さく丸まり目を閉じた。

「今日は冷えるな。こっちに来い」

そう言いながら抱き込まれ、瞬きの間に彼の腕の中にいた。一瞬のことに驚くものの、暖かさにすぐに瞼が落ちてしまう。
まだ朝ではない。ならば、彼が言うようにもう一度眠ってしまってもいいのだろう。
途端に意識が微睡むが、物足りなさに気づいて瞼をこじ開けた。
暗い室内を見回す。彼と自分以外に気配はない。
もう一匹、白い狐はどこにいるのだろう。
不安が込み上げ体を起こそうとするも、抑え込まれて起き上がることができない。

「こら、起きるな」
「だって」
「あいつなら、朝飯を狩りに行ってる。戻ってきた時におまえが起きてると怒られるのはおれなんだ。おとなしく寝てろ」

ぶっきらぼうな言葉だが抱き込む力も、宥めるような毛繕いの仕草も優しい。
彼は昔からそうだった。冷たく見えて、実は誰よりも優しい狐。領地争いをしていた時から、きっと変わっていない。
促されて、おとなしく目を閉じる。温もりに包まれてすぐに意識は夢の中へと落ちていった。





吹き抜ける風の匂いを感じ、目を開けた。
見上げる空は快晴。どこまでも続く草原を、柔らかな風が駆け抜けていく。
風に乗って、微かに花の匂いを感じた。誘われるように前足を踏み出し、風を追って駆け出す。
体が軽い。今ならばどこまでも行けそうで、次第に速度が上がっていく。力強く後ろ足で地を蹴れば、空も飛べそうな気がして高く鳴いた。
空を飛ぶ自分を想像する。そうすれば自分の姿が揺らぎ、三色の羽を持つ鳥に代わっていく。大きく翼を広げ陽を目指して飛べば、たちまち草原が遠くなる。
今の自分は誰よりも自由だ。好きな所に行き、好きなことができる。人間も妖も関係なく、ただ自分としてここに在る。

ふと見下ろせば、かつての自分の領地が見えた。のどかに行きかう人々に、ほんの僅か、悪戯心が芽生えた。
また観音菩薩となってみようか。そうしたら人間はどんな反応を見せてくれるのだろうか。
けれどそれもすぐに消え、領地の先、彼らとの約束の場所へと大きく羽ばたいた。
小さく見える二匹の狐の姿。白い三本の尾を持つ狐と、黒い尾のない狐。誰よりも優しく、誰よりも心配性な二匹の元へと、さらに速度を上げて向かっていく。
姿が揺らぎ、元の狐に戻る。後ろ足の感覚はない。このまま落ちれば二度と草原を駆け抜けることはないのだろう。
それでも構わなかった。自由な一匹で在るよりも、不自由でも二匹と一人でいたい。
二匹の腕の中へと落ちていく。再び姿が揺らぎ、今の自分に戻って強く二匹にしがみついた。

「おかえり」

二匹が笑う。頭を撫でるその手に擦り寄り、同じように笑顔を浮かべる。

「ただいま!」

今の自分は、きっと誰よりも幸せだった。






柔らかな日差しに、目が覚めた。

「あぁ、起きたんだ。おはよう」

気づけば、人間の姿を取った白い狐の腕に抱きかかえられていた。どこかに向かっているのか、ゆったりとした歩みに合わせ、心地の良い振動が伝わってくる。
まだ重い瞼を開け、目を瞬く。視線を巡らせれば、隣にいた同じように人間の姿を取った黒い狐と目が合った。

「ようやく起きたか。いい夢でも見てたみたいだな。ふにゃふにゃ笑って、涎まで垂らしてたぞ」
「どんな夢を見てたんだい?」

問われて、夢の内容を思い出す。
懐かしい夢を見ていた。彼らと同じ、妖だった頃の自由な過去の名残。
懐かしくはあるけれども未練はない。こうして人間として不自由に生きていくことに、幸せすら感じるのだから。

「お前たちが誰よりも優しくて、心配性だった夢、かな」
「なんじゃそりゃ」
「人間を化かして饅頭を貰わなくても、ここにいるだけで美味い菓子が出てくるってことだ」

眉を寄せる黒い狐に小さく声を上げて笑う。そんな自分を見て、白い狐は呆れたように息を吐いた。

「誰よりも優しくて心配性なのは、お前だろう?でなければ、俺は退治されたお前をこうして別の形で留めようとは思わなかったよ」
「そうだよな。おせっかいで、悪戯好きで、誰よりも寂しがりの食いしん坊だったから、離れていくのは惜しいと思ったんだ」

好き勝手に言う二匹から視線を逸らす。文句の一つでも言いたいが、それより赤くなっているだろう顔を見られたくはなかった。

しばらくして、目的地に着いたのだろう。そっと体を下ろされる。周りを見れば、どこか懐かしい景色が広がっていた。

「今日は暖かいからね。たまには外で朝食にしようかと思って」

広げた敷物の上に、手際よく二匹が準備を整えていく。少し歪な握り飯は黒い狐が握ったのだろうか。そんなことを思いながら、差し出された湯呑みに大人しく口をつけた。

「さて、準備もできたことだし食べようか」

いただきます、の声で、それぞれ食べ始める。

「――美味い」
「だろ。おれが握ったんだから当然だな」

黒い狐が胸を張る。それに適当に頷いて答えながら、白い狐がほぐした魚の身を口にする。相変わらず過保護だが、今更何かを言うことはしない。
ふと、柔らかな風が吹き抜けた。顔を上げれば、雲ひとつない晴天が広がっている。
あぁ、そういえば。夢で見た空も同じだったと思い出した。

「どうしたの?」
「鳥に化けて飛んだ夢の空は、どうやらここだったらしい」

目を細め、笑みを浮かべた。
やはり自分にはこの空よりも、二匹の側の方が向いている。
そんなことを思っていれば、急に黒い狐に抱えられ膝に乗せられた。手には新しい握り飯を渡され、腹を抱えられる。

「黒羽《くろは》?」

名を呼ぶが、答えはない。仕方なしに握り飯に齧り付き、文句と共に飲み込んだ。

「白花《しらはな》?」
「それじゃあ、他のおかずに手が伸びないからね。特別だよ」

そう言いながら、白い狐は魚の身を箸で目の前に運んだ。食べさせられることに、流石に何か言わなければと口を開くが、その前に口の中に魚を入れられてしまう。
眉を寄せながら、咀嚼する。二匹の狐を交互に見て、込み上げる不満はするすると萎んでいった。

「誰よりも寂しがりなのは、お前たちもじゃあないか」

笑うのに失敗して泣きそうに歪んだ顔。呆れたような、それでいて泣きたいほどに嬉しいような気持ちに胸が苦しくなる。
誤魔化すように握り飯に齧り付く。口元に運ばれる魚や野菜を受け入れ、腹を満たしていく。
結局、自分たちは似た者同士なのだろう。込み上げる笑いを噛み殺し、差し出された茶を啜った。

二匹の側は心地が良い。
食事が終わり、微睡む意識の中思う。
だが、もう少しだけ何も語らないでおこう。自分の何気ない言葉で一喜一憂する二匹を見ているのも悪くない。
人間を揶揄っていた時よりよほど楽しいことだと、二匹に囲まれ寄り添いながら穏やかに眠りについた。



20260216 『誰よりも』

2/17/2026, 9:44:32 AM