sairo

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10/7/2025, 9:33:10 AM

赤く色づいた葉が風に舞い、視界を鮮やかに染め上げる。
落ち葉の向こう側で、静かに彼女は笑う。遠くを見つめる目は、離れてしまった同胞を思って揺れている。
それでも、瞳の煌めきは消えない。赤く揺らめく炎の如く、燃え続けている。
――美しい。
素直にそう思う。彼女には赤がよく似合う。
誇り高く、苛烈で、それでいて慈悲深い。
夏のような彼女は、この燃える赤を宿した葉よりも鮮やかだった。

10/6/2025, 9:51:42 AM

石場《いしば》に案内された採石場は、異様な気配を漂わせていた。

「なるほど。ここは彼方側に近いのか」

古ぼけたしめ縄と簡易的な鳥居を前に、南方《みなかた》は興味深げに辺りを見渡す。不気味に静まり返る辺りの異様さに忙しなく視線を彷徨わせている石場と、身を竦める鳴海《なるみ》とは対照的だ。

「ね、ねぇ!本当に大丈夫なの?お供えとかさ……何にも持たないで来ちゃったけど」

鳴海の言葉に、石場も不安げに南方を見つめた。だが南方は、落ち着いたままだ。
鳥居に触れ、口元に緩く笑みを浮かべた。

「最低限の手入れはしていたようだ。まぁ、何とかなるだろう」
「何とかって……」

嘆息する鳴海を気にかけることもなく、南方は鳥居から手を離す。
いつの間にか、逆の手には面があった。古めかしい、翁の面。
それを弄びながら、鳥居から数歩離れ空を仰いだ。

「良い天気だ。あの子の神楽を舞うのは久しぶりではあるが、これなら上手くだろう」

笑みを深め、南方は迷いなく面をつけた。
ゆるりと腕が持ち上がる。軽やかに足が地を蹴り、指先が張り詰める空気を撫でていく。
不意に風が吹き抜けた。それは真夏のような熱を孕んで、周囲の木々やしめ縄を揺する。
しゃん、と鈴の音が聞こえた気がした。南方の動きに合わせ、涼やかに鳴っている。

「――すごい」

思わず、鳴海は呟いた。石場は声もなく、食い入るように神楽を見つめている。
時に神仏を掘ることもある両親よりも、この採石場を閉めた祖父よりも厳かで、神々しくもあった。
石場は神楽を見ながら、硬く拳を握り締めた。込み上げる何かは、周囲を漂う風よりも熱く激しい。
石と向き合いたい。想いを形にしたい。
衝動が心の内で暴れ狂い、一歩足を前に進ませた。

「ちょっ、待って……!」

慌てて鳴海は石場の腕を掴んだ。熱に浮かされ夢見心地だった彼は、肩を震わせ目を瞬いた。

「あ……俺……」
「きっと、まだ駄目だよ。終わるまで待とう?」

鳴海の言葉に、石場は何も言わずに頷いた。そしてまた南方を見つめ、心の中の衝動を膨らませていく。
まるで夏の陽射しを浴びて成長する草花のように。

やがて南方の動きがゆったりとしたものへと変わっていく。終わりが近いのか、吹き抜ける風が纏っていた熱が冷めていく。
しゃん、と。最後に鈴の音がどこからか響き、南方の動きが止まった。
深く礼をする。柏手を打つと、ぴたりと風が止んだ。
次の瞬間。一際強い風が鳥居へと向けと吹き抜ける。

「うわっ!」
「きゃっ……!」

風の勢いに、鳴海と石場はよろめいた。倒れぬよう足に力を入れるものの風の勢いは衰えることを知らず、鳥居に向かい足が進んでしまう。

「許可が下りたんだ。このまま進んで問題ないよ」

面を外した南方が事もなげに告げ、鳥居の向こう側へと歩いて行く。

「ちょっと……問題しかないんですけどっ!」

相変わらず説明の足りない南方に、鳴海は半ば叫ぶように声をかける。だが彼女が振り返る様子はなく、仕方がないと諦めの気持ちで、石場と共に鳥居の向こう側へと足を踏み出した。



「――え?」

鳥居を抜けた瞬間一変した景色に、鳴海は困惑した。
高く昇っていたはずの陽は沈み、中天には青白い月がかかっている。
星は見えない。吹き抜けていた風も止まり、静寂だけが場を満たしていた。

「なんで……夜?」
「ここは彼方側に近いからさ」
「だから意味が分からないって」

益々困惑する鳴海に、南方は肩を竦めた。だがそれ以上答える気はないようで、彼女は辺りを見渡した後、石場を見つめた。

「声が……」

眉を寄せ、呻くように石場は呟いた。鳥居を抜けた後から絶えることなく、周囲から声が聞こえているのだ。
囁きや笑い。嘆きや叫びがぐるぐると渦を巻いている。

「声?」
「石の声を聞いているのだろう。やはり石工の才能があるな」

心配そうな鳴海とは対照的に、南方は喜色に笑みを湛えている。近寄ろうとする鳴海を止めて、石場に声をかけた。

「声の中から妹神を探せ。その後は、お前の衝動のままに石を彫り進めばそれでいい」

南方の言葉に、石場は眉を顰めたまま頷いた。
耳を澄ます。数多の声の中から、ただひとつを探し出す。

――あに……

不意に聞こえた微かな声に、石場は目を向けた。
声に導かれるように足を進める。奥まで来ると膝をつき、月明かりに浮かぶ剥き出しの岩肌にそっと手を触れさせた。

「声の導くままに、直接彫り込め。それだけでいい」
「――はい」

背負っていたリュックを下ろし、中から鏨《たがね》と鎚《つち》を取り出す。震える手で鏨を握り、岩肌を見据えた。
ぼんやりとした靄が、岩の内側で漂っている。それを掘り起こすように鏨を当て、鎚を打った。



「本当に大丈夫なの?」
「問題ない。彼には石の中の妹神が見えているようだからな」
「いや、それもそうなんだけどさ。ここで割れた道祖神の片方を掘っても意味がある訳?しかも割れてたのは何個もあるのに、一つだけなんて」
「元がひとつなのだから、ひとつで十分だろう」
「だから全然分からないってば」

溜息を吐く鳴海に、南方は石場を見つめたまま答えた。

「私は戻ってから原稿を書くつもりではあるが、それはひとつだ。だが原稿はいくつか手を加えられ、民俗誌として複数になる。そういうことだ……ここで掘り起こす理由は、ここが彼方側と近く、そして二柱が繋がっているからだとしか言えないが……鳴海が私を忘れず連絡をして、私がここにいる。目に見えない繋がり、縁《えにし》が、道祖神の二柱にある。ということさ」
「繋がり……何となく分かるような、やっぱり分からないような」

首を傾げながらも鳴海はそれ以上何も言わず、石を彫り進める石場を見守った。彼の手には迷いがない。
月明かりに照らされる石場の姿に、鳴海は何故か鳥居の前で神楽を待った南方の姿を重ねた。
陽の下で、採石場を一時的に開いた南方。
月明かりの下で、割れた道祖神の妹神を掘り出す石場。

異様な空間にいながらも、不思議と不安はない。
石場なら完成させられる。そう思い、鳴海は小さく笑みを浮かべた。



20251005 『moonlight』

10/5/2025, 9:41:31 AM

鳴海《なるみ》の案内で訪れた彼女の従姉妹の家は、何かを畏れるように、ひっそりと静まり返っていた。

「えっと……石場 匡時《いしば ただとき》、です」

暗い表情で頭を下げる青年――石場に視線を向け、南方《みなかた》は何も言わずに頷いた。
ここ数日部屋に籠もりがちになっているという石場は、目の下に濃い隈を作り、酷くやつれていた。南方に視線を向けながらも、常に部屋の外を気にしている素振りを見せている。
今も足音が聞こえているのだろうか。僅かに眉を寄せながら、鳴海の淹れたコーヒーに口をつける。

「今も足音が聞こえているの?」

何も言わない南方に変わり、鳴海が声をかける。びくりと肩を揺らし、落ち着きなく視線を彷徨わせながらも、石場は小さく、だがはっきりと頷いた。

「はい……ずっと聞こえています。家の周りをずっと歩き回っている……誰もいないのに、足音だけ……」

南方はついと視線を窓へと向けた。しばらくそのまま耳を澄ませていたが、眉間の皺は刻まれたままだ。

「私には聞こえないな。そもそもここは辻から離れている。誰かが通るはずはない」

境界である辻以外の場所で、何かを見たり聞いたりすることはない。気配も感じられないと南方は言う。
その言葉に、石場は目を見開き、どこか怒りを湛えた表情で彼女に反論する。

「そんなはずないっ!今も聞こえてるのに。今もこうして……!聞こえてるのに……足音も。声も……」
「声?」

窓の外を見ていた南方が、訝しげに青年に視線を向けた。
コーヒーを飲み干し、鳴海に追加のコーヒーを頼みつつ、真っ直ぐに石場を見据え、それが何に起因しているのかを見定めようと声をかける。

「どんな声だ?男のものか、女のものか。何を言っているのか……」
「そんなに一度に聞かないであげてよ」

淹れたばかりのコーヒーを手に戻ってきた鳴海が、呆れたように窘める。南方の前にコーヒーを置き、ごめんねと言いながら、石場に詳細を尋ねた。

「分かる範囲でいいから、教えてくれないかな?どんな声だったの?」
「あ、えっと……男の人?……低い声だったから、たぶん男の人だと思うんだけど……知らない声で、確か……いも……いもと、だったかな?誰かの名前かなにかだった気がするけど……」
「いもと?」

鳴海は目を瞬き、首を傾げた。
何か分かるだろうかと南方に視線を向け、彼女の浮かべる表情に息を呑んだ。
感情の読めない凪いだ眼をしながらも、南方は唇の端を上げ笑っていた。歓喜、あるいは恍惚にも似たその表情をして、鳴海、と彼女は呟いた。

「いもと、とは、おそらく妹のことだろう。兄が妹を呼ぶ。もしくは夫が妻を呼ぶ時の言葉だ」
「それって、つまり……?」
「兄妹神であり、夫婦神。片方は砕けて、彼方側へと引かれている……石場。お前は石工の才能があるよ」
「待って待って!話についていけないんだけど!?」
「あの道祖神を修復できる者が目の前にいるという意味だ」

そう言って、南方は石場を指し示す。

「お前が聞いている足音と声は、おそらくは道祖神のものだ。割れた片割れを求めて彷徨っていた音を、お前は聞いた。石の……それも神の声を聞けるお前なら、割れた妹神を継ぐことができるだろう」
「お、俺が……?」

呆然と呟く石場に、南方は笑みを深くする。
コーヒーを流し込んで立ち上がり、困惑したままの二人を置いて歩き出す。

「え?ちょっと、どこに……?」
「採石場に行く。あの石と同じ石を探さねばならないからな。お前もずっとこのままは嫌だろう?」
「そうですけど。でも……」

窓を見る石場に、南方は呆れたように息を吐いた。
聞こえている足音と声から解放はされたい。だが同時に、怖くて外には出られない。堂々巡りの無駄な時間を、南方は好まなかった。

「今動かんのならば、私はこのまま戻る。後は好きにするといい」
「っ……行きます……行かせて下さい……」

慌てて立ち上がる石場を見て、南方はそれでいいと頷いた。しかし部屋を出る直前、石場は何かに気づいて足を止めた。

「どうした?」
「あの……道祖神の石って、結構古いと思うんですが」

迷うように目を泳がせ、怖ず怖ずと南方を見つめる。静かに石場の言葉を待つ彼女に、眉を下げつつある事実を口にした。

「代々使ってた採石場は、祖父ちゃんの代で閉めたんです……その、祟りがどうとか言ってて……」
「あぁ、良くあることだな。山の恵みは有限だから、そこの線引きができているのはいいことだ」

事もなげに答え、カップを片付けていた鳴海に声をかける。

「遅くなるが、鳴海はどうする?」
「もちろん行くよ!何置いていこうとしてんの。これ片付けたら行くから玄関で待ってて!」

慌ただしくカップを洗いに部屋を出る。それを見送って、南方は石場に視線を向けた。

「お前も、遅くなることを両親に告げてこい。あと、道具を忘れるなよ」

何の、とは石場は聞かなかった。その代わりに口をついて出たのは、不安の言葉だった。

「祟られたり、しますか?閉じた採石場に勝手に忍び込んで石を切り取るのは、罰当たりにならないでしょうか?」

それに南方は目を細めた。臆病に見えて、その実敬虔な彼の態度が可笑しくて堪らないというように笑い声をあげる。

「そりゃあ、勝手に持ち出すのは祟るだろうさ。お前だって勝手に家に上がり込まれて、私物を好きに使われ持ち出されるのは嫌だろう?それと同じことだ」
「じゃあ、やっぱり……」

項垂れる石場に、南方はさらに笑みを深くする。

「だから許可を得るのさ。今日だけ許してもらうため、切り出す石と同等を供える……手順を踏めば、問題はない」

高らかに告げる南方の背後で、ゆらりと影が揺らめいた。



20251004 『今日だけ許して』

10/4/2025, 9:57:16 AM

木々の葉が赤や黄色に色づき始めた頃、青年は故郷の駅に降り立った。
周囲に人気はない。青年が進学のため上京する前から、町は閑散としていた。
もの寂しい無人駅を出て、実家へと向かう。次々と人が出て行く町で、青年の家は唯一の石工として生計を立てていた。
幼い頃から見てきた両親の仕事に影響されたのか、青年は進学先に美術の道を選んだ。石と向き合い想像を形にする時間は、青年にとっての生活の一部にすらなっている。
しかし最近は、それが苦痛になることがあった。
思うような創作ができない。
卒業制作の題材が決まらず、煮詰まっていたということも大きい。悩み、教授に相談した所、原点に戻ってはどうかと助言を受けた。
迷った末に、青年は故郷に帰ってきた。
暮れる日の早さに、青年は足を速める。街灯はあるものの、それが意味をなさないほど、夜になれば辺りは暗くなってしまう。そうなる前に、家に着きたかった。

家路を急いでいると、不意に何かの気配を感じた。辺りを見渡せど、見えるものは何もない。
気のせいだっただろうか。そう思いながらも、不安が込み上げる。
さらに足を速め、暗い影を落とし始めた道を進んでいく。周囲には誰もいない。心細さは感じるものの、同時にそれが青年の心を落ち着かせていた。

やがて、分かれ道に着いた。右の細道を上った先が、青年の実家だ。
小さく安堵の息を吐いて、細道へと入る。
道の端にある、苔むし割れた石が何気なく目についた。
普段ならば気にも留めない、古ぼけた石。それはただの石ではなく、何かの像が掘られたものだということに青年は初めて気がついた。
思わず、立ち止まる。

ざり、と土を踏み締める、誰かの足音が遠くで聞こえた。声にならない悲鳴が、喉に張り付く。
辺りには誰もいなかった。日が暮れた今の時間帯は特に、誰かが外に出るなどなかったはずだ。

ざり、ざっ。
足音は次第に近づき、硬直する青年の横を通り過ぎていく。姿は見えない。そのまま遠ざかる足音は、しかし再び青年の元に近づいてくる。
近づいては離れ、離れては近づく。姿の見えない誰かの気配に怯えながら、青年は音を立てぬよう慎重に細道へ足を踏み出した。
ゆっくりと足音から遠ざかる。細道を上り、一度だけ振り返った。
やはり誰の姿も見えない。ただ足音だけが響いている。
込み上げる恐怖に慌てて逸らした視線が、道の端の石像に向けられた。
目を見開き、唇が戦慄く。
朽ちかけた石像の、顔の部分から、水が滴り落ちていた。

まるで石像が泣いているかのように。

「――うわぁあああっ!」

叫びを上げながら、青年は脇目も振らず細道を駆け出した。
必死の形相で実家の戸を叩き、転がり込むように玄関へ入り込む。

「どうしたのよ?いったい」

困惑する母を気にかける余裕もなく、挨拶もそこそこに自室へと立て籠もる。

――足音が着いてくる。

そんな恐怖に、青年は外に出られなくなった。





「――それで?」
「いや、それだけなんだけどさ」

居心地悪げに肩を竦める旧友に、女は眉を顰めコーヒーを流し込んだ。
立ち上がりかけた女に、旧友は慌てて取り縋る。

「待って、待って!お願い、見捨てないで!」
「うちは民俗誌だ。そういうのは、他の怪談話を専門とする所に持っていきな。そこなら、運が良ければ専門とするやつがいるだろ?」
「断られたんだってば!何せ、足音が聞こえるなんて話はありきたりだし、本人しか足音を聞いてないんだもん。さりげなく病院受診を進められたんだって」

だろうなと、女は表情に出さずに思う。
本人にしか聞こえないという、遠い足音。端から見れば幻聴の類いにしか見えないだろう。
必死な様子の旧友に嘆息し、女はソファに座り直す。追加のアイスコーヒーを頼みながら、詳細を語れと目線だけで旧友に促した。

「従姉妹の話では、何も出てこなかったんだよ。急に帰ってきた息子が、家の外に出たがらない。ずっと足音が着いてくるって魘されているってくらいで……だから本人に接触し、何があったかを何とか聞き出したんだから」
「――で?」
「あぁ、うん。ちゃんと現場の写真も抑えてあります」

そう言って、旧友は鞄から数枚の写真を撮りだした。

「従姉妹の家に続く道と、彼の言っていた石像っぽいやつ。あと、足音が徘徊してたらしい場所を何枚か」

どの写真にも、特に違和感はない。ごくありふれた田舎の十字路。石像も長い年月で朽ちかけている以外に、これといって特徴はない。
女は一つ一つの写真を丁寧に確認していく。そして石像の写真を見つめ、あぁ、と低く呟いた。

「これは双体道祖神だな」
「そうたいどうそしん?」
「大体は村とかの出入り口とか辻とかに祀られて、外からの禍を防ぐ神だな。あとは縁結びとか、夫婦円満とかの神でもある」
「縁結び……夫婦円満……」
「代々石工を営んでるんだろ?特に手入れをされている様子はないし、何代か前の石工が個人的に作って置いたんじゃないか?」

ちょうど運ばれてきた追加のコーヒーを飲みながら女は言う。
写真に映る道祖神は、顔の判別ができぬ程に朽ちてはいるが話に聞いた涙の跡らしきものは見られない。
今の時期は、日が暮れるのがとても早い。暗闇に対する恐怖や影から、見間違えたのだろうと女は結論づけた。

「無理矢理にでも外に出せば、案外元に戻るかもな」
「そっか……この石像と似たのを何体か見たけど、あんまり関係がなさそうかな。従姉妹にはそう言っとく」
「――おい、待て」

スマホを取り出しながら呟いた旧友の言葉に、女は眉を顰めた。

「この道祖神と同じものが何体も?」
「あったよ。どれもぼろぼろだったけど……写真見る?」

女の様子に首を傾げながらも、旧友は追加で写真を取り出した。その写真のどれもが彼女のいうように朽ちており、中には殆ど原型を留めていないものもあった。

「この道祖神の場所は?」
「ちゃんと記録してあるよ。地図の番号が写真の裏の番号だから」

手慣れた様子で、旧友は鞄から地図を取り出した。
地図を広げて道祖神があるという場所を見て、女はさらに眉を顰めた。
一目見て分かる程、道祖神は偏って配置されているらしい。

「元々村だったのが合併して町になった感じか」
「確かそうだったはず。ごめん、そこまでは調べてなかった」

地図に示された番号を辿っていく。どれも十字路のある場所に置かれているようで、女の表情が険しくなっていく。

「そういえば、この町は人の流出が酷いんだと言っていたな」
「そうみたいだね。特に何かがある訳じゃないんだけど。大きな事件の話も聞かないし、災害があった訳でもないし」

旧友の話を聞いて、女はスマホを取り出した。部下の番号を出し、しかし電話をかけることなく電源を落とす。
先日原稿を出しに来た部下は、酷く疲れているようであった。それに記事になるかも分からないような話だ。
スマホを仕舞い込み、息を吐く。コーヒーを流し込んで、伝票を掴んで立ち上がった。

「え?ちょっと……」
「行くぞ。実際に現場を見てみたい」

幸運なことに、今日から三日ほど休みを取っていた。

「ま、待ってよ!」

慌てて地図と写真を鞄にしまい、旧友は女に続く。

ふと、足音が聞こえた気がして立ち止まる。
振り返るが誰もいない。客は自分たち以外にはおらず、店員の姿も今はなかった。

「どうした?」

会計を終えた女の問いかけに、旧友は何もないと首を振った。
気のせいだろう。神経が過敏になっているだけだ。
そうは思うものの、じわりとした不安が込み上げていた。



20251002 『遠い足音』




「これは酷いな」

割れた道祖神に、女――南方《みなかた》は眉を顰めた。
風雨に削られ朽ちた石は、元の姿が分からない程だ。
道祖神に近づき、苔を拭う。辛うじて人の形を留めているだけで、男女の区別すら分からなかった。

「話、聞いてきたよ」

南方に言われ、古くからいる住人に聞き込みをしていた鳴海《なるみ》がメモ帳を片手に戻ってきた。だがその表情はどこか暗い。成果が思わしくないことは一目で理解できた。

「どこも駄目だね。話を聞こうともしてくれない。運良く答えてくれた人たちも町が合併した後に越してきたみたいで、何も知らなかったよ」
「最初から期待はしていない。ある程度予想はついていたから、その反応だけで上出来だ」

南方の言葉に、鳴海は怪訝な表情を浮かべた。
それはどういう意味なのか。そう尋ねようとした時だ。

「――やはりな。鳴海、下がれ」

そう言って南方は鳴海の腕を掴み、道祖神の後ろまで下がらせる。突然の行動に、それでも鳴海は何も言わずに南方に従った。彼女の視線の向く方へ、自身も目を向ける。
生ぬるい風が、目の前を通り過ぎていく。視線の先には何もない。

ずる、ずっ、ずっ。
不意に、音がした。何かを引き摺るような、そんな耳障りな音。
目を凝らしても、何も見えてはこない。それが逆に不安を駆り立てた。
音が近づく。引き攣った表情で忙しなく視線を彷徨わせている鳴海とは異なり、南方の視線は変わらず一点に向けられていた。
もう一度、南方の視線を追う。手がかりを求めて、鳴海は目を凝らした。

「あっ……」

一瞬だけ何かが見えた気がして、鳴海は身を乗り出した。地面近く、陽炎に似た揺らめきが見えては消えてを繰り返している。
南方に腕を掴まれ、道祖神の前に出ないようにされながら、鳴海はさらに目を凝らす。
ずるり、ずるりと音が大きくなっていく。一瞬の揺らめきでも輪郭が分かるほどに、見えない何かが近づいてくる。

それは、赤を纏った大蛇の胴のように見えた。

「――っ」

目を見張り息を呑んで、鳴海はその音が通り過ぎて行くのを待った。
南方の腕はまだ離れない。
音がゆっくりと離れていく。

「抜けたな」

南方の腕が離れ、鳴海は詰めていた息を吐いた。



「何あれ?え?蛇?どういうことなの?」
「落ち着け。近すぎだ」

緊張から解放されたからなのか、鳴海は南方に詰め寄り捲し立てる。腕を掴まれ揺さぶられている南方は、離れろと言いながらも、無理に鳴海を引き剥がそうとはしない。おとなしく揺さぶられながらも、鳴海が落ち着くのを待った。

「あぁ、ごめん……なんていうか、見ちゃいけないものを見た気がして……落ち着かなくて」
「まぁ、間違いではないな」

しばらくして落ち着きを取り戻し、腕を離す鳴海にだろうな、と南方は頷く。困惑を露わにする彼女に、朽ちた道祖神を指し示した。

「えっと……この道祖神が、何?……というか、さっきのは何だったの?」
「何か、あるいは誰かだろうな。双体の片割れが砕け、封が解けたんだろう」
「――はい?」

意味が分からないと、鳴海は眉を寄せる。
肩を竦めて、南方は道祖神に視線を向けつつ語り出した。

「ここの道祖神は皆、辻に置かれている。辻とは境界だ。道の重なりであり、時には彼方側と此方側を繋ぐこともある……おそらく道祖神は守護のためではなく、封印のために在るのだろう」
「うん。まったく分からない」

さらに眉を寄せた鳴海が首を振る。一つ息を吐いて南方はついと宙に視線を向け、例えばと言葉を探しながら続ける。

「ここに、扉のない門戸があるとする。その向こうは鳴海の嫌いな蜘蛛や百足などがいるような鬱蒼とした藪の中だ。当然ではあるが、このままでは藪から虫や獣が入ってくる。それは嫌だろう?」
「それは……すっごく嫌だ……」

想像して、鳴海の口元が引き攣った。

「ならば、どうする?」

問われて、鳴海は思考する。すぐに思いついたのは、この場から離れることではあるが、それでは何の解決にもならないだろう。近くに住んでいるのではあれば、常に虫や獣に怯えて暮らさなければならなくなる。
こちら側とあちら側。二つを繋ぐ、扉のない出入り口。
そこまで考えて、鳴海はあぁ、と理解した。

「扉を……作る?」
「そうだ。扉を作れば、ここと向こうが隔たれる……二つを繋ぐ門戸が辻であり、その扉の役目を果たしていたのが、の道祖神だ。それがこうして朽ちて砕けてしまっているから、その隙間から彼方側のモノが見えるようになったのだろうさ」
「じゃあ、道祖神を直せば……」
「正しく修繕できるほどの力量を持った石工がいればな」

その言葉に、鳴海は続く言葉を呑み込んだ。
道祖神が朽ちて砕けてしまうまで、誰かが何かをしようとする様子はなかった。
かつての村は合併して町となり、歴史を正しく理解しているはずの古くからいる人々は、誰もが口を閉ざしている。
鳴海の従姉妹の家も石工ではあるが、道祖神については一度も話題に出ることはなかった。

不意に、風に乗って誰かの呻くような声が聞こえた。
南方はそれに反応を見せない。ただ道祖神を見て、何かを考えている。

「これ、何……?」
「彼方側の誰かの声だろう。気にするほどのものではないさ」

道祖神を見たまま、南方は淡々と答えた。
やがて軽く頭を振り嘆息すると、南方は鳴海に視線を向ける。

「私たちにできることは何もないな」

感情の読めない、南方の凪いだ眼。
それに鳴海は言いようのないもどかしさを感じながらも、黙って頷くしかなかった。



20251003 『誰か』

10/3/2025, 9:50:38 AM

「秋だぁ」

赤や黄に色づいた葉を見ながら、少年は呟いた。

「秋だね」

それに答える少女の声は、どこか呆れを滲ませている。

「夏、終わっちゃった」

肩を落とす少年の手には、虫かごと虫取り網。麦わら帽子を被った姿は、夏休みを謳歌する少年そのものだ。
対して、少女は秋色の落ち着いた長袖を着ている。半袖短パンの少年の後ろ姿を見つめる少女の目線はとても冷ややかだ。

「夏なんて、とっくの昔に終わったわよ。さっさと帰ったら?」
「酷い。ねぇちゃんと遊べるの、楽しみにしてたのに」

ぶつぶつと文句を言う少年を一瞥し、少女は背を向ける。
慌てて追いかけてくる少年の気配に、重苦しい溜息を吐いた。

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