気づけば、陽が暮れかけていた。
まただ。記憶を辿れど思い出せない空白に眉が寄る。
「どうした?しかめっ面なんかして」
不意に顔を覗き込まれ、問いかけられる。
「また、気づいたら一日が終わろうとしている」
ぽつりと呟けば、呆れた笑い声が響いた。
「お前、いっつもぼんやりしてるからなぁ」
「どうしたの?何か楽しそうなことでもあった?」
「こいつが、ぼんやりして一日が終わったことが大層不服らしい」
「なんだ。そんなことかよ」
友人たちに笑われて、益々眉が寄っていく。刻み始めた眉間に皺を、ごめんと笑顔で謝られながら伸ばされた。
頭を、背を撫でられる。子供扱いは、文句が溢れ落ちそうになるが、いつものことだと言葉になる前に呑み込んだ。
「一日が穏やかに過ぎたってことじゃねぇか。いい事だよ」
「そうだな。平穏無事に今日が終えられるのだから、問題はないだろう」
「気にするなら、明日はもっと楽しいことをしようよ。ぼんやりする暇がないくらいの、素敵なことを」
仕方がない。慰める友人たちのためにも、切り替えなければ。
溜息をひとつ吐いて、立ち上がる。
見上げた空は朱く、烏も鳴きながら山の向こうに帰っていく。
もう、帰る時間なのだ。
「帰ろうか」
誰かの言葉に頷いて、皆揃って歩き出す。
込み上げる不安は、見ない振りをした。
所々で感じる空白を笑うように、穏やかな日々は続いていく。
「見て!綺麗でしょ」
そう言って、友人がくるりと回して見せた小さな葉は、美しい紅色色づいていた。
「今日は紅葉狩りに行こうよ」
「ん。いいんじゃないかな」
赤に目を奪われながら頷けば、手を取られて歩き出す。
今すぐなのか。気の早い友人に、思わず苦笑した。
遅れて着いてくる他の友人を気にも留めず、楽しげな鼻歌が隣から聞こえる。
余程楽しみなのだろう。そう思うと、こちらも楽しみになってきた。
何気なく見上げた空は、澄み切った青が広がっている。
そよぐ風が心地好い。穏やかな気持ちで、目を瞬いた。
「――あれ?」
「どうしたの?」
溢れた言葉に、友人が反応する。
「今、紅葉狩りに向かっていたような……」
見上げる空は、変わらない青。けれども直前まで歩いていたはずの散策路ではない。
近くの堤防。草原に座り、広場で野球の真似事をしている友人たちを見下ろしていた。
どくり、と心臓が嫌な音を立てる。
「昨日のことね。結構歩いたから、疲れて忘れちゃったかな」
「だとしても……これは……」
「どうした?」
自分たちの様子が気になったのだろう。遊びを止めた友人たちが、こちらに歩み寄ってくる。
「また、覚えてないって」
「あぁ……でも、どこも調子が悪い訳じゃないんだし、気にしなくてもいいんじゃないか」
「気にしすぎる方が、余計に悪くなるぞ」
慰める言葉に、それでも不安は消えることはない。
何かがある。病気か、何か。
「そうかな……なら、気にし過ぎないようにする」
大丈夫だと笑ってみせながら、心の内でそんなはずはないと友人の言葉を否定する。
一度、病院に行こう。
密かに決めて、談笑する友人たちの輪に加わった。
ぱちん。
何かが弾けた音がして、目を開けた。
空は青く、澄んでいる。いつも見る空と何も変わらない。
「――なん、で」
空の下。広がる光景に、目を見張った。
ひしゃげた信号や標識。崩れ、壊れた家々。
土に埋まる故郷の成れの果てに、空白が埋まり出していく。
雨が。水が流れて――。
「駄目だっ!」
強い言葉と共に、目を塞がれた。
「何も見てない。お前は少し悪夢を見ただけだよ」
後ろから抱き竦められ、言い聞かせられる。
「忘れろ。泣くことすらできないほどに苦しいものは、全部忘れちまえ」
右手を取られ、包み込むように握られる。
「ごめんね。これしかできなくて。何もしてあげられなくてごめんなさい」
左手を掬われ、優しく抱き締められた。
「どうして……?」
呟きに、返る言葉はない。答えを期待した訳でもなかった。
友人たちに触れられた部分から感じる熱が、じわりと自分の中に溶け込んでいく。暖かなそれは、歪な空白をそっと埋めていく。
「――ありがとう」
そっと囁く。
泣けない自分の代わりに泣く優しい友人たちに微笑んで、埋まりきらない空白に背を向けた。
「眠い」
「あれだけ寝てたのに、まだ寝る気か」
穏やかな日々。変わらない景色。
「こう暖かいと、確かに眠たくなるよね」
「じゃ、昼寝すっか」
友人たち以外に誰もいない町。
来ることのない、本当の明日。
「おやすみ」
「はやっ!?」
「おやすみなさい」
「お前もか」
すべてを空白の中に押し込んで、友人たちに囲まれ穏やかに笑う。
自分の中の空白は、もう気にならない。
優しい友人たちが側にいる。
心の傷が広がらないように作り出された暖かな空白を、知ろうとする必要はないのだから。
20250913 『空白』
長かった夜が、台風を連れて去っていった。
空を見上げれば、昨日の重苦しい灰色の雲は欠片もない。どこまでも澄み切った青空が、何も知らない顔をして朝の訪れを告げていた。
視線を下ろし、目の前の庭を見渡す。澄んだ青空とは真逆の惨状に、思わず溜息を吐いた。
折れた枝と泥にまみれた葉が一面を覆い、屋根瓦が数枚、割れて転がっている。どこからか飛ばされてきたのだろうバケツやじょうろが葉に埋まり、隅には見覚えのない看板までもが泥に突き刺さっていた。
庭木が持ちこたえているのが、奇跡だと言えるだろう。周囲の花の茎の殆どが無残に折れてしまっている。
壊れ、折れ、ゴミが散乱している光景は、昨夜の狂気の爪痕を生々しく残していた。
思わず目を逸らしたくなるほどの惨状。だが目を逸らした所で何も変わらないと、手にした袋を開きながら庭に降り立った。
無心でゴミをより分けていく。
瓦、植木鉢、バケツ。
袋に入れられないものは、取りあえず突き刺さっている看板の側に集めた。
木の枝、葉。折れた花。
終わりの見えない作業に、幾度となく気が遠くなりながらも、袋の山を気づいていく。
ビニール袋、猫、チラシ。
「――ん?」
手を止めた。
今、何か違うものが混じっていたような――。
ゴミを入れたばかりの袋を開ける。チラシを掻き分けていけば、しっとりと濡れた真白い猫が現れた。
体を持ち上げて袋から出し、無言で見つめ合う。
随分と綺麗な猫だ。濡れてはいるが毛並みは雪のように白く、青い瞳は空を映したように煌めいている。
飼い猫だろうか。首輪はないが、こんなにも綺麗な猫だ。きっと飼い主がいるに違いない。
それにしても、随分とおとなしい。人慣れをしているにしても、少しは反応があってもよさそうだが。
「そろそろ助ける気になってもらいたいのだが」
声がした。
随分と低く、渋い声だ。それは目の前の綺麗な猫から聞こえた気がした。
目を瞬く。
猫がしゃべるはずはない。気のせいだと思いながら、確認のために口を開いた。
「えっと……今、しゃべらなかった?」
「話したさ。このずぶ濡れで哀れな身を見ても、まったく気にかける様子がないのだから……いい加減に、風邪を引いてしまう」
愚痴を溢し、猫は溜息を吐く。
猫が、しゃべった。
その衝撃に、十秒経って悲鳴を上げかけた時。
「――くしゅんっ!」
猫が大きくくしゃみをした。
渋い声には似合わない程、可愛らしいくしゃみだった。
「いいか。片付けで、疲労が溜まっているだろうことは理解できる。だとしてもだ。ずぶ濡れの哀れな小動物を、あろうことかゴミに捨てるとは、どういう了見なんだい」
「――大変、申し訳ありません」
その後、慌てて家に戻り、タオルとドライヤーを取り出し猫を乾かした。
バスタオル二枚と、三十分以上のドライヤーをかけ、ようやく猫の毛が乾いた後。何故か今、こうして猫にくどくどと文句を言われている。
言っていることは間違いではないため、何も言い返せないのがもどかしい。だとしても、人をさも極悪人か何かのように語るのは如何なものだろうか。
「本当に反省しているのかい?一晩寝たら、忘れてしまうのではないだろうね」
「滅相もございません」
ソファに座る猫とは対照的に、その前で正座をしているのも可笑しいのではないだろうか。
そもそも、人の庭に紛れ込んだのは猫の方で、それを助けた自分は何の非もない気がする。
いくつも込み上げる疑問や不満が顔に出ていたのだろう。
猫は疲れたように溜息を吐いて、やれやれと首を振ってみせる。
「まあいい。どんな仕打ちを受けたとして、最終的に助けてもらったことは事実だ……何か礼をしなくては、いけないな」
「お礼……?」
猫の恩返し。
どこかで聞いたことのある言葉が、脳裏を過ぎていく。
「さて、何が欲しい?金か、能力か、はたまたすべてか……欲深いのは、人間の特徴だからな。欲しいと願うものを言えば良い」
「いや、私は別に……」
何だか、生臭い話しになってきた。
綺麗な外見からは想像もつかないほど、猫の言葉は毒々しい。渋い声も相俟って、そのギャップに目眩がしそうだ。
「謙遜するな。己の本能にただ従えばいいのだよ」
本能に従うのなら、お礼は良いから早く出て行って貰いたい。そうは思うものの、青の瞳に見つめられるとその思いは一言も言葉にはならなかった。
願い事。何か言えば、帰って貰えるだろうか。何かあるかと、必死で思考を巡らせる。
「――あ」
「ようやく、決まったかね」
数分悩んで、思い浮かんだのは外の惨状だった。
「あの……庭の、片付けを……お願いしたい、です」
恐る恐る切り出せば、猫はきょとりと目を瞬かせた。
その表情は大変可愛らしい。思わず抱き締めたくなり、必死で衝動を押さえ込んだ。
とは言え、渋い声を思い出せば、一瞬で衝動は萎んで消えたのだが。
「そんなことでいいのかね?」
訝しげに聞かれ、何度も頭を縦に振る。
庭の片付けに困っているのは確かだ。欲を言えば壊れたものも直して欲しいが、あまり望み過ぎるのはよくないだろう。
したん、と尾が大きく揺れた。
「――明日の朝には、すべて片付けるようにしておこう」
ややあって口を開いた猫は、随分と穏やかな声音でそれだけを告げると、軽く伸びをしてソファから飛び降りた。
しなやかな足取りで玄関へと歩いて行く。慌ててその後を追い、玄関扉を開けた。
「ついでに、昨日の風雨で壊れたものも直しておこう。さーびすというやつだ」
開いた扉から外へ出て、猫は一度だけ振り返る。優しく微笑まれた気がして、息を呑む。
「では、またな」
何か声をかけようとして、それを遮るように猫は告げる。
え、と思った瞬間には、猫はすでに庭の向こう側へと消えていった。
「――また、って言った……?」
呆然と呟く。
猫が再びやってくる。そう思うと、どっと疲れが滲み出て、肩を落とし扉を閉める。
夢だ。きっとそうに違いない。
現実逃避をしつつかけた鍵の音が、やけに大きく聞こえた気がした。
次の日。台風が過ぎ去った後とは思えないほど、元の状態を取り戻した庭と、
「ここは客を、もてなすこともしらんのか」
当然のように部屋のソファでくつろぐ猫を見て、
「やだぁあああっ!」
力の限り叫んだのは、仕方がないことだった。
20250912 『台風が過ぎ去って』
焚き火の音に、虫の音が混じる。
上限の月が照らす、穏やかな夜だった。
「そう言えば、昔もこうして集まったことがあったよな」
「あぁ、そう言えば。確か、夜を語り明かそうと言いながら、皆すぐに寝ちまったんだっけ」
「言い出しっぺが、一番最初に寝たんだよね」
笑い声が漏れる。
焚き火を囲む皆の表情は笑顔に溢れ、とても穏やかだ。
「そう考えると、大人になったよな俺たち」
「そりゃあ、大人にもなるさ。中身はどうか知らないが」
「確かに。中身はずっと永遠の子供とか、ある意味羨ましい?」
「まさか!成長してないってことだろ」
ぱちり、ぱちりと火の爆ぜる音。
思い出話を肴に、夜がゆっくりと更けていく。
「成長してないって言えばさ、先生も成長したのかな?」
「何かあるとすぐに泣いていたもんな。最終的に生徒の俺たちが宥めることになって」
「んでもって、何でかさらに泣くんだよ。『皆優しい子に育って、先生は酷く感動している!』ってさ」
「似てる!ほんとに毎回泣く先生だった」
「最後にも泣いてさ。目が真っ赤になって、過呼吸でそのまま倒れるんじゃないかってくらいだった」
くすくす、くすり。
不思議と眠気は訪れない。話は益々盛り上がり、夜に賑やかさを添えていた。
「色々あったなぁ。こうやって思い返してみれば、楽しいことばかりだった」
「おぉ!あの頃、毎日のように退屈だと叫んでいたのに、じじいみたいだな」
「うっせ。成長したと言え、成長したと」
「落ち着いた分別のある大人になってから言ってくれ。せめて落ち着いてほしい。もうそれだけでいいから」
「なんだよ。おれ、そんなに落ち着きがないか?」
「落ち着いてたら、学生時代の生傷はほとんどなかっただろうね」
「もう少し考えてから行動できていれば、変わってただろうな」
ふ、と声が途切れた。
炎に揺らぐ表情は笑みを湛えている。それぞれが昔を懐かしみ、思いを馳せているようだった。
不意に、鳥の鳴く声がした。
はっとして見上げた東の空は、いつの間にか白み始めていた。
夜明けだ。長い夜の終わりが訪れた。
「もう朝か」
誰かの呟きが、静かな空気を震わせる。
「あぁ、朝だな」
それに答えれば、炎に照らされた皆の姿がゆらりと揺らぎ出す。
「案外早かったな。秋の夜長って言うくらいだから、もっと話せるかと思ってた」
「そうだね。正直まだ、話し足りないかも」
「久しぶりだったからね。時間がどれだけあっても話はつきないよ」
「まあ、でも。楽しかったな」
楽しかったと、笑う声が朝焼けに解けていく。
炎の揺らぎが小さくなっていく。ゆらりゆらりと名残惜しむかのように揺れて、やがて一筋の白い煙を残して炎は消えた。
「それじゃあ、またな」
「また、なんだ」
「またでいいだろ。嫌なのかよ」
「いいじゃん。さよならよりずっといい」
皆の姿が揺らぎ薄くなる。最後まで笑顔を浮かべ、手を振った。
「――そうだな。また」
笑顔を浮かべ答えると、力強く頷いた皆は朝に解けて消えていった。
ひとりきり。
燻る煙が、いつかの線香のように空へと昇っていった。
「確かにまだ、語り足りないもんな」
一人残されて、立ち上る煙を見つめていた。
陽は昇り、空は澄み切った青が広がり始めている。
ふっと、密かに笑みを浮かべ、立ち上がる。焚き火の後始末を澄ませ、傍らに置いた集合写真を手に取った。
よれて涙の染みが滲む写真。そこに写る皆は揃って笑顔を浮かべていた。
だから皆笑顔だったのだろうか。取り留めのないことを考え、丁寧に写真をしまう。
片付けを終えて朝陽を見ていれば、不意に眠気が襲い始めた。
夜通し起きていたのだから仕方ない。帰る前に一眠りするため、テントに戻る。
寝袋に潜り込めばすぐに意識は沈み、穏やかな微睡みに身を委ねた。
――今度来る時は、先生も連れてこようか。
卒業後も縁のある教師の、小さくなった背を思い浮かべながら笑みを浮かべる。
涙もろいのは変わらないが、彼も随分と穏やかになった。会えば皆驚くだろうか。
ぱちりぱちりと、耳奥で火の爆ぜる音が鳴る。
子守歌のように優しいその音に導かれ、夢の中へと落ちていく。
在りし日の皆と共に、過ぎていった夏を追いかける。
そんな滑稽で優しい夢を見た。
20250911 『ひとりきり』
当てもなく、ただ歩き続けていた。
自分にはもうなにも残されてはいない。行くべき場所はなく、帰る場所は失った。敢えて残るものをあげるとすれば、この体くらいなものだ。
俯きがちに、ふらふらと歩みを進める。
人通りの少ない場所を選んで進み、気づけば見知らぬ場所まで辿り着いた。
不意に足を止めた。
目の前に佇むのは、古びた洋館。本を通してしか見たことのない異国調の建物は、無人なのかひっそりと影を落としていた。
無意識に手が門扉へと伸びる。きぃ、という鈍い音を立てて鉄の扉が開き、小さく肩を震わせた。
慌てて手を下ろし、後退る。何を考えていたのだろう。無人に見えるからといって、中に無断で入ろうなどとは。
頭を振り、洋館に背を向ける。足を踏み出したその時、不意に冷たい風が通り過ぎた。
――きて。
ただ一言。
空耳だったのかもしれない。けれど洋館を振り向けば、窓の端に赤い何かが揺らいでいるのが見えた。
惹かれるように足を踏み出す。
ぎぃと、重苦しい音。
振り返るより先に、背後で門扉が閉じた。
迎えるように開いた玄関扉を抜け、中へと足を踏み入れる。
そこは広い玄関広間だった。
暗がりの奥には、見たこともない大きな階段が伸びている。吹き抜けの高い天井には、煤け鈍く煌めく飾り。確かシャンデリアと言っただろうか。
壁に掛けられたたくさんの肖像画が、こちらを見ている。そんな居心地の悪さに、広間で立ち尽くす。
「――こちらへ」
微かな声がして、視線を向けた。
右手の廊下の奥。閉ざされた扉の隙間から、仄かな灯りと笑い声が漏れていた。
「おいで」
再び声が聞こえ、足が自然と扉へ向かう。取っ手に触れる前に、迎えるように扉はひとりでに開いた。
甘い香りが、鼻腔を擽る。
蝋燭の灯りが揺らぐ。客間らしき中は思いのほか明るく、広々としていた。
深紅の布で覆われた窓。黒檀のように艶やかな床。
広間とは違い壁に掛けられているのは、花々や果実の絵。
それらは重々しさを湛えながらも、どこか華やいだ雰囲気を纏っていた。
部屋の中央には円い卓が据えられ、傍らには優美な椅子が三つ並んでいる。
そこに、三人の女が腰掛けていた。
赤、緑、青――それぞれ色鮮やかなドレスを身に纏い、艶やかな微笑みを浮かべている。
とても美しい人たちだ。あるいは、人ではないのかもしれない。
「ようこそ」
「待っていたわ」
「さあ、こちらへ」
蠱惑的な声音。白くしなやかな指が手招いて、ふらりと体が室内へ入っていく。
三人の前まで歩み寄ると、自然と膝をついた。
赤、緑、青。三色の瞳に見下ろされる。まるで裁きを待つ罪人のようだとぼんやり思いながら、彼女たちの言葉を待った。
「貴女の望みは?」
赤い女が囁く。手を差し伸べ、願いを言えと嗤っている。
「命か、富か、名声か」
緑の女が歌うように言葉を紡ぐ。その甘さに目眩がした。
「さあ、貴女は誰を選ぶのですか?」
静かに青の女が告げる。
差し述べられる三人の手。逡巡し、目を伏せ首を振った。
「何もいらない。望まない」
すべてを失った今、新しい何かを得てもきっと空しいだけだ。
誰の手も取らずにいれば、三人の纏う空気が僅かに変わる。張り詰めた空気に、蜜のような熱が混じった。戸惑いにも似た歓喜が、視線となって肌に絡みつく。そんな錯覚に、密かに息を呑んだ。
立ち上がる気配。顔を上げれば、一瞬蝋燭の揺らぎに合わせて三人の姿が歪んだ気がした。
「それなら、遊びましょう」
赤の女の白い指が、唇に触れる。
その横で緑の女が手を絡め、ほんの僅か爪を立てる。
その瞬間、鈍い痺れが全身に走った。
意識が揺らぎ、思考が定まらない。
促されるままに立ち上がる。ふらつき傾ぐ体を支えられ青の女に凭れれば、頬を包まれ瞼に軽く口づけられた。
意識が、感情が沈んでいく。
心の底で違和感は灯っていたが、表層へ形として浮かべられない。
現実が限りなく薄くなっていく。夢見心地の覚束ない足取りで、三人と共に部屋を出た。
連れられた先は、広い寝室だった。
鏡台を背に椅子に座らされ、緑の女が目の前に膝をつく。
「今よりも美しくしてあげるわ」
妖艶に微笑み、指を重ねる。
鏡台の引き出しを開け、細い瓶を取り出した。
中で揺れる液体は、黒に似た緑色。瓶から筆を引き抜き、手を取って指を広げさせた。
筆が爪先をなぞり、艶やかな暗い緑へと染め上げていく。冷たい感触と草花のような香りの心地良さに、ほぅと吐息が溢れ落ちた。
しかしそれは、次第に緩やかな痺れに変わる。爪先から這い上がり、全身に回り出す。
息苦しさを覚えた瞬間、痺れは鋭い痛みに変わった。
「っ、あ、ぁ……!」
微睡んでいた意識が覚醒する。
沈んでいた感情が、恐怖を伴い警鐘を鳴らし出す。
「や、……め……っ」
だがすでに手遅れだった。
手を引きたくとも、指先ひとつ動かない。
全身を貫く痛みに、呼吸すらままならない。言葉は呻きに変わり、涙として流れ落ちていく。
「苦しいのは最初だけよ。毒が回りきれば、それは極上の甘さになるから」
緑の女が涙を拭い、囁いた。その言葉に従うように、痛みはゆっくりと溶けていく。
激しい痛みは熱となり、体を震わせる。
鼓動が速い。呼吸は荒く、溢れる吐息もまた熱かった。
「綺麗よ。とてもね」
緑に染められた爪が艶やかに煌めく。
体を蝕む痛みはなく、あるのは恍惚とした甘美な熱だけだ。緑の女の言うように、毒が全身に回りきってしまったのだろうか。
霞み始めた意識で爪を見ていれば、緑の女は音もなく立ち上がる。
入れ替わるように青の女が近づいて、体を反転させられ鏡台を向かされた。
白い指が髪を撫でる。
その手には、一本の梳き櫛。静かに髪に差し入れ、梳いていく。
「――あぁ」
髪を梳かれる度に、体を蝕む熱が凪いでいく。痺れが緩やかな眠気に変わり、体が弛緩していくのを感じた。
「良い子ですね……そのままお眠りなさい」
柔らかな声音。密やかな微笑み。
心地良い微睡みに、ゆるりと目を閉じ、そして開いた。
鏡に映るものの変化に、目を見開く。
そこには自分と、三人の女の姿はなかった。
背後の長椅子に腰掛けこちらを見つめる、赤いドレスを纏った骸骨。
その隣で嗤うのは、眼窩に蛇を這わせた緑の女。
髪を梳く青の女の目は縫われ、その肌は死者を思わせる程に青白い。
「――っ」
恐怖に声を上げかけるが、同時に不思議な安堵も込み上げた。
それは、人ならざるものに囚われたことへの諦念だったのかも知れない。
青の女が髪を梳く。
恐怖を、感情を、意識を、先ほどよりも深みへと沈めていく。二度と浮かび上がらないような、奥底へと。
残るのは、穏やかで甘い眠気だけ。
「そう。受け入れなさい。望まぬのならば、貴女のすべてを差し出すのです」
静かな囁き。
閉じた瞼に、口づけを落とされる。
力なく身を委ねれば、褒めるようにそっと髪を撫でられた。
微かな衣擦れの音がする。
肌が外気に触れ、熱を失った体が震え出す。
目を開ければ青の女の姿はなく、赤の女が艶やかな微笑みを浮かべて肩を支えていた。
「おいで」
震える体を赤の女に支えられ、立ち上がる。
爪先が凍てつくように冷えている。だというのに、頬は火照り、溢れる吐息もまた熱を孕んでいた。
「ほら、綺麗になった」
姿見の前まで連れられ、自分の姿を晒される。
気づけば、服が替わっていた。白布を纏ったその身は、まるで死装束のようにも、花嫁衣装のようにも見えた。
そんな自分の肩を抱いて、姿見の中で骸骨が笑う。
自分もまた、その姿を見て笑っていた。
「踊りましょう」
肩を支える手が下り、手を取られる。
冷たい手。熱を求めて震える指先を絡めれば、体は自然に動き出す。
軽やかに床を滑り、舞う。骸骨の腕に抱かれ、旋回する。
いつしか震えは止まり、冷たさも熱も何もかもを感じなくなっていた。
ただ骨の手に導かれるままに、舞い踊る。
外の世界も、過去も、未来も消えていく。
残されたのはただ、死と共に踊り続ける、自分の微笑みだった。
広いダンスホールで、一人舞う。
あれからどれ程の年月が経ったのかは分からない。時折聞こえる誰かの叫びなど、もう気にもならなくなった。
くるり。ステップを踏み、宙を舞う。緑に染められた爪が鮮やかに煌めき、白のドレスがふわりと広がる。
三人の祝福を受けたこの体は、時を刻むことを止めた。朽ちることもなく永遠に留められたままだ。
不意に、ホールの扉が開いた。戻ってきた三人に踊り続ける体を抱き留められる。
「今日の人間はとても酷かったわ。三人すべてを望むのですもの」
緑の女が不快げ眉を寄せ、甘えるように手を取り擦り寄った。
「だからね、一番長く苦しめる毒を与えてあげたわ」
「私は眠りを与えませんでした。最期の時まで、朽ちる自身の体を見ることになりましたね」
青の女が髪を掬い、口づける。表情こそは穏やかだが、その声音は酷く凍てついている。
外の世界では、ここは願いを叶える館として噂になっているらしい。
三人の試練を乗り越え祝福を受ければ、望むものが手に入るのだという。
けれど自分の知る限り、三人から祝福を受けた者はいなかった。三人もまた、誰かに祝福を授けたことはないという。
自分以外には、何も授けてないのだと。
赤の女へと視線を向ける。
変わらず艶やかな微笑みを湛え、こちらを見つめていた。
その姿は次第に揺らぎ、骸骨の姿へと戻る。
気づけば側にいる二人も、本来の姿へと戻っていた。
「踊りましょう」
骸骨が手を差し出す。それにためらいなく手を重ね、笑みを浮かべながら踊り始めた。
音楽などはない。無音のホールで導かれるまま、求められるままに踊り続ける。
骸骨の手を離れ、蛇の手を取る。蛇の牙が首筋を噛み、回り始めた毒の甘美な痺れに酔い痴れた。
蛇の手を離れ、瞼を縫われた女へと凭れかかる。足は止めない。覚束ない足取りで、さらに早くステップを踏み続ける。
タランテラ。終わらない死の舞踏。
瞼に口づけを受けながら、今日もまた死へと至る恍惚を繰り返した。
20250910 『Red,Green,Blue』
小さな背が見えて、駆け寄った。
「畑仕事の帰りか?手伝うよ」
「あ、うん。そうだけど、大丈夫だよ」
彼女の手の中の農具に手を伸ばすが、やんわりと断られてしまう。行き場を失った手が宙を彷徨い、仕方なく彼女の頬についた泥を拭った。
「泥、ついてる」
「え、あ、ありがとう……」
微笑む彼女に、心臓が忙しく動き出す。
「何か、用事?」
首を傾げ、彼女は問う。赤く鳴り出しただろう頬を悟られてしまわぬよう、視線を逸らしながら口を開いた。
「あぁ……あのさ、今夜の祭事。お前も見に来ないか?」
声が上擦るのを抑えられない。期待して、彼女の返答を待った。
「それは……」
「まだ参加させることはできないけどさ、見るだけならいいと思うんだ」
喜んでもらえると思っていた。しかし彼女の反応は予想と異なり、静かに首を降って否を答えた。
「駄目だよ。ちゃんとしきたりは守らないと」
「見てもいけないとは言われてない。きっと大丈夫だ」
「それでも駄目。お父さんとお母さんみたいになっちゃうもの」
「っ……」
一瞬陰った彼女の表情に息を呑む。
あれはただの偶然だ。そう慰めようとするも、言葉は喉に張り付いて音にならなかった。
黙る自分に、彼女は眉を下げる。それに、と舌を出して戯けてみせた。
「夜はいつもすぐに寝ちゃうから、起きていられないかもしれないしね……ごめんね、せっかく誘ってくれたのに」
「いや……そんなこと……」
慌てて首を振る。彼女は悲しく笑ったまま、そう、とだけ呟いて、立ち尽くす自分を置いて帰っていってしまった。
「――振られちゃったわね」
「さすがに祭事は早すぎたんだろうな」
少し離れた場所で様子を見ていた友人たちが、近づきながら好き勝手に話し出す。
相談を持ちかけた時には賛同していたはずなのに、好き勝手言う二人に文句が出かかる。それを呑み込んで、家に戻るために歩き出した。
「祭事に誘うのは駄目ね。あの子の両親のこともあるし」
「あれだけの土砂被害があって、亡くなったのが二人だけなんだ。そりゃあ、しきたりを破ったせいだと思いたくなる」
「そんなわけないだろ」
咄嗟に否定する。
「あいつの両親はちゃんと手順を踏んで、仲間になった。現にその前の祭事では何もなかったんだ」
「だとしても」
ただの不運。それだけだ。
そう続けようとする前に、今まで黙っていた親友が口を開いた。
「彼女の中では線引きがされている。俺たちと、彼女と。いくら手順を踏んで仲間になったと言われた所で、彼女の中では自身はいつまでも余所者のままなんだろう」
その溝は、なくなることはない。最初に余所者だと線を引いた自分たちに、その線を消すことはできない。
そう告げられた気がして、唇を噛みしめる。
しきたりだからと、無邪気に近づいてきた彼女を突き放した幼い頃の思い出。泣くのを耐えて去っていく彼女の姿が浮かんで、あの日の自分を殴りつけたくなった。
「諦めろ。彼女は仲間にはなれない」
後悔が滲むが、今更悔いた所でもう遅い。
仲間になれない寂しさが、いつまでも胸に昏い影の落としていた。
かたり、と戸が揺れる音がして、少女は針仕事の手を止めた。
視線を向ければ、戸の前には幼子が二人。瓜二つのその姿は、二人が双子だと示していた。
「あいにきたよ」
「ふたりできたよ」
「「いっしょにあそぼう?」」
二人の言葉に少女は笑顔で頷き、片付けを始めた。
少女が二人と出会ったのは、彼女が家族と共にこの村に越してきてしばらくしてからのことだった。
同じ年頃の子供たちは皆、少女を余所者と言い遠ざける。
寂しさを抱えながら、一人墓地の奥でひっそりと遊んでいた時に、二人に声をかけられたのだ。
「ないてるの?」
「さみしいの?」
そう言って、二人は少女よりも悲しい顔をする。左右それぞれの手を繋いで、一緒に遊ぼうと誘う。
越してきてから、初めて触れる家族以外の人の優しさ。その温もりに少女は耐えられず、声を上げて泣いた。
「だいじょうぶだよ」
「わたしたちもいっしょだよ」
二人に寄り添われ慰められながら、少女はこの村について様々なことを教えてもらった。
村に伝わるしきたりのこと。排他的な意識が強いこと。
仲間になるための手順も教えてもらったが、仲間になったとしても、さほど扱いに変わりはないとも言われた。
「ちがうものは、きらいなの」
「にすぎているのも、きらいなの」
外から来た人だけでなく、双子なども忌避する対象なのだと二人は言う。
だから二人は捨てられた。名前も与えられず、愛されず。
まるでいらないものを捨てるかのように、森の奥深くに置き去りにされたと二人は語る。
「なかまはずれなの」
「だからいっしょね」
二人は笑う。
笑って少女に手を差し伸べる。
「わたしたち、かぞくになるわ」
「おねえちゃんになるわ」
仲間よりも強い絆。
家族になろう。一緒にいようと誘われて、少女は迷わずその手を取った。
微かに祭囃子の音が聞こえて、少女は窓の外を見た。
気づけば外は、夜の暗闇に沈んでいる。
「かえるじかんなのね」
「きょうはとくべつはやい。さいじがあるものね」
二人は不満げにしながらも、玩具を片付けだす。
家族になったと言えど、二人は常に少女の側にいる訳ではない。
森に捨てられた二人は、森に住まう神の所有物となった。二人が自由を与えられる僅かな時間だけ、こうして少女の元に通っているのだ。
「またあしたね」
「あしたもあそびましょうね」
戸口に立った二人の姿が、ゆらりと揺らぎ消えていく。その姿を見送って、少女は泣くのを堪えて俯いた。
寂しくないと言えば嘘になる。けれど、また明日の約束は、この村の人々よりも信じることができた。
「また、明日」
小さく呟いて、少女は窓の外に視線を向けた。
カーテンを閉めていない窓からは、小さくいくつもの灯が見えている。甲高い笛の音に合わせて、低い太鼓の音が響き始めた。
祭事が始まったのだろう。
一瞬、少女の表情が怒りに歪む。強くカーテンを引いて、窓に背を向けた。
ようやく仲間になれたのだと、喜ぶ両親の顔が脳裏を過ぎる。
仲間になったと嘯いて、その実扱いは変わらなかったことを少女は知っている。
両親は土砂崩れに巻き込まれたが、亡くなった遠因は後回しにされ続けてきたからだ。
助け出された時、両親はまだ生きていた。すぐに治療を受ければ助かった命だったはずなのだ。だが治療を受けれたのは一番最後。その時にはすでに、両親は息をしていなかった。
故に少女は、村の誰にも気を許してはいない。村の仲間になれなくても構わないとすら思っている。
小さく息を吐く。
明日も早い。もう寝てしまわなければ。
祭事に背を向けるように、少女は部屋の電気を落とした。
20250908 『仲間になれなくて』
久しぶりに戻ってきた故郷は、変わらず穏やかさに満ちていた。
「お帰り」
「元気にしてたかい」
道行く人々に笑顔で迎えられ、作り笑顔で会釈をする。
同じような笑顔。まるで一枚の仮面のように、出会う人すべてが揃って同じ笑顔を浮かべている。
それを見る度、返事を返す度に、作り笑いを浮かべた頬が引き攣った。
本当に何一つ変わらない。聞こえるのは人々の笑い声のみで、泣き声や怒声などは僅かにも聞こえることはなかった。
足早に実家へと向かい、挨拶もそこそこに自室に戻る。家を出た身ではあるが、いつ帰省しても自分の部屋は変わらずそこに残っていた。
一人になって、ようやく笑みを消した。ここでは笑顔が当たり前で、それ以外はない。喜怒哀楽の怒と哀を持たない故郷は一部ではしあわせの村と呼ばれ憧れられるほどだ。
その噂を聞く度、それは違うのだと叫びたくなる。見ているのは上澄みだけで、その深部の澱み濁ったものを見ていないだけだ、と。
両親の笑顔を思い浮かべ、目を伏せる。崩れ落ちるように座り込み、そのまま畳に横になった。
ここに生きる人々のどれ程が、笑顔でいられることの理由を正しく認識しているのだろう。
今夜、祭事が執り行われるのだという。
小さく息を吐き、目を閉じる。
それはつまり、どこかの家で狐憑きが出たことを意味していた。
幼い頃、狐憑きの行く末を見た。
笛や太鼓の鳴り響く夜に、白装束を来た狐憑きが縛られながら森の奥へと連れて行かれていた。
思わずその後を追ったのは、狐憑きになったのが友人の姉だったからだ。
憧れ、密かに恋していた彼女。いつもの優しい微笑みはなく、初めて見る表情をして髪を振り乱し、何かを言い続けていたのが強く心に残っている。
友人の姉を連れて行く大人たちに気づかれぬよう、静かに離れて後を追う。そうして辿り着いた山奥には、古ぼけた大きなお堂があった。
扉を開けて、大人たちが友人の姉を連れ入っていく。
中からいくつもの笑い声以外の声が聞こえて、体が震えた。
甲高い笑い声に混じり、強く荒々しい声が響く。弱く掠れた声に、押し殺したような低くくぐもった声が混じる。
泣き声、怒り叫ぶ声、呻く声。
その時に、自分は初めて嬉しさや楽しさ以外に感情があるのだと知った。
その後、どうやって家に帰りついたのか覚えていない。
だが自分はその時から、家を出て外で生きていくことを決めたのだ。
虫の声に声に混じり、笛の音が聞こえ始めた。
目を開けると、辺りは既に薄暗い。いつの間にか少し眠ってしまっていたようだ。
体を起こせば、自然と欠伸が漏れる。緩く頭を振り、固まった体をほぐしていれば、不意に部屋の扉が開けられた。
「久しぶりだな。声くらいかけてくれてもよかっただろうに」
無遠慮に部屋に足を踏み入れた友人が、部屋の電気を点ける。急な眩しさに目を瞬いていると、楽しげに笑う友人が目の前に膝をついた。
「頬に畳の後がついてるぞ。次からはちゃんと布団を敷いておけ」
そう言って、目尻に溜まっていた涙を指先で拭う。腕を引かれて、促されるまま立ち上がった。
そのまま外へと連れ出される。まだぼんやりとする意識では、気を抜くとすぐに瞼が閉じてしまう。
「歩いたまま寝ようとするな……ほら、もう少しで着くから、そうしたら出店で何か食え。奢ってやるから」
「いい。ちゃんと起きてる。寝てないから、一人でも歩ける」
「せめて目を開けてから、話してくれ」
他愛ない話をしながら、祭事の場所へと向かう。
これから行われることを、友人はどこまで知っているのだろう。
視線を向けた友人は、昼間見た他の人々のような笑みを浮かべている。整った笑顔。穏やかな平穏。
そこに波紋を立てる狐憑き。
あの日見た友人の姉の姿が思い浮かぶ。
「どうした?」
視線に気づいた友人が、立ち止まりこちらを見つめた。
変わらない笑顔。けれどもその目はどこか鋭く、こちらを見定めているようだ。
ゆっくりを目を瞬いて、へにゃりと笑みを浮かべてみせる。
そうすれば、友人の視線が幾分か和らいだ。
「祭事、久しぶりだ」
さりげなく視線を逸らし、前を見る。
暗い山の麓に、ぽつりぽつりと明かりが灯っている。はっきりと聞こえ出す笛と太鼓の音と、微かに聞こえる笑い声。
祭はもう始まっているのだろう。
「斜め向かいに住んでいたじいさんが狐に憑かれた。先月、ばあさんが死んで、その隙間に入り込まれたんだろう」
それは狐に憑かれたのではなく、悲しかったからだ。
口にも表情にも出さず、密かに思う。
仲の良い夫婦だった。その喪失に耐えられなかったのだろう。
負の感情が濾過しきれなかったのだ。
そこで、気づく。
ようやく、気づけた。
「賑やかだね。やっぱり久しぶりだからなのか」
「そうだな。もう何年もなかったからな」
作り笑顔を浮かべて、歩き出す。
後でお堂に向かおう。
そう、思った。
祭事が終わった、深夜。
明かりが落ちて、暗い山道を一人足早に進んでいく。
耳が痛いほど虫が鳴いている。風が草木を揺する度に肩を震わせ立ち止まるが、それでも戻るつもりはなかった。
やがて、遠くにぼんやりと建物の影が暗がりに浮かぶ。
駆け出した足は、しかし近づき建物の輪郭をはっきりと捉えた瞬間に止まった。
お堂の前に、誰かがいる。
「やっぱり来たのか」
聞き慣れた声がして、ひゅっと息を呑んだ。
暗がりに薄ぼんやりと明かりがひとつ、灯される。提灯の明かりが揺らめいて、影が足下まで伸びてくる。
伸びた影が足に触れ、逃げようと後退る体を縫い止めた。
立ち尽くし動けない自分の元へ、誰か――友人はゆっくりと歩み寄ってくる。提灯の明かりに照らされ仄かに見える友人は、昏い笑みを湛えていた。
「おいで」
背後から肩に触れ、軽く押される。それだけで体は意思に反して、お堂の前まで歩き出した。
逃げなければと思うのに、足は止まらない。肩に触れる手を払いのけることさえできない。
そのままおとなしく、友人と共に入口の前に立つ。友人が片手で扉を開ければ、途端に声の波が鼓膜を揺らした。
「――あ、あぁ」
目の前の光景から目を逸らせない。
お堂の内部は異様な空気に包まれていた。
板張りの床に打ち込まれた、何本もの人の背ほどの柱。
そこに白装束を着た人々が、縛り付けられていた。
饐えた匂いが湿気と混じり内部を満たしている。その中に鉄さびに似た匂いを感じ、不快さに眉を顰めた。
「やだ、や………いやだいやだいやだ」
「あははっ、あは、は……あぁあああっ……!」
「ゆるさない、たすけてたすけて……ころして」
身を捩り、泣き叫ぶ。
髪を振り乱し、苦悶に顔を歪め、あるいは笑いながら声が響く。
縄が軋む音がする。痛い痛いと喚きながら、それでもここから逃れようと暴れ、あるいは力尽きたかのように項垂れている。
その中に、祭事で連れていかれた老人を認めて、思わず一筋涙が零れ落ちた。
「怖いのか。それとも悲しいのか」
友人の囁きに、肩が大きく跳ねる。
「もしかしてとは思っていた。だからお前の装束と場所は、ちゃんと用意してある」
優しい声音。普段と何一つ変わらない態度でありながら、無慈悲に友人はある一点を指差した。
そこにはただ柱があるのみで、誰も括られてはいない。それの意味する所を知って、体が震え出す。
「お前は姉貴が好きだったからな。側にいられて嬉しいだろう?」
「――え?」
友人の言葉に、柱の隣に視線を向ける。
力なく項垂れた誰か。長い髪、痩せ衰えた身体。
見る影もないが、彼女は――。
「まだ早い。祭事を執り行うとしたら、明日だ」
無意識に踏み出した足は、友人に肩を掴まれたことで止まる。
咄嗟にその手を振りほどいた。自由を取り戻した体に内心驚きながらも、中へと足を踏み入れ。
「まったく……お前は本当に、姉貴が好きだな」
だがすぐに体は動きを止め、友人の元まで戻っていく。
視線を落とすと、影が足に絡みついているのが見えた。
足にいくら力を入れようと、自由が戻る様子はない。諦めきれずに何度も繰り返していれば、不意に何かを摘まんだ指が口を割り開き中へと押し入ってきた。
「撤饌《おさがり》だ。お前、ここに来てから、まだ何も口にしてないだろうからな」
嫌だと首を振ることすらできない。従順な体は、友人が差し入れた何かを受け入れ、飲み込んだ。
仄かに甘い、何か。離れていく指を見ながら、自分の中の変化に気づいた。
「あ……い、や……何でっ……!?」
抜け落ちていく。濾されていく。
目の前の光景への悲しみも、友人に対する怖れも、砂のように溢れ落ちてしまう。
笑いたくもないのに、口元が弧を描き始めた。
「取り込むだけで正常に戻ってきているな……大丈夫だ、馴染めば違和感すら感じなくなる」
背を撫で、友人が穏やかに告げる。
よかったと笑う友人に、同じように笑みを返した。
「さあ、戻ろうか。しばらく俺の家にいればいい。しっかりと馴染ませて……そうすれば、二度と外に出ようなど考えることもないだろう」
扉が閉まっていく。
思わず伸ばしかけた手を疑問に思い始めた自分に、笑いながら意味も分からず泣いた。
「――なぁ」
「ん?」
濾されていく感情の残り滓を掻き集め、声をかける。
「結局……狐憑きとは、何なんだ?」
疑問を口にして、意味がないことを聞いてしまったと笑う。それに友人も可笑しそうに笑いながら、律儀にも答えを返してくれた。
「感情を正しく濾過できなくなった、欠陥品。そして他の奴らのために感情を濾し、濾された感情の新たな受け皿……フィルターみたいなもんだ」
肩を竦める友人に、気のない礼を返す。
よく分からないが、ありがたいことではあるのだろう。
友人と二人家路に就きながら、ふと冷たさを感じて目元を拭う。
指先についた滴に、首を傾げた。
欠伸でもしただろうか。すでに夜も深まり、普段ならとっくに寝ているはずなのだから仕方ないかもしれない。
そもそも自分は何故、友人とこんな所に来ているのか。
酷く記憶が曖昧だが、明日気が向けば友人が教えてくれるだろう。
「おい。歩いたまま、寝るなよ」
「寝てない。目を閉じているだけだ」
「目を閉じて、どうやって歩くつもりなんだ」
他愛ない話をしながら、静かな夜道を歩いていく。
何故だろう。今夜はとても気分がよかった。
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