翌朝。
目が覚めた睦月《むつき》は、自身が燈里《あかり》たちの部屋にいることに一瞬驚きをみせたものの、すぐに笑顔で朝の挨拶をした。
「おはよう、燈里お姉さん。冬玄《かずとら》おじさん。夢の中ではありがとうね」
「う、うん。おはよう……大丈夫、なの?」
「のんきな奴だな。もう少しで、連れていかれる所だったんだろうが」
取り乱す様子のない睦月に、冬玄は僅かに眉を顰める。だが睦月は冬玄の言葉に不思議そうに首を傾げ、何度か目を瞬いた後、あぁ、と納得の声を上げた。
「だって、前に夢で見たもん。お姉さんが引き留めてくれる所……でも、おかしいなぁ?」
「何がおかしいの?」
「ヒガタはね、小正月の晩に山から下りてくるんだよ。いくら夢の中だからっていったって、小正月前に来るはずはないんだけど」
眉を寄せ、睦月は考え込む。燈里もそんな睦月を見ながら、違和感に眉を寄せた。
昨日初めて出会った時から、睦月はヒガタに似た何かをヒガタだと呼んでいる。久子《ひさこ》のようにモドキとは、一度も口にしてはいなかった。
「睦月ちゃん」
「なぁに?お姉さん」
無邪気な目が燈里を見つめる。その真っすぐさに燈里は小さく息を呑みながらも視線を逸らさず、浮かぶ疑問を問いかけた。
「睦月ちゃんは久子さんが言うモドキを、本物のヒガタだって思っているの?」
きょとん、と睦月は目を瞬いた。問われた内容を理解するように視線が宙を彷徨い、首を傾げる。
「ヒガタはヒガタだよ?本物とか違うとか、そういうのじゃなくて、ヒガタなんだよ」
答えにならない答えに、燈里は困惑して眉を寄せる。話を聞いていた冬玄がさらに問いかけようと口を開くが、言葉になる前に障子戸が静かに開かれた。
「話の途中で悪いんだけど、朝食できたよ。続きは食事が終わってからにしようか」
翁の面を片手に楓《かえで》が声をかける。
その言葉に、自身が朝食の準備を忘れていたに気づいたらしい。声にならない悲鳴を上げながら、慌てて部屋を出ていく睦月の背を見ながら、楓は小さく肩を竦めた。
「ありがとう、楓」
「どういたしまして。でもあの子、混乱するんじゃないかな。客人に準備をさせたと思ったら、自分が準備をしていたって言われるんだろうからね」
手の中の面を弄びながら、楓は苦笑する。戯れに面をつけると、その姿が揺らぎ、面を除く全身が影に解けていく。ぐにゃりと歪んだ影は誰かの形を取り、再び小さな揺らぎの後、その姿は楓ではなく睦月のものとなっていた。
「起きたのなら、布団を畳まないとね」
睦月の姿をとった楓は慣れた手つきで布団を畳み、ひとつ遅れて燈里もまた自身の布団を畳んだ。
畳んだ布団を部屋の隅に寄せ、楓は面を外して元の姿に戻る。あまりの流れ作業に、見ていることしかできなかった冬玄を横目に燈里の手を取り歩き出した。
「さぁ、まずはしっかりご飯を食べて、聞き込みはそれからだよ。必要なら、山の入口にも行ってみよう」
「うん。そうだね……小正月までに調べておかないと」
楓の言葉に頷き、燈里は僅かに表情を強張らせた。
小正月。改めて残された時間を思い返し、繋いだ手に力が籠る。
「そんなに構えるな。そんなんだと、見えるものも見えなくなるぞ」
燈里の様子に気づいた冬玄が、安心させるように笑い頭を撫でる。大丈夫だと告げられて、燈里の表情が僅かに綻んだ。
「うん。ありがとう、冬玄」
微笑んで背後にいる冬玄に軽く凭れれば、楓は苦笑して燈里と手を離した。少し先を歩けば、冬玄が燈里の横に並び手を繋ぐ。
冬玄と楓の優しさに、燈里の中の不安が消えていく。小さく吐息を溢し、軽くなった足取りで居間へと向かった。
「睦月ちゃん」
朝食後。
片付けを終えた睦月が玄関先で雪かきをしているのを見つけ、燈里は声をかけた。
「なぁに?」
振り向いた睦月の目が、燈里の隣にいる楓に向けられる。途端に眉を下げ、深く頭を下げた。
「楓お姉ちゃん、今朝はごめんなさい。それとわたしの代わりに朝ごはんの準備をしてくれてありがとう」
「どういたしまして。ならそのお礼代わりに色々教えてくれないかな」
「うん、いいよ。わたしが知ってる村のこととか、夢のこととか、何でも教えてあげる!」
笑顔で頷く睦月に、楓も笑みを浮かべながら問いかけた。
「その夢のことだけど、どこまで本当なのかな」
穏やかな口調だが、その視線はどこか鋭い。燈里と夢を共有したとはいえ、それを頭から信じるに足る情報を有してはいなかった。
楓の問いに、睦月は首を傾げる。眉を寄せ考えるように視線を彷徨わせながら、ゆっくりと口を開いた。
「たぶんね、ヒガタに関することは本当なんだと思うよ。うまく言えないんだけど、他の夢とは違うもの。音とか匂いとかがね、強いっていうか、はっきりしてるっていうか……そんな感じ」
「君はヒガタと近いから夢を見るのかもしれないね。巫女かなんかの血筋なのかな」
「巫女?違うよ!」
首を振って、睦月は笑う。くすくす声を上げ、こっちと手招きながら歩き出す。
「わたしが夢を見るのは、きっとご先祖様がすごい人だったからだよ」
そう言って睦月は十字路まで来ると、道の脇にある小さな祠を指さした。
燈里が中を覗くと、中には地蔵菩薩の石像が祀られていた。
「わたしの家は、元々石工をしていたんだって。それでね、ご先祖様にすごいご利益を持った仏像とか作れる人がいたんだってさ」
「確かに……これはすごいな」
目を細め、冬玄が感嘆の息を漏らす。
静かに佇む地蔵は、長くこの村を守ってきたのだろう。冬の空気よりも澄んだ気配に、冬玄は無意識に手を合わせた。同じように燈里と楓も手を合わせる。
「この地蔵様はね、ご先祖様が二十歳の時に作ったんだって。二十歳になったその時に、本物が作れるようになって、村にご利益を与えてくれたんだってばあちゃんが言ってたよ」
「すごい人だったんだね」
「うん!だからね、本物の仏様を作れるご先祖様の力が、ヒガタのことを夢に見せてくれてるんじゃないかな」
誇らしげに睦月は胸を張る。その頭を撫でながら、燈里は冬玄と目を合わせ頷いた。
睦月の見る夢は情報として、信頼できる。燈里は睦月の肩に手を置き、目を合わせて問いかけた。
「睦月ちゃんの夢のこと、もう少し詳しく教えてくれないかな。ヒガタについて知りたいの」
「分かった!あ、でも、ヒガタのことなら浜吉《はまよし》のおじちゃんとこに行った方がいいかも。ヒガタの祭りを始めたのはおじちゃんだって、前にばあちゃんが言ってた」
「浜吉?」
聞き覚えのある単語に、燈里は眉を寄せる。楓も眉を寄せ、あぁ、と思いついたように声を上げた。
「楓?」
「手紙に書いてあった娘だよ。一番最初にヒガタについて行った娘がそうだったはずだ」
言いながらも、楓は眉を寄せたままだ。
ヒガタという来訪神の風習を持ち込んだ浜吉。泣く子を攫うヒガタに、泣かないからとついて行った娘。
削がれたからという言葉。
疑問が渦を巻き、徒に不安を掻き立てる。
「俺が話を聞きに行く。燈里は楓と夢の話を聞いておけ」
「分かった……気を付けなよ。何が起こってもおかしくない状態になってきたからね」
楓はヒガタがいる山を見上げ、守るように燈里と手を繋いだ。
20260110 『20歳』
空には、細い三日月が浮かんでいた。
縁側に座りぼんやりと月を見上げながら、泣けない理由を考えた。
壊れてしまっているのだろうか。それとも、元から非常だったのか。
そのどちらもなのかもしれない。初めて神を見た時、自分以外の何かが入り込んで混ざり合ってしまった。混ざり、どろどろとした上澄みが削がれた後、底に残ったものが本当の自分だったのだろう。
削がれてしまった。胸に手を当て、心の内で繰り返す。
削がれた自分は、弟と共にいってしまった。もう二度と戻っては来ない。
「削がれたのならば、行かなければ」
ふと、思ったことが口をついて出る。
削がれたのならば、自分はきっと怠け者《かばねやみ》なのだ。だから行かなければならない。
浮かぶ月は静かに佇んでいる。まるで幼いころに見た、あの神のように。
「行かなければ」
立ち上がり、部屋へと戻る。開いたままの障子戸を抜け、音を立てぬようそっと戸を閉めた。
かたん、と微かに鳴った戸の音に、はっとして顔を上げた。
気づけば、古い障子戸に手をかけていた。びくり、と肩を揺らして手を離す。
灯りのない部屋は、とても暗い。ここが何処なのか分からず、眉を寄せて振り返る。
暗がりの中に、小さな火が灯っていた。囲炉裏だろうか。その側には、誰かの小さな影が見えた。
息を呑み立ち尽くしていれば、影は手慣れた様子で囲炉裏に火を入れていく。ぱちぱちと音を立て火が大きくなるにつれ、部屋が明るくなっていく。
「睦月《むつき》ちゃん」
「お姉さん。そこは冷えるから、こっちで火に当たるといいよ」
囲炉裏の火から目を逸らさず告げられ、ゆっくりと囲炉裏端に座った。ぱちん、と火の爆ぜる音に、じわりと染み込む熱に、体の力が抜けていく。
「お姉さんも、わたしとおんなじなんだね」
「同じ?」
「うん、そう。これはわたしの夢だけど、お姉さんの夢でもあるでしょ?」
そう言われて、あぁと声が漏れた。
ここは夢の中なのか。囲炉裏の前に手を翳し、確かめるように握り開いて、その動作を繰り返す。
「もうすぐ、ヒガタが来るよ」
彼女の言葉を不思議に思う。陽が暮れる前に、全ての戸は閉めたはずだ。ここは外ではなく、家の中。誰も招き入れる訳でもないのに、どうして入ることができるのか。
「戸締りをしっかりしてても関係ないよ。ヒガタは、家の中で怠けてる悪い子を連れていくんだから」
来訪神とはそういうものだ。中から戸を開け招き入れずとも、家の中に入り怠け、泣く子を戒め、福を呼び込む存在。
思わず手を握り締めた瞬間、玄関から風が吹き込む音がした。
振り返る目の前で、音もなく障子戸が開いていく。その向こう側から現れた異形の存在に、目を見張り硬直する。
青い異形の面。その造形は人よりも獣のそれを思い起こさせた。
その右目から頬にかけて、深いひびが入っている。端は欠けてしまっており、だがその奥に見えるものは何もない。
真っ黒だ。肌も、目も、何もない。
藁蓑をまとう姿は、確かにヒガタに見える。
だが違うのだと、感覚で理解する。今ここにいるのは、姿形こそは似ているが別な何かだ。
「行かないと」
隣で呟く淡々とした声に、驚き視線を向ける。
昼間見た人懐っこい様子とは真逆の、無感情に何かを見る彼女の横顔に、背筋がうすら寒くなるのを感じた。
「泣かない子は、行かないと」
「どう、して……?」
声が震える。
聞かなければいけないと理性が命じ、聞いてはいけないと本能が警告する。
彼女はこちらに視線を向けない。ただ目の前の何かを見つめ、それが当然であるかのように立ち上がり、歩き出した。
「待ってっ!」
咄嗟に手を伸ばし、腕を掴んだ。振り解かれる様子はないが、視線は何かに向けられたまま。
何かもまた部屋に入り込むことはせず、戸の向こう側に佇んでいる。
「行かないと」
繰り返される言葉に、無意識に腕を掴む手の力が緩んだ。慌ててしっかりと腕を掴みなおすが、数歩何かとの距離が近くなった。
この手を離せば、彼女は何かと共に去ってしまうのだろう。そしてもう二度と此方には戻らない。
根拠のない確信に、腕を掴む手が震える。どうかと祈る気持ちで、そっと腕を引いた。
「どうして行かなければならないの?泣いている訳でも、怠けている訳でもないのに」
肩が小さく跳ねた。緩慢な動作で彼女はこちらへと視線を向ける。
「削がれてしまったから。外から入って混ざり合って、溢れた分が削がれてしまった……もう、二度と元に戻れない」
「それって、どういう……?」
「お姉さんはどうして、溢れていないの?」
ひょう、と雪を纏った風が吹き抜ける。思わず目を閉じるが、掴んだ腕を離さないようにと両手で必死にしがみつく。
「どうして?」
それは誰の言葉だったのか。
顔を顰めながら薄目を開けた。
「――っ!?」
目の前に広がる雪に覆われた大地と木々。見上げた空には、白く細い三日月が浮かんでいる。
しゃん、とどこからか鈴に似た音がした。視線を下ろすと、夜の暗がりにぼんやりと、ヒガタに似た何かが佇んでいる。
「ヒガタが来るよ」
彼女の囁きに、何かの面を見る。
面の奥の黒。微かな月の光に浮かぶその黒が、僅かにざらりとした質感を露にする。
石のようなその冷たさに、逃げるように目を閉じた。
「燈里《あかり》」
呼ばれて、燈里は目を開けた。
電灯の灯りに、目が眩む。何度か瞬きをして、小さく息を吐いた。
「冬玄《かずとら》、楓《かえで》」
眉を寄せ、どこか険しい表情の二人に、燈里は何も言わずに首を振る。夢を見ていた気もするが、目覚めてしまった今、その輪郭は酷く朧げだ。
「外から入り込んだモノが混ざる、か……困ったね。これ以上深入りすると、戻れなくなるよ。冬玄との約束はどうするの」
楓の言葉に、燈里は冬玄を見つめた。不安げなその表情に冬玄は嗜めるでも言い聞かせるでもなく、手を伸ばしてそっと頬を撫でた。
「燈里、離れるなよ」
静かに願う冬玄に、燈里は小さく頷いた。頬を撫でる手に触れようと身動ぎ、そこで違和感に気づく。
誰かが隣にいる。朧げだった夢が僅かに輪郭を取り戻し、無表情な誰かの姿を浮かばせた。
「手を離していたら、この子は連れて行かれていただろうね」
苦笑して、楓が布団を捲る。
「睦月ちゃん?」
そこには小さく丸まって眠る睦月の姿。
その小さな腕を掴む自身の手に言いようのない不安を覚えながら、燈里は誤魔化すようにその手を離した。
20260109 『三日月』
少女の案内で訪れた家は、昔ながらの木造の民家だった。
引き戸を開けると、踏み固められた土の間に、吹き込む雪が白を添える。
「ここよ。ちょっと狭いけど、ゆっくりしていってね」
「おじゃまします」
少女に続いて、燈里《あかり》、冬玄《かずとら》、楓《かえで》の三人は中へと入る。雪を払い、広い土間から続く式台に上がり少女が部屋の戸を引くと、ぱちん、と火が爆ぜる音がした。遅れてじわりとした温かさが部屋の外へと広がっていく。
「遠くから、よぉ来てくれたねぇ。ささ、何もないとこだけんど、上がりんしゃい」
部屋の中。囲炉裏の前に腰を下ろした白髪の女性が囲炉裏の火を掻きながら、燈里たちを見て穏やかに微笑んだ。
「ばあちゃん。お姉さんたちね、もうヒガタを見たんだってさ」
「おや、そうなのかい。ならば今年も降りてくるんだろうから、戸締りをきっちりせんばいけんねぇ」
茶を出しながら話す少女に、女性はやはり穏やかに言葉を返す。
どうやらヒガタについて話しているようではあるものの、燈里たちには分からないものだ。
「あの、すみません。そのヒガタについて教えて頂けますか?」
「それと、あなたたちは誰で、何で手紙を送ってきたのかもね」
申し訳なさげに尋ねる燈里とは対照的に、楓は出された茶を啜りながら問いかける。その手にはいつの間にか手紙が握られており、ひらひらと動かしながら女性を見据えた。
「何だべ。何も言わんでここさ連れてきたんか」
「だって雪まみれで話すよりはいいかと思って。ごめんってば」
女性に謝りながらも、少女は手慣れた様子で燈里たちの前に茶菓子を置いていく。楓の湯飲みに新たに茶を注ぎ、女性と自分の分の湯飲みに茶を淹れると、ようやく腰を落ち着け頬を染め笑った。
「わたしね、継枝《つぐえだ》睦月《むつき》っていうの!一月に生まれたから睦月なんだよ。それでね、こっちがわたしのばあちゃん!」
「継枝久子《ひさこ》です」
「あ、私は――」
「手紙について聞きたいんだが、何故ここには誰も知りえないはずの娘とヒガタの話が書いてあるんだ?」
燈里の言葉を遮り、冬玄は手紙の内容についての疑問を切り出した。
咎めるような燈里の視線を気にせず、冬玄の目は鋭く久子を見据えている。
「手紙には、昔ヒガタについて行った娘がいて、その後からヒガタに似た何かが現れるようになったとあるけど、これじゃあ娘が原因で本当のヒガタが変質したようにも捉えられるよね。というか、これじゃあただの三流の創作話だ……この手紙を送った本当の意味は何なのかな」
楓も久子を見据え、疑問を口にする。口元は笑みが浮かんでいるものの、その視線は鋭い。
二人の視線の強さに、燈里と睦月は息を呑んだ。だが久子だけは穏やかな笑みを崩さず、湯飲みを手に取り茶を啜った。
「その手紙は、私が書いたんだ。睦月の見た夢の内容を書き記して、手当たり次第に手紙を送った……あんたたちだけだ、来てくれたんは」
「夢?」
久子の言葉に、燈里は密かに眉を寄せた。自身が今まで見てきた現実との境が分かりにくい夢を思い出し、湯飲みを持つ手に力が籠る。
もし睦月が見た夢というのが燈里の見たものと同じ類のものであるとするならば、自ずと手紙を送った理由はある程度予想はつく。
「睦月はなぁ、時々変な夢さ見る。ただの夢と区別はつかんが、手紙に書いた夢の内容だけは確かだ」
「何故言い切れる?」
「この娘を知ってるからねぇ」
口調こそは穏やかだが、その声音はどこか悲痛に沈んでいる。過去の後悔を寂しさを思い起こすように、茶うけに出された金平糖を伸ばす。
色とりどりの金平糖の中から、白と赤を手に取る。掌で転がして久子は懐かしむように目を細めた。
「咲子《さくこ》はなぁ、一番の友達だった。しっかりもんで家の手伝いもよぉやるええ子でな、弟が生きてた頃は進んで面倒も見てたもんだ」
また一つ、今度は青の金平糖を掌に乗せる。赤と離すように、白と青を転がした。
「咲子がいねくなったことは、朝に知った。雪かきさしてっときに、大人たちが慌てて村中を駆け回ってな。咲子ぉ、咲子ぉって、呼ぶんだ。咲子のおっかさんが泣きながらうちんとこさ来てな、咲子が来てねぇか聞くんだ……結局、見つかんねかった」
白の金平糖をつまみ、久子は口に放り込んだ。口の中で転がして、小さく息を吐く。
「モドキが出たんは、その次の年だ。山の入り口にぼぅっと突っ立っててなぁ、一目でちげぇって思った。皆怖がって家から出んかったのになぁ……」
ころころと金平糖を転がし、久子は呟く。青が赤に近づきぶつかって、久子はその二つを口にする。何もなくなった手のひらを見て、疲れたように笑った。
「手紙さ書いたんは、何があったんか知りたいのもあるが、誰かに覚えててもらいてぇって思ったからだ。咲子んこと、ヒガタんこと……この村の小正月の祭りんことも、全部なくなってくんが寂しくてなぁ」
「久子さん……」
何も言えず、燈里は目を伏せた。
久子は何かを求めている訳ではない。多くを諦めて、せめて僅かでも残ればと、そう思っているのだろう。
「ありがとうな。こんな遠いとこまで来てくれて、話さ聞いてくれて。今夜はご馳走にするから、泊まってけ。ゆっくりしてってな」
俯く視界に、茶請けの皿が映る。金平糖や落雁、大福など、色とりどりの和菓子が燈里たちのために盛られている。
一つ、黄色い金平糖に手を伸ばす。手の中で転がして、燈里は静かに顔を上げた。
「ありがとうございます。しばらくここにお世話になってもよろしいでしょうか?」
「あぁ、好きなだけいるといい。ただ、夜は外に出んでくれ。外に繋がる戸を開けてもいけないよ」
ヒガタが来るから。
そう告げる久子に、燈里は手の中の金平糖を握りしめて、礼をした。
20260108 『色とりどり』
その村は、降り続く雪に閉ざされようとしていた。
「ここ、だよね?」
辺り一面の雪景色に、燈里《あかり》は手紙に書かれている住所に目を通しながらも眉を下げる。まだ昼前の時間だというのに、村はひっそりと静まり返っていた。
「ここだよ。間違いないから大丈夫」
戯れに足元の雪を蹴り上げながら、楓《かえで》は肩を竦めてみせる。燈里よりも小柄な彼女では雪道を歩くだけでも一苦労だ。
「楽しめって言われても、楽しむもんは何もねぇな」
雪に埋まりかける楓を抱えあげ、冬玄《かずとら》は眉を顰めて溜息を吐いた。村を一瞥するその表情には、不満や疲労が浮かんでいる。
「ご、ごめんね。まさかこんなにも過疎化しているなんて思わなくて」
二人の様子を見て、燈里はさらに眉を下げる。正月の休み疲れが抜けない内に、朝早くから電車とバスを乗り継ぎ車を借りて訪れた場所がこんなにも人気のない村であるとは予想していなかった。
雪かきの跡がなければ、それこそ廃村だと言われても納得してしまうほどに村には人の気配がない。まるで何かから隠れ、やり過ごそうとしているようにも思えて、燈里は不安に視線を彷徨わせた。
「あれ……?」
何気なく山の方へと視線を向けた時だ。雪の白とは違う色を認めた気がして、燈里は首を傾げた。
目を細め、違和感を覚えるその場所を注視する。白とは違う深い青。木肌とは異なる藁蓑に小さく息を呑んだ。
離れていても、何故だかはっきりと見える。どこか獣にも似た青い面は、右目から頬にかけて大きくひび割れ欠けてしまっている。だが、その奥に見えるだろう顔はおろか、目すらも黒く塗りつぶされたように僅かにも見えない。大柄な男の影が面を被り、藁蓑を纏っているかのようだ。
その右手に握られているものを見て、燈里は眉を寄せた。刃物にしては細く長いそれは、杖のような印象を受ける。
それが何であるのか。さらに目を凝らすと、不意に視界が黒に染まる。
「冬玄?」
香る蝋梅に燈里は冬玄の名を呼ぶ。目を覆う手に触れれば、外される代わりに肩を引き寄せられた。
「何を見ているか知らんが、あまり山を見るんじゃない。魅入られるぞ」
優しく、それでいてどこか険しさを滲ませる冬玄の言葉に、燈里は小さく頷いた。
人ならざるモノに魅入られることの恐ろしさは、彼女自身痛いほどに理解している。心を鎮めるように目を閉じ、一つ深呼吸をしてから目を開けた。
もう一度山に視線を向けるも、雪以外に見えるものはなかった。
「ねぇ、冬玄。何か感じる?」
視線を逸らすと、燈里はふるりと肩を振るわせた。燈里の問いに、山から隠すように強く抱き寄せながら、冬玄は囁いた。
「いろいろ、だな。信仰や未練なんかが全部混ざってる感じだ」
「山ってそういう場所だからね。畏れ、祈り、喜び……与えられるものに感謝して、奪われるものに執着する。それらがどろどろと混ざってひとつになって、山に満ちているんだよ」
冬玄の言葉に付け加え、楓は溜息を吐いた。
「燈里が見たのは悪いモノじゃない。ないんだけど、混ざり過ぎてよく分からないな。ただこの場所は、山と村の境界が他よりも強く感じるね」
笑顔の中に困惑を色濃く浮かばせ、楓は山を一瞥する。
楓は燈里がまだ学生時代の時、とある廃村の怪異に巻き込まれた際に出会った妖だ。その後紆余曲折を経て、今は彼女の記憶や感情を共有する存在となった。
同じものが見えた故の楓の言葉に、冬玄は眉を顰める。
「何を見た?」
燈里に害のあるモノか否か。冬玄にとって、重要なのはそれだけだ。
危うさすら感じられる冬玄の思いに、楓は苦笑する。しかしそれには何も言わずに、多分と前置きしつつ答えた。
「ヒガタ。多分擬きかな?境界の向こうにいるせいか、はっきりと断言することはできないな。情報もほとんどないしね」
「おじさんたち、ヒガタを見たの?」
不意に見知らぬ声がして、冬玄は燈里を腕の中に隠すようにしながら振り返った。
いつからいたのか。村の入り口で少女が一人、こちらを見ていた。
「村の子?ねぇ、他の人間はいるかな?」
警戒心を隠し、楓は笑みを浮かべて少女に近づいた。楓と然程変わらぬ年頃に見える少女は、屈託のない笑顔を浮かべ頷く。
「いるよ。でも今の時期はほとんど誰も出てこないの。ヒガタが来るからね」
「あんたは出てていいのかよ」
身動ぐ燈里を抑えつつ、冬玄は問いかける。燈里の性格をよく知る二人は、お互い目配せし必要な情報だけを得ることに決めたようだ。
「わたしはお迎えに来たの。だっておじさんたち、手紙を読んできてくれたんでしょう?」
「あの手紙、君が書いたの?」
「それも全部お話しするから、わたしの家に来て。ばあちゃんに会って欲しいの」
少女の言葉に冬玄と楓は顔を見合わせる。
深く関わり合いになるつもりはない。だが話を聞かねば、燈里の仕事にならない。
悩むのは一瞬。
会話に混ざろうと踠く燈里を宥め、冬玄は静かに告げた。
「分かった。行くか」
「ありがとう!こっちだよ」
先導する少女について歩き出す。
「冬玄」
「あまり深入りするなよ、燈里」
「う、うん。気をつける」
結局は無駄だろうと冬玄は密かに嘆息した。
優しい燈里のことだ。相手に心を砕き、自身を犠牲にしても最良に向けて動くのだろう。
楓も同じように、考えているらしい。目が合い、お互いに眉を寄せた。
「気をつけてね。毎年、この時期だけは雪がたくさん降るの。小正月を過ぎると落ち着くんだけどね」
先を行く少女は、慣れたように雪かきの跡が残る道を歩いていく。それに続きながら、燈里は手紙の内容を思い出す。
ヒガタ。泣かない子供。雪。
見上げる山は、雪の白に覆われている。
そこにいるだろうヒガタという名の来訪神を思い、燈里はそっと冬玄に寄り添った。
20260107 『雪』
囲炉裏端で少女は姿勢を正して座り、訪れるはずの神を待っていた。
今年も、何事もなく年が明けた。やがて、山から神が降りてくるのだろう。
小正月になると、この村には来訪神が訪れる。山から村へと訪れ、家々を巡り歩くという。
少女の家にも、毎年のように来訪神が訪れていた。もっとも、それは村の男たちが来訪神に扮していたものではあったが。
だが一度だけ少女の家に、本当の来訪神が訪れたことがある。七年前の小正月の晩に訪れた来訪神は、泣きじゃくる少女の弟を戒めるでもなく、両親や祖父母に気にかけられることもなく、ただ静かに玄関に佇んでいた。
音もなく開く戸。風や火の音以外に何も聞こえなくなる感覚。七年経った今も、少女ははっきりと思い出すことができる。
不意に、家の外が騒がしくなってきた。村の男たちが扮した来訪神が訪れたのだろう。
がらがら、と戸が開けられる。異形の面を被り、藁蓑《わらみの》を纏い、手には刃を持った来訪神の訪れに、だがその姿に怯える子供は少女の家にはいない。少女の弟は本物の来訪神が現れた年の二月、春を待たずして流行り病で亡くなった。
「おめは、ほんっとに泣がね子だな」
どこか呆れを滲ませながら笑い、来訪神に扮した男は少女の頭を一撫でしてから去っていく。
少女は表情を変えず、微動だにしない。ぴん、と伸びた背を崩すことなく、男が去った後も玄関を見つめていた。
両親と祖父は、男について家を出た。この後、村の集会場で行われる祭りに参加するのだろう。その準備で祖母は昼過ぎから家を出ており家にはいない。
今この家にいるのは、少女だけだった。
ひょう、と風が鳴いた。ざ、ざ、と土を踏みしめ歩く音が近づいてくる。
僅かに目を細め、少女は玄関の戸が開くのを待った。やがて音もなく戸が開かれるのを見て、ゆっくりと立ち上がる。
入ってきたのは、先程の男のように異形の面を被り、藁蓑を纏った大柄な神だった。少女と向き合い、面越しに視線を交わす。
お互い何も語らず、聞こえるのは吹き込む風がかたんと戸を鳴らす音や火が爆ぜる音くらいなものだ。
「――削がれているな」
低くもなく高くもない声が、部屋に落ちた。吹き荒ぶ風に似ている声だった。
「削がれたわ。火班《ひがた》の代わりに削がれて、弟と共に連れていかれてしまった」
ぱちん、と囲炉裏で一際大きく火が爆ぜる音がした。
「だから行く。あなたと一緒に」
迷いのない声音だった。視線を逸らさない少女を暫し見つめ、来訪神は何も言わずに去っていく。
その後に、少女は続く。家を出て、山へと向かい歩いていく。
不思議なことに、来訪神が訪れる時には聞こえていた足音は今は少女のものだけだった。足跡すら残さず進む来訪神の姿に少女は僅かに目を細めるが、進む足取りに恐れはない。
村の集会所は、山の入り口とは正反対の方角にあった。それ故か少女を見咎める者は誰もいない。
遠く聞こえる祝いの音を背に、無言のまま少女は歩き続けていた。来訪神の後に続く少女の足跡が、家から山へと続いていく。
そして、来訪神と少女が山へと消えた後、厚い雲に覆われた空から雪が降り始めた。
しんしんと降る雪は一晩中村に降り積もり、辺りを白く染め上げていく。
そして小正月の祝いを終えた村の大人たちが家々に戻る頃。
少女の姿は村から忽然と消え、いくら探しても二度と見つかることはなかった。
それ以降、この村の小正月の晩には、来訪神に似た何かが現れるようになった。
異形の面を被り、藁蓑を纏ったその姿は来訪神のもの。だが、左目から頬にかけて大きくひび割れた面や、怠け者や泣く子を戒めるでもなく佇むその姿に、村の誰しもが眉を顰めた。
「あれはヒガタじゃねぇ」
「似ているが、違う。別のもんだ」
「おっかねぇ。泣ぐ子でねくて、泣かん子を攫っちまうモドキだ。浜吉の娘っ子も、そうだったんでねぇべか」
その何かが現れてから、次第に村は小正月に来訪神を拒みはじめ、小正月の祝いも行わなくなった。
そして月日は流れ。
風習は朽ち、今では村に残る僅かな住人が記憶に留めているだけとなった。
宮代燈里《みやしろあかり》がその来訪神について知ったのは、務める出版社に届いた一枚の手紙からだった。
「よくある怪談話の一つだ」
コーヒーを片手に、編集長である南方夏煉《みなかたかれん》は淡々と告げた。
「うちは民俗誌だというのに、相変わらずこういった類の話が紛れ込んでくる。気にするな、宮代」
「ですが……」
手紙に目を通しながら、燈里は眉を寄せる。
とある村に伝わるヒガタと呼ばれる来訪神。その神に似た何かが村人を攫って行く。
よくある話だ。元を真似た怪異が人に害をなす話はありふれており、特段珍しいものではない。
だがこのヒガタと呼ばれる来訪神が気にかかる。泣かぬ娘を連れていったという神。何故、娘を連れて行ったのか。何故、何も言わずに家の中に佇んでいたのか。
この手紙が、まったくの創作という可能性は大いにある。それでも燈里は気になって仕方がなかった。
「止めはしない。進めることもないがね」
そんな燈里を一瞥し、夏煉はコーヒーを煽る。追加のコーヒーを取りに席を立ちつつ燈里の頭を撫で、苦笑した。
仕事始めなのだから、あまり負担になるような仕事はさせたくはないというのが本心ではあった。ただでさえ昨年は色々なことに巻き込まれ、精神的な負担が強かったはずだ。
だが同時に、夏煉は燈里の望むことはできる限り叶えてやりたいとも思っていた。
そんな相反する思いをおくびにも出さず、夏煉は普段と変わらぬ淡々とした口調で告げる。
「小正月に現れる来訪神は、本来は春を告げ、五穀豊穣や豊漁をもたらす存在だ。肩の力を抜いて、旅行を楽しむくらいの余裕を持っていけばいい。どうせなら、婚約者と一緒に行ったらどうだ?そいつの旅費くらいは私が持とう」
「そ、そんな、申し訳ないです!」
頬を赤く染めながら、燈里は必死に首を振る。どこまでも真面目で控えめな部下に、夏煉は気にするなとばかりに肩を叩き、給湯室に向かいながら手を振った。
「私からのお年玉だと思えばいい。くれぐれも無理はせず、婚約者と楽しんでおいで」
「っ、ありがとうございます」
頬どころか耳まで赤くしながら、燈里は夏煉の背に頭を下げる。
恥ずかしさと申し訳なさで、落ち着かない。熱の引かない顔で視線を彷徨わせ、何気なく窓の外を見た。
「雪……」
厚い雲に覆われた、重たさを感じる空。
しんしんと、雪が降り始めていた。
20260106 『君と一緒に』