小さな背が見えて、駆け寄った。
「畑仕事の帰りか?手伝うよ」
「あ、うん。そうだけど、大丈夫だよ」
彼女の手の中の農具に手を伸ばすが、やんわりと断られてしまう。行き場を失った手が宙を彷徨い、仕方なく彼女の頬についた泥を拭った。
「泥、ついてる」
「え、あ、ありがとう……」
微笑む彼女に、心臓が忙しく動き出す。
「何か、用事?」
首を傾げ、彼女は問う。赤く鳴り出しただろう頬を悟られてしまわぬよう、視線を逸らしながら口を開いた。
「あぁ……あのさ、今夜の祭事。お前も見に来ないか?」
声が上擦るのを抑えられない。期待して、彼女の返答を待った。
「それは……」
「まだ参加させることはできないけどさ、見るだけならいいと思うんだ」
喜んでもらえると思っていた。しかし彼女の反応は予想と異なり、静かに首を降って否を答えた。
「駄目だよ。ちゃんとしきたりは守らないと」
「見てもいけないとは言われてない。きっと大丈夫だ」
「それでも駄目。お父さんとお母さんみたいになっちゃうもの」
「っ……」
一瞬陰った彼女の表情に息を呑む。
あれはただの偶然だ。そう慰めようとするも、言葉は喉に張り付いて音にならなかった。
黙る自分に、彼女は眉を下げる。それに、と舌を出して戯けてみせた。
「夜はいつもすぐに寝ちゃうから、起きていられないかもしれないしね……ごめんね、せっかく誘ってくれたのに」
「いや……そんなこと……」
慌てて首を振る。彼女は悲しく笑ったまま、そう、とだけ呟いて、立ち尽くす自分を置いて帰っていってしまった。
「――振られちゃったわね」
「さすがに祭事は早すぎたんだろうな」
少し離れた場所で様子を見ていた友人たちが、近づきながら好き勝手に話し出す。
相談を持ちかけた時には賛同していたはずなのに、好き勝手言う二人に文句が出かかる。それを呑み込んで、家に戻るために歩き出した。
「祭事に誘うのは駄目ね。あの子の両親のこともあるし」
「あれだけの土砂被害があって、亡くなったのが二人だけなんだ。そりゃあ、しきたりを破ったせいだと思いたくなる」
「そんなわけないだろ」
咄嗟に否定する。
「あいつの両親はちゃんと手順を踏んで、仲間になった。現にその前の祭事では何もなかったんだ」
「だとしても」
ただの不運。それだけだ。
そう続けようとする前に、今まで黙っていた親友が口を開いた。
「彼女の中では線引きがされている。俺たちと、彼女と。いくら手順を踏んで仲間になったと言われた所で、彼女の中では自身はいつまでも余所者のままなんだろう」
その溝は、なくなることはない。最初に余所者だと線を引いた自分たちに、その線を消すことはできない。
そう告げられた気がして、唇を噛みしめる。
しきたりだからと、無邪気に近づいてきた彼女を突き放した幼い頃の思い出。泣くのを耐えて去っていく彼女の姿が浮かんで、あの日の自分を殴りつけたくなった。
「諦めろ。彼女は仲間にはなれない」
後悔が滲むが、今更悔いた所でもう遅い。
仲間になれない寂しさが、いつまでも胸に昏い影の落としていた。
かたり、と戸が揺れる音がして、少女は針仕事の手を止めた。
視線を向ければ、戸の前には幼子が二人。瓜二つのその姿は、二人が双子だと示していた。
「あいにきたよ」
「ふたりできたよ」
「「いっしょにあそぼう?」」
二人の言葉に少女は笑顔で頷き、片付けを始めた。
少女が二人と出会ったのは、彼女が家族と共にこの村に越してきてしばらくしてからのことだった。
同じ年頃の子供たちは皆、少女を余所者と言い遠ざける。
寂しさを抱えながら、一人墓地の奥でひっそりと遊んでいた時に、二人に声をかけられたのだ。
「ないてるの?」
「さみしいの?」
そう言って、二人は少女よりも悲しい顔をする。左右それぞれの手を繋いで、一緒に遊ぼうと誘う。
越してきてから、初めて触れる家族以外の人の優しさ。その温もりに少女は耐えられず、声を上げて泣いた。
「だいじょうぶだよ」
「わたしたちもいっしょだよ」
二人に寄り添われ慰められながら、少女はこの村について様々なことを教えてもらった。
村に伝わるしきたりのこと。排他的な意識が強いこと。
仲間になるための手順も教えてもらったが、仲間になったとしても、さほど扱いに変わりはないとも言われた。
「ちがうものは、きらいなの」
「にすぎているのも、きらいなの」
外から来た人だけでなく、双子なども忌避する対象なのだと二人は言う。
だから二人は捨てられた。名前も与えられず、愛されず。
まるでいらないものを捨てるかのように、森の奥深くに置き去りにされたと二人は語る。
「なかまはずれなの」
「だからいっしょね」
二人は笑う。
笑って少女に手を差し伸べる。
「わたしたち、かぞくになるわ」
「おねえちゃんになるわ」
仲間よりも強い絆。
家族になろう。一緒にいようと誘われて、少女は迷わずその手を取った。
微かに祭囃子の音が聞こえて、少女は窓の外を見た。
気づけば外は、夜の暗闇に沈んでいる。
「かえるじかんなのね」
「きょうはとくべつはやい。さいじがあるものね」
二人は不満げにしながらも、玩具を片付けだす。
家族になったと言えど、二人は常に少女の側にいる訳ではない。
森に捨てられた二人は、森に住まう神の所有物となった。二人が自由を与えられる僅かな時間だけ、こうして少女の元に通っているのだ。
「またあしたね」
「あしたもあそびましょうね」
戸口に立った二人の姿が、ゆらりと揺らぎ消えていく。その姿を見送って、少女は泣くのを堪えて俯いた。
寂しくないと言えば嘘になる。けれど、また明日の約束は、この村の人々よりも信じることができた。
「また、明日」
小さく呟いて、少女は窓の外に視線を向けた。
カーテンを閉めていない窓からは、小さくいくつもの灯が見えている。甲高い笛の音に合わせて、低い太鼓の音が響き始めた。
祭事が始まったのだろう。
一瞬、少女の表情が怒りに歪む。強くカーテンを引いて、窓に背を向けた。
ようやく仲間になれたのだと、喜ぶ両親の顔が脳裏を過ぎる。
仲間になったと嘯いて、その実扱いは変わらなかったことを少女は知っている。
両親は土砂崩れに巻き込まれたが、亡くなった遠因は後回しにされ続けてきたからだ。
助け出された時、両親はまだ生きていた。すぐに治療を受ければ助かった命だったはずなのだ。だが治療を受けれたのは一番最後。その時にはすでに、両親は息をしていなかった。
故に少女は、村の誰にも気を許してはいない。村の仲間になれなくても構わないとすら思っている。
小さく息を吐く。
明日も早い。もう寝てしまわなければ。
祭事に背を向けるように、少女は部屋の電気を落とした。
20250908 『仲間になれなくて』
久しぶりに戻ってきた故郷は、変わらず穏やかさに満ちていた。
「お帰り」
「元気にしてたかい」
道行く人々に笑顔で迎えられ、作り笑顔で会釈をする。
同じような笑顔。まるで一枚の仮面のように、出会う人すべてが揃って同じ笑顔を浮かべている。
それを見る度、返事を返す度に、作り笑いを浮かべた頬が引き攣った。
本当に何一つ変わらない。聞こえるのは人々の笑い声のみで、泣き声や怒声などは僅かにも聞こえることはなかった。
足早に実家へと向かい、挨拶もそこそこに自室に戻る。家を出た身ではあるが、いつ帰省しても自分の部屋は変わらずそこに残っていた。
一人になって、ようやく笑みを消した。ここでは笑顔が当たり前で、それ以外はない。喜怒哀楽の怒と哀を持たない故郷は一部ではしあわせの村と呼ばれ憧れられるほどだ。
その噂を聞く度、それは違うのだと叫びたくなる。見ているのは上澄みだけで、その深部の澱み濁ったものを見ていないだけだ、と。
両親の笑顔を思い浮かべ、目を伏せる。崩れ落ちるように座り込み、そのまま畳に横になった。
ここに生きる人々のどれ程が、笑顔でいられることの理由を正しく認識しているのだろう。
今夜、祭事が執り行われるのだという。
小さく息を吐き、目を閉じる。
それはつまり、どこかの家で狐憑きが出たことを意味していた。
幼い頃、狐憑きの行く末を見た。
笛や太鼓の鳴り響く夜に、白装束を来た狐憑きが縛られながら森の奥へと連れて行かれていた。
思わずその後を追ったのは、狐憑きになったのが友人の姉だったからだ。
憧れ、密かに恋していた彼女。いつもの優しい微笑みはなく、初めて見る表情をして髪を振り乱し、何かを言い続けていたのが強く心に残っている。
友人の姉を連れて行く大人たちに気づかれぬよう、静かに離れて後を追う。そうして辿り着いた山奥には、古ぼけた大きなお堂があった。
扉を開けて、大人たちが友人の姉を連れ入っていく。
中からいくつもの笑い声以外の声が聞こえて、体が震えた。
甲高い笑い声に混じり、強く荒々しい声が響く。弱く掠れた声に、押し殺したような低くくぐもった声が混じる。
泣き声、怒り叫ぶ声、呻く声。
その時に、自分は初めて嬉しさや楽しさ以外に感情があるのだと知った。
その後、どうやって家に帰りついたのか覚えていない。
だが自分はその時から、家を出て外で生きていくことを決めたのだ。
虫の声に声に混じり、笛の音が聞こえ始めた。
目を開けると、辺りは既に薄暗い。いつの間にか少し眠ってしまっていたようだ。
体を起こせば、自然と欠伸が漏れる。緩く頭を振り、固まった体をほぐしていれば、不意に部屋の扉が開けられた。
「久しぶりだな。声くらいかけてくれてもよかっただろうに」
無遠慮に部屋に足を踏み入れた友人が、部屋の電気を点ける。急な眩しさに目を瞬いていると、楽しげに笑う友人が目の前に膝をついた。
「頬に畳の後がついてるぞ。次からはちゃんと布団を敷いておけ」
そう言って、目尻に溜まっていた涙を指先で拭う。腕を引かれて、促されるまま立ち上がった。
そのまま外へと連れ出される。まだぼんやりとする意識では、気を抜くとすぐに瞼が閉じてしまう。
「歩いたまま寝ようとするな……ほら、もう少しで着くから、そうしたら出店で何か食え。奢ってやるから」
「いい。ちゃんと起きてる。寝てないから、一人でも歩ける」
「せめて目を開けてから、話してくれ」
他愛ない話をしながら、祭事の場所へと向かう。
これから行われることを、友人はどこまで知っているのだろう。
視線を向けた友人は、昼間見た他の人々のような笑みを浮かべている。整った笑顔。穏やかな平穏。
そこに波紋を立てる狐憑き。
あの日見た友人の姉の姿が思い浮かぶ。
「どうした?」
視線に気づいた友人が、立ち止まりこちらを見つめた。
変わらない笑顔。けれどもその目はどこか鋭く、こちらを見定めているようだ。
ゆっくりを目を瞬いて、へにゃりと笑みを浮かべてみせる。
そうすれば、友人の視線が幾分か和らいだ。
「祭事、久しぶりだ」
さりげなく視線を逸らし、前を見る。
暗い山の麓に、ぽつりぽつりと明かりが灯っている。はっきりと聞こえ出す笛と太鼓の音と、微かに聞こえる笑い声。
祭はもう始まっているのだろう。
「斜め向かいに住んでいたじいさんが狐に憑かれた。先月、ばあさんが死んで、その隙間に入り込まれたんだろう」
それは狐に憑かれたのではなく、悲しかったからだ。
口にも表情にも出さず、密かに思う。
仲の良い夫婦だった。その喪失に耐えられなかったのだろう。
負の感情が濾過しきれなかったのだ。
そこで、気づく。
ようやく、気づけた。
「賑やかだね。やっぱり久しぶりだからなのか」
「そうだな。もう何年もなかったからな」
作り笑顔を浮かべて、歩き出す。
後でお堂に向かおう。
そう、思った。
祭事が終わった、深夜。
明かりが落ちて、暗い山道を一人足早に進んでいく。
耳が痛いほど虫が鳴いている。風が草木を揺する度に肩を震わせ立ち止まるが、それでも戻るつもりはなかった。
やがて、遠くにぼんやりと建物の影が暗がりに浮かぶ。
駆け出した足は、しかし近づき建物の輪郭をはっきりと捉えた瞬間に止まった。
お堂の前に、誰かがいる。
「やっぱり来たのか」
聞き慣れた声がして、ひゅっと息を呑んだ。
暗がりに薄ぼんやりと明かりがひとつ、灯される。提灯の明かりが揺らめいて、影が足下まで伸びてくる。
伸びた影が足に触れ、逃げようと後退る体を縫い止めた。
立ち尽くし動けない自分の元へ、誰か――友人はゆっくりと歩み寄ってくる。提灯の明かりに照らされ仄かに見える友人は、昏い笑みを湛えていた。
「おいで」
背後から肩に触れ、軽く押される。それだけで体は意思に反して、お堂の前まで歩き出した。
逃げなければと思うのに、足は止まらない。肩に触れる手を払いのけることさえできない。
そのままおとなしく、友人と共に入口の前に立つ。友人が片手で扉を開ければ、途端に声の波が鼓膜を揺らした。
「――あ、あぁ」
目の前の光景から目を逸らせない。
お堂の内部は異様な空気に包まれていた。
板張りの床に打ち込まれた、何本もの人の背ほどの柱。
そこに白装束を着た人々が、縛り付けられていた。
饐えた匂いが湿気と混じり内部を満たしている。その中に鉄さびに似た匂いを感じ、不快さに眉を顰めた。
「やだ、や………いやだいやだいやだ」
「あははっ、あは、は……あぁあああっ……!」
「ゆるさない、たすけてたすけて……ころして」
身を捩り、泣き叫ぶ。
髪を振り乱し、苦悶に顔を歪め、あるいは笑いながら声が響く。
縄が軋む音がする。痛い痛いと喚きながら、それでもここから逃れようと暴れ、あるいは力尽きたかのように項垂れている。
その中に、祭事で連れていかれた老人を認めて、思わず一筋涙が零れ落ちた。
「怖いのか。それとも悲しいのか」
友人の囁きに、肩が大きく跳ねる。
「もしかしてとは思っていた。だからお前の装束と場所は、ちゃんと用意してある」
優しい声音。普段と何一つ変わらない態度でありながら、無慈悲に友人はある一点を指差した。
そこにはただ柱があるのみで、誰も括られてはいない。それの意味する所を知って、体が震え出す。
「お前は姉貴が好きだったからな。側にいられて嬉しいだろう?」
「――え?」
友人の言葉に、柱の隣に視線を向ける。
力なく項垂れた誰か。長い髪、痩せ衰えた身体。
見る影もないが、彼女は――。
「まだ早い。祭事を執り行うとしたら、明日だ」
無意識に踏み出した足は、友人に肩を掴まれたことで止まる。
咄嗟にその手を振りほどいた。自由を取り戻した体に内心驚きながらも、中へと足を踏み入れ。
「まったく……お前は本当に、姉貴が好きだな」
だがすぐに体は動きを止め、友人の元まで戻っていく。
視線を落とすと、影が足に絡みついているのが見えた。
足にいくら力を入れようと、自由が戻る様子はない。諦めきれずに何度も繰り返していれば、不意に何かを摘まんだ指が口を割り開き中へと押し入ってきた。
「撤饌《おさがり》だ。お前、ここに来てから、まだ何も口にしてないだろうからな」
嫌だと首を振ることすらできない。従順な体は、友人が差し入れた何かを受け入れ、飲み込んだ。
仄かに甘い、何か。離れていく指を見ながら、自分の中の変化に気づいた。
「あ……い、や……何でっ……!?」
抜け落ちていく。濾されていく。
目の前の光景への悲しみも、友人に対する怖れも、砂のように溢れ落ちてしまう。
笑いたくもないのに、口元が弧を描き始めた。
「取り込むだけで正常に戻ってきているな……大丈夫だ、馴染めば違和感すら感じなくなる」
背を撫で、友人が穏やかに告げる。
よかったと笑う友人に、同じように笑みを返した。
「さあ、戻ろうか。しばらく俺の家にいればいい。しっかりと馴染ませて……そうすれば、二度と外に出ようなど考えることもないだろう」
扉が閉まっていく。
思わず伸ばしかけた手を疑問に思い始めた自分に、笑いながら意味も分からず泣いた。
「――なぁ」
「ん?」
濾されていく感情の残り滓を掻き集め、声をかける。
「結局……狐憑きとは、何なんだ?」
疑問を口にして、意味がないことを聞いてしまったと笑う。それに友人も可笑しそうに笑いながら、律儀にも答えを返してくれた。
「感情を正しく濾過できなくなった、欠陥品。そして他の奴らのために感情を濾し、濾された感情の新たな受け皿……フィルターみたいなもんだ」
肩を竦める友人に、気のない礼を返す。
よく分からないが、ありがたいことではあるのだろう。
友人と二人家路に就きながら、ふと冷たさを感じて目元を拭う。
指先についた滴に、首を傾げた。
欠伸でもしただろうか。すでに夜も深まり、普段ならとっくに寝ているはずなのだから仕方ないかもしれない。
そもそも自分は何故、友人とこんな所に来ているのか。
酷く記憶が曖昧だが、明日気が向けば友人が教えてくれるだろう。
「おい。歩いたまま、寝るなよ」
「寝てない。目を閉じているだけだ」
「目を閉じて、どうやって歩くつもりなんだ」
他愛ない話をしながら、静かな夜道を歩いていく。
何故だろう。今夜はとても気分がよかった。
20250909 『フィルター』
雨が降ります。雨が降る。
外は土砂降り。傘はなし。
玄関の片隅には、汚れた靴が一足。
靴紐は切れて、これでは外へ行けません。
「千代紙で遊ぼうよ」
わたしによく似た君は、雨でもにこにこ笑っています。
外ばかり見るわたしの手を引いて、今日もきらきら煌めく魔法を見せてくれるのです。
小さな手が、青い千代紙を折ります。
ぱたん、ぱたんとたたんで、それは可愛らしい鳥になりました。
赤い千代紙を折ります。
ぱたん、ころん、とたたんで転がして、それは小さなお船になりました。
花を、星を、そしてやっこさんを折りました。
花を敷き、星を撒きます。やっこさんをお船に乗せて、星の川を渡っていきます。
「楽しいね」
君は笑います。
わたしは小さく頷いて、けれどもやはり、外が気になりました。
ざあざあ、ざあざあ。
外では雨が降っています。
硝子を叩き、大地を煙らせ、激しい雨が降り続いています。
時折稲光が空を走り、遅れてどぉん、と低い雷の音が響きます。
「次はお手玉をしようか」
お船から降ろしたやっこさんを寝かせながら、君はお手玉を取り出しました。
「ひとりでさびし。ふたりでまいりましょう」
ひとつ、ふたつ、みっつ。
桃色、黄色、水色。
口遊む歌と共に、お手玉が宙を舞います。
綺麗な放物線を描き、吸い込まれるようにして手に収まるお手玉。
真似してお手玉を投げてみますが、すぐに落ちて続けられません。
「――ここのつこめや。とおまでまねく」
君の放るお手玉は、最後まで手から落ちず。
歌の終わりと共に、思わず手を叩いていました。
「ふたつなら簡単だよ。もう一度一緒にやってみよう」
誘われて、落ちたお手玉をふたつ、手に取りました。
「ひとりでさびし。ふたりでまいりましょう」
君の歌に合わせて、お手玉を放ります。
お手玉を追って、体があちらこちらに動きます。
しかし、今度は落とさず続いていきます。
「いもとのすきな。むらさきすみれ」
あ、と思った時にはすでに遅く。
お手玉はわたしの手から溢れ落ち、ぽとりと畳に落ちました。
「惜しかったね」
未練がましく落ちたお手玉を見ていれば、君は優しく背を撫でてくれました。
「今度は何をして遊ぼうか?」
小首を傾げる君は、柔らかな笑顔を浮かべていました。
おはじき、けん玉、お絵かき。
いろいろな遊びをしました。たくさんたくさん君と遊びました。
それでも雨は止みません。
ざあざあ、ざあざあ。
屋根を打つ雨の音が聞こえます。閉じた障子の向こうが暗がりに沈んでいます。
ちらりと障子を一瞥して、白い千代紙を一枚取りました。
ぱたん、四角が三角になりました。
ぱたん、ぱたん。
三角が四角に、四角が菱形に、次々と形を変えていきます。
そして出来上がったのは白い鶴。
不格好で草臥れたわたしの鶴を、君の折った黒い鶴の隣に並べます。
こてり。
白い鶴は黒い鶴に凭れ寄りかかりますが、黒い鶴はびくともしません。
それを見て、ふと悪戯心が込み上げました。
「――わっ!?」
こてり。
鶴を真似して、君の肩に凭れます。
小さく驚きの声を上げた君は、それでも倒れる様子はありません。
「驚いたなぁ。もう」
そう言いながら、君は頭を撫でてくれます。
優しく、いい子と言いながら。
ふふ、と小さく笑みが溢れました。
「眠くなっちゃったの?」
君に問われ、首を傾げます。
眠いような、まだ起きていたいような。
目の前には、ふたりで折ったいくつもの千代紙。鮮やかに畳を覆い尽くしています。
それでもまだ足りない。そんな気がして、首を振って体を起こしました。
外はまだ、雨が降っています。
しとしと、しとしと。
絹糸の如く細かな雨が、静かに降り続いています。
傘はなく、靴紐は切れたまま。
外に出ることはできません。
「楽しいね」
それでも君が笑うので。
魔法のように、たくさんの遊びを教えてくれるので。
「うん。とっても楽しい」
わたしは笑顔で君に答えました。
優しい君。わたしの影。
ふたりきり。寂しくはない。
しとしと、さらさら。
外では雨が降っている。
重ね続けた消えない悲しみが、今日も明日も降り続く。
雨が降ります。雨が降る。
20250907 『雨と君』
目の前に広がる光景に、少年は自身の軽率さを悔やんだ。
夏休み明けから、学校ではある噂が密かに広がっている。
――誰もいない教室から、女のすすり泣く声が聞こえる。
ありきたりな怪談話だが、夏休みに部活のあった生徒を中心に信じている生徒は多い。夏休み中に、女のすすり泣く声を聞いた生徒が何人もいたからだ。
部活に入っていない少年は、噂を信じてはいなかった。
何かの音を聞き間違えたのだろう。誰かがこっそり見ていたホラー動画を、偶然聞いてしまったのだろう。
そう思い、数分前に忘れ物に気づいた時には、迷いなく取りに戻ることを選択した。
その選択を、少年は今とても後悔していた。
教室の扉を開けたままの格好で立ち尽す。
扉を開けたその先は、見慣れた教室ではなかった。
鬱蒼と生い茂る森の中。
風ひとつなく静まりかえっていることが、不可解さと相俟って怖ろしさを漂わせている。
その中央に、椅子が一脚置かれていた。
教室にあった椅子だろうか。こちらを向いて置かれている椅子は森の中で馴染まず、酷く浮いていた。
しばらくして、幾分か落ち着いた少年は忘れ物を思い出した。
扉にかけたままの手を離す。ごくりと唾を飲み込んで、少年は一歩、教室の中へと足を踏み入れる。
椅子があるということは、机もあるのかもしれない。僅かな期待を抱いて、少年は辺りを見回した。
忘れ物を見つけて早く帰ろう。その思いで、椅子に視線を向けないようにしながら机を探す。だが見える限りには、椅子以外の教室の名残は見つけられなかった。
溜息を吐く。
草を掻き分けようとして、腕を伸ばした時だった。
「――誰が駒鳥殺したか」
幼い子供の残酷さを孕んだ、高い声が響いた。
弾かれたように椅子へと視線を向ける。
いつの間にか黒い人影が座っていた。移動していた少年に合わせて椅子の向きが変えられていて、影は少年を見据えてこちらを見ていた。
ひっと、喉の奥に張り付いたかのような悲鳴が漏れる。影から視線を逸らせずに、立ち尽くす。
沈黙。目を見開いたまま硬直する少年に、影は僅かに首を傾げた。
「それはわたし 雀が言った」
影が歌うように言葉を紡ぐ。
今度は少年が首を傾げた。影の言葉の意味が分からなかったからだ。
何かの歌だろうか。
駒鳥を殺したのは誰かを聞いて、そしてそれは自分だと雀が答える。
意味が分からない。困惑して眉を寄せたまま何も言えずにいれば、影は再び首を傾げた。
ゆっくりと立ち上がる。少年を見据えたまま、一歩近づいた。
「弓矢で殺した 彼の駒鳥を」
影が言葉を紡げば、静まりかえった森のどこかで雀の鳴く声がした。
「うわあぁぁぁっ!」
もう一歩、影が近づいた瞬間。弾かれたように少年は叫びを上げて教室を飛び出した。
泣きながら必死で外へと向かう。頭の中から声が離れない。追いかけてきている錯覚に、益々涙が溢れてくる。
昇降口に部活終わりだろうクラスメイトの姿を認めて、駆け寄った。
「どうしたんだよ。そんなに慌てて。しかも泣いて」
困惑を目に浮かべたクラスメイトの肩に、少年は手を置く。
荒い息をつきながら、途切れ途切れに見たものを告げた。
「いた……噂、本当だった。女じゃ、ない……森、だった……」
――誰もいない教室は、異界に続いている。
数日後、そんな噂が学校内で広まっていた。
楽しげに新たな噂を話し合うクラスメイトたちに、密やかに息を吐いた。
学校中に広まった噂にはどんどんと尾ひれがついていき、最早何が正しいのか分からない程だ。
――教室にいる人物に声をかけられ答えてしまうと、二度と戻れなくなってしまう。
――異界と繋がった教室のものに触ると呪われる。
――異界の人物と目を合わせてしまえば、気が狂ってしまう。
そろそろ教室に入っただけで、異界に閉じ込められてしまうという噂まで作られそうだ。
痛み出したこめかみを抑えながら、静かに立ち上がる。
声をかけてきたクラスメイトに、体調が悪いとだけ声をかけて、教室を抜け出した。
賑やかな教室から離れ、特別教室のある棟へと向かう。帰りのホームルームの時間前だったからか、辺りはしんと静まりかえっていた。
ある教室の前で立ち止まる。プレートには図書室の文字。
扉に手をかけ、迷いなく開いた。
そこは見慣れた図書室ではなかった。
どこまでも広がる青い空。時が止まったかのように縫い止められ動かない、白い雲と太陽。
明るい陽射しに照らされたそこは、小さな墓地だった。
中央にぽつんと一脚、椅子が置かれている。何も言わずに見ていれば、椅子からじわりと影が滲み出し、小さな人影を形作っていく。
小さく息を吐きながら、後ろ手で扉を閉める。一歩足を踏み出せば、期待を抱いた子供の高い声が響いた。
「ソロモン・グランディ 月曜日に生まれ」
影は行儀よく椅子に座り、こちらの返しを待っている。仕方がないと、歩み寄りながら続きの言葉を口にした。
「火曜日に洗礼を受けた」
影の肩が跳ねた。体を左右に揺すりながら、さらに続く言葉を影は口にする。
「水曜日に結婚し」
「木曜日に病に臥した」
「金曜日に危篤となり」
「土曜日に死んだ」
言葉を続ける度に、影は椅子の上で楽しそうに体を揺する。声は高く上擦って、楽しくて堪らないと喜びに満ちている。
「日曜日には土の中」
影の前に立つ。最後の言葉が紡がれるのを待つ影を、何も言わずにしばらく見つめた。
機嫌良く揺れこちらを見上げていた影が、段々に静かになり俯き出す。
「――ソロモン・グランディ」
か細く続く言葉。
泣くのを堪えるかのようなその響きに、流石に意地悪が過ぎたかと少しばかり反省した。
態とらしく音を出して息を吸い込む。はっとして顔を上げた影に笑って、口を開いた。
「「彼の物語はこれでおしまい」」
声を合わせ、最後の一説を紡ぐ。
きゃあ、と声を上げ、両手を叩いて喜ぶ影に、呆れながらも笑った。
影が落ち着いた頃を見計らい、手を差し出す。何も言わずとも理解したのだろう影は、一冊の本を取り出した。
それを手渡し、霞のように影は周囲に解けていく。何度目かの溜息を吐きながら、裏表紙を捲った。
そこには、昨年度廃校になった隣町の学校の印が押されている。
「寂しがり共め」
誰もいなくなり退屈になった学校の備品たちが、人恋しさで迷い込んだのだろう。
在りし日の学校を思い出して苦笑する。
掛け合いを楽しむ図書室の本。寝落ちした生徒をさりげなく揺すり起こす、机や椅子。
美術室に行けば、肖像画や彫刻が気さくに声をかけてくれるし、音楽室のピアノはたまに音痴になった。
とても賑やかな学校だった。廃校になり、この学校に転校して、あまりの静かさに驚いたほどだ。
本を閉じ表紙を撫でれば、切なさで胸が少しだけ痛んだ。
かたり、と椅子が揺れる。控えめな主張に苦笑して、椅子の背もたれを撫でる。
「分かったよ。週末会いに行くから」
約束すると告げれば、あちらこちらから歓声が上がった。やはり自分には、小さくともあの学校の方が向いている。
約束を口にして、今から週末を楽しみにし出した自分を感じながら、そう思った。
20250906 『誰もいない教室』
「いかないでぇ!」
泣きながら、大きな背にしがみつく。
出発の朝。この瞬間が何よりも嫌いだ。
「ちゃんと帰ってくるよ」
眉を下げて、兄は困ったように微笑う。
「ほら、お兄ちゃんを困らせないの」
溜息を吐きながら、母が無理矢理に引き離す。温もりがなくなって、益々寂しさが込み上げた。
脇目も振らずに泣きじゃくる。上手く呼吸ができずにくらくらする頭で、それでも兄に向けて必死に手を伸ばした。
「困ったね」
優しい声が囁いた。伸ばす手を包まれ、しゃくり上げながら兄を見つめる。
行かないでくれるのだろうか。期待を込めて、兄の言葉の続きを待った。
「一週間したら帰ってくるよ。約束する。ちゃんと帰ってきて、誕生日をお祝いするから、良い子で待てるよね?」
涙を拭われ、視線を合わせて兄は言う。期待とは真逆の言葉。でも、差し出す小指に仕方なく指を絡めた。
「指切りげんまん――」
絡めた小指を軽く揺すられて、ふてくされながらも約束を交わす。
兄は約束を絶対に破らない。今までもそうだった。だから今度の約束も守られると信じて、指を切る。
「うそついたら、おにいちゃんと口をきかないからね!」
「それは嫌だなぁ……だから絶対に帰るよ」
指切りをした手が頭を撫でる。
一週間。七日。
遠い先を思い、また涙が溢れてくる。涙を拭おうとする手から逃げるように、母の背中に隠れて兄を見送った。
「いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
「――いってらっしゃい」
遠ざかる兄の背中が見えなくなるまで、見えなくなってからもしばらく玄関で立ち尽くす。
兄はちゃんと帰ってくる。帰って来て、誕生日を祝ってくれる。
そう信じて、兄の無事の帰りを神に祈った。
けれど――。
一週間が過ぎても、一ヶ月が過ぎても、兄は帰ってはこなかった。
沖で嵐があったらしい。兄の乗った船も、戻ることはなかった。
その知らせを正しく理解できたのは、何年も経ってからだった。
昨日から降り続く雨は、風を引き連れ勢いを増している。
きぃ、と音が聞こえて、溜息を吐いた。
重怠い体で、勝手口へと向かう。
「いい加減、直せばいいのに」
愚痴を溢しながら、風に揺れ雨を室内に招き入れている勝手口の扉を固く閉めた。古い扉は随分と前から鍵が壊れ、閉め方が甘いとこうしてすぐに開いてしまう。その度に直したいと両親は言うものの、直される様子はない。
古い家だ。直すべき所は多くあり、ひとつひとつ直してなどいられないのだろう。
「雨なんか嫌いだ」
小さく呟いた。
正確には、雨も風も嫌いだ。晴れ渡る空も、朝も海も、何もかもが嫌いだった。
溜息を吐きながら、部屋に戻るため歩き出す。
台所を出た瞬間、不意に何か音が聞こえた気がした。
「――何?」
辺りを見渡しても、音の出所は分からない。耳を澄ませても、打ち付ける雨風に紛れてよく聞こえない。
だが微かに何か聞こえる。無機質な、電子音。電話の切れた音にも似ている、そんな低めの音。
「何なの。まったく……」
頭を振って、足早に部屋に戻る。
電話も嫌いだ。耳を澄ませてまで聞いていたくない。
部屋の中。ベッドに入り、シーツを頭まで被る。
耳を塞いで、目を閉じた。
世界は嫌いなものばかりだ。
眉間の皺は刻まれたまま、消えることはない。
段々と落ちていく意識の外側で、微かに音が聞こえ続けていた。
次の日になっても、音は消えることはなかった。
正確には、昨日よりも音は強く聞こえている。ツーという音と、トンという音。どこか聞き覚えのあるそれは、思い出せそうで思い出せない。
「――あぁ、もう!嫌になる」
頭を振るが音は消えない。思い出せない歯がゆさに、眉間の皺が深くなる。
ざぁっと外で音がした。弱まっていた雨が、また強さを取り戻したようだ。
窓に近づき、打ち付ける大粒の滴を一瞥してカーテンを閉める。
体が重い。気圧の影響か、痛み始めたこめかみを押さえながらベッドに倒れ込んだ。
音が聞こえる。舌打ちして耳を塞ぐも、音は止まない。
頭の中で響いているのだ。ふとそんなことが思い浮かぶ。
やはり、世界は嫌いなもので溢れかえっている。
苛立つ気持ちのまま、その日はよく眠れなかった。
音が響く。
はっきりと聞こえるようになり、あることに気づいた。
音はある一定の規則で繰り返されている。
「――あ」
そこでようやく思い出した。
まだ兄がいた幼い頃、勉強の傍らに教えてもらったもの。
「モールス信号だ」
呟いて、ベッドから体を起こす。ふらつきながらも、奥の部屋へと向かった。
そこは、兄の部屋だ。兄が出て行ったままの状態で残された部屋は寒々としていて、ここ数年足を踏み入れていなかった。
定期的に母が掃除する以外に、誰も足を踏み入れない場所。何年も経つのに、潮の匂いがふわりと漂う。
「確か、本棚に……」
兄の気配はまだ色濃く残っている。けれども兄はいない。そのことから思考を逸らすように、本棚へと向かう。綺麗に整頓されていたため、目的の本はすぐに見つかった。
本を取り、足早に部屋を出る。自室に戻り、聞こえる音を当てはめていく。
「・-・・、-・---、-・--・……か、え、る?」
首を傾げた。
「かえる」と繰り返す音。帰るなのか、それとも返るなのかは分からない。
何故頭の中に響いているのかも分からなかった。
眉間に皺が寄る。本を片付ける気にもならず、ベッドへと倒れ込んだ。
目を閉じる。聞こえるのは、頭の中の信号と、雨風の音。
そして、戸を叩く音。
「――誰?こんな時間に」
諦めるだろうと思い待っていたが、音が止む気配はない。
溜息を吐いて、体を起こす。軋む体と痛む頭に顔を顰めながら、ゆっくりと玄関へと歩いていく。
「誰ですか」
何故呼び鈴を鳴らさないのか。そう思ったが、数ヶ月前から音が鳴らなくなったことを思い出す。
声をかけても、戸を叩く音は止まない。雨風の音で聞こえていないのだろうか。
舌打ちをして、玄関戸に近づく。鍵を開けようとして、ふと違和感に気づいた。
ドン、ザー、ドン、ドン。
聞き覚えのあるリズム。頭の中のそれと重なり、音が大きく聞こえ出す。
戸を叩いているのではない。信号を打っているのだ。
「――誰、ですか」
ゆっくりと後退りながら、もう一度声をかける。
音は止まない。声は返らない。
頭が痛い。さらに重くなる体を引き摺るように、玄関から離れていく。
戸の鍵は閉まったままだ。声をかけてしまったが、反応はなかった。このまま部屋に戻って、朝が来るまで待っていれば、いずれ止むのかもしれない。
そう思い、もう一歩後退った時だった。
背中に何かが当たる。冷たく、濡れた自分よりも大きな何か。
振り返るよりも先に、背後から伸びた腕に抱き竦められた。
「――ただいま」
ひび割れた声。でも聞き間違えるはずなどない。
体を抱く腕に視線を落とす。濡れた服の裾からぽたぽたと滴が落ちている。
その服に見覚えがあった。思わず呻きにも似た声が上がる。
「お……にい、ちゃん……」
掠れた声で呼べば、返事の代わりに抱き竦める腕に力が込められた。
いつの間にか、戸や頭の中で響く信号は聞こえなくなっている。ならば、あの信号を打ったのは、兄なのだろう。
どうして、と静かになった戸を見ながら考える。戸に鍵はかかっている。目の前で開いてもいない。
風の音に紛れて、小さくきぃ、という音が聞こえた。鍵の壊れた、勝手口の扉。それが答えだった。
強い潮の匂いに目眩がする。今更何故、兄が帰って来たのか。それを尋ねたくても、もう何も言葉が出てこない。
「――とう」
不意に兄が何かを呟いた。雨風に掻き消されるほど、微かな声音。耳を澄まして、兄の声を拾い上げる。
「お誕生日、おめでとう」
ひゅっと息を呑む。
それは遠い日の約束。帰って来て誕生日を祝う。
待ち続けて、結局叶わなかった願いだ。
息が苦しい。しゃくり上げる度に、呼吸が上手くできなくなる。
兄の濡れた体に体温を奪われ、体が震え出す。体に力が入らず、崩れ落ちる体を包むように抱き寄せられた。
昔、寒さに震えていた時には、こうして兄が抱き締めてくれていた。かつては温もりを感じていたはずなのに、兄からは冷たさしか感じない。
それが悲しくて、そうまでして帰ってきてくれたことが嬉しくて堪らない。霞み出した思考で、ぼんやりと思った。
世界は嫌なものばかり。痛くて、苦しくて、悲しい。
ふと、先ほどまで響いていた信号を思い出す。
トン、ツー、トン、トン。
ツー、トン、ツー、ツー、ツー。
ツー、トン、ツー、ツー、トン。
頭の中で繰り返して、無意識に口を開いた。
「――還る」
呟いたとほぼ同時に、兄の手が視界を覆う。真っ暗な世界に何故か安堵して、体の力を抜いた。
目を開ける。
知らない場所。仄暗く、冷たいここは、どこかの船の中のようだった。
「おいで」
辺りを見渡していれば、兄が来て手を引かれた。
おとなしくついて行く。歩いているというより、漂っているような感覚が落ち着かない。
「ここだよ」
兄に連れられて入ったのは、どこかの小部屋。本の中で見たことのあるモールス信号を打つ機械に、ここが兄の仕事場だったのかとようやく気づいた。
手を離した兄が、机に近づき引き出しを開ける。中に入っていた、四角い封筒を取り出し、渡される。
促されて封を開ける。中から取り出したカードを見て、じわりと涙が込み上げる。
「ずっと渡せなかったからね。最期に渡せてよかった」
可愛らしい犬や猫の絵柄が描かれたバースディカード。開くと、電子音がバースディソングを奏で出す。
止められなくなった涙を拭われる。眉間に寄ったままの皺を指で伸ばして、兄は微笑む。
「よく頑張ったね。偉いよ」
出せない声の代わりに何度も頷いた。
そうだ。頑張ったのだ。ずっと、嫌いなもので溢れかえる世界の中で一人耐えてきたのだ。
気づけば、ずっと感じていた体の重さも頭の痛みも感じなかった。兄に伸ばされた眉間の皺が、再び刻まれることもない。
腕を伸ばせば、兄が優しく抱き締めてくれる。昔のような大きな体。自分の体が幼くなっていく。
「もういいよ……おやすみ」
そっと囁かれて、兄に凭れ目を閉じる。
何年も浮かべることのなかった笑顔が、自然と浮かんだ。
赤い目をしながら、それでも女は気丈に訪れる弔問客に挨拶を返す。
「この度は、力及ばず申し訳ありません」
そう言って香典袋を渡す男に、女は僅かに顔を綻ばせた。
「先生。来て下さってありがとうございます」
「いえ。私は娘さんに何もできなかった。本当に申し訳ない」
頭を下げる男に、女は慌てて両手を振る。
顔を上げてほしいと頼み込まれ、男は静かに頭を上げる。
「先生には感謝しています。先生がいなければ、あの子はここまで生きることができませんでしたから」
「ですがそれは、ただ苦しみを長引かせるだけだった……あの子には本当に酷いことをした。きっと恨んでいるでしょうね」
そう言って男は悲しく笑う。
とんでもないと首を振る女は、目に涙を浮かべながら黒と白の鯨幕の向こう側を見つめる。
その向こう側では、喪主である夫が弔問客の相手をしていることだろう。泣きたいのを堪え娘の遺影の前で、女のように気丈に振る舞っているのだ。
顰めた顔で映る娘の遺影を思い出し、先生、と女はぽつりと呟いた。
「先生。あの子は確かに、苦しんだのでしょう。ですが最期はとても穏やかだった。眉間の皺が消えて、微笑んで眠るあの子を見たのは、本当に久しぶりでした」
穏やかに語る女とは対照的に、男の表情は曇り出す。
「正直、あの最期は不可解なことばかりなのです。娘さんの状態は安定していたはずだった。来月には退院できるはずだったのです」
娘の状態を思い出しながら、男は告げる。
娘は僅かな時間で息を引き取った。バイタルに変化はなく、巡回していた看護師も変わりはないと証言している。
一瞬のことだ。酸素飽和度を示す値が、九十五から一気に一桁へと下がった。遅れて心電図が心停止を告げ、男が駆けつけた時には既に何をしても手遅れの状態だったのだ。
「そう、でしたね……えぇ、そうでした。苦しそうなあの子を見ていたから忘れていたけど、状態はよかったのでしたっけ」
それならばきっと。
女は一筋涙を溢す。口元は淡く微笑みを湛えて、何かを思うように、遠く見える海を見つめて呟いた。
「あの子の苦しみを見かねて、あの子の兄が連れていったのかもしれません……お兄ちゃんは一回り以上年の離れたあの子のことを、私たち以上に愛し、大切にしていましたから」
微かに船の汽笛が聞こえる。
その音を聞きながら、女は深々と男に頭を下げた。
20250905 『信号』
あれからいくつか季節が過ぎた。
彼との関係は変わらない。社で過ごす穏やかな時間も、夢の中での甘い時間も、変わらず続いている。
彼の悲しみに、気づかない振りをしながら。
知ってはいけない。正体を口にしてはいけない。
彼は何度も懇願する。共にいるために、別れの時が訪れることのないように。
けれど同時に、彼は悲しげに空を舞う黒い影を見つめる。社から見える外に視線を向けて、切なげに目を細めている。
故郷を、そして仲間を思う彼を見る度、このままでいいのかと自分の中の何かが囁く。
彼を縛っているのは、社ではなく本当は自分ではないだろうか。告げることのできないこの思いが、彼に何も知るなと言わせているのではないか。
「どうかこのまま。何も知らないままで、私と共にいてください」
背後から抱き締められながら繰り返される言葉に、何も言わずに空を見上げた。
遠く、茜色の空を優雅に飛び交ういくつもの影。
抱き締める腕に力が籠もっていくのを感じながら、今日もまた何も言い出せずに目を伏せた。
それを見つけたのは、彼と出会った日のような秋の初め、雨上がりのことだった。
濡れる石畳の脇、茂る草に覆い隠されるようにして、何かが見えている。気になって草を掻き分け覗くと、それは小さな石碑のようだった。
苔むし朽ちかけた石碑に触れながら、読める文字を探して目を凝らす。汚れを指で拭えばその瞬間、脳裏をいくつもの言葉が過ぎていく。
異国から訪れたモノ。
破壊の化身。それは巨大で、禍々しく、怖ろしい。
多くの人々が命を賭して、社に封じた。
その名を呼べば封は解かれ、再び災厄が訪れる。
過ぎる一つの名前に、息を呑んだ。
石碑から手を離し、頭を抑えた。
頭が痛い。いくつもの言葉が、渦を巻いているようだ。
ふらつきながら家路に就く。ゆっくりと石段を降りながら、思うのは彼のことだった。
夢の中。
いつものように彼に抱かれながら、草原に二人立ち尽くす。
見上げる空には、いつもと同じいくつもの影。
異なるのは、草原の先。遠くに空を飛ぶ影と同じ大きな影がひとつ、こちらを静かに見据えていた。
「――Procella」
震える声。影の名らしきものを紡ぎ、微かに嗚咽が溢れ落ちる。
それは石碑から流れ込んだあの名前の響きに、どこか似ている気がした。
「何も聞かないでください。どうか……」
振り返ろうとする体を強く抱き竦め、彼は願う。
その声の響きはとても悲しい。呼んだ影への恋しさに揺れている。
何も言えない自分の中の何かが囁いた。
彼を解放すべきだ。彼は自分の思いに縛られている。
昼間見た石碑を思い出す。
異国。破壊。災厄。
今の彼からは想像もつかない。しかし、違うとはっきり言葉にできないくらいには、自分は彼を知らなすぎた。
ならばこのままでいいのではないだろうか。自分のためだけではなく、人々のために。
言い訳のように、囁く言葉を否定する。
「どうか、許してください」
嗚咽に紛れ、呟かれた彼の言葉に肩を震わせた。
それは誰への謝罪なのだろうか。草原の先にいる影にか。それとも、彼自身にか。
懺悔にも似た響きに、自分の浅はかさを恥ずかしく思う。
彼と共にいるための理由を並べ立て、彼の思いなど見て見ぬ振りをして。
何かが嘲りを含んで、さらに囁いた。
彼を苦しめているのは自分の存在だ。自分がいるから彼は一人きりで縛られ続ける。故郷にも帰れず、仲間や愛しいモノにも会えず。
彼を悲しませているのは、他でもない自分自身なのだ、と。
唇を噛みしめ、俯いた。
囁きを否定できず、それでも何も言い出すことはできなかった。
澄み切った青空に薄い雲が流れていく、そんな秋晴れの午後。
いつものように社の中へと入り、彼の前に座る。緩やかに金色の眼を細めた彼が何かを言う前に、話があるのだと告げる。
「どのようなお話でしょうか」
金色が陰る。穏やかでありながら悲しみを帯びた声音に、決意が揺らぎそうになる。
「ずっと言い出せなかったことがあるの」
両手を握り締め、彼の眼を見据えた。逸らしてはいけない。逸らした瞬間に、きっと何も言えなくなってしまうから。
少しの沈黙。静かに息を吸って、微笑みを浮かべる。
「私、あなたのことが好き」
彼の眼が見開かれ、息を呑む音が聞こえた。
「あなたを、愛している」
ここで口を閉ざせば、まだ彼と一緒にいられる。
弱い自分がそっと囁いた。聞こえない振りをして、さらにきつく両手を握り締める。
「だから、あなたには自由でいてほしい。私に縛られていてほしくないの」
「っ、それは」
「――あびどす」
Avidus。
正しい言葉の響きではないだろう。けれど彼には伝わったようだ。
「どうして……何故、その名を……!」
「遠い異国の空を舞う竜。どうか故郷へお帰りください」
ざわり。社の中で風が渦を巻いた。
彼の見開かれた眼が歪む。ばきり、ばきりと、何かの音がして、彼の姿が膨れ大きくなっていく。
彼の大きさに耐えられなくなった社が崩れていく。割れた壁の隙間から光が差し込み、彼の姿を露わにしていく。
鈍く煌めく鱗。鋭い牙や爪。長い尾と、大きな翼。
何度も夢で見た、あの茜空よりも赤い色をした竜が、そこにいた。
大地を振動させるような、力強い咆哮。がらがらと音を立てて、彼を縛り付けていた社は跡形もなく崩壊した。
「愚かな人間。愛を囁いた唇で別れを告げるなど、許せるものか」
怒りを宿した金色の眼に見据えられ、思わず肩が震える。
竜の腕に体を掴まれる。今までの彼からは想像もつかないほどに荒々しく、乱暴に。
爪先が肌に食い込み、その痛みに顔を顰める。それを彼は酷薄に嗤った。
「哀れだな。俺を解放すると言いながら、解放されたかったのか?だが、貴様は俺のものだ」
彼の顔が近づく。爪が食い込み滲む血の匂いを嗅ぎ、舌先が傷口を抉る。痛みに声を上げれば、彼はさも愉快だと言わんばかりに眼を細めた。
「――あぁ、そうだ」
不意に、彼が顔を上げる。その視線が街の方角へと向けられていることに、背筋が粟立った。
「俺を封じた忌々しい人間共に、報いなければな」
「駄目っ!」
彼の言葉を遮るように声を上げた。身を捩ったことでさらに深く爪が食い込むが、止まる訳にはいかない。
「俺に指図するつもりか」
苛立ちを隠そうともしない冷たい声音。
以前の彼との差異に苦しさを覚えながらも、その金色の瞳を見返した。
「あなたに、人を傷つけることはさせない」
「貴様に何ができる。この手の中から、どうやって俺を止めると?」
鼻で笑いながら、彼は握る手に力を込めた。
骨が軋むような痛みに、声が上がる。滲み出す視界で、それでも彼を見続けた。
確かに彼の言う通りだ。こうして彼の手の中で、痛みに泣くことしかできない自分にできることなどないのだろう。
それでも言葉を交わせば、彼は理解してくれるのかもしれない。そう期待してしまうほどには、穏やかで優しい彼を信じていた。
「お願い。人を傷つけるのは止めて。このままあなたの故郷に帰って」
どうか、と願いを込めて告げれば、彼の眼が鋭さを増した。長い尾が地面を強く打つ。感じる振動に、思わず身を強張らせた。
「気に入らんな」
彼の声はどこまでも冷たい。
「貴様は俺のものだ。俺以外を思うことは、一時でも許しはしない」
体が宙に浮く。体を掴む彼の手が持ち上がったからだ。
彼の眼前まで持ち上げられ、不快に歪む眼が強く自分を睨む。牙を剥き出しにして、怒りを露わにする。
「俺のことだけを考えろ。この体も、命も、貴様を構成するすべてが俺の所有物だと理解するんだ」
溢れ落ちた涙を、彼の舌が拭う。吐息が頬にかかり、その熱さに眼を閉じた。
「この結末は、貴様が招いたことだ。精々己の軽率さを恨めばいい」
残酷なほど甘い声が頭の中に響く。
その声を最後に、意識は黒く塗り潰された。
次に目覚めた時、そこは闇の中だった。
目を開けているのか閉じているのか。それすらも分からなくなりそうな、真っ暗闇。触れる壁は湿った生暖かさを孕み、鼓動を刻むように微かに振動しているのが感じられた。
「――?」
彼を呼ぼうとして口を開くが、声は出ない。喉に手を当て何度か試したが、吐息一つ音にはならなかった。
込み上げる不安に、彼を探して手探りで歩く。泥の中のような粘ついた地面に何度も足を取られ、体がふらつく。嫌な場所だ。早くここから出て、彼に会いたい。
とても静かだ。足音一つ聞こえず、辺りは塗り潰したかのように少しの輪郭も浮かばせない。
自分は今、どこにいるのだろうか。
彼は近くにいるのだろうか。
いくつもの疑問が浮かび、答えが出せぬままに過ぎていく。何も見えず、聞こえないこの状況に、可笑しくなってしまいそうだ。
不意に、足を掴まれたような感覚がして、そのまま地面に倒れ込む。
痛みはない。弾力のある柔らかな地面は、しかし次の瞬間に音もなくうねり出した。
「――!」
四肢を絡め取られ、地面の中へと呑み込まれていく。いくら暴れても、抜け出すことはできない。ゆっくりと、だが確実に体が沈み込んでいく。
肌に触れる地面の感触に顔を顰めた。夢の中で、彼に背後から抱き竦められている時に感じたそれよりも高い熱。じわりと体の内側に入り込み、すべてを解かしていく錯覚に恐怖を感じて体が震え出す。
「――っ!」
無駄だと知りながらも、何度も声の出せない喉で彼を呼び続けた。
彼の姿が見えない。声が聞こえない。
彼のいない絶望に、心が壊れていく音が聞こえた気がした。
泣きながら名を呼び続ける女の声を聞きながら、竜は恍惚とした笑みを浮かべた。
「そうだ、それでいい。俺のことだけを思い、泣き叫べ」
そっと自らの腹を撫でさする。
先ほどまでの激情は凪ぎ、あるのは女への愛しさと、望郷の思いだけだ。
見上げる空は、青から赤へと色を変え始めている。
翼を広げ、風を起こす。それは荒れ狂う風となって、社の残骸や周囲の木々をなぎ倒した。
竜の動きが伝わったのだろう。か細い女の悲鳴に、竜は再び宥めるように腹を撫でる。次第にすすり泣きに変わっていく声に愛を囁きかけ、だがそれが言葉になる前に竜は静かに口を閉ざした。
竜の眼が僅かに陰る。
女にはもう、竜の言葉は届かない。終ぞ思いを伝えられなかったことに気づき、竜は密かに嘆息した。
「俺を手放す貴様が悪い」
愛の代わりに口をついて出た言葉は、子供の言い訳のように空しく響く。
後悔はない。
元々本能が強い種ではあるが、竜は一際欲が強かった。
貪欲であり、常に何かを渇望する。封じられたことで穏やかになってはいたが、その本質は変わらない。
永い時を孤独に縛られていたある日、訪れた一筋の光。優しく暖かく照らすそれを竜は心から愛し、欲しいと願った。
「愛などと、見え透いた嘘で俺を騙そうなどと」
女の言葉を思い出し、竜の眼に仄暗い光が灯る。
女に愛を告げられた時、竜は歓喜に胸が震えた。だがそれは女の続く言葉に、憎悪にも似た怒りに塗り潰されてしまった。
竜は本能で生きるモノだ。弱肉強食。弱きにかける慈悲などはない。
故に、竜には女の献身が理解できなかった。
ただ女が愛を告げた時に、言葉を返していたのなら。叶わないもしもを、竜は思う。
もしも己も愛していると告げたのならば。夢の中ではなく現実で、正面から女を抱けていたのだろうか。苦痛に歪む顔ではなく、女の微笑みが見られたのだろうか。
「今更だ。どんな過程を得たにしろ、貴様は俺のものなのだから」
自嘲染みた笑みを浮かべる。
もう一度腹を撫でてから、空を見上げた。遠い故郷へ帰るために、大きく羽ばたく。
「――Procella」
愛しげに名を呼ぶ。
それは故郷の空を舞う同胞の名か。
それとも、名も知らぬ女のための新たな名か。
風が巻き起こる。周囲を薙ぐ風が竜の翼を震わせる。一際大きく羽ばたいて、竜の体は空高く舞い上がった。
故郷を目指し、竜は雄々しく飛んでいく。
その眼から蕩々と流れ落ちる涙に、竜は気づくことはなかった。
20250904 『言い出せなかった「」』