sairo

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10/10/2025, 10:00:27 AM

涼やかな風が、甘く切ない香りを運ぶ。
また秋が来たのか。ぼんやりと空を見上げ、そう思った。
浮かぶ月は僅かに欠けてはいるものの、美しさは損なわれてはいない。月は春よりも鋭く、夏よりも冴え冴えとして、そして冬よりも蠱惑的だった。
息を吸い込み、漂う金木犀の香りを取り込む。
くらくらとする甘さに、ほんの僅か胸の痛みを覚えた。
それはいつかの、静かな恋の痛みによく似ている気がした。

不意に風が強くなった。
背を押されているような錯覚に、けれど自然に足は帰路から逸れて歩き出す。
呼ばれている。そんな気がして、足は止まらない。
傷つきたくない。そんな思いを、会いたい気持ちが塗り潰していく。
息を吸い込み金木犀の香りを取り込む程に、会いたい気持ちが強くなる。
今年もまた、繰り返すのか。
諦めにも似た感情に、俯き足を速める。
自嘲して見上げた空には、変わらず白い月が煌々と照っていた。



古びた神社の裏手。咲き乱れる金木犀の根元に人影を認め、息を呑む。
男の人。金木犀を見上げていた目が、こちらに向けられる。

「こんばんは」

柔らかな声音に、唇を噛みしめた。泣くのを耐えて、無理矢理に笑みを形作る。

「こんばんは。とても綺麗な金木犀ですね」

ここに金木犀があることを最初から知っていながら、さも初めて気づいたというように嘯いた。これ以上彼に近づかないように、さりげなく空を仰ぐ。

「少し欠けているけれど、月も綺麗。たまには寄り道をしてみるものね」
「それは良かったですね……けれど、こんな寂れた場所に女性一人が訪れるのは感心できませんよ」

横目で覗う彼は、眉を下げて心配そうな表情をしていた。
いつまでも変わらない、優しい彼に一瞬だけ表情が崩れてしまう。
記憶だけをなくして、けれどその本質は変わらない。優しい所も、子供みたいな好奇心旺盛な所も、きっとそのままなのだろう。
じわりと月の輪郭が滲み出した。

「そうね。今度からは気をつけるわ、ありがとう……風に乗って、金木犀の香りがしたの。気になってここまで来てしまったけど、確かに軽率だったわ」

彼に背を向ける。
この出会いを、彼はこの秋の間、覚えてくれるだろうか。そんな淡い願いを思いながら、歩き出す。
だけど覚えていてくれた所で、来年にはまたすべて忘れてしまうのだ。そして何もかも忘れた彼に出会うため、金木犀の香りに誘われて、来年も自分はこの場所を訪れるのだろう。
馬鹿だなと自嘲しながら、涙を拭い石段に足をかける。
今年はもう、ここへ訪れることはないのだろうと思い、最後に一度だけ振り返った。

「――あのっ!」

こちらを見つめる彼が、声を上げた。
今までなかった彼の反応に、びくりと肩が震える。どうすればいいのか分からず固まっていると、彼は大きく息を吸い、さらに声を張り上げた。

「お願いがあるのですが!」
「お願い……?」

戸惑いに、視線を彷徨わせる。
それ以上彼は何も言わない。ただ静かに戻って来るのを待つ姿に、足は自然と動き出していた。
怖い。それ以上に、初めての変化に期待が胸に灯り出す。
どこか夢見心地な足取りで彼の側に寄ると、淡く微笑んだ彼が金木犀の根元を指差した。

「掘り出して欲しいんです。俺は触れられないけれど、ここに来た貴女なら掘り出せる」

お願いします、と頭を下げられてしまえば、拒否することはできない。
彼の指差す根元へ近づき、膝をつく。そっと土を掻けば、思ったよりも簡単に掘り進めることができた。

「――あ」

そして出てきたのは、小さな木箱。埋められたばかりのように綺麗な箱を掘り出せば、かさりと小さく音を立てた。
何が入っているのだろう。土を払いながら見つめていると、不意に伸びた彼の手が木箱の蓋を外した。
瞬間、息を呑んだ。

「これ……」

中に入っていたのは、古ぼけた数枚の写真だった。
自分と彼の、初めて出会った頃に撮った写真。懐かしいそれにまた涙が滲み出す。
どうして、いつから。いくつもの疑問が湧き上がるのに、震える唇からは嗚咽を噛み殺した吐息しか出ては来ない。視線は写真から逸らせず、彼が今どんな顔をしているのかも分からなかった。

「あぁ、やっぱりそうか」

静かな声と共に、後ろから抱き締められた。甘い香りが強くなり、意識がぼんやりとし始める。

「花と共に、記憶は散ってしまう。けれどその花が大地に還り、根が取り込んで木の内に溜め込むんだ……すべてを取り込むことはできず断片的なものだけど、切っ掛けさえあれば、こうして思い出すことができる」

柔らかな声が語る言葉が、風に乗って去って行く。
瞼が重い。抱き締められる温もりが強い香りと混じり合い、どんどんと意識が沈んでいく。

「少し眠って。そして起きたら、たくさん話をしよう。記憶が散っても少しでも多く取り込めるように……だから今はおやすみ」

視界を手で覆われて、金木犀の香りがさらに強くなる。
それを最後に、懐かしい過去の夢へと落ちていった。



眠ってしまった女を抱いたまま、男は木の幹に凭れて座る。
彼女の手から木箱を取り、中から写真を取り出す。まだあどけない少女と変わらない自身の姿に、男は小さく息を吐いた。

「俺も人間であったならば」

眠る女の頬を伝い落ちる滴を拭い、男は幾度となく願ったもしもを想像する。
人として出会っていたならば。
別れも忘却もなく彼女と季節を過ごし、やがては結ばれていたのだろうか、と。

「あぁ、でも。俺が人間だったなら、出会うことすらなかったのか」

女が少女であった時、花の香りに誘われてこの人の絶えた神社まで来た。
花を綺麗だと笑い、良い香りだと目を細める。純粋な少女に、男は恋をした。
最初から結ばれぬと分かっていた恋。それでも男は少女の前に姿を見せ、花が咲く間訪れた彼女との逢瀬を楽しんだ。
彼女との出会いを、思いを育んだ選択を、男は後悔してはいない。ただ、秋の終わりと共に散っていく記憶が惜しい。
風が吹き抜け、金木犀の花を散らしていく。強い香りと共に空を舞う花に手を伸ばし、男はどうか、と唇を震わせた。
「まだ、散らないでくれ。どうか――」

もう少しだけ。散って尚、消えない記憶を刻むまで。
彼女を忘れたくはない。彼女がいつかすべてを忘れ、訪れなくなることが寂しい。
彼女を愛している。年老いた木が人に恋する滑稽さを理解しながらも、彼女を想っている。
だからどうか、と。

見上げた月は、凍り付いたように動かない。風は止まり、音が消えていく。
代わりに一際強くなる金木犀の香りに、男は一筋涙を流しながら、腕の中で眠る愛しい人を掻き抱いた。



20251009 『秋恋』

10/9/2025, 9:55:29 AM

彼はまるで風のような存在だった。
気まぐれに擦り寄り、けれど次の瞬間には冷めたように離れていく。手を伸ばしてもするりと擦り抜け、繋ぎ止めておくことができない。
彼は、きっと自由な風なのだ。彼の笑顔を見るたびそう思う。
風に恋をしても空しいだけ。何度も自分に言い聞かせた。
繋いでいた手を離す。何も気づかないで歩いていく彼の背中に、心の内で囁いた。

――好き。大好き。愛してる。

だから手を離すのだ。

10/8/2025, 9:50:48 AM

虫の音も聞こえない、静かな夜。
空を見上げても、星も月も何一つ見えなかった。
ほぅ、と吐き出す息が白い。秋の彼岸を過ぎて、夜はめっきりと涼しくなった。
もう一度息を吐き、手を擦り合わせる。その微かな音すら、夜は呑み込んでいった。

とても静かだ。

一人きり。
誰一人おらず、何一つない。
暗い世界で、ぼんやりとそう思った。

10/7/2025, 9:33:10 AM

数日前に色づき始めたばかりだった山は、燃えるような赤に彩られている。
数日前まで、常に付き纏っていた足音や声は聞こえない。それに安堵しながらも、石場《いしば》はどこか物寂しい気持ちを抱えていた。
あの日。割れた道祖神の妹神を刻んでいた時。
石場の内には、初めて強い衝動に駆られていた。今まで作り上げてきた作品など、遠く及ばない程の傑作ができあがる。そんな確信めいた思いで、只管に鏨《たがね》を握り続けていた。囁きを聞き、石に浮かび上がる形を掘り出していたあの手の感触は、未だに忘れられない。

「大丈夫?何かあった?」
「鳴海《なるみ》さん……」

心配げに顔を覗き込む鳴海に、石場は何もないと首を振る。
石場の母の従姉妹である彼女は、石場が妹神を掘り出した後も残っていた。こうして外に出られるようになったものの、酷く怯えていた頃を知っていたためか心配になるらしい。

「大丈夫です。いつの間にか赤くなった山に驚いただけで」
「確かにね。寝て起きたら真っ赤になってたら、誰だって驚くよね」

山へ視線を向けながら、鳴海は苦笑する。

「少し歩かない?」

彼女の提案に石場は頷き、二人並んでゆっくりと歩き出した。



互いに何かを言うことはなかったが、足は自然とあの採石場へと向かっていた。
採石場はあの日以降、再び人を拒むように張り詰めた雰囲気を漂わせている。昼間でも仄暗い陰鬱さを纏い、訪れる者が境界を越えぬよう警告していた。
鳴海は何も言わない。周囲の木々を見つめるその横顔からは、彼女が今何を思っているのか察することはできない。
不意に、風が吹き抜けた。ひやりと冷たさを感じる風は、秋の風だった。
鳥居の前で立ち止まり、石場は鳴海を見つめた。
今なら聞ける気がする。
そう思った。

「ひとつ聞いてもいいですか?」
「ん?なに?」

鳥居を見つめていた鳴海の視線が石場に向けられる。それに意味もなくたじろいで、石場はひとつ深呼吸をした。

「南方《みなかた》さんって……どんな方なんですか?」
「どんなって……」

真剣な表情の石場に、鳴海は苦笑した。
記憶を辿るように目を細め、南方との思い出を愛おしむように口元が笑みを形作る。

「匡時《ただとき》くんが見た感じ、そのままだよ。何でも知ってて、どんな時でも落ち着いてて、カフェイン中毒で……他人からの評価なんて全然気にしない」

石場の脳裏に、制服姿の南方が缶コーヒーを飲む姿が過ぎていく。周囲の視線も話し声も一切を気にせず、堂々と学生生活を送っている姿を想像して、石場は何とも言えない顔をした。

「何というか……不思議な人なんですね」
「そうだねぇ。不思議というか……人じゃないのかもしれないねぇ。夏煉《かれん》は」

穏やかに、優しく鳴海は語る。

「小学生の頃から一緒にいるけど、夏煉について何も知らないの。どこに住んでいるとか、家族のこととか……今まで知らないことを、疑問にすら思わなかった」
「それって……怖く、ないんですか?」

知らないこと、分からないことは恐怖を生み出す。石場にとって、道祖神の足音や声がそうであったように。
だが鳴海にとっては、どうやら違うようだ。石場の言葉にきょとりと目を瞬かせ、暫し考えた後に口をついて出たのは、どうしての四文字だった。

「え……だって、人じゃかもしれないんですよね?」
「でも夏煉は夏煉だよ?カフェイン中毒で、時々天然な、私の友達。そこは変わらないでしょ?」

当然だろうと鳴海は言うが、石場は納得いかない様子で眉を下げ視線を彷徨わせる。それに小さく笑って、鳴海はあのね、と呟いた。

「夏煉の神楽を見て、匡時くんは感化されたでしょ?そうやって自分にいい影響を与えてくれる誰かがいたとして、その誰かが例えば幽霊だったとか、おばけだったりとかってそんなに重要かな」

言われて、確かにと石場は思う。
心を震わせるような神楽を舞う南方や、互いに切磋琢磨し合う誰かが人か人でないかなど、些事かもしれない。

「いつか教えてくれたら嬉しいとは思うけどね。でも、夏煉のことだから、説明が難しいんだろうな」

ぼやいて鳴海は笑う。釣られて石場も笑った。

「俺、大学に戻ったら、卒業制作に南方さんを掘ろうと思います」
「そっか。頑張ってね」
「はい……また、会えますよね?」

秋晴れの空より晴れやかな気持ちで、石場は尋ねた。
聞かずとも、答えは分かっている。そんな表情で。

「会えるよ。匡時くんが会いたいと強く望むのならね」

それに鳴海の笑顔で答える。当然だと言わんばかりに、堂々と。

風が吹き抜けた。
赤く色づいた葉が風に舞い、視界を鮮やかに染め上げる。
紅葉の向こう側で、ここにはいないはずの南方の姿が見えた気がした。
静かに微笑むその目は、紅葉よりも鮮やかだ。赤く揺らめく炎の如く燃え続け、煌めいている。

――美しい。

素直にそう思う。彼女には赤がよく似合う。
誇り高く、苛烈で、それでいて慈悲深い。夏を思わせる南方は、この燃える赤を宿した葉よいも鮮やかだ。
何故だろうか。そんな気がして、二人は笑い出した。





「――あぁ、明日は問題なく出勤するよ。申し訳ないね。休暇を一日延ばしてもらって」

青白い月明かりの下。南方は電話越しの相手に、微笑んだ。
周囲には誰の姿もない。永遠の夜に閉ざされた採石場に、南方の声だけが響いている。

「気にしなくてもいい。それに、たまには私もこうして足を運び、実際に触れなければと思っていた。良い機会だったよ……まぁ、そちらに負担をかけることになってしまったのは申し訳ないがね」

石場が掘り出した道祖神の妹神は、静かにそこに在った。見えない誰かに寄り添うように、目を閉じ微笑みを浮かべている。

「大丈夫だ。そちらこそ無理はするなよ。特に最近は、負担の多いモノらに巻き込まれていただろう?」

不意に風が吹いた。
南方の髪や服を揺すり、妹神の隣で渦を巻き。そしてそれは、揺らいで男神の形を取った。
兄神。町の辻に残された、道祖神。
離れていた二柱が、ようやく再び番うことができたのだ。

「そうだな、お互い様か。ならば今夜は早めに休むとするよ。ではな――おやすみ、宮代《みやしろ》」

微笑みを浮かべ、南方は電話を切った。
寄り添う二柱を見て、その笑みは深くなる。

「今回は本当に良いものが見れた。鳴海には感謝しなければな」

南方の影が揺らいだ。それは浮かび上がり、翁の面を南方に差し出した。
それを手に取り、道祖神の前で礼をする。

「二柱のために、舞わせてもらおう。再会と、そして再び人間に認識されたことを祝して」

面を着け、南方は神楽を舞う。夜の空間に、夏の風が吹き抜ける。
月が笑い、道祖神の二柱が微笑む。揺らぐいくつもの影が、笛や太鼓、笙や琵琶などを奏で始める。
南方しかいないはずの採石場は、いくつもの気配で満たされていた。
鳥居の向こうから吹く風が、外の赤く燃える葉を呼び込んだ。葉を高く舞い上げ、南方へと降らせていく。
燃える葉と、夏を纏った南方。
二つの赤が、月の青に色を添えていた。



20251006 『燃える葉』

10/6/2025, 9:51:42 AM

石場《いしば》に案内された採石場は、異様な気配を漂わせていた。

「なるほど。ここは彼方側に近いのか」

古ぼけたしめ縄と簡易的な鳥居を前に、南方《みなかた》は興味深げに辺りを見渡す。不気味に静まり返る辺りの異様さに忙しなく視線を彷徨わせている石場と、身を竦める鳴海《なるみ》とは対照的だ。

「ね、ねぇ!本当に大丈夫なの?お供えとかさ……何にも持たないで来ちゃったけど」

鳴海の言葉に、石場も不安げに南方を見つめた。だが南方は、落ち着いたままだ。
鳥居に触れ、口元に緩く笑みを浮かべた。

「最低限の手入れはしていたようだ。まぁ、何とかなるだろう」
「何とかって……」

嘆息する鳴海を気にかけることもなく、南方は鳥居から手を離す。
いつの間にか、逆の手には面があった。古めかしい、翁の面。
それを弄びながら、鳥居から数歩離れ空を仰いだ。

「良い天気だ。あの子の神楽を舞うのは久しぶりではあるが、これなら上手くだろう」

笑みを深め、南方は迷いなく面をつけた。
ゆるりと腕が持ち上がる。軽やかに足が地を蹴り、指先が張り詰める空気を撫でていく。
不意に風が吹き抜けた。それは真夏のような熱を孕んで、周囲の木々やしめ縄を揺する。
しゃん、と鈴の音が聞こえた気がした。南方の動きに合わせ、涼やかに鳴っている。

「――すごい」

思わず、鳴海は呟いた。石場は声もなく、食い入るように神楽を見つめている。
時に神仏を掘ることもある両親よりも、この採石場を閉めた祖父よりも厳かで、神々しくもあった。
石場は神楽を見ながら、硬く拳を握り締めた。込み上げる何かは、周囲を漂う風よりも熱く激しい。
石と向き合いたい。想いを形にしたい。
衝動が心の内で暴れ狂い、一歩足を前に進ませた。

「ちょっ、待って……!」

慌てて鳴海は石場の腕を掴んだ。熱に浮かされ夢見心地だった彼は、肩を震わせ目を瞬いた。

「あ……俺……」
「きっと、まだ駄目だよ。終わるまで待とう?」

鳴海の言葉に、石場は何も言わずに頷いた。そしてまた南方を見つめ、心の中の衝動を膨らませていく。
まるで夏の陽射しを浴びて成長する草花のように。

やがて南方の動きがゆったりとしたものへと変わっていく。終わりが近いのか、吹き抜ける風が纏っていた熱が冷めていく。
しゃん、と。最後に鈴の音がどこからか響き、南方の動きが止まった。
深く礼をする。柏手を打つと、ぴたりと風が止んだ。
次の瞬間。一際強い風が鳥居へと向けと吹き抜ける。

「うわっ!」
「きゃっ……!」

風の勢いに、鳴海と石場はよろめいた。倒れぬよう足に力を入れるものの風の勢いは衰えることを知らず、鳥居に向かい足が進んでしまう。

「許可が下りたんだ。このまま進んで問題ないよ」

面を外した南方が事もなげに告げ、鳥居の向こう側へと歩いて行く。

「ちょっと……問題しかないんですけどっ!」

相変わらず説明の足りない南方に、鳴海は半ば叫ぶように声をかける。だが彼女が振り返る様子はなく、仕方がないと諦めの気持ちで、石場と共に鳥居の向こう側へと足を踏み出した。



「――え?」

鳥居を抜けた瞬間一変した景色に、鳴海は困惑した。
高く昇っていたはずの陽は沈み、中天には青白い月がかかっている。
星は見えない。吹き抜けていた風も止まり、静寂だけが場を満たしていた。

「なんで……夜?」
「ここは彼方側に近いからさ」
「だから意味が分からないって」

益々困惑する鳴海に、南方は肩を竦めた。だがそれ以上答える気はないようで、彼女は辺りを見渡した後、石場を見つめた。

「声が……」

眉を寄せ、呻くように石場は呟いた。鳥居を抜けた後から絶えることなく、周囲から声が聞こえているのだ。
囁きや笑い。嘆きや叫びがぐるぐると渦を巻いている。

「声?」
「石の声を聞いているのだろう。やはり石工の才能があるな」

心配そうな鳴海とは対照的に、南方は喜色に笑みを湛えている。近寄ろうとする鳴海を止めて、石場に声をかけた。

「声の中から妹神を探せ。その後は、お前の衝動のままに石を彫り進めばそれでいい」

南方の言葉に、石場は眉を顰めたまま頷いた。
耳を澄ます。数多の声の中から、ただひとつを探し出す。

――あに……

不意に聞こえた微かな声に、石場は目を向けた。
声に導かれるように足を進める。奥まで来ると膝をつき、月明かりに浮かぶ剥き出しの岩肌にそっと手を触れさせた。

「声の導くままに、直接彫り込め。それだけでいい」
「――はい」

背負っていたリュックを下ろし、中から鏨《たがね》と鎚《つち》を取り出す。震える手で鏨を握り、岩肌を見据えた。
ぼんやりとした靄が、岩の内側で漂っている。それを掘り起こすように鏨を当て、鎚を打った。



「本当に大丈夫なの?」
「問題ない。彼には石の中の妹神が見えているようだからな」
「いや、それもそうなんだけどさ。ここで割れた道祖神の片方を掘っても意味がある訳?しかも割れてたのは何個もあるのに、一つだけなんて」
「元がひとつなのだから、ひとつで十分だろう」
「だから全然分からないってば」

溜息を吐く鳴海に、南方は石場を見つめたまま答えた。

「私は戻ってから原稿を書くつもりではあるが、それはひとつだ。だが原稿はいくつか手を加えられ、民俗誌として複数になる。そういうことだ……ここで掘り起こす理由は、ここが彼方側と近く、そして二柱が繋がっているからだとしか言えないが……鳴海が私を忘れず連絡をして、私がここにいる。目に見えない繋がり、縁《えにし》が、道祖神の二柱にある。ということさ」
「繋がり……何となく分かるような、やっぱり分からないような」

首を傾げながらも鳴海はそれ以上何も言わず、石を彫り進める石場を見守った。彼の手には迷いがない。
月明かりに照らされる石場の姿に、鳴海は何故か鳥居の前で神楽を待った南方の姿を重ねた。
陽の下で、採石場を一時的に開いた南方。
月明かりの下で、割れた道祖神の妹神を掘り出す石場。

異様な空間にいながらも、不思議と不安はない。
石場なら完成させられる。そう思い、鳴海は小さく笑みを浮かべた。



20251005 『moonlight』

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