寝入ってしまった睦月《むつき》の頭を膝に乗せ、燈里《あかり》は何も言わずに目を伏せた。
――ずっとこのままならいいのに。
一瞬だけ見えた睦月の本心は笑顔に隠され、集会所を出た時には欠片も見えなくなってしまった。家に戻った後もそれは変わらず、夕食後、部屋に戻る睦月を燈里は思わず引き止めていた。
ヒガタとは関係のない話に花を咲かせ、そこで感じたのは睦月は普通の子供だということだ。
ただ両親が亡くなった際に泣けなかったことと繰り返し見る夢によって、自身は削がれたのだと強く思い込んでいる。
「燈里」
睦月の頭を撫でる燈里の正面に座り、楓《かえで》が声をかける。手を止めぬまま顔を上げれば、微笑みながらも真剣な顔をした楓と目が合った。
「その子は連れていかれるよ。他でもない、その子自身が望んでいるから」
静かな楓の声に、燈里は何も反応を見せない。
――泣けない子は、ヒガタに連れていかれる。
今まで何人もの子供が泣けずに、ヒガタと共に姿を消した。それは睦月も同じだと、楓は淡々と告げる。
「おそらくは、咲子という娘が山を下りた来訪神と会ったことが始まりだろう。七つを迎える前の子供は神の領域に近い。来訪神と目が合い、そこで無意識に神を自分に降ろしたんだろうな。だが神職でもない人間が、何の手順も踏まずに神を降ろすには代償が高い。その時に感情の一部、魂の一欠片を失ったんだろう。神を受け入れるための隙間を作るため、手放したと言ってもいい。そして降ろした神を戻すこともできず、失ったものを戻せず……結果、来訪神と共に行くしかなかった」
俯く燈里に寄り添い、その華奢な背を撫で冬玄《かずとら》は語る。
「失ったものを、弟の死に泣けぬ苦痛を、娘は削がれたと感じた。そして、常に戻りたいという衝動があったはずだ。分かたれたものが再びひとつに戻ろうとするのは当然のことだからな……元の来訪神がどのようなものか、持ち込んだ家の子孫である娘は当然聞いていただろう。火班《ひがた》を削ぎ、子供を連れていく来訪神。削がれた自身……削がれ泣けない子供はヒガタに連れていかれるという娘の認識が村に広がり、それ以降来訪神はヒガタとして泣かない子供を連れていくことになった」
「ヒガタはヒガタだっていう言葉が気にかかるけどね。でも、ここの人間たちがいうモドキは、ヒガタが変質したモノで間違いはないと思うよ。だから小正月の晩に、泣けない子供の所に来るんだ。そして子供はヒガタについていく」
冬玄と楓の言葉に、燈里は唇を嚙みしめた。
引き留めることは、おそらく無意味なのだろう。いくら言葉を重ねた所で、睦月はヒガタの元へと行ってしまう。
自信の無力さに、燈里は憤りを感じた。睦月を止められぬことを責め立てるように、噛みしめる力が強くなる。
そんな燈里の唇をそっと撫で頬を包むと、楓は静かに視線を合わせる。
「燈里。その子を助けたい?」
「――助けたい」
「なら、その子を泣かせるしかないよ」
燈里の目が、ゆっくりと瞬いた。縋るようなその視線に、楓は優しく微笑み一つの可能性を告げる。
「ヒガタが連れていくのは、泣かない子だ。感情を削がれたという認識がヒガタを呼び込み、つれていくんだよ。だから泣けるのならば、その子は留まれる」
「泣くことが、できたら……」
簡単なようでいて、だがそれがとても困難であることを燈里は知っている。睦月には、泣ける場所がない。その場所を、出会って数日の燈里たちが作ることができるのか。
「残された時間は少ない。ヒガタが来たら、もう何をしても止められないよ」
不安に視線が揺れる燈里に、楓は言い聞かせる様に告げた。
迷っている時間はない。燈里は息を呑み、眠る睦月に視線を向けた。
穏やかな表情をして、時折甘えるように擦り寄る睦月を見て、燈里は目を閉じる。そしてゆっくりと開ける燈里のその目には不安などはなく、真っすぐに楓の目を見返し微笑んだ。
「分かった。明日話してみる……ありがとう、楓。冬玄も」
「どういたしまして」
燈里の笑みに、楓も笑う。冬玄も薄く微笑み、答えの代わりに優しく頭を撫でた。
夜。
微かな物音に、目を開けた。
ぼんやりする意識で、何気なく隣を見る。隣には、あのまま起きなかった睦月が寝ているはずだった。
「睦月ちゃん?」
空っぽの布団に、一瞬で意識が覚醒する。
「睦月ちゃんっ!」
体を起こし、暗い部屋を見回す。
薄らと浮かぶ障子戸が僅かに開いているのを見て、弾かれたように体を起こし、外に出た。
「睦月ちゃん!」
山の方向へと歩いていく睦月の背を追いかけながら、必死に声をかける。
呼ぶ声が聞こえたのか、睦月は足を止めた。だが、こちらを振り返る様子はない。
「お姉さん」
近づき肩を掴もうとした手は、無感情な声に止まる。
今触れてしまえば、そのまま消えてしまう。そんな危うさが、小さな背から感じられた。
「夢を見たの」
振り返らず、睦月は語る。淡々とした、感情のない声が夜に解けていく。
「夢?」
「うん、そう。ヒガタの夢じゃなくて、ただの夢。お父さんがいて、お母さんがいて……ばあちゃんも、それからお姉さんたちもいた。お父さんたちが仕事に行くのを見送って、お姉さんたちと一緒に遊びながら帰りを待ってる。そんな幸せな夢」
小さく息を呑んだ。
何気のない日常を、睦月は幸せだと語る。そんなささやかな、けれども決して叶うことのない夢に苦しさを覚えて、そっと胸に手を当てた。
「楽しくて、幸せだったの。ずっとこのまま夢を見てたいなって思うくらいに。何もかもを忘れて、夢だけを見ていられたら、それはきっと幸せなんだろうな」
「睦月ちゃん」
「ありがとう。最後にただの夢が見れてよかった」
まるで別れのような言葉。
目を逸らしてはいないはずだというのに、気づけば睦月は村と山の境に立っていた。
「っ、睦月ちゃん。待って」
「夢は夢だから、幸せなんだろうね。覚めたら、なんにもなくなっちゃったもの」
「そんなことない!そんなことないよっ!」
咄嗟に首を振り、睦月の言葉を否定する。ゆっくりと歩み寄りながら、違うのだと繰り返した。
「確かに睦月ちゃんのご両親は戻らないのかもしれない。でも、私たちがまだいるでしょう?」
「じゃあ、ずっといてくれるの?ここに、わたしの側にいてくれる?」
「それは……」
何も言えず立ち止まり、歯痒さに唇を噛んだ。
このままここに留まることはできない。仕事を辞めることも、家を手放すこともできるはずがなかった。
首を振る。再び歩み寄りながら、睦月の姿を見据えて口を開く。
「ずっと一緒にはいられないけれど、また会う約束はできる。手紙を書くことも、電話をすることだってできる!だから、行かないでっ……!」
「そんなの、信じられない。約束なんて、結局破られるんだよ」
「そんなことない。絶対に……」
「嘘つき!約束だって言いながら、お父さんたちは帰ってこなかったじゃない!」
怒りの滲む声と同時に、睦月が振り返る。
強く睨みつける目。怒りを露わにした表情に、困惑した。
「お仕事が終わったら、帰りにご馳走を買ってくるからねって言ってたくせに!帰ったら、わたしのお誕生日を祝ってくれるって、そう約束したのに!なのに……」
「睦月ちゃん」
睨む目が、悲しげに歪む。溜め込んできた思いを吐き出す睦月に手を伸ばす。
今ならば触れられる。そんな気がして、震える体を抱きしめた。
「わたし、ずっと待ってたの。帰ってくるのを楽しみにして、いい子にしてちゃんと待ってたんだよ」
「うん。睦月ちゃんはいい子だものね。頑張ってたんだものね」
「約束なんて大嫌い。守ってくれないなら、約束なんてしないで」
「守りたいよ。絶対とは言えないのかもしれない。でも私は約束を守りたいし、だからこそ、睦月ちゃんとまたねって約束がしたい……睦月ちゃんに会いたいから」
「お姉さん……」
小さな手が背中に回される。触れるだけだった手は次第に力が強くなり、しがみつくように服のを掴んで皺を作る。
泣くのを我慢するかのように、睦月の体が微かに震えていた。あるいは泣き方を忘れてしまったのだろうか。悲しいその背を撫でながら、どうかと祈る気持ちで語りかける。
「睦月ちゃんとお別れなんてしたくない。もっといろんな話をしたい。睦月ちゃんのことを知りたいし、私のことも知ってほしい。雪が溶けた後の村を案内してもらいたいなって思うし、私の家にも来てほしいんだよ……ねぇ、お願いだから行かないで。ヒガタじゃなくて、私を選んで」
睦月の答えはない。
ただ、一際強く抱きつき、小さなしゃくりあげる声が聞こえた。
「睦月ちゃん、大好き」
微笑んで、優しく抱きしめる。じわりと服が濡れる感覚に、安堵の吐息が溢れ落ちた。
しばらくして、しがみつく手が離れていく。腕の力を緩めれば、体を離した睦月がゆっくりと顔を上げた。
「お姉さん」
頬を伝う滴が、月明かりを浴びて宝石のように煌めいた。
「ありがとう。わたしもね、大好きだよ」
ふわりと、睦月が笑う。
まるで花咲くような煌めきに、笑みを返して睦月の頬に手を伸ばす。
だが、その手が涙を拭う前に。
睦月の姿は、雪が溶けてなくなるように跡形もなく消えてしまった。
「睦月ちゃんっ!」
「燈里、落ち着け!」
目が覚めた途端に半狂乱になる燈里を背後から抱き竦め、冬玄は必死に声をかける。
「なんで!?泣いてくれたのに、どうしていなくなるの?どうして!」
泣きながら首を振り、どうしてと燈里は繰り返す。いない睦月を求めるように、伸ばした手が宙を彷徨う。
「楓っ!泣いたら大丈夫だって言ったのに、なんでいなくなったの?大丈夫だって、戻れるんだって、信じてたのに!」
「うん、ごめんね燈里。でもまずは落ち着いて。いい子だから」
その手を取り、楓はゆっくりと語りかける。しかし燈里が落ち着く様子はなく、楓は静かに自身の影から翁の面を取り出した。
「楓。いい」
強制的に心を眠らせようとする楓に、冬玄は首を振る。燈里の体をさらに強く抱きしめ、落ち着かせるように頭を撫でた。
「大丈夫だ燈里。前に言っただろう?お前の望みには俺が応えてやるって。だから落ち着くんだ……ほら、ゆっくり深呼吸してみろ。大丈夫だから」
優しい声に、次第に燈里の動きが止まる。促されるままに深呼吸を繰り返し、冬玄の胸に凭
れ力なく目を閉じた。
「冬玄」
「落ち着いたか?」
「うん。ありがとう……楓も、ごめんなさい」
「気にしないで。結果的に嘘を吐いたことに変わりはないからね」
面を影に戻し、楓は悲しげに微笑んだ。掴んでいた手を両手で包み込み、ごめんねと繰り返す。
「大丈夫だ。まだ、手遅れじゃない……境がなくなって、領域が繋がっているからな」
燈里の頭を撫でながら、冬玄は告げる。ゆっくりと目を開け振り返る燈里は、幼子のように首を傾げた。
「領域……?」
「そうだ。ヒガタの、山の領域だ。まだ小正月を迎えてないからなのかは知らないが、村と山の境が今はなくなっているんだ。今から向かえば引き戻すことができるかもしれない……行くか?」
どこかぼんやりとしていた目が瞬いた。縋るように冬玄の首に腕を回して抱きつき、一筋涙を流す。
「――行く」
微かなその声に迷いはなく、涙に濡れる目の奥にも強い意思を宿して、燈里ははっきりと頷いた。
20260113 『夢を見てたい』
1/14/2026, 10:04:22 AM