数日前に色づき始めたばかりだった山は、燃えるような赤に彩られている。
数日前まで、常に付き纏っていた足音や声は聞こえない。それに安堵しながらも、石場《いしば》はどこか物寂しい気持ちを抱えていた。
あの日。割れた道祖神の妹神を刻んでいた時。
石場の内には、初めて強い衝動に駆られていた。今まで作り上げてきた作品など、遠く及ばない程の傑作ができあがる。そんな確信めいた思いで、只管に鏨《たがね》を握り続けていた。囁きを聞き、石に浮かび上がる形を掘り出していたあの手の感触は、未だに忘れられない。
「大丈夫?何かあった?」
「鳴海《なるみ》さん……」
心配げに顔を覗き込む鳴海に、石場は何もないと首を振る。
石場の母の従姉妹である彼女は、石場が妹神を掘り出した後も残っていた。こうして外に出られるようになったものの、酷く怯えていた頃を知っていたためか心配になるらしい。
「大丈夫です。いつの間にか赤くなった山に驚いただけで」
「確かにね。寝て起きたら真っ赤になってたら、誰だって驚くよね」
山へ視線を向けながら、鳴海は苦笑する。
「少し歩かない?」
彼女の提案に石場は頷き、二人並んでゆっくりと歩き出した。
互いに何かを言うことはなかったが、足は自然とあの採石場へと向かっていた。
採石場はあの日以降、再び人を拒むように張り詰めた雰囲気を漂わせている。昼間でも仄暗い陰鬱さを纏い、訪れる者が境界を越えぬよう警告していた。
鳴海は何も言わない。周囲の木々を見つめるその横顔からは、彼女が今何を思っているのか察することはできない。
不意に、風が吹き抜けた。ひやりと冷たさを感じる風は、秋の風だった。
鳥居の前で立ち止まり、石場は鳴海を見つめた。
今なら聞ける気がする。
そう思った。
「ひとつ聞いてもいいですか?」
「ん?なに?」
鳥居を見つめていた鳴海の視線が石場に向けられる。それに意味もなくたじろいで、石場はひとつ深呼吸をした。
「南方《みなかた》さんって……どんな方なんですか?」
「どんなって……」
真剣な表情の石場に、鳴海は苦笑した。
記憶を辿るように目を細め、南方との思い出を愛おしむように口元が笑みを形作る。
「匡時《ただとき》くんが見た感じ、そのままだよ。何でも知ってて、どんな時でも落ち着いてて、カフェイン中毒で……他人からの評価なんて全然気にしない」
石場の脳裏に、制服姿の南方が缶コーヒーを飲む姿が過ぎていく。周囲の視線も話し声も一切を気にせず、堂々と学生生活を送っている姿を想像して、石場は何とも言えない顔をした。
「何というか……不思議な人なんですね」
「そうだねぇ。不思議というか……人じゃないのかもしれないねぇ。夏煉《かれん》は」
穏やかに、優しく鳴海は語る。
「小学生の頃から一緒にいるけど、夏煉について何も知らないの。どこに住んでいるとか、家族のこととか……今まで知らないことを、疑問にすら思わなかった」
「それって……怖く、ないんですか?」
知らないこと、分からないことは恐怖を生み出す。石場にとって、道祖神の足音や声がそうであったように。
だが鳴海にとっては、どうやら違うようだ。石場の言葉にきょとりと目を瞬かせ、暫し考えた後に口をついて出たのは、どうしての四文字だった。
「え……だって、人じゃかもしれないんですよね?」
「でも夏煉は夏煉だよ?カフェイン中毒で、時々天然な、私の友達。そこは変わらないでしょ?」
当然だろうと鳴海は言うが、石場は納得いかない様子で眉を下げ視線を彷徨わせる。それに小さく笑って、鳴海はあのね、と呟いた。
「夏煉の神楽を見て、匡時くんは感化されたでしょ?そうやって自分にいい影響を与えてくれる誰かがいたとして、その誰かが例えば幽霊だったとか、おばけだったりとかってそんなに重要かな」
言われて、確かにと石場は思う。
心を震わせるような神楽を舞う南方や、互いに切磋琢磨し合う誰かが人か人でないかなど、些事かもしれない。
「いつか教えてくれたら嬉しいとは思うけどね。でも、夏煉のことだから、説明が難しいんだろうな」
ぼやいて鳴海は笑う。釣られて石場も笑った。
「俺、大学に戻ったら、卒業制作に南方さんを掘ろうと思います」
「そっか。頑張ってね」
「はい……また、会えますよね?」
秋晴れの空より晴れやかな気持ちで、石場は尋ねた。
聞かずとも、答えは分かっている。そんな表情で。
「会えるよ。匡時くんが会いたいと強く望むのならね」
それに鳴海の笑顔で答える。当然だと言わんばかりに、堂々と。
風が吹き抜けた。
赤く色づいた葉が風に舞い、視界を鮮やかに染め上げる。
紅葉の向こう側で、ここにはいないはずの南方の姿が見えた気がした。
静かに微笑むその目は、紅葉よりも鮮やかだ。赤く揺らめく炎の如く燃え続け、煌めいている。
――美しい。
素直にそう思う。彼女には赤がよく似合う。
誇り高く、苛烈で、それでいて慈悲深い。夏を思わせる南方は、この燃える赤を宿した葉よいも鮮やかだ。
何故だろうか。そんな気がして、二人は笑い出した。
「――あぁ、明日は問題なく出勤するよ。申し訳ないね。休暇を一日延ばしてもらって」
青白い月明かりの下。南方は電話越しの相手に、微笑んだ。
周囲には誰の姿もない。永遠の夜に閉ざされた採石場に、南方の声だけが響いている。
「気にしなくてもいい。それに、たまには私もこうして足を運び、実際に触れなければと思っていた。良い機会だったよ……まぁ、そちらに負担をかけることになってしまったのは申し訳ないがね」
石場が掘り出した道祖神の妹神は、静かにそこに在った。見えない誰かに寄り添うように、目を閉じ微笑みを浮かべている。
「大丈夫だ。そちらこそ無理はするなよ。特に最近は、負担の多いモノらに巻き込まれていただろう?」
不意に風が吹いた。
南方の髪や服を揺すり、妹神の隣で渦を巻き。そしてそれは、揺らいで男神の形を取った。
兄神。町の辻に残された、道祖神。
離れていた二柱が、ようやく再び番うことができたのだ。
「そうだな、お互い様か。ならば今夜は早めに休むとするよ。ではな――おやすみ、宮代《みやしろ》」
微笑みを浮かべ、南方は電話を切った。
寄り添う二柱を見て、その笑みは深くなる。
「今回は本当に良いものが見れた。鳴海には感謝しなければな」
南方の影が揺らいだ。それは浮かび上がり、翁の面を南方に差し出した。
それを手に取り、道祖神の前で礼をする。
「二柱のために、舞わせてもらおう。再会と、そして再び人間に認識されたことを祝して」
面を着け、南方は神楽を舞う。夜の空間に、夏の風が吹き抜ける。
月が笑い、道祖神の二柱が微笑む。揺らぐいくつもの影が、笛や太鼓、笙や琵琶などを奏で始める。
南方しかいないはずの採石場は、いくつもの気配で満たされていた。
鳥居の向こうから吹く風が、外の赤く燃える葉を呼び込んだ。葉を高く舞い上げ、南方へと降らせていく。
燃える葉と、夏を纏った南方。
二つの赤が、月の青に色を添えていた。
20251006 『燃える葉』
10/7/2025, 9:33:10 AM