気がつけば、夢の続きのように知らない道を一人歩いていた。
立ち止まり、辺りを見渡す。続く一本道には果てが見えず、周囲にまばらに生えた木々の間からは、美しい花畑や泉が見えていた。
いつの間に、と首を傾げる。今は眠っているのか、目覚めているのかはっきりとしない。だがそんなものは些細なことだと思い直して頭を振り、歩き出す。元来気の向くままに歩くのは好きではあったし、何かを考えることには疲れていた。
たまには何も考えずに、旅に出るのも悪くない。道が続くというならば、旅も続ければいいのだ。
我ながら良い思いつきだと笑みが浮かぶ。軽い足取りで、緩やかな下り坂を下っていく。
まるで長く離れていた故郷に帰る心地がして、とても清々しい気持ちだった。
周囲の景色を楽しみながら歩いて行けば、不意に楽しげにはしゃぐ子供の声が聞こえた。
視線を向ければ、泉の周りで子供たちが走り回っている。少年の手を少女が引き、指を差してはその方向へと走っていく。赤とんぼを追いかけ、泉の底を覗き、水を跳ねさせ遊んでいる。少年は少女に振り回されている形ではあるものの、その表情は眉を下げながらも穏やかだ。少し離れた場所では二人の両親らしき男女が、微笑ましげにその様子を見つめていた。
「あら、こんにちは。おじさん」
こちらに気づいた少女が、気軽に声をかけてくる。手を引かれていた少年も、小さく会釈した。
「ここで何をしているんだい?」
「少し疲れちゃったから、休んでいるのよ。先は長いんですもの」
「泉が見たいって言ったんじゃないか。休むなら、父さんたちの所へ行くべきだと思う」
「だってただじっとしているなんて、もったいないわ。ようやく一緒に遊べるようになったのに」
頬を膨らませて少女は言う。一時も離れたくないと少年にしがみつく姿は、必死ではあるもののどこか微笑ましい。長く離れていた二人が、ようやく再会できたのだろう。出会いと別れ、そして再会も旅の楽しみだ。
少女たちに別れを告げ、奥の男女に会釈をしてその場を離れた。
随分と歩いた気もするが、終わりはまだまだ見えてこない。
不思議と疲れはなかった。どこまでも歩いて行けそうな気がして、とても気分がいい。
ふと視線を巡らせれば、一面の赤が目についた。燃えるような彼岸花。その美しさに惹かれて、足を向けた。
そこにはすでに先客がいたようだ。
彼岸花の花畑に座っている女性。よく見ると、その膝に男性が頭を乗せて眠っている。その頭を、女性は優しく撫でながら穏やかに微笑んでいた。
「――何か?」
問いかけられて、不躾に見つめていたことに気づく。
「いえ。特に何かあるという訳ではないのです。大変申し訳ない」
逢い引きの邪魔をしてしまった無礼を詫びると、女性は笑みを浮かべたまま首を振る。
「お気になさらず。見られることには不慣れなものでしたから」
そう言いながら、眠る男性の頭を撫でる。顰めた顔が次第に穏やかになっていく。
大分疲れているようだ。少しも目覚める気配はない。
「私たちは急ぐ必要はないので、こうしてゆっくりと過ごしているのです。積もる話もありましたし、彼には何より休んでほしかったもので」
「そうでしたか。確かに随分とお疲れの様子だ。邪魔をしてしまいましたね」
眠る男性の手が宙を彷徨う。その手を女性は取り、指を絡めて繋いだ。
これ以上二人の時間を邪魔することに申し訳なさを感じ、一礼して暇を告げた。
「穏やかな時間を邪魔してしまい、申し訳ない。それでは」
踵を返す。元の道に戻るため足を踏み出せば、女性の静かな声が引き留めた。
「貴方は、急ぐのですね。それは理由があるからなのですか?」
問われ、振り返る。
女性の真っ直ぐな目を見返しながら、道を急ぐ理由を考える。
考えようとする前に、答えが出てしまっていた。
「広い世界を知る前に、終わってしまった人がいた。先に旅立ってしまったその人に追いつけるとは思えないが、もしかしたらと思いまして……とても優しい人だったもので」
口にして、思い出す。
ここにいる理由。先に進むことの意味。そして道の先に何があるのか。
思い出してしまったら、無性に会いたくなってしまった。
「会えますよ。きっと」
自分の思いを見透かしたように、女性は微笑んだ。
「貴方が会いたいと思うように、その方もきっと会いたいと思ってくれているのでしょうから」
女性の言葉に、根拠などは一つもない。だが彼女の言葉は信じられる。そんな気がした。
「それなら、尚更急がなくては……ありがとうございました」
深々と礼をする。思い出させてくれたこと。信じさせてくれたこと。すべてに感謝を示した。
踵を返す。今度は声をかけられることもなく、元の道へと戻ってきた。
前を見据えて歩き出す。次第に足は速くなり、最後には駆け出した。
もう一度出会えるのならば、何を語ろうか。その前に、待たせてしまったことを謝らなければ。
そしてできることならば、新たな始まりも共にいて、二人で旅の続きがしたい。
気の赴くまま、足の向くままに歩いて、二人で同じ景色を見られたのなら、どんなに幸せだろうか。
次々とやりたいことが、願いが思い浮かぶ。小さな姿を探しながら、坂を駆け下りていく。
遠く、道の脇で小石を積み上げる子供の影が見えた。見慣れた後ろ姿に息を呑み、さらに速度を上げていく。
近づくほど、目線が下がっていく。時計の針が戻るように、子供の姿へと戻っていく。
ようやく、あの日言えなかった言葉が言える。
帰るべき場所に、自分はようやく帰れたのだ。
「ただいまっ!」
石を積み上げる手を止めて振り返るその人に、勢いを殺さず抱きついた。
長かった一人旅は終わる。続く二人旅の予感に、泣きながら笑った。
20250930 『旅は続く』
空は黒く厚い雲が広がっている。雲の縁は傾く陽の光を吸って黄色に輝き、雲の間から見える青の色を薄くしていく。
きっとすぐに夜が訪れる。ぼんやりと空を見上げながら思った。
隣で同じように空を見上げる彼女を横目で見た。
口元は緩く微笑んでいるのに、その頬を一筋滴が伝い落ちていく。
訳もなく、胸が苦しくなった。慌てて視線を逸らす。
ふとした瞬間に流れる彼女の涙に気づいたのは、いつからだっただろうか。
声もなく、顔を顰めるでもなく流れ落ちる涙。
一度だけ、その理由を聞いたことがあった。
その時も彼女は穏やかに微笑んで、けれど静かに涙を流して言った。
「癖になってるの。ずっと泣くことでしか伝えられなかったから」
誰に、とは聞けなかった。あまりにも彼女が綺麗に笑うから。
胸を抑え、空を見る。
雲越しの陽が、辺りを黄金色に染め上げている。
燃えてしまう。溶けてしまう。
そんな取り止めのないことを思った。
「はいどうぞ」
渡された缶コーヒーは温かく、収まり始めていた涙腺を再び刺激した。
ずび、と鼻を啜る。缶の温もりを抱きしめ、涙を溢す。
「相変わらず、泣き虫さんだねぇ」
くすくすと笑われる。
仕方がないだろう。分かっているというのにあえて指摘するなど、タチが悪い。
涙目で睨みつけながら、缶の蓋を開けた。ぷしゅと音を立てて、コーヒーの苦い香りが漂い始める。
「まあ、いいや。とりあえず、コーヒーが冷めないうちに飲んでしまいなさい。話はそれからにしよう」
そう言われ、おとなしく缶に口をつけた。ほろ苦い味が今の自分のようで、苦さを嚥下しながらまた泣いた。
鏡の向こうに、幸せな世界を見た。
姿見に映る自分は眠たげな目をして身支度を整え、その後ろでは彼女が忙しなく準備を整えている。
ありきたりな日々の一コマ。けれどそれが、今は何より煌めいて見える。
爪が食い込むほど強く手を握り締め、唇を噛んで視線を逸らす。
これ以上は見ていたくない。
有り得たかもしれないもしもの世界など、心の傷を抉るだけで、慰めにもならないのだから。
かちり、と時計の針の音が聞こえた気がした。
歪んだメロディーが流れ始める。顔を上げずとも、時計盤が回転し、中の人形たちが踊り始めているのが分かる。
――また、止められなかった。
傷つき疲れ果てた体は、指先すら動かない。
このまま、何度目かの始まりに戻るのだろうか。沈んでいく意識の中、そう思った。
あの子はこの繰り返しが無意味なことだと、いつ気づいてくれるのだろうか。
どうか、この体が朽ちる前までに気づいてほしい。残された時間は僅かしかなく、その後にはあの子自身の時間を消費することになるのだから。
気づいて。声には出さず、呟いた。
巻き戻り始めた時間を感じながら、ただそれだけを思っていた。
人の絶えたアーケード街の片隅。アーケードを跨ぐように、天井から吊り下げられた大時計がある。
時計の針は動かず、文字盤の周囲に並ぶ小さな扉は固く閉ざされたまま。
かつては街のシンボルとして時を人々に告げていた時計は、アーケードの廃れと共に、何年も前からその役目を終えていた。
いつからだろうか。誰が広めたのか、とある噂が囁かれるようになった。
――日付の切り替わる、午前0時。壊れた時計が時を刻み、中のからくりが動き出す。その時に願ったことは叶えられる、と。
噂を確かめに、何人もの人々が時計の元へと訪れた。様々な願いを胸に時計が動くのを待ち続け、去って行った。
何人もの人々の落胆が噂をただの作り話だと告げていたが、それでも噂は消えず囁かれ続けている。
そして彼女もまた、噂に縋り、時計が動くのを待つ一人だった。
「どうか、彼を救って……」
動かない時計の下で、願いを口にし続ける。
帰らなかった彼女の思い人の帰還を、奇跡を求めて祈っていた。
奇跡、あるいは悪夢が始まったのは、彼女が時計の下に通い続けた百日目のことだった。
かちり。かちり。
音を立てて文字盤の針が動き、十二時ちょうどに針が重なった。
もの悲しいメロディーが流れ始め、文字盤がゆっくりと回転し始める。
表から裏へ。船を模した人形がゆらゆらと揺れている。
文字盤の右。扉が開いて人形が現れた。修道僧を模した人形が、小さな鐘を鳴らしている。旅立ちを告げる鐘がメロディーに合わせて鳴り響く。
鐘の音と共に、文字盤の下の扉が開き始めた。松明を掲げた少年少女の人形が導の光を灯し、くるくると舞っている。
その動きに合わせて、文字盤の左の扉が開かれた。供物を掲げた人々が揺れ動き、その後から杖をついた老人が現れる。老人は文字盤の上を見上げ、人形たちは動きを止めた。
そして、文字盤の上。一際大きな扉が開かれ、中から巡礼者の人形が現れる。白の衣を纏い、手を胸の前で組んで祈りを捧げている。膝をつき、目を閉じたその姿は、微動だにしない。
他の人形たちは長い年月を経て劣化が進んで色はくすみ、所々塗装の剥げた部分もある。だが、巡礼者の人形は年月を感じさせない清廉な白を纏っていた。
不意に音楽が止まる。錆び付いた音を立てながら、巡礼者以外の人形は中へと戻り、扉が閉まっていく。文字盤が再び回転し、裏が表へと戻っていく。
その時、祈りを捧げていた人形の目が開かれた。無機質な黒の瞳が、こちらを見下ろしている。赤い唇が僅かに動き、時計の針が逆回転を始めた。
ぞわりとした、異様な空気。きゅるきゅると螺子を巻くような、何かを巻き戻しているかのような歪な音が響く。
強い目眩に襲われ、膝をつく。無機質な視線を感じながら、隣で同じように膝をついて目を閉じている彼女に視線を向けた。
刹那、感じたのは胸を焦がすような嫌な予感だった。震える膝に力を入れ起き上がり、人形の目から隠すように彼女の前に立ち塞がる。襲う目眩に顔を歪めながらも、人形の目を見据えた。
「お願いします。どうか」
背後で譫言のように、彼女が呟く。その言葉が届いたのか、人形の目が僅かに細められた。
音楽が鳴り響く。歪な、逆回転した不協和音が辺りを覆う。
巻き戻る時計の針が再び十二時で重なり。
気づけば、時間が巻き戻っていた。
荒い呼吸を繰り返しながら、目を開ける。
自分の部屋。巻き戻ってしまったことに、密かに嘆息した。
体が鉛のように重い。声を出そうにも、喉は震えず微かな吐息だけが溢れ落ちるだけだった。
これではもう、彼女を止められない。彼女が自力で気づかない限り、この結末の変わらない繰り返しは続くのだろう。
自分の命が終わった後、彼女の命を消費しながら。
静かに目を閉じる。彼女はきっと、いつものように旅立つ思い人の元へと向かうのだろう。思い人を引き留め、けれど最後には変わらない結末に怯えながら、束の間の安らぎを得るのだろう。
結末は変わらない。旅立ちを止め、どんなに危険を遠ざけた所で、思い人は彼女の前から去ってしまう。人の身で、過去を変えられなど不可能なのだ。
不意に、扉の開けられる音が聞こえた。重い瞼をこじ開けて、視線を向ける。
「――なんで」
微かな呟き。覚束ない足取りで、こちらへと向かう。
「何、これ……どうして、こんな。こんなことって……っ」
震える手が、頬に触れる。僅かな温もりを感じて、目を細めた。
「ごめんなさい……お姉ちゃん」
彼女の頬を伝い落ちる滴に、間に合ったのだと理解して、そっと吐息を溢した。
人の絶えたアーケード街の片隅に、壊れたからくり時計があった。
巡礼者の旅の軌跡を描いたその時計。過去の想いを未来へ紡ぐ直線上の祈りは、時計という円環に組み込まれている。誰かの命を消費して、ほんの僅か時間を戻すのだという。
夢幻のようなものだ。ある人はそう言った。
過去は変わらない。ある人は嘆いた。
悪魔が作ったのだろう。人々はいつしか、そう囁いた。
その時計はもう存在しない。
20250924 『時計の針が重なって』