sairo

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石場《いしば》に案内された採石場は、異様な気配を漂わせていた。

「なるほど。ここは彼方側に近いのか」

古ぼけたしめ縄と簡易的な鳥居を前に、南方《みなかた》は興味深げに辺りを見渡す。不気味に静まり返る辺りの異様さに忙しなく視線を彷徨わせている石場と、身を竦める鳴海《なるみ》とは対照的だ。

「ね、ねぇ!本当に大丈夫なの?お供えとかさ……何にも持たないで来ちゃったけど」

鳴海の言葉に、石場も不安げに南方を見つめた。だが南方は、落ち着いたままだ。
鳥居に触れ、口元に緩く笑みを浮かべた。

「最低限の手入れはしていたようだ。まぁ、何とかなるだろう」
「何とかって……」

嘆息する鳴海を気にかけることもなく、南方は鳥居から手を離す。
いつの間にか、逆の手には面があった。古めかしい、翁の面。
それを弄びながら、鳥居から数歩離れ空を仰いだ。

「良い天気だ。あの子の神楽を舞うのは久しぶりではあるが、これなら上手くだろう」

笑みを深め、南方は迷いなく面をつけた。
ゆるりと腕が持ち上がる。軽やかに足が地を蹴り、指先が張り詰める空気を撫でていく。
不意に風が吹き抜けた。それは真夏のような熱を孕んで、周囲の木々やしめ縄を揺する。
しゃん、と鈴の音が聞こえた気がした。南方の動きに合わせ、涼やかに鳴っている。

「――すごい」

思わず、鳴海は呟いた。石場は声もなく、食い入るように神楽を見つめている。
時に神仏を掘ることもある両親よりも、この採石場を閉めた祖父よりも厳かで、神々しくもあった。
石場は神楽を見ながら、硬く拳を握り締めた。込み上げる何かは、周囲を漂う風よりも熱く激しい。
石と向き合いたい。想いを形にしたい。
衝動が心の内で暴れ狂い、一歩足を前に進ませた。

「ちょっ、待って……!」

慌てて鳴海は石場の腕を掴んだ。熱に浮かされ夢見心地だった彼は、肩を震わせ目を瞬いた。

「あ……俺……」
「きっと、まだ駄目だよ。終わるまで待とう?」

鳴海の言葉に、石場は何も言わずに頷いた。そしてまた南方を見つめ、心の中の衝動を膨らませていく。
まるで夏の陽射しを浴びて成長する草花のように。

やがて南方の動きがゆったりとしたものへと変わっていく。終わりが近いのか、吹き抜ける風が纏っていた熱が冷めていく。
しゃん、と。最後に鈴の音がどこからか響き、南方の動きが止まった。
深く礼をする。柏手を打つと、ぴたりと風が止んだ。
次の瞬間。一際強い風が鳥居へと向けと吹き抜ける。

「うわっ!」
「きゃっ……!」

風の勢いに、鳴海と石場はよろめいた。倒れぬよう足に力を入れるものの風の勢いは衰えることを知らず、鳥居に向かい足が進んでしまう。

「許可が下りたんだ。このまま進んで問題ないよ」

面を外した南方が事もなげに告げ、鳥居の向こう側へと歩いて行く。

「ちょっと……問題しかないんですけどっ!」

相変わらず説明の足りない南方に、鳴海は半ば叫ぶように声をかける。だが彼女が振り返る様子はなく、仕方がないと諦めの気持ちで、石場と共に鳥居の向こう側へと足を踏み出した。



「――え?」

鳥居を抜けた瞬間一変した景色に、鳴海は困惑した。
高く昇っていたはずの陽は沈み、中天には青白い月がかかっている。
星は見えない。吹き抜けていた風も止まり、静寂だけが場を満たしていた。

「なんで……夜?」
「ここは彼方側に近いからさ」
「だから意味が分からないって」

益々困惑する鳴海に、南方は肩を竦めた。だがそれ以上答える気はないようで、彼女は辺りを見渡した後、石場を見つめた。

「声が……」

眉を寄せ、呻くように石場は呟いた。鳥居を抜けた後から絶えることなく、周囲から声が聞こえているのだ。
囁きや笑い。嘆きや叫びがぐるぐると渦を巻いている。

「声?」
「石の声を聞いているのだろう。やはり石工の才能があるな」

心配そうな鳴海とは対照的に、南方は喜色に笑みを湛えている。近寄ろうとする鳴海を止めて、石場に声をかけた。

「声の中から妹神を探せ。その後は、お前の衝動のままに石を彫り進めばそれでいい」

南方の言葉に、石場は眉を顰めたまま頷いた。
耳を澄ます。数多の声の中から、ただひとつを探し出す。

――あに……

不意に聞こえた微かな声に、石場は目を向けた。
声に導かれるように足を進める。奥まで来ると膝をつき、月明かりに浮かぶ剥き出しの岩肌にそっと手を触れさせた。

「声の導くままに、直接彫り込め。それだけでいい」
「――はい」

背負っていたリュックを下ろし、中から鏨《たがね》と鎚《つち》を取り出す。震える手で鏨を握り、岩肌を見据えた。
ぼんやりとした靄が、岩の内側で漂っている。それを掘り起こすように鏨を当て、鎚を打った。



「本当に大丈夫なの?」
「問題ない。彼には石の中の妹神が見えているようだからな」
「いや、それもそうなんだけどさ。ここで割れた道祖神の片方を掘っても意味がある訳?しかも割れてたのは何個もあるのに、一つだけなんて」
「元がひとつなのだから、ひとつで十分だろう」
「だから全然分からないってば」

溜息を吐く鳴海に、南方は石場を見つめたまま答えた。

「私は戻ってから原稿を書くつもりではあるが、それはひとつだ。だが原稿はいくつか手を加えられ、民俗誌として複数になる。そういうことだ……ここで掘り起こす理由は、ここが彼方側と近く、そして二柱が繋がっているからだとしか言えないが……鳴海が私を忘れず連絡をして、私がここにいる。目に見えない繋がり、縁《えにし》が、道祖神の二柱にある。ということさ」
「繋がり……何となく分かるような、やっぱり分からないような」

首を傾げながらも鳴海はそれ以上何も言わず、石を彫り進める石場を見守った。彼の手には迷いがない。
月明かりに照らされる石場の姿に、鳴海は何故か鳥居の前で神楽を待った南方の姿を重ねた。
陽の下で、採石場を一時的に開いた南方。
月明かりの下で、割れた道祖神の妹神を掘り出す石場。

異様な空間にいながらも、不思議と不安はない。
石場なら完成させられる。そう思い、鳴海は小さく笑みを浮かべた。



20251005 『moonlight』

10/6/2025, 9:51:42 AM