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「それにしても」

しん、と静まり返る村の中を進みながら、楓《かえで》は眉を寄せて呟いた。

「泣かないのが、ヒガタに連れていかれる条件だと思ったのだけれど……一体何が足りなかったんだろうか」
「あるいは、泣くことで別の条件を満たした、か。それともただ単に、夢を渡ることで縁が強くなっていたのかもしれん。理由がなんであれ、行ってみれば分かるだろう」

悩む楓を一瞥し、冬玄《とうげん》は燈里《あかり》の肩を抱きながら答える。時折気配を探るように辺りに視線を巡らせるが、その歩みは止まらない。
冬玄の腕の中で、燈里は不安げに静かな村を見渡した。ヒガタを恐れ、家の中で息を潜めている村人がほとんどだとはいえ、数日滞在していた中でここまで静かなのは見たことがなかった。

「誰もいないみたい」
「村と山の境界がなくなって、領域が交じり合っているんだ。ただ俺たちだけが、山の領域に近いのは意味があるんだろうな」
「僕たちとあの子以外の気配は感じない。混じったというより、引き込まれた方が近い気がするね」

小さく溜息を吐き、楓は一足先に山の入り口まで歩いていく。夢の中で睦月《むつき》がいた場所に立ち、ぐるりと村を見渡してから山へと続く道の先を見た。

「こうやって見てもただの山だね。何か特別がある訳でもない。奥にあの子の気配は感じるけど、ヒガタの気配は分からないな」

首を傾げ、楓は呟いた。口調こそは軽いものの、その視線は鋭く険しさが滲んでいる。
冬玄の表情も固い。張り詰めた気配に、燈里は無意識に冬玄の服の裾を掴んでいた。

「睦月ちゃん」
「大丈夫だよ、燈里。この山の奥にいるのは確かだ。ちゃんと辿り着ける」
「気をつけろ。薄らとだが、信仰の名残がある。かつてはここに神がいたのかもしれん」

燈里の肩を抱き寄せながら、冬玄は呟いた。
それに楓は頷き、先導するように山の中へと足を踏み入れる。

誰も足を踏み入れぬ、雪に閉ざされたはずの山道は、だが何故かそこだけがならしたように踏み固められていた。
山道を歩きながら、静かな周囲に楓は警戒を強める。何の気配も感じられないことが、得体の知れない不気味さを漂わせていた。

「ヒガタとは、何なんだろうね。それさえ分かれば、対処の仕方もあるんだろうけど」
「少なくとも、来訪神ではないだろう。面が割れていたのなら、恐ろしい何かとして子供を戒め、春を呼び込む来訪神の在り方に反する。来訪神の形を纏った、別の何かなのだろうな」

だが、と言葉を続けながら、冬玄は眉を顰めた。山の奥へと続く道の先を見据えたまま、感じる信仰の名残に困惑を隠せない。

「何人もの人間を隠した山にしては、空気が澄んでいる。奥に行くほどそれが強くなっていく……何なんだ、この山は。一体何が祀られているっていうんだ」
「ヒガタ、に関係しているのだろうね。残さないといけないもの。継いでいくべきものだっけか……本当に、ヒガタとは何を意味しているのだろう」

睦月の言葉を思い出し、楓は小さく息を吐いた。感覚的な子供の言葉は、解釈に迷う。ヒガタの割れた面、その奥の暗闇を思い浮かべ、そこの見えない深さに纏う空気が知らず鋭くなっていた。



「――待って」

不意に、燈里が立ち止まる。冬玄の元を離れ道の脇に寄ると、膝をつき雪の中に手を差し入れた。
雪を払い、埋まる何かを掘り起こす。露わになる形を持った石に、燈里を止めようと手を伸ばした冬玄の動きが止まった。

「これは……地蔵か」
「うん……背中に文字が書かれてる。掠れて読めないけど」
「こっちにもあるね。おそらく、この雪の下に何体もの地蔵がいるんだろうね」

燈里と同じように雪の下から地蔵菩薩を掘り起こし、楓は僅かに目を見張り、呟いた。その地蔵菩薩の胴の部分に文字が刻まれているようであるが、風雨に削られ読むことは叶わない。

「――子供の供養、だな」
「読めるの?」
「少しだけな」

微笑み、冬玄は刻まれた文字をなぞる。遠い昔の祈りを感じながら、静かに吐息を溢した。

「ヒガタに連れて行かれた子供のためものじゃない。もっと古い時代のものだ……ただ一人のための、供養碑の代わりだ」
「そういえば、あの子の先祖が山に行ったと言っていたね。聞き流してしまったけど、その先祖も同じだったのだろうね」

大切な人を失い、深い悲しみに泣けなかった。
どんな思いで地蔵菩薩を作り続けてきたのか。無心で石を彫る背を思い、燈里はそっと目を伏せた。

「行こう。あの子の所に」
「そうだね……行こうか」

楓に促され、冬玄の手を取り、燈里は立ち上がる。
道の先を見据え、静かに歩き出す。
悲しみに憂いを帯びた目をしながらも、燈里の歩みには迷いはみられなかった。



道の終わり。大きな欅の木の根元で、睦月は身を丸めて眠っていた。

「睦月ちゃんっ!」

駆け寄り抱き起こすが、反応はない。深く眠っているのか、呼吸に合わせ薄く胸が上下するのみで、指先一つ動かなかった。

「無事に見つかったはいいが、これからどうする?」

周囲を見回し気配を探りながら、冬玄は問いかける。
境界がなくなっている今、家に戻った所で完全に元に戻ることはない。

「やっぱり、ヒガタと対峙するべきかな。あまり会いたいとは思わないけどね」

警戒を緩めず楓は溜息を吐いてみせる。戯けたようにみせかけながらも、動きのないヒガタに対し不安が込み上げていた。

「辺りには何もいないな。山を下りてるのか……とりあえずは、そいつを連れて戻った方がいい」
「そうだね。このままここにいても……っ、冬玄!」

冬玄の言葉に頷き、燈里が顔を上げた瞬間。
背後に見えた青い面に、燈里は叫ぶように冬玄の名を呼んだ。

「なんだ、これは……!?」
「いつの間に!?何もいなかったはずだよ!」

燈里を庇うように前に立ちながら、冬玄はヒガタの姿に目を見張る。焦りを浮かべながらも警戒を露わにする楓とは異なる反応に、燈里は違和感を覚え名を呼んだ。

「冬玄?」
「これが、ヒガタなのか?」

困惑を浮かべた声音。立ち尽くす冬玄に燈里も困惑し、不安に手を伸ばす。

「これは、違う……これは神じゃない。妖でもない」
「どういうこと?」

燈里のその手に、冬玄は気づかない。視線はヒガタに注がれたまま。愕然として何故、と呟いた。

「意味が分からない。目の前にいるヒガタが来訪神でないのだとしても、来訪神を真似た妖だろう?」
「違う……分からないのか?面の奥に見えるモノが」

冬玄の言葉に、楓は目を凝らしヒガタを見る。燈里も戸惑いながら、手を下ろしヒガタに視線を向けた。

「見えないね。何も見えない」
「見えないのなら、それは燈里の視点だからだ。妖として、面を通して見ればすぐに分かる」
「あぁ、トウゲンには見えているってこと」

楓の影が揺らめいた。しかしその揺らぎは、楓の苦笑と共に収まっていく。
冬玄からは困惑が伝わるものの、危機感を覚えるような張り詰めた気配は感じられない。ならば任せてもいいのだろうと、楓は燈里の隣で膝をついた。

「見てる。見えないのに、目が合ってるのを感じる」

微かな呟きには、怯えが滲んでいる。
夢と変わらず、割れた面の奥には暗闇が広がるのみで、見えるものはない。見えない目が、ひたとこちらを見つめているような感覚に、燈里は目も逸らせずただ震えていた。

「燈里、大丈夫だよ。目を逸らしても、なんともない」

そっと燈里の目を塞ぐ。びくり、と肩が震え、やがて強張る体から力が抜けていくのを見て、楓はゆっくりと手を離した。

「ありがとう、楓」
「どういたしまして。でもこのままだと燈里が怖がるだけだね」

燈里の背を撫でながら、楓は冬玄へと視線を向けた。
冬玄に動きはない。ヒガタを見据え、ややあってあぁ、と感嘆にも似た吐息を漏らした。

「そうか……入り込んだものと混ざる。溢れたものは戻らない。そういうことなのか」
「何を言いたいのかさっぱりだ。燈里が怖がるから、そろそろ何とかしてくれないかな」

楓の言葉に、冬玄は振り返り燈里を見る。怯えの残る目に冬玄の顔が一瞬だけ歪み、何も言わずに向き直る。緩く首を振り、ヒガタに向けて指を差した。

「ヒガタは神ではない」

ぴしり、と音がした。
ヒガタの青い面に霜が降り、次第に凍りついていく。
ぱき、と木の割れる音。ぴしり、ぱきりとひびが入り広がって、面がゆっくりと割れていく。

「不完全に混ざったために、神になり損ねたんだろう」

ぱきん、と儚い音を立て。

「っ、そんな……」

割れた面が、地に落ちた。


「どうして……?」

露わになった顔に、燈里は呆然と呟いた。

夢の中で何度も見ていた暗闇。
目が見えないのではない。ずっと閉じたままだった。
黒みを帯びた石肌を、微笑んでいるようにも見えるその表情を、知っている。

「あぁ、そういうことか。地蔵に刻まれた碑《いしぶみ》。地蔵本来の在り方である人間を救う役割。作り手の祈り……ヒガタは、つまり碑形という意味なんだね」
「なんで……地蔵菩薩が来訪神に……?」

来訪神の姿をした地蔵菩薩か、静かに佇んでいた。



20260114 『どうして』

1/15/2026, 11:28:33 AM