――誰かのお気に入りになるのは、とても怖いこと。
学校で囁かれる噂話。お気に入りになってはいけない誰かの正体も、怖いこととは具体的に何なのかも分からない。
ただ、誰もがその噂を信じているかのように目立たず、型にはまったように個性を殺して過ごしていた。
「早く帰りなさい。――様のお気に入りになってしまうよ」
教室で一人、何をするでもなくぼんやり残っていれば、見回りに来た先生にそう忠告される。
誰のお気に入りになるのか、やはり分からない。皆のいう誰かの名は、自分にはいつも雑音にしか聞こえなかった。
それは自分がよそ者だからだろうか。引っ越してきてから半年は過ぎているが、未だに友達の一人も作れてはいない。
誰かのお気に入りになることの怖さも、きっとよそ者だから理解できないのだろう。
「お気に入りになってはいけないの?」
「お気に入りになると、とても怖いことになるからね」
先生はそれだけを言って去ってしまう。呼び止めることもできず、溜息を吐くと鞄を手に立ち上がった。
時計を見るが、まだ五時を過ぎたばかりだ。立春も過ぎ、陽が伸びてきているために窓の外はまだ明るい。
もう一度溜息を吐いた。帰った所で、両親は仕事で家にはいない。一人きりの家に帰る憂鬱に、足を引き摺るようにのろのろと教室の外へ向かい歩いていく。
廊下はしんと静まり返り、辺りは人影すら見えない。
皆、部活終わりの五時にすぐさま下校してしまったのだ。残っているのは先生たちと自分くらいなものだろう。
込み上げる寂しさに、慌てて頭を振り昇降口に向かう。家でも学校でも一人なのには慣れてしまったと思っているが、誰もいない学校の不気味さをも受け入れられるわけではない。急いで靴を履き替え、外へと駆け出した。
「今日はどうしようかな」
呟きながらも、足は自然と小さな神社へと向かっていた。
無人の寂れた神社。引っ越して一週間ほど過ぎた時に見つけた、自分だけの秘密の場所。
社の前に僅かに残る雪を掃き、上り口に座る。ここでも一人には違いがないが、何故か他で感じる寂しさや空しさはなく、温かな何かに包まれているような柔らかな空気が好きだった。
ぼんやりと空を見上げ、暗くなっていく空に瞬き出す星を数えていく。今日あった色々なことを思い返し、何も変わらない日々に無意識に眉を寄せていた。
「早く帰った方がいいよ」
ふと声がした。
この神社で初めて聞く自分以外の声。視線を下ろして声のした方を向けば、自分とさほど年の変わらぬ少女がこちらを見て首を傾げていた。
見覚えのない少女だ。さほど生徒数の多くない学校内で見たことはない。
「帰った方がいいよ」
繰り返される言葉に眉を顰めた。
理由もなく突然帰れと言われても、納得ができない。学校で感じていた不満をぶつけるように、少女を睨み疑問を口にする。
「どうして帰らないといけないの?」
「だって、お気に入りにはなりたくないのでしょう?」
「どうしてお気に入りになってはいけないの?」
問い返せば、少女は首を傾げたまま不思議そうに目を瞬いた。そして視線を彷徨わせ、おずおずと近づいてくる。
まるで野生の小動物のようだ。少し前までの嫌な気持ちが萎んで、微かに笑みが浮かぶ。
「お気に入りになるのが怖くはないの?」
「怖いことが何か分からないから、怖がりようがない」
「変な子ね。普通は皆、怖がるものなのに」
すぐ側まで近づいた少女が、そっと手を差し出した。その手に自分の手を重ね、繋ぐ。
その瞬間脳裏を過ぎていったのは、おそらくこの神社の過去なのだろう。
いくつもの映像が流れていく。自分よりも年下の、あるいは同い年くらいの少女や少年が、一人社の前で祈っている。ゆっくりと開く社の中へ足を踏み入れ、扉が閉じた後は二度と出てくることはない。
「お気に入りだって誰かに思われたらね、ここから出してもらえなくなるの。それってとても怖いことでしょう?」
映像が消えていく。目を瞬き、どこか夢見心地な意識で、離れようとする手を無意識に繋ぎ留めていた。
「大人たちに見つかるのは、確かに怖い。でも」
少女を見つめる。戸惑いおろおろと繋いだ手とこちらを見つめる少女に笑ってみせた。
「友達になりたいなって思う気持ちは、怖いものではないよね」
「え……?」
「私、あなたと友達になりたい」
流れてきた映像の片隅にいた、一人ぼっちの少女。社に入っていく子たちの背を見ながら、悲しげに目を伏せていたのが忘れられなかった。
「駄目?」
「駄目じゃ、ない。でも……友達ってお気に入りってことにならないのかな?」
「じゃあ、秘密にすればいい。私とあなただけの秘密」
不安そうな少女の手を包み込み、目を見つめてはっきりと告げる。小さく息を呑んだ少女は、やがてふわりと微笑んだ。
「秘密ね。それってとっても特別……わたし、ようやく本当のお気に入りができたのね」
包み込んだ手を引かれ、抱き着かれた。嬉しそうに擦り寄って、鼻をひくつかせる。
少女から伸びる、二つのしなやかな尻尾が体に絡みつきこそばゆい。思わず身じろぐが尻尾は少しも解ける様子はなく、逆にさらに強く絡みついてきてしまった。
「あなた、外から来た人間なのね。それに、微かにだけどわたしと同じ匂いがする」
少女に指摘され、そういえばと思い出す。自分の祖先は海外から来た猫と人の間に生まれたという話を。
ただのおとぎ話だと思っていた。けれど少女が言うのだから、それは本当のことだったらしい。
「あなたはわたしのお気に入りで友達だもの。特別な加護を上げるからね」
「それよりも、友達なんだから一緒に遊びたいな」
「欲のない人間ね。それなら、好きなだけ遊びましょうか」
手を引かれ、いつの間にか戸が開いていた社の中へと入っていく。一瞬の眩暈の後、暗闇が散って目の前が一面の花畑へと変わっていた。
「さぁ、行きましょう」
少女と共に花畑を駆け出した。甘い匂いに目を細め、少女と二人花畑に倒れ込む。
顔を見合わせ、お互いにくすくすと笑う。久しぶりに心から笑えた気がした。
ごろりと仰向けになり、空を見る。雲一つない青空が心地よい。
ちらりと横目で見た少女は、白い二股の尻尾の猫の姿で丸くなり眠っている。彼女を真似するように丸くなり、ゆっくりと目を閉じていく。
眠りに落ちる一瞬前、この社の中に入っていった子たちのことが頭に浮かんだ。
あの子たちはどこに行ったのだろう。大人たちに少女のお気に入りだと決めつけられ、社の中に押し込められた子たち。この花畑のどこにも気配を感じない。
けれどそんな疑問もすぐに解けて消えていく。
眠る少女に擦り寄られ、その温もりに何も考えられなくなっていく。
どこまでも深い夢の世界へと、少女と二人落ちて行った。
20260217 『お気に入り』
2/18/2026, 3:08:36 PM