鳴海《なるみ》の案内で訪れた彼女の従姉妹の家は、何かを畏れるように、ひっそりと静まり返っていた。
「えっと……石場 匡時《いしば ただとき》、です」
暗い表情で頭を下げる青年――石場に視線を向け、南方《みなかた》は何も言わずに頷いた。
ここ数日部屋に籠もりがちになっているという石場は、目の下に濃い隈を作り、酷くやつれていた。南方に視線を向けながらも、常に部屋の外を気にしている素振りを見せている。
今も足音が聞こえているのだろうか。僅かに眉を寄せながら、鳴海の淹れたコーヒーに口をつける。
「今も足音が聞こえているの?」
何も言わない南方に変わり、鳴海が声をかける。びくりと肩を揺らし、落ち着きなく視線を彷徨わせながらも、石場は小さく、だがはっきりと頷いた。
「はい……ずっと聞こえています。家の周りをずっと歩き回っている……誰もいないのに、足音だけ……」
南方はついと視線を窓へと向けた。しばらくそのまま耳を澄ませていたが、眉間の皺は刻まれたままだ。
「私には聞こえないな。そもそもここは辻から離れている。誰かが通るはずはない」
境界である辻以外の場所で、何かを見たり聞いたりすることはない。気配も感じられないと南方は言う。
その言葉に、石場は目を見開き、どこか怒りを湛えた表情で彼女に反論する。
「そんなはずないっ!今も聞こえてるのに。今もこうして……!聞こえてるのに……足音も。声も……」
「声?」
窓の外を見ていた南方が、訝しげに青年に視線を向けた。
コーヒーを飲み干し、鳴海に追加のコーヒーを頼みつつ、真っ直ぐに石場を見据え、それが何に起因しているのかを見定めようと声をかける。
「どんな声だ?男のものか、女のものか。何を言っているのか……」
「そんなに一度に聞かないであげてよ」
淹れたばかりのコーヒーを手に戻ってきた鳴海が、呆れたように窘める。南方の前にコーヒーを置き、ごめんねと言いながら、石場に詳細を尋ねた。
「分かる範囲でいいから、教えてくれないかな?どんな声だったの?」
「あ、えっと……男の人?……低い声だったから、たぶん男の人だと思うんだけど……知らない声で、確か……いも……いもと、だったかな?誰かの名前かなにかだった気がするけど……」
「いもと?」
鳴海は目を瞬き、首を傾げた。
何か分かるだろうかと南方に視線を向け、彼女の浮かべる表情に息を呑んだ。
感情の読めない凪いだ眼をしながらも、南方は唇の端を上げ笑っていた。歓喜、あるいは恍惚にも似たその表情をして、鳴海、と彼女は呟いた。
「いもと、とは、おそらく妹のことだろう。兄が妹を呼ぶ。もしくは夫が妻を呼ぶ時の言葉だ」
「それって、つまり……?」
「兄妹神であり、夫婦神。片方は砕けて、彼方側へと引かれている……石場。お前は石工の才能があるよ」
「待って待って!話についていけないんだけど!?」
「あの道祖神を修復できる者が目の前にいるという意味だ」
そう言って、南方は石場を指し示す。
「お前が聞いている足音と声は、おそらくは道祖神のものだ。割れた片割れを求めて彷徨っていた音を、お前は聞いた。石の……それも神の声を聞けるお前なら、割れた妹神を継ぐことができるだろう」
「お、俺が……?」
呆然と呟く石場に、南方は笑みを深くする。
コーヒーを流し込んで立ち上がり、困惑したままの二人を置いて歩き出す。
「え?ちょっと、どこに……?」
「採石場に行く。あの石と同じ石を探さねばならないからな。お前もずっとこのままは嫌だろう?」
「そうですけど。でも……」
窓を見る石場に、南方は呆れたように息を吐いた。
聞こえている足音と声から解放はされたい。だが同時に、怖くて外には出られない。堂々巡りの無駄な時間を、南方は好まなかった。
「今動かんのならば、私はこのまま戻る。後は好きにするといい」
「っ……行きます……行かせて下さい……」
慌てて立ち上がる石場を見て、南方はそれでいいと頷いた。しかし部屋を出る直前、石場は何かに気づいて足を止めた。
「どうした?」
「あの……道祖神の石って、結構古いと思うんですが」
迷うように目を泳がせ、怖ず怖ずと南方を見つめる。静かに石場の言葉を待つ彼女に、眉を下げつつある事実を口にした。
「代々使ってた採石場は、祖父ちゃんの代で閉めたんです……その、祟りがどうとか言ってて……」
「あぁ、良くあることだな。山の恵みは有限だから、そこの線引きができているのはいいことだ」
事もなげに答え、カップを片付けていた鳴海に声をかける。
「遅くなるが、鳴海はどうする?」
「もちろん行くよ!何置いていこうとしてんの。これ片付けたら行くから玄関で待ってて!」
慌ただしくカップを洗いに部屋を出る。それを見送って、南方は石場に視線を向けた。
「お前も、遅くなることを両親に告げてこい。あと、道具を忘れるなよ」
何の、とは石場は聞かなかった。その代わりに口をついて出たのは、不安の言葉だった。
「祟られたり、しますか?閉じた採石場に勝手に忍び込んで石を切り取るのは、罰当たりにならないでしょうか?」
それに南方は目を細めた。臆病に見えて、その実敬虔な彼の態度が可笑しくて堪らないというように笑い声をあげる。
「そりゃあ、勝手に持ち出すのは祟るだろうさ。お前だって勝手に家に上がり込まれて、私物を好きに使われ持ち出されるのは嫌だろう?それと同じことだ」
「じゃあ、やっぱり……」
項垂れる石場に、南方はさらに笑みを深くする。
「だから許可を得るのさ。今日だけ許してもらうため、切り出す石と同等を供える……手順を踏めば、問題はない」
高らかに告げる南方の背後で、ゆらりと影が揺らめいた。
20251004 『今日だけ許して』
10/5/2025, 9:41:31 AM