sairo

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1/18/2026, 7:13:45 AM

過ぎる凍てついた風に、身を震わせた。
くしゅん、とくしゃみをひとつ。身に染みる寒さに、足早に街路樹を抜けていく。

「寒い」

思わず呟いた。口にすることで、余計に寒さが増した気がして眉が寄る。溜息一つでさえ今は熱を奪っていくようで、白いマフラーに顔を埋める。俯き身を縮めながら、只管に家路を急いだ。



「おかえり。早かったね」

こたつに入り、みかんを剝きつつ姉は笑う。

「ただいま」

それに少しばかり拍子抜けしながら、おざなりに挨拶をしてこたつの中に入り込んだ。
暖かい。足元からじんわりと熱が伝わり、体の力が抜けていく。

「どうしたの?随分疲れているみたい」
「別に……ただ、今日は寒かった」

足だけでは足りず、温もりを求めてこたつの中に潜り込む。
不思議そうに問いかけられ、感じた寒さを訴える。目を瞬いた姉は窓の外に視線を向け、あぁ、と小さく声を上げた。

「木枯らしか」
「木枯らし?」

眉を寄せ、窓の外を見る。枯れた木々には葉が一枚も残ってはおらず、枝には僅かに雪が積もっていた。
年が明けて、一月も経っていないのだから当然だ。春はまだ遠く、況して木枯らしが吹く晩秋はとうに過ぎ去ってしまった。

「玉風じゃないの?」
「木枯らしだよ……きっとどこかに残っていた秋を見つけて、冬が奪い去っていったんだね」

目を細めて呟く姉は、どこか切なげだ。もぞもぞと体を起こし、姉と同じ目線で窓の外を見る。
外では枯れた木々の枝を、風が揺らしている。積もる雪を散らし、まるで何かを探しているようにも見えた。
秋を奪い去る冬。荒れる風と、枯れて何も残っていないはずの木々。
まだ残っているのだろうか。一つ残さず見つけ出そうとする冬を思い浮かべ、その執着にふるりと肩を震わせた。

「何だか、恐ろしい」
「確かにね。春を迎えるためには必要なことではあるのだけれど」

こたつの上のみかんに手を伸ばし、姉は小さく息を吐く。

「残っている秋は、去年のものだから。新しい年の、新しい春には必要ないからね」

そういうものなのか。姉のようにみかんを手に取り、皮を剥きながら考えた。
去年。そして今年。何もかもが変わらないように見えるが、やはり何かは違っているのだろう。
皮の剥かれたみかん。一房食べれば瑞々しい甘さが口に広がっていく。口元を緩めながら、このみかんは去年育ったみかんだな、と取り留めのないことを思った。
かたん、と窓が鳴る。視線を向ければ、外では変わらず風が木々を揺らすほど強く吹いていた。

「荒れてるね」
「そうね。きっとまだ全部見つかってないのでしょうね」

こたつで姉と二人、黙々とみかんを食べる。
ふと、喉の渇きを覚えた。名残惜しげにこたつを出て、台所へと向かう。

ひやりとした床や空気が、容赦なく熱を奪っていく。ふるりと肩を震わせ、手早くやかんに水を入れ火にかけた。
湯が沸く間に湯飲みや急須、茶筒を盆に乗せる。甲高いやかんの音を合図に、火を止めた。
不意に、冷たい風が吹き抜けた。誰かの視線を感じて振り返れば、いつの間に戻ってきていたのか、兄が台所の入口に佇んでいた。

「あ、おかえり」
「ただいま」

僅かに目を細めて微笑み、兄が台所に入ってくる。外から帰って来たばかりの兄の周囲は、まだ外の冷えた空気が残っているような気がした。

「お仕事はもう終わり?」
「あぁ。今日は終いにした」
「そう」

湯飲みを一つ新たに盆に乗せ、沸かした湯を保温ポットに入れる。茶請けも必要かと戸棚に視線を向ければ、兄が察して茶請けを取り出し盆に乗せて台所を出て行った。
ポットを持って後に続く。兄のいた場所はどこか冷えていて、吐き出した息がうっすらと白くなるのに、また小さく体を震わせた。


「今日は早かったのね」

こたつに置かれた茶請けに早速手を伸ばしながら、姉は首を傾げて問いかけた。
兄は肩を竦めるだけで何も答えない。黙々と茶を淹れて、姉の前へ湯飲みを置いた。
同じように目の前に湯飲みを置かれ、そっと手を伸ばす。湯飲みから伝わる熱で冷えていた手を温めながら、湯飲みを覗き込んだ。

「あ、茶柱」
「相変わらず、お茶を淹れるのが上手よね」

くすくすと姉は笑う。それに同意しながら、湯気に息を吹きかけた。
湯呑みに口をつける。まだ冷めていない茶の熱さに舌が痛むが、それが気にならないほどの美味しさに笑みが浮かぶ。誰かといるぬくもりと幸せに、段々と意識が微睡んでいく。

「寝ちゃいそうね。じゃあ、ちょっと早いけど、夕ご飯の支度をしてくるわ」

優しく頭を撫でられる感覚。離れていく姉の気配に、手伝いをしなければと閉じかけている目を擦る。

「今日は鍋だから、それまで寝てなさい」

姉の声が遠くなり、肩を抱かれ、そのまま横になる。薄く目を開ければ、膝枕をする兄と目が合った。

「寝ていろ。そう言われただろう」

大きな手が、目を塞ぐ。暗闇と冷たさに、ほぅ、と吐息が溢れ落ちた。
いつの間にか、風が止んでいる。何故かそれが気になって、目を塞ぐ兄の手に触れた。

「木枯らしは止んだの?残っていた秋は見つかった?」
「何だ、それは」
「だって……秋が残ると、春が……」

頭を撫でられる。冷たい手に、浮かんだ疑問が消えていく。

「担がれたのだろう。秋が残るなどあり得ない……冬が秋を置いていくことなどないのだから」

声が遠い。疑問も、記憶も、何もかも遠くなって、どこまでも沈んでいく。

そういえば。
眠りに抗うように、疑問が込み上げる。

兄と姉。家族であるはずの二人の名は、何だっただろうか。
本当に彼らは自分の家族だっただろうか。

両親の顔を、自分の名さえ、思い出せない。

「眠れ。心配せずともここにいよう。一人でないのだから、泣くことはないだろう」

意識が沈む。
思い出せないことすら忘れて、暖かな眠りへと落ちていく。

かたん、と風が窓を揺らす。
冬に移り変わる前の、秋の風が呼んでいる。

けれどもう、冬の腕の中の自分には。
その呼び声は聞こえなかった。



20260117 『木枯らし』

1/17/2026, 2:12:23 PM

獣に似た鳴き声が、夜の街に響く。
藁蓑を纏い俵を背負った影。足を擦り、ふらつきながら歩くのは、小さな靴が見え隠れする俵の中身が原因だろうか。
異形の面の奥に見える目が、一軒の家へと向けられる。手にした切り刃《きりは》を握り、ゆっくりと歩み寄っていく。

「すごい。迫力が違う」

目を輝かせ、睦月《むつき》は燈里《あかり》の服の裾を握り締めながら呟いた。

「そうだね。来訪神は豊穣や幸福をもたらしてくれる神様だけど、怠ける人を戒める存在でもあるからね。あれくらいの怖さがあると、子供たちに響くだろうな」

睦月の頭を撫で、燈里は微笑んだ。
荒々しく戸を叩く音に、燈里はカメラを構えた。レンズの向こう側、鍵のかけられていない引き戸を開けて来訪神たちが切り刃を構え、家の中に入り込む。

「泣ぐわらしはいねがぁ!」

響く来訪神の声。遅れて泣きわめく子供の声が聞こえて、睦月はびくりと肩を震わせた。
手に力が籠り、服に皺を作っていく。

「わたし、ここの来訪神が家に来たら、燈里ねぇの背中に隠れて泣いてしまいそう」
「睦月はいい子だから、大丈夫だよ」

ふふ、と燈里は小さく笑い声を上げ、服を掴む睦月の手を繋ぐ。伝わる手のぬくもりが戻ってきたことを伝え、それだけで泣きたいほどに嬉しくなった。



地蔵菩薩が消えた後。家に戻った燈里たちは、睦月と遅くまで語り合った。
両親が事故で亡くなったこと。ヒガタと、ヒガタに連れていかれた子供たちの夢を見るようになったこと。
夢の中のヒガタは、子供たちに優しかったのだという。あの欅の根元で、ヒガタはついてきた子供に寄り添っていた。何も語らず、けれど子供たちの終わりを酷く悲しんでいるように見えたと睦月は語る。

「顔は見えなかったけれど、とっても寂しそうだったのよ。誰もいなくなってしまった木の下で、ヒガタの隣に座っているとね、時々村から声が聞こえるの。苦しい、悲しい、痛い……わたしの声も聞こえたわ。あれはきっと、心の声だったのね」

燈里の隣で、睦月は静かに笑う。

「その声が強く聞こえるとね、ヒガタは山を下りるの。そしてヒガタを見た泣けない子供はね、ヒガタについていくのよ」
「その子たちはもしかしたら、感情が削がれた子供はヒガタに連れていかれる認識ではなく、ヒガタの中の地蔵菩薩に救いを見たからついていったのかもしれないね」
「救い?」

首を傾げる睦月の頭を撫で、燈里は優しく呟いた。

「そう。地蔵菩薩は人々を救い、導いてくれる存在だから」

ぱちん、と火が爆ぜた。
囲炉裏を囲み、揺れる火を見つめる。ややあって、今まで黙って話を聞いていた冬玄《とうげん》が、小さく息を吐いた。

「あれにとって、子供がついてくることは呪いでしかなかった」
「冬玄?」
「往生のために生きてほしいと、あれは願い続けていた。だからこそ山を下りる来訪神と習合してまで、声の元へと向かった……尤も、その願いは叶うことはなく、残された言葉を誰かに託す日が来るまで守り続けることしかできなかったがな」

障子戸に視線を向ける冬玄を見て、楓《かえで》は茶を啜りながら苦笑する。

「泣かない子供の認識が呪いとなり、だけど呪われた子供にとっては救いとなった……皮肉な話だね」

茶請けの金平糖をいくつか取り、手のひらで転がしながら楓は呟く。

「生きているのに、生きてはいけないという感覚も、残された側の感情も、僕には分からないな……燈里と同じものが見えても、それだけは分からなかった」
「俺もだ。人間の心など、妖である俺らには分かりようがない……だが、分かる時が来るのかもしれないな」

緩く頭を振り、冬玄は燈里を見つめた。楓は手のひらの金平糖を握り締め、静かに口を開く。

「ならば、その時の傷を深くしないためにも、後悔のない選択をしないといけないよ」
「――そうだな」

楓の言葉に、冬玄は淡く笑みを浮かべた。
眠そうに目を擦る睦月の頭を膝に乗せながら話を聞いていた燈里の傍らに寄り、冬玄は静かに燈里の名を呼んだ。

「燈里」
「どうしたの?冬玄」
「――戻ったら、指輪を贈らせてくれ」

息を呑み、泣くのを耐える燈里の手を取り、冬玄は祈るように目を閉じた。



「燈里ねぇ。どうしたの?」

立ち止まったままの燈里を心配し、睦月が声をかける。それに燈里は何でもないと首を振り、さりげなく自身の指に視線を落とす。
翌朝。燈里たちは源護《げんご》の元を訪れ、祖先が元々暮らしていたという港町の話を聞いた。そして来訪神の取材を兼ねて、こうして今その港町を訪れている。
今はまだ何も嵌められていない指に、燈里は本日何度目かの溜息を吐く。家に戻るのが待ち遠しいような、恐ろしいような、そんな相反する気持ちに昨夜はあまり眠れなかった。

「大丈夫?」
「大丈夫。何でもないよ……それよりも、本当に良かったの?私たちと一緒に来るのは不安じゃない?」

話を逸らす燈里に、だが睦月は気にすることなく首を振る。

「ううん。燈里ねぇたちと一緒にいたかったから、全然平気……燈里ねぇの方こそ、本当にいいの?わたし、燈里ねぇの家に住むの邪魔じゃない?」

不安げに見つめる睦月に、今度は燈里が首を振った。
村を出る際に、燈里は久子《ひさこ》に睦月のことを頼まれた。
両親が亡くなり、それ以来睦月は村から出られなかったらしい。そのため今まで通っていた麓の学校にも通えず、近所の人や久子に対しても、どこか距離を取って暮らしていたようだ。
そんな睦月が、燈里の側から離れようとはしない。それを見て、久子は睦月のためにと何度も燈里に頭を下げたのだった。

「邪魔なんかじゃないよ。私も睦月ちゃんと一緒にいれるのは嬉しいから」
「本当?よかった!」

燈里の言葉に睦月は破顔し、繋いだ手を大きく振る。安堵したように息を吐くのを見て、燈里は繋いだ手をきゅっと握りしめた。

「泣ぐわらしはいねがぁ!」

家々を巡り終えたのだろう。数人の来訪神が燈里たちを取り囲み、切り刃を手に声をかける。睦月は燈里の腕にしがみつきながらも、来訪神たちを見つめ声を上げた。

「泣かないよ!でも、燈里ねぇがいるから、ちゃんと泣けるようになったのよ!」

何人かの来訪神から、息を呑む音が聞こえた。睦月の言葉の裏に潜む、深い悲しみに気づいたのだろう。

「そうか。泣ぐことさ、できるようになったか。良がった、良がった」
「姉ちゃんさ、大事にな。無理すんでねぇぞ」

切り刃を持たない方の手で、来訪神たちが睦月の頭を撫でる。その力強さに体をふらつかせながら、睦月はあ、と小さく声を上げた。

「どうした?」
「泣く子はいないけど、怠け者《かばねやみ》はいるよ!ぐずらもずらして、ずっと燈里ねぇのこと、待たせてるの!」

睦月が指差す方には、離れて燈里たちの様子を伺う冬玄と楓の姿があった。気を利かせて離れていた冬玄は、突然に指をさされ眉を寄せる。
睦月の言葉で大方の理解はしたらしい来訪神が、切り刃を掲げ、冬玄の元へと歩み寄る。戸惑う冬玄を囲み、どこか楽しげに声を上げた。

「あんちゃん。あんな別嬪さんを待たせんのはよくねぇべ」
「おい、何を言って……」
「さっさと捕まえとかんと、よその男さにかっさらわれちまうぞ」
「確かに。いつまでも待たせて、ようやく指輪の話が出てくるようなのより、身持ちのしっかりした男の方がいいのかも」
「お前まで何言ってやがる!燈里は誰にもやるつもりはねぇぞ!」

賑やかに騒ぐ冬玄たちを見て燈里は小さく笑うと、カメラを構えて写真を撮る。助けを求めるようにこちらを見る冬玄に手を振って答えていれば、控えめに睦月が服の裾を引っ張った。

「睦月?」
「燈里ねぇ。あそこ……」

冬玄たちとは正反対の方へ、睦月は指を差す。視線を向けて、燈里は思わず息を呑んだ。
そこには、一人の来訪神がいた。獣に似た青い異形の面。割れてはいないその見覚えのある面に、燈里は無意識に居住まいを正し深く礼をする。
隣で同じように頭を下げる睦月を感じながら、ゆっくりと頭を上げる。すでにその場には誰もいない。頭を上げた睦月と目を合わせ、どちらともなく笑みを浮かべた。

「今年は豊かな年になりそう」
「うん。何ていうか、春が来そうな感じがした」

目を細めて、睦月は来訪神がいた場所を見つめた。燈里と手を繋ぎ、ねぇ、と小さく呟いた。

「浜吉のおじちゃんにお願いしたら、村でもう一度来訪神の祭りを行ってくれるかな?」
「そうだね。今度戻る時に頼んでみようか」

村にも実り豊かな春が来るように。笑顔が溢れるように。

「寒くない?そろそろ戻ろうか?」
「手があったかいから平気……それにこうしていると、世界がとてもきらきらしているように見えるの。嫌いだったはずの雪も、とっても綺麗」

ほぅ、と息を吐いた。
白く曇る息すら煌めいて見えて、睦月は微笑む。

「世界って、こんなにも綺麗で、美しいんだね」

心からの笑顔に、言葉に、燈里は答える代わりに睦月を強く抱きしめた。


雪のちらつく、寒い夜。
春はまだ遠い。
けれども繋いだ手には、確かに春の木漏れ日のように柔らかなぬくもりがあった。



20260116 『美しい』

1/16/2026, 11:34:04 AM

「入ってきたものが混ざり合う……来訪神と地蔵菩薩が習合したのか」
「だが完全には混ざりきらなかった。来訪神は泣く子を戒め、春を告げる存在であるのに対し、地蔵とは生者を守護し死者を救済する存在だ。性質が違う」

静かに佇む地蔵菩薩から目を離さず、冬玄《かずとら》は語る。

「この山にある碑が刻まれた地蔵を誰も知らない。無意識にこの場を畏れ、奥まで足を踏み入れることはなかったのだろうからな……作り手の祈りが満ちたここは、人間にとって重いのだろう」

何が、と敢えて言葉にせずとも、地蔵菩薩の存在がそれを示している。
死者の供養。子への想いに満ちて、燈里《あかり》は息苦しさを覚え目を伏せた。

「形を失い消えかけていた所を、山から下りる来訪神の概念を取り込むことで存在を繋ぎとめたって訳か」

息を吐く楓《かえで》の言葉に、燈里は咄嗟に首を振った。

「燈里?」

違う。何故かそう思う。
存在を繋ぎとめるよりも大切なことがあったのだと、感じる思いに燈里は自身の手を強く握り締めた。

「面は割れた。このままここに繋ぎ留めておけば、時間と共に来訪神としての概念は消えていくだろう」

冬玄の声に燈里は息を呑み、視線を向ける。地蔵菩薩に手を向け、冬玄は無感情に告げた。

「地蔵は境界に置かれることで結界の役割もある。繋いでおけば、家に戻る頃には領域も分かたれているだろう」
「待って……!」
「燈里。慈悲を向けるな。そいつを連れて帰るための必要な処置だ」

地蔵菩薩の周りの地面が、ゆっくりと氷に覆われていく。ぱきぱきと小さな音を立て、足元から凍り付いていくのを見ていられず、燈里は泣くように顔を歪めて俯いた。
止めたい、けれども止められない。相反する思いに、込みあがる痛みに、きつく閉じた瞼から一筋滴が溢れ落ちた。

「――言葉を」

不意に腕の中で眠る睦月《むつき》が声を上げた。
驚き、燈里は目を開け睦月を見るが、彼女が起きた様子はない。

「睦月ちゃん?」
「言葉を、残します。前にここを訪れた子たちのように。誰にも届かないと分かっているけれど、届いてほしいと願っているから」

目を閉じたまま、睦月は語る。静かな声に、冬玄は手を止め振り向いた。
眉を寄せ、誰もが無言で睦月の言葉を待つ。

「私の半分が死にました。双子の妹。もう一人の私……あの子がいないのに、生きていけるはずがない。何も感じない。楽しいも、悲しいも、何もかも分からない。私の半分は戻らない。削がれて消えて、残ったのは息をするだけの人形。残り滓……お父さん、お母さん、ごめんなさい。私は一人で生きていけるほど強くない」

ぱきん、と音がした。
振り返れば、下半身が凍りついた地蔵菩薩の手が、こちらに向けて差し出されていた。その手のひらの上には半分に割れた小さな石が乗せられており、ゆっくり砂になり風に飛ばされていく。
何もなくなった手を地蔵菩薩は握る。そうして再び開けば、そこには小さな丸い石が乗せられていた。

「父が、亡くなりました。僕ももう、以前のようには動けない。母さんも、姉さんたちも朝から晩まで働いている。弟妹たちの面倒を見て、僕の世話までしてくれる。それが苦しいのに、悲しいのに、どうしてか泣けない。段々何も感じなくなってくる……どうして、僕が生きているんだろう。何の役にも立たないのに、どうして息をしているんだろう……ごめん、母さん。生きててくれて嬉しいって言ってくれたけど、みんなの負担にはなりたくない。ごめん、みんな。どうか僕のことなんか忘れて、幸せに生きて」

ぱきり、と石が割れる。さらさらと砂になり、静かに消えていく。
地蔵菩薩の手に新たな石が現れる度、睦月は言葉を紡いでいく。誰かが残した言葉を語り終え、役目を終えた石が砕け消えていく。
どれもが哀しい思いだった。失い、苦しみ、信じられず、絶望する。
皆、自身が弱いのだと言った。生きていけないのだと、心で叫びを上げていた。

誰も動かず、何も言わず。
ただ睦月の言葉と、石の割れる音だけが辺りに響いていた。



ぱきん、と石が割れる。
風に乗って砂が消えても、地蔵菩薩は動かず、睦月も何も語らない。

「どうやら、今のが最後だったみたいだね」

詰めていた息を吐き出し、楓はゆるく頭を振る。

「今のは……?」
「ヒガタと共にいった人間たちが残した言葉だ」
「石の記憶のようなものだよ。言葉を刻まずとも、石は思いを記憶するからね」
「最後の、言葉……」

呟いて、燈里は地蔵菩薩に視線を向けた。まるで役目を終えたように沈黙するその姿に何かを言いかけ、口籠る。
力なく目を伏せ、腕の中で眠る睦月を見る。紡がれた言葉を思い返し、燈里は泣くのを誤魔化すように睦月の髪を撫でた。

「冬玄」
「どうした、燈里」 

手を止めぬまま、燈里は顔を上げて冬玄を呼ぶ。目を合わせ、微笑んだ。

「地蔵菩薩……ヒガタを解放してあげて」
「燈里」
「子供たちの残した言葉は、ちゃんと受け取った。だからもう、無理矢理繋がなくても大丈夫だから」

冬玄は無言で燈里の目を見た。不安も恐れもない。冬の夜を思わせる澄んだその目に冬玄は僅かに目を細め、振り返りもせず地蔵菩薩の氷を溶かしていく。

「ありがとう……楓。睦月ちゃんをお願いできる?」
「分かった……行っておいで、燈里」

楓に睦月を託し、燈里は立ち上がると地蔵菩薩の前まで歩み寄る。冬玄は思わず引き止めるように手を伸ばしかけるが、真っ直ぐな燈里の横顔に、何も言わずに手を下ろす。

「ありがとうございました」

地蔵菩薩に向けて、燈里は深く礼をする。差し出されたまま動かない手を両手で包め込み、ひとつ呼吸をする。
地蔵菩薩の伏せられた目が燈里を見つめている。その目を燈里もまた見返し、口を開いた。

「オン カカカビ サンマエイ ソワカ」

紡がれたのは、地蔵菩薩の真言。
包み込む冷たい石の手に、熱を感じた。驚きに目を瞬く燈里の前で、地蔵菩薩の姿が揺らぐ。刹那、その姿は来訪神を模したものではなく。
右手に錫杖を持った、地蔵菩薩本来の姿に戻っていた。
しゃん、と錫杖が鳴る。澄んだその音に、手を離し惚ける燈里の頭を撫でて。
地蔵菩薩の姿は、空気に解けて消えていった。



「消えたのか?」
「きっと、子供たちを見に行ったんだよ。地蔵菩薩は人々を救う存在だから」

眉を顰める冬玄に、燈里は笑みを浮かべながらそっと寄り添った。

「生きているのに、生きてはいけない……よく分からない感覚だ。それを守ろうとする意味も、俺には分からない」

燈里の肩を抱き、冬玄は告げる。眉を顰め、不可解だと言わんばかりの表情をしながら、燈里の額に唇を寄せた。

「この世界は、分からないものに溢れている。だが、そうだからこそ、世界は美しく、愛おしいのだろうな」
「冬玄」

驚きに目を丸くする燈里に、冬玄は微笑みかけ。

「帰ろう。今日は一段と冷える。囲炉裏の火にでも当たって、ゆっくりと過ごそう」

労わるようにそう囁けば、燈里は頬を染めながら、ふわりと笑みを浮かべた。



20260115 『この世界は』

1/15/2026, 11:28:33 AM

「それにしても」

しん、と静まり返る村の中を進みながら、楓《かえで》は眉を寄せて呟いた。

「泣かないのが、ヒガタに連れていかれる条件だと思ったのだけれど……一体何が足りなかったんだろうか」
「あるいは、泣くことで別の条件を満たした、か。それともただ単に、夢を渡ることで縁が強くなっていたのかもしれん。理由がなんであれ、行ってみれば分かるだろう」

悩む楓を一瞥し、冬玄《とうげん》は燈里《あかり》の肩を抱きながら答える。時折気配を探るように辺りに視線を巡らせるが、その歩みは止まらない。
冬玄の腕の中で、燈里は不安げに静かな村を見渡した。ヒガタを恐れ、家の中で息を潜めている村人がほとんどだとはいえ、数日滞在していた中でここまで静かなのは見たことがなかった。

「誰もいないみたい」
「村と山の境界がなくなって、領域が交じり合っているんだ。ただ俺たちだけが、山の領域に近いのは意味があるんだろうな」
「僕たちとあの子以外の気配は感じない。混じったというより、引き込まれた方が近い気がするね」

小さく溜息を吐き、楓は一足先に山の入り口まで歩いていく。夢の中で睦月《むつき》がいた場所に立ち、ぐるりと村を見渡してから山へと続く道の先を見た。

「こうやって見てもただの山だね。何か特別がある訳でもない。奥にあの子の気配は感じるけど、ヒガタの気配は分からないな」

首を傾げ、楓は呟いた。口調こそは軽いものの、その視線は鋭く険しさが滲んでいる。
冬玄の表情も固い。張り詰めた気配に、燈里は無意識に冬玄の服の裾を掴んでいた。

「睦月ちゃん」
「大丈夫だよ、燈里。この山の奥にいるのは確かだ。ちゃんと辿り着ける」
「気をつけろ。薄らとだが、信仰の名残がある。かつてはここに神がいたのかもしれん」

燈里の肩を抱き寄せながら、冬玄は呟いた。
それに楓は頷き、先導するように山の中へと足を踏み入れる。

誰も足を踏み入れぬ、雪に閉ざされたはずの山道は、だが何故かそこだけがならしたように踏み固められていた。
山道を歩きながら、静かな周囲に楓は警戒を強める。何の気配も感じられないことが、得体の知れない不気味さを漂わせていた。

「ヒガタとは、何なんだろうね。それさえ分かれば、対処の仕方もあるんだろうけど」
「少なくとも、来訪神ではないだろう。面が割れていたのなら、恐ろしい何かとして子供を戒め、春を呼び込む来訪神の在り方に反する。来訪神の形を纏った、別の何かなのだろうな」

だが、と言葉を続けながら、冬玄は眉を顰めた。山の奥へと続く道の先を見据えたまま、感じる信仰の名残に困惑を隠せない。

「何人もの人間を隠した山にしては、空気が澄んでいる。奥に行くほどそれが強くなっていく……何なんだ、この山は。一体何が祀られているっていうんだ」
「ヒガタ、に関係しているのだろうね。残さないといけないもの。継いでいくべきものだっけか……本当に、ヒガタとは何を意味しているのだろう」

睦月の言葉を思い出し、楓は小さく息を吐いた。感覚的な子供の言葉は、解釈に迷う。ヒガタの割れた面、その奥の暗闇を思い浮かべ、そこの見えない深さに纏う空気が知らず鋭くなっていた。



「――待って」

不意に、燈里が立ち止まる。冬玄の元を離れ道の脇に寄ると、膝をつき雪の中に手を差し入れた。
雪を払い、埋まる何かを掘り起こす。露わになる形を持った石に、燈里を止めようと手を伸ばした冬玄の動きが止まった。

「これは……地蔵か」
「うん……背中に文字が書かれてる。掠れて読めないけど」
「こっちにもあるね。おそらく、この雪の下に何体もの地蔵がいるんだろうね」

燈里と同じように雪の下から地蔵菩薩を掘り起こし、楓は僅かに目を見張り、呟いた。その地蔵菩薩の胴の部分に文字が刻まれているようであるが、風雨に削られ読むことは叶わない。

「――子供の供養、だな」
「読めるの?」
「少しだけな」

微笑み、冬玄は刻まれた文字をなぞる。遠い昔の祈りを感じながら、静かに吐息を溢した。

「ヒガタに連れて行かれた子供のためものじゃない。もっと古い時代のものだ……ただ一人のための、供養碑の代わりだ」
「そういえば、あの子の先祖が山に行ったと言っていたね。聞き流してしまったけど、その先祖も同じだったのだろうね」

大切な人を失い、深い悲しみに泣けなかった。
どんな思いで地蔵菩薩を作り続けてきたのか。無心で石を彫る背を思い、燈里はそっと目を伏せた。

「行こう。あの子の所に」
「そうだね……行こうか」

楓に促され、冬玄の手を取り、燈里は立ち上がる。
道の先を見据え、静かに歩き出す。
悲しみに憂いを帯びた目をしながらも、燈里の歩みには迷いはみられなかった。



道の終わり。大きな欅の木の根元で、睦月は身を丸めて眠っていた。

「睦月ちゃんっ!」

駆け寄り抱き起こすが、反応はない。深く眠っているのか、呼吸に合わせ薄く胸が上下するのみで、指先一つ動かなかった。

「無事に見つかったはいいが、これからどうする?」

周囲を見回し気配を探りながら、冬玄は問いかける。
境界がなくなっている今、家に戻った所で完全に元に戻ることはない。

「やっぱり、ヒガタと対峙するべきかな。あまり会いたいとは思わないけどね」

警戒を緩めず楓は溜息を吐いてみせる。戯けたようにみせかけながらも、動きのないヒガタに対し不安が込み上げていた。

「辺りには何もいないな。山を下りてるのか……とりあえずは、そいつを連れて戻った方がいい」
「そうだね。このままここにいても……っ、冬玄!」

冬玄の言葉に頷き、燈里が顔を上げた瞬間。
背後に見えた青い面に、燈里は叫ぶように冬玄の名を呼んだ。

「なんだ、これは……!?」
「いつの間に!?何もいなかったはずだよ!」

燈里を庇うように前に立ちながら、冬玄はヒガタの姿に目を見張る。焦りを浮かべながらも警戒を露わにする楓とは異なる反応に、燈里は違和感を覚え名を呼んだ。

「冬玄?」
「これが、ヒガタなのか?」

困惑を浮かべた声音。立ち尽くす冬玄に燈里も困惑し、不安に手を伸ばす。

「これは、違う……これは神じゃない。妖でもない」
「どういうこと?」

燈里のその手に、冬玄は気づかない。視線はヒガタに注がれたまま。愕然として何故、と呟いた。

「意味が分からない。目の前にいるヒガタが来訪神でないのだとしても、来訪神を真似た妖だろう?」
「違う……分からないのか?面の奥に見えるモノが」

冬玄の言葉に、楓は目を凝らしヒガタを見る。燈里も戸惑いながら、手を下ろしヒガタに視線を向けた。

「見えないね。何も見えない」
「見えないのなら、それは燈里の視点だからだ。妖として、面を通して見ればすぐに分かる」
「あぁ、トウゲンには見えているってこと」

楓の影が揺らめいた。しかしその揺らぎは、楓の苦笑と共に収まっていく。
冬玄からは困惑が伝わるものの、危機感を覚えるような張り詰めた気配は感じられない。ならば任せてもいいのだろうと、楓は燈里の隣で膝をついた。

「見てる。見えないのに、目が合ってるのを感じる」

微かな呟きには、怯えが滲んでいる。
夢と変わらず、割れた面の奥には暗闇が広がるのみで、見えるものはない。見えない目が、ひたとこちらを見つめているような感覚に、燈里は目も逸らせずただ震えていた。

「燈里、大丈夫だよ。目を逸らしても、なんともない」

そっと燈里の目を塞ぐ。びくり、と肩が震え、やがて強張る体から力が抜けていくのを見て、楓はゆっくりと手を離した。

「ありがとう、楓」
「どういたしまして。でもこのままだと燈里が怖がるだけだね」

燈里の背を撫でながら、楓は冬玄へと視線を向けた。
冬玄に動きはない。ヒガタを見据え、ややあってあぁ、と感嘆にも似た吐息を漏らした。

「そうか……入り込んだものと混ざる。溢れたものは戻らない。そういうことなのか」
「何を言いたいのかさっぱりだ。燈里が怖がるから、そろそろ何とかしてくれないかな」

楓の言葉に、冬玄は振り返り燈里を見る。怯えの残る目に冬玄の顔が一瞬だけ歪み、何も言わずに向き直る。緩く首を振り、ヒガタに向けて指を差した。

「ヒガタは神ではない」

ぴしり、と音がした。
ヒガタの青い面に霜が降り、次第に凍りついていく。
ぱき、と木の割れる音。ぴしり、ぱきりとひびが入り広がって、面がゆっくりと割れていく。

「不完全に混ざったために、神になり損ねたんだろう」

ぱきん、と儚い音を立て。

「っ、そんな……」

割れた面が、地に落ちた。


「どうして……?」

露わになった顔に、燈里は呆然と呟いた。

夢の中で何度も見ていた暗闇。
目が見えないのではない。ずっと閉じたままだった。
黒みを帯びた石肌を、微笑んでいるようにも見えるその表情を、知っている。

「あぁ、そういうことか。地蔵に刻まれた碑《いしぶみ》。地蔵本来の在り方である人間を救う役割。作り手の祈り……ヒガタは、つまり碑形という意味なんだね」
「なんで……地蔵菩薩が来訪神に……?」

来訪神の姿をした地蔵菩薩か、静かに佇んでいた。



20260114 『どうして』

1/14/2026, 10:04:22 AM

寝入ってしまった睦月《むつき》の頭を膝に乗せ、燈里《あかり》は何も言わずに目を伏せた。

――ずっとこのままならいいのに。

一瞬だけ見えた睦月の本心は笑顔に隠され、集会所を出た時には欠片も見えなくなってしまった。家に戻った後もそれは変わらず、夕食後、部屋に戻る睦月を燈里は思わず引き止めていた。
ヒガタとは関係のない話に花を咲かせ、そこで感じたのは睦月は普通の子供だということだ。
ただ両親が亡くなった際に泣けなかったことと繰り返し見る夢によって、自身は削がれたのだと強く思い込んでいる。

「燈里」

睦月の頭を撫でる燈里の正面に座り、楓《かえで》が声をかける。手を止めぬまま顔を上げれば、微笑みながらも真剣な顔をした楓と目が合った。

「その子は連れていかれるよ。他でもない、その子自身が望んでいるから」

静かな楓の声に、燈里は何も反応を見せない。

――泣けない子は、ヒガタに連れていかれる。

今まで何人もの子供が泣けずに、ヒガタと共に姿を消した。それは睦月も同じだと、楓は淡々と告げる。

「おそらくは、咲子という娘が山を下りた来訪神と会ったことが始まりだろう。七つを迎える前の子供は神の領域に近い。来訪神と目が合い、そこで無意識に神を自分に降ろしたんだろうな。だが神職でもない人間が、何の手順も踏まずに神を降ろすには代償が高い。その時に感情の一部、魂の一欠片を失ったんだろう。神を受け入れるための隙間を作るため、手放したと言ってもいい。そして降ろした神を戻すこともできず、失ったものを戻せず……結果、来訪神と共に行くしかなかった」

俯く燈里に寄り添い、その華奢な背を撫で冬玄《かずとら》は語る。

「失ったものを、弟の死に泣けぬ苦痛を、娘は削がれたと感じた。そして、常に戻りたいという衝動があったはずだ。分かたれたものが再びひとつに戻ろうとするのは当然のことだからな……元の来訪神がどのようなものか、持ち込んだ家の子孫である娘は当然聞いていただろう。火班《ひがた》を削ぎ、子供を連れていく来訪神。削がれた自身……削がれ泣けない子供はヒガタに連れていかれるという娘の認識が村に広がり、それ以降来訪神はヒガタとして泣かない子供を連れていくことになった」
「ヒガタはヒガタだっていう言葉が気にかかるけどね。でも、ここの人間たちがいうモドキは、ヒガタが変質したモノで間違いはないと思うよ。だから小正月の晩に、泣けない子供の所に来るんだ。そして子供はヒガタについていく」

冬玄と楓の言葉に、燈里は唇を嚙みしめた。
引き留めることは、おそらく無意味なのだろう。いくら言葉を重ねた所で、睦月はヒガタの元へと行ってしまう。
自信の無力さに、燈里は憤りを感じた。睦月を止められぬことを責め立てるように、噛みしめる力が強くなる。
そんな燈里の唇をそっと撫で頬を包むと、楓は静かに視線を合わせる。

「燈里。その子を助けたい?」
「――助けたい」
「なら、その子を泣かせるしかないよ」

燈里の目が、ゆっくりと瞬いた。縋るようなその視線に、楓は優しく微笑み一つの可能性を告げる。

「ヒガタが連れていくのは、泣かない子だ。感情を削がれたという認識がヒガタを呼び込み、つれていくんだよ。だから泣けるのならば、その子は留まれる」
「泣くことが、できたら……」

簡単なようでいて、だがそれがとても困難であることを燈里は知っている。睦月には、泣ける場所がない。その場所を、出会って数日の燈里たちが作ることができるのか。

「残された時間は少ない。ヒガタが来たら、もう何をしても止められないよ」

不安に視線が揺れる燈里に、楓は言い聞かせる様に告げた。
迷っている時間はない。燈里は息を呑み、眠る睦月に視線を向けた。
穏やかな表情をして、時折甘えるように擦り寄る睦月を見て、燈里は目を閉じる。そしてゆっくりと開ける燈里のその目には不安などはなく、真っすぐに楓の目を見返し微笑んだ。

「分かった。明日話してみる……ありがとう、楓。冬玄も」
「どういたしまして」

燈里の笑みに、楓も笑う。冬玄も薄く微笑み、答えの代わりに優しく頭を撫でた。



夜。
微かな物音に、目を開けた。
ぼんやりする意識で、何気なく隣を見る。隣には、あのまま起きなかった睦月が寝ているはずだった。

「睦月ちゃん?」

空っぽの布団に、一瞬で意識が覚醒する。

「睦月ちゃんっ!」

体を起こし、暗い部屋を見回す。
薄らと浮かぶ障子戸が僅かに開いているのを見て、弾かれたように体を起こし、外に出た。


「睦月ちゃん!」

山の方向へと歩いていく睦月の背を追いかけながら、必死に声をかける。
呼ぶ声が聞こえたのか、睦月は足を止めた。だが、こちらを振り返る様子はない。


「お姉さん」

近づき肩を掴もうとした手は、無感情な声に止まる。
今触れてしまえば、そのまま消えてしまう。そんな危うさが、小さな背から感じられた。

「夢を見たの」

振り返らず、睦月は語る。淡々とした、感情のない声が夜に解けていく。

「夢?」
「うん、そう。ヒガタの夢じゃなくて、ただの夢。お父さんがいて、お母さんがいて……ばあちゃんも、それからお姉さんたちもいた。お父さんたちが仕事に行くのを見送って、お姉さんたちと一緒に遊びながら帰りを待ってる。そんな幸せな夢」

小さく息を呑んだ。
何気のない日常を、睦月は幸せだと語る。そんなささやかな、けれども決して叶うことのない夢に苦しさを覚えて、そっと胸に手を当てた。

「楽しくて、幸せだったの。ずっとこのまま夢を見てたいなって思うくらいに。何もかもを忘れて、夢だけを見ていられたら、それはきっと幸せなんだろうな」
「睦月ちゃん」
「ありがとう。最後にただの夢が見れてよかった」

まるで別れのような言葉。
目を逸らしてはいないはずだというのに、気づけば睦月は村と山の境に立っていた。

「っ、睦月ちゃん。待って」
「夢は夢だから、幸せなんだろうね。覚めたら、なんにもなくなっちゃったもの」
「そんなことない!そんなことないよっ!」

咄嗟に首を振り、睦月の言葉を否定する。ゆっくりと歩み寄りながら、違うのだと繰り返した。

「確かに睦月ちゃんのご両親は戻らないのかもしれない。でも、私たちがまだいるでしょう?」
「じゃあ、ずっといてくれるの?ここに、わたしの側にいてくれる?」
「それは……」

何も言えず立ち止まり、歯痒さに唇を噛んだ。
このままここに留まることはできない。仕事を辞めることも、家を手放すこともできるはずがなかった。
首を振る。再び歩み寄りながら、睦月の姿を見据えて口を開く。

「ずっと一緒にはいられないけれど、また会う約束はできる。手紙を書くことも、電話をすることだってできる!だから、行かないでっ……!」
「そんなの、信じられない。約束なんて、結局破られるんだよ」
「そんなことない。絶対に……」
「嘘つき!約束だって言いながら、お父さんたちは帰ってこなかったじゃない!」

怒りの滲む声と同時に、睦月が振り返る。
強く睨みつける目。怒りを露わにした表情に、困惑した。

「お仕事が終わったら、帰りにご馳走を買ってくるからねって言ってたくせに!帰ったら、わたしのお誕生日を祝ってくれるって、そう約束したのに!なのに……」
「睦月ちゃん」

睨む目が、悲しげに歪む。溜め込んできた思いを吐き出す睦月に手を伸ばす。
今ならば触れられる。そんな気がして、震える体を抱きしめた。

「わたし、ずっと待ってたの。帰ってくるのを楽しみにして、いい子にしてちゃんと待ってたんだよ」
「うん。睦月ちゃんはいい子だものね。頑張ってたんだものね」
「約束なんて大嫌い。守ってくれないなら、約束なんてしないで」
「守りたいよ。絶対とは言えないのかもしれない。でも私は約束を守りたいし、だからこそ、睦月ちゃんとまたねって約束がしたい……睦月ちゃんに会いたいから」
「お姉さん……」

小さな手が背中に回される。触れるだけだった手は次第に力が強くなり、しがみつくように服のを掴んで皺を作る。
泣くのを我慢するかのように、睦月の体が微かに震えていた。あるいは泣き方を忘れてしまったのだろうか。悲しいその背を撫でながら、どうかと祈る気持ちで語りかける。

「睦月ちゃんとお別れなんてしたくない。もっといろんな話をしたい。睦月ちゃんのことを知りたいし、私のことも知ってほしい。雪が溶けた後の村を案内してもらいたいなって思うし、私の家にも来てほしいんだよ……ねぇ、お願いだから行かないで。ヒガタじゃなくて、私を選んで」

睦月の答えはない。
ただ、一際強く抱きつき、小さなしゃくりあげる声が聞こえた。

「睦月ちゃん、大好き」

微笑んで、優しく抱きしめる。じわりと服が濡れる感覚に、安堵の吐息が溢れ落ちた。

しばらくして、しがみつく手が離れていく。腕の力を緩めれば、体を離した睦月がゆっくりと顔を上げた。

「お姉さん」

頬を伝う滴が、月明かりを浴びて宝石のように煌めいた。

「ありがとう。わたしもね、大好きだよ」

ふわりと、睦月が笑う。
まるで花咲くような煌めきに、笑みを返して睦月の頬に手を伸ばす。
だが、その手が涙を拭う前に。

睦月の姿は、雪が溶けてなくなるように跡形もなく消えてしまった。



「睦月ちゃんっ!」
「燈里、落ち着け!」

目が覚めた途端に半狂乱になる燈里を背後から抱き竦め、冬玄は必死に声をかける。

「なんで!?泣いてくれたのに、どうしていなくなるの?どうして!」

泣きながら首を振り、どうしてと燈里は繰り返す。いない睦月を求めるように、伸ばした手が宙を彷徨う。

「楓っ!泣いたら大丈夫だって言ったのに、なんでいなくなったの?大丈夫だって、戻れるんだって、信じてたのに!」
「うん、ごめんね燈里。でもまずは落ち着いて。いい子だから」

その手を取り、楓はゆっくりと語りかける。しかし燈里が落ち着く様子はなく、楓は静かに自身の影から翁の面を取り出した。

「楓。いい」

強制的に心を眠らせようとする楓に、冬玄は首を振る。燈里の体をさらに強く抱きしめ、落ち着かせるように頭を撫でた。

「大丈夫だ燈里。前に言っただろう?お前の望みには俺が応えてやるって。だから落ち着くんだ……ほら、ゆっくり深呼吸してみろ。大丈夫だから」

優しい声に、次第に燈里の動きが止まる。促されるままに深呼吸を繰り返し、冬玄の胸に凭
れ力なく目を閉じた。

「冬玄」
「落ち着いたか?」
「うん。ありがとう……楓も、ごめんなさい」
「気にしないで。結果的に嘘を吐いたことに変わりはないからね」

面を影に戻し、楓は悲しげに微笑んだ。掴んでいた手を両手で包み込み、ごめんねと繰り返す。

「大丈夫だ。まだ、手遅れじゃない……境がなくなって、領域が繋がっているからな」

燈里の頭を撫でながら、冬玄は告げる。ゆっくりと目を開け振り返る燈里は、幼子のように首を傾げた。

「領域……?」
「そうだ。ヒガタの、山の領域だ。まだ小正月を迎えてないからなのかは知らないが、村と山の境が今はなくなっているんだ。今から向かえば引き戻すことができるかもしれない……行くか?」

どこかぼんやりとしていた目が瞬いた。縋るように冬玄の首に腕を回して抱きつき、一筋涙を流す。

「――行く」

微かなその声に迷いはなく、涙に濡れる目の奥にも強い意思を宿して、燈里ははっきりと頷いた。



20260113 『夢を見てたい』

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