sairo

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9/2/2025, 9:38:17 AM

ベッドの中。サイドテーブルの時計を手に、頭までタオルケットをかぶり秒針を眺めていた。
こちこちと、秒針が時を刻んでいく。心の中でその数を数えながら、息を潜めて時を待った。

五十七、五十八、五十九。

――六十。

その瞬間に、遠くで聞こえていたたくさんの声が遠ざかる。薫っていた線香の匂いが薄くなり、消えていく。
そして何も聞こえなくなって、ようやくタオルケットの中から顔を出し、ひとつ息を吐いた。
手の中の時計は、午前零時を過ぎている。


ようやく、長かった八月が終わったのだ。



朝目が覚めて、カーテンを開け外を見た。
庭に祖母の姿はない。少しだけそれを寂しく思いながら、窓から離れ身支度を整えていく。

九月になって、見えていた死者はまた見えなくなった。死者のいるべき場所に戻ったのか、それとも見えなくなっただけなのかは分からない。
そもそも何故、夏の間だけ死者が見えているのか、それすらも分からなかった。
唯一分かるのは、その切っ掛けが彼だということ。
五年前に亡くなった、五歳年上の幼馴染み。梅雨明けの、暑い日に彼を見たのが最初だった。

緩く頭を振って、意識を切り替える。
今日から九月になったのだ。彼もまた見えなくなってしまったはずだ。
そう思うと、胸がつきりと痛んだ。五年経ち、変わり果てた姿を見ても、私の彼へ対する思いは消えてなくならない。
泣きたくなって、慌ててさっきよりも強く頭を振った。
忘れなければ。彼と違い、わたしは生きているのだから。
夏の間現れる彼に惑わされてはいけない。記憶の中の彼とはまったく異なる言動を取る死者の形をした何かは、おそらく彼ではないのだ。
強く、何度も自分自身に言い聞かせる。それでも胸の痛みはなくならない。
諦めて、息を吐く。
俯きがちに部屋を出た。

学校が終わったら、あの場所に行こう。
今年もまた、同じように過ごすことを決めた。





夕暮れ時。薄暗い街外れの道を一人歩いていく。
その先の、長く廃墟となっている家の前で足を止めた。
閉じた門扉越しに中を見る。
門から玄関までの途中で、彼は亡くなっていたらしい。
手を合わせて目を閉じる。こうして九月になり、彼の亡くなった場所の前で手を合わせるのも、今年で四回目だ。
彼の墓はない。葬式を済ませた後、彼の骨は海に撒かれたらしい。
だから墓参りの代わりに、彼の最期の場所で手を合わせる。彼が見えなくなった後、寂しくなって来てしまう。
また来年も、同じなのだろう。夏が連れてくる彼に会って、彼を拒んで。
それでいて彼が見えなくなったら、この場所で彼を偲ぶ。
不毛だな、と自嘲する。いつになれば、彼を諦められるのだろうか。

不意に、遠くで夕焼け小焼けの音楽が流れ出す。
五時を告げるチャイムだ。そろそろ帰らなければいけない。
名残惜しさに気づかない振りをして目を開ける。最後にもう一度門扉の向こうに視線を向けて、踵を返した。

「まだ帰るなよ。駄目だろ、チャイムが終わるまでここにいないと」

耳元で彼の声がした。それと同時に背後から伸びた手に腕を掴まれ、強く引かれた。

「――え。なん、で……どうして……?」

体制を崩し、門扉に倒れ込んだ体を抱き留められる。背後から回された青白い腕に、息を呑んだ。
かたかたと体が震える。引き剥がそうとしても、腰に回った腕の力は少しも緩まない。
踠く度にがちゃがちゃと、背中にあたる門が耳障りな音を立てる。
門の向こう側に、彼がいる。

「やっと来てくれた。俺が死んだ日、死んだ時間。そして死んだ場所に、お前が来た」
「そんなっ……違う、だって……今日は九月で……!」

そんなはずはない。彼が死んだ日は今日ではないと、首を振る。
彼が死んだのは五年前。八月三十一日の午後五時だ。
他でもない、彼がそう言っていた。
赤い女。背中の痛み。引き摺られた先の廃墟の姿。
遠くで聞こえるチャイムの音が、彼が聞いた最後の音だと、夏の間に現れる彼が、何度も語っていたはずなのに。

「本当に?」

後ろの彼が、くつくつと喉を鳴らして嗤う。
楽しげに、嬉しくて堪らないといったように、高揚した声が耳を擽る。

「鞄の中。スマホがあるだろ?……確認すればいい」

優しく促されて、震える指で鞄を開ける。中から、スマホを取りだして、その画面に映し出されたものに目を見張った。

――八月三十一日、午後五時。

力が抜ける。手にしていた鞄やスマホを地面に落としても、それを気にする余裕などなかった。

「なんで……そんな、嘘……」

確かに今日は九月のはずだった。
学校に行き、授業を受けた。その日見た日付は、いつだって九月一日を示していた。
それなのに。

「お袋がさ。ようやく折れてくれたんだ」

腰に絡みつく腕が静かに離れていく。
逃げるならば今だと思うのに、体に力が入らない。
腕を離されて、支えを失った体が崩れ落ちていく。そのまま動けずにいる後ろで、きぃと門が開く軋んだ音がした。
背後から伸ばされた指が、溢れる涙を拭う。そして伸ばされた腕に強く抱き締められた。

「夏の間、何度もお袋の夢枕にたったんだけど、中々頷いてくれなくて、時間がかかっちまった。でもお前に年を越される前に、間に合って本当によかった」

彼は何を言っているのだろう。
少しも理解できない内容。今が八月三十一日に戻っている理由。
頭がくらくらする。

「すぐに連れ出してもよかった。でもせっかくならお前から来てほしかったから、少し細工をしてみたんだ」

驚いただろ、と彼は笑う。悪意のある笑い方ではない。昔の、生きてた頃の彼のような無邪気さで、背後から耳元に唇を寄せた。

「正直、来るかどうかは賭けだったけど、やっぱりお前は来てくれた……お前だけが、俺を思って手を合わせてくれる」

抱き着く腕が強くなる。

「俺にはお前だけだ。だからお袋に何度も頼み込んで、絵馬を描いてもらった……お前と永遠に一緒にいられるように願いを込めた、特別な絵馬を」
「なに……意味、分かんない……やめて、お願い……」

首を振る。
一緒にいられるはずはない。それを、彼は一番よく知っているのに。
これ以上は聞きたくない。彼の言う特別な絵馬がなんなのか知ってしまったら、もう二度と戻れない。
そんな恐怖に、ただやめてほしいと何度も懇願した。

「やめない。やめたところで、もう後戻りもできない。だって、これからは、夏だけじゃない。いつまでも一緒にいるんだから」

彼に腕を引かれ、立ち上がる。けれど足が震えて、すぐに崩れ落ちそうになった。

「あぁ、驚きすぎて腰が抜けちゃったのか。可愛い」

支えられ、そのまま抱き上げられる。
視線が交わる。虚ろで白濁した、死者の目ではない。生きていた頃と変わらない柔らかな、それでいてその奥に昏い何かを宿した目。
まるで獲物を前にした獣のよう。
視線を逸らすことも、瞬くことも忘れて、その目をただ見つめていた。

「あなたは……」

掠れた声で呟いた。
首を傾げて、彼が顔を寄せる。近くなる目に呑み込まれそうな気がして、呼吸が上手くできない。

「あなたは、何……?」

視界が端から、じわじわと黒く染まっていく。
遠くなる意識で喘ぐように尋ねれば、彼はきょとんと目を瞬いた。
唇の端が上がる。強い目を歪めて彼は笑う。

「――執着」

静かに囁いて、歩き出す。
廃墟から、街から遠ざかり、赤く染まった暗がりを進んでいく。
遠くで聞こえる、歪んだ夕焼け小焼けのメロディー。何度も繰り返され、終わりのない午後五時を告げている。

「お前の、俺を思って流した涙。それを見ていた俺の、触れたいっていう欲。気づいてほしい気持ちが膨れて歪んで、それがお前への執着になった。あの廃墟はそういう場所なんだ……お前が欲しくて堪らなくなって、報われない苦しさから解放してほしくて……冥婚っていう卑怯な方法まで使って手に入れた……後悔なんてしてないし、俺は今、すごく幸せだけどさ……ごめんな」

彼は笑う。
その顔は笑っているはずなのに、泣いているように見えた。



20250831 『8月31日、午後5時』






河原で楽しそうに弟妹たちが遊んでいる。
弟妹が生まれて、三月が過ぎた。最初は目も開いていなかった小さな狸は、今では時々狸の耳と尾をつけた人らしき姿を取れるまで成長している。
母はまだ、部屋から出られない。元々人だった母が三匹の狸を産むのは体への負担が強いのだと、父が言っていた。
だからこうして弟妹の面倒を見るのは、姉であるわたしの役目だ。遊び相手から食事の世話まで、大変なことは多い。それでも、屋敷の皆と協力しながらやんちゃな三匹の相手をするのは、それ以上に楽しく幸せなことだった。

少し離れた場所に座り、遊ぶ弟妹を眺める。
弟妹の世話をするのに、ひとつも不満はない。けれどこうして離れて一人でいると、考えてしまうのは彼女のことだ。
学校でできた、初めての大切な友達。夏休みが始まる直前に学校を休んでから、ずっと会えていない。
彼女は今何をしているのだろう。作った秘密を守り通せば彼女の秘密も教えてくれるという約束を、まだ覚えてくれているだろうか。
それともわたしのことなど、すっかり忘れてしまっているのだろうか。
込み上げる不安に、耳と尾が下がる。父は当分学校に行くなというけれど、それは夏休みが明けても続くのだろうか。
あと三日で夏休みが終わる。屋敷の誰かが取ってきてくれた夏休みの宿題は、すでに終わってしまっている。ただ、それを持って学校に行けるのか、それは分からない。

「ねぇねっ!」

末の弟に呼ばれて、はっとして顔を上げた。
弟妹のいる方へ視線を向けると、三匹の狸に混じって何かがいる。

白い狐。四本の尾を持つ、美しい神使。
思わず息を呑んだ。

「え?なんで……」

四本の尾で弟妹をあやしながら、神使がこちらに視線を向ける。すべて見透かすような金の眼に見つめられ、体が硬直する。
きゃっきゃと、はしゃぐ弟妹の声が遠い。罰当たりだ、止めさせなければと思うのに、体は少しも言うことを聞いてくれない。
こちらを見据えたまま、神使が一歩距離を詰める。長い尾が揺れ、弟妹が楽しそうに笑う。
もう一歩。神使が近づいて――。

後ろから伸びた腕に、眼を塞がれ抱きかかえられた。

「それ以上、オレの娘に近づくな」

険を帯びた父の声。安心すると同時に、疑問が込み上げる。
父が神使を警戒する理由が分からない。

「ととさま?」
「少し黙ってろ、常盤《ときわ》」

ぴしゃりと、固い声で言われ、毛並みが逆立つ。

「若苗《わかなえ》、若葉《わかば》、若芽《わかめ》。戻ってこい」

父の言葉に、弟妹から不満の声が上がる。それでも父の様子に、おとなしく三匹が近づいてくる音がした。

「ここはオレの縄張りだ。神使といえどこれ以上理由なく、この地に留まることは許さない」

父が声を上げる。ぴりついた空気に呑まれ、落ち着かない。
弟妹の泣く声が聞こえた。父の纏う空気が怖いのだろう。けどいつもならば一番に気づいてくれるはずの父は、一向に弟妹の泣き声に気づこうとしない。

今日の父は、やはりどこかおかしい。

「――刑部《ぎょうぶ》」

涼やかな声がした。
聞き馴染んだ、静かな声音。
どうして、と思うより早く、人の姿になって父の腕から抜け出した。

「常盤っ!」
「どうして?……え、どういうこと?」

父の伸ばす手をすり抜けて、神使がいた場所に佇む彼女の元へ駆け寄りそのまま抱きついた。

「え?神使は?なんでいるの?わたしのこと覚えてくれてたの?」
「取りあえず落ち着こうか。ちゃんと答えてあげるから、まずは刑部を何とかしないと、君の弟妹が可哀想だ」

背を撫でられながらそう言われ、慌てて振り返る。
怖い顔をしている父。その父の足下で、怯えて縮こまる小さな狸が三匹。
どうしようかと悩んでいれば、彼女がそっと耳打ちした。
その内容に目を瞬く。大丈夫なのかと彼女を見るも、それ以上は何も言わずに頷くだけ。
不安はあるものの父に向き直り、彼女に教えられた言葉を告げた。

「弟妹をいじめるととさまなんて大嫌い!わたし、もう二度とととさまと口をきかないからっ!」

父の表情が変わる。驚きと焦りで目が見開かれ、くしゃりと歪んで、泣きそうな顔になった。

「わたし、将来は狸以外と結婚して、家を出ていく。そして――」
「と、常盤……それ以上は止めてくれ。父様が悪かったから、な?父様、もう怒ったりしないし、神使のことも許すから。だから大嫌いとか、口をきかないとか、家を出て行くとか、酷いことを言わないでくれ……!」

父の懇願に、目を瞬く。
本当に効果があるとは思っていなかった。
彼女を見ると、困ったような笑っているような表情で、肩を竦められる。背を押されて、父の元へ近寄った。

「ねぇねっ!」
「こわかったよぅ!」
「ととさま、こわい。ねぇね、ととさま、やだ」
「うん。怖かったね。大丈夫だからね」

途端に駆け寄る弟妹を宥めながら、父を睨み上げる。うっと言葉に詰まった父は、泣きじゃくる弟妹を見つめて、すまんと小さく呟いた。

「刑部。すぐにかっとなるのは、悪いことだ。しばらくは子供たちから避けられても、仕方がないよ」
「っ、元はと言えば、オマエのせいだろうが……!」

忌々しいと言わんばかりに、父は彼女を睨み付ける。
今日の父は、本当に変だ。

「ととさまは、神使に怒ってたんじゃないの?というか、彼女と知り合いなの?」

疑問を口にすれば、眉を寄せた父が驚いた顔をする。彼女を一瞥し、わたしを見て、益々眉を寄せた。

「気づいていないのか。コレはあの神使だぞ」
「――え?」

驚き彼女がいた方を見れば、そこには彼女ではなく神使の姿。
呆然と見つめているわたしの目の前で、神使の姿が揺らいで一瞬で彼女の姿になる。

「これが、とっておきの秘密。弟妹ができたって秘密を守ってみせたから、特別に教えてあげる」

くすり、と彼女が微笑む。
秘密。彼女の言葉に、一呼吸遅れて鼓動が高鳴った。
秘密を守れたこと。秘密を教えてもらったこと。嬉しくて、気恥ずかしい。
落ち着かなくて狸の姿に戻ると、意味もなくその場をぐるぐると回り出した。

「要件はそれだけか。なら、さっさと帰れ」
「相変わらずだね。刑部」

機嫌の悪い父が、追い払うように彼女を手で払う仕草をする。それに何かを言う前に、彼女は苦笑して何かを取り出すと、父に向かって放り投げた。

「贄の子、産後の肥立ちが悪いんだろう?それを飲んで栄養のあるものを食べれば、一月しない内に回復するよ」
「贄じゃねぇ。オレの妻だ…………だが、感謝する」

盛大に顔を顰める父の姿は、初めて見る。
お互い知り合いのような雰囲気があるから、昔何かあったのかもしれない。
少しだけ不安になるけれど、最初の張り詰めた空気は感じない。
ならば大丈夫かと、もう一度くるりとその場で回る。ようやく落ち着きだして座れば、不意に体が宙に浮いた。

「それじゃ、行こうか」

振り返れば、わたしを抱き上げて彼女が告げる。どこに、とは思うけれど、彼女と一緒にいられるならそれでもいいやと、身を預けた。

「おい待て。オレの娘を連れ去ろうとするんじゃねぇ」

低く唸り声を上げる父に、大丈夫だと尾を揺らして答える。
彼女はわたしの大切な友達だ。昔、父と何があったのかは分からないけれど、攫われる訳ではない。

「心配性だね。別に取って食べる訳じゃないんだから……君じゃあるまいに」
「うるせぇよ……常盤、戻ってこい。神使だとしても、狐なんて所詮は性悪な奴らばかりだ。傷つく前に、ソイツとは縁を切れ」

離れろと手を伸ばす父をするりと交わし、彼女は呆れたように息を吐く。

「そろそろ子離れしたらどうかな。いつまでも娘にべったりは、嫌われる原因になりやすいよ」
「余計なお世話だ。それに、常盤はまだ二つになったばかりだぞ。半分は人間の血が入っているんだから、まだまだ独り立ちできる年じゃないだろうが」
「――え?」

父の言葉に、彼女の目を瞬かせてこちらを見る。
それに尾を振って本当だと伝えれば、何かを考えるように悩んで、再び歩き出した。

「それなら、余計に外に出ないと。夏はもう終わるけど、忘れていったものも多い。それを探しに行こう……刑部。学校が始まるまでこの子を預かるから、君は子育てに専念するといい。このままずっと避けられるのは、君だって嫌だろう?」

追いかけようとする父が、彼女の言葉に止まる。確かに弟妹たちは、父を怖がっていた。このままだと、ずっと離ればなれになってしまうかもしれない。
現に今、近づこうとする父に、弟妹は皆怯えて毛が逆立っている。それに傷ついて慌てて機嫌を取り始めた父を見ながら、彼女に問いかける。

「夏の忘れ物って何?」
「それを探しに行くんだよ。蝉。向日葵。太陽……たくさんある。この三日間。楽しめなかった夏を目一杯楽しもう」

ね、と彼女に言われ、尾を振り大きく頷いた。

夏の忘れ物を探しに、彼女と一緒に三日間を楽しむ。
心躍る響きに、胸が高鳴る。
待ちきれなくて、急かすように彼女の腕に顔を擦り寄せた。



20250901 『夏の忘れ物を探しに』

9/1/2025, 9:27:39 AM

――ずっと一緒。

朱く染まる空の下。伸びた影が指を切る。

――指切りげんまん。嘘ついたら……。

繋いだ小指が、楽しげに揺れて離れていく。
また明日。手を離してひとつがふたりになり。手を振って、影は互いの家路に就いていく。

ざわり。二人の消えた場所を、風が通り抜けていく。
忘れられた木の実がひとつ、風を追いかけ転がった。

幼い頃のささやかな思い出。
笑いながら交わした約束。

あの子の顔が思い出せない。





夏の終わり。
誰もいなくなった生まれ故郷に戻ってきた。
先日。最後の住人がここを出た。人の絶えた故郷は、遠くない先に山に呑み込まれてしまうのだろう。
故郷へ戻ってきた理由は特にはない。強いて言うならば、懐かしい夢を見たからだ。

夕暮れ時。ずっと一緒と指切りを交わした。
相手の顔は影になって、はっきりと見ることができない。指切りげんまんと歌う声も、目覚めた後には残っていなかった。
生い茂る雑草を掻き分け、幼い頃に遊んだ広場へと向かう。
あの子は誰なのだろう。遊ぶ時はいつも二人一緒だった。
一番中の良かった友達。それなのに、思い出せるのは僅かな欠片だけ。
シロツメクサで編んだ花冠。沢で捕れたザリガニ。虫取り網を持って追いかけ回したチョウやトンボ。手や頬を赤くしながら作った雪だるま。
いつも隣にあの子がいた。二人で日が暮れるまで遊び尽くした。
それなのに、思い出せない。思い出せるのは、手を繋いでひとつになった影ばかり。
ここにあの子はいない。それは分かっている。
ただ思い出の場所を回れば、もう少し思い出せるものがあるのではないかと。
そんな淡い期待を胸に、記憶を頼りに思い出の場所を巡った。


広間。沢。雑木林や神社の裏手。
人の手が加えられなくなったことで荒れた場所は、面影ひとつ残ってはいない。
落胆に、思わず溜息が出る。
緩く首を振って、踵を返した。
もうすぐ日が暮れる。寄るが来る前には、戻らなければ。
かなかなと、蜩が鳴いている。影が伸びて、影が濃くなっていく。
空を仰げば、夢で見たような朱く染まった空が広がっていた。

「ずっと一緒」

不意に声がした。幼さの残る子供の声。
立ち止まり辺りを見渡すが、周りに誰かの姿はない。

「約束だよ」

声が笑う。
くすくすと、楽しげな声音が耳元で囁く。

「でも、忘れてもいいよ……君が忘れても、僕は覚えているから。いつまでも、いつまでも……」

動けない指が何かに触れた。冷たい何かが手を繋ぎ、軽く揺すられる。
小さな手。視界の隅で、幼い子供の影が自分の影と重なっているのが見えた。

「――あぁ」

繋いだ手から、只管に懐かしさが込み上げる。欠けていた記憶に真っ黒な影のピースが嵌り、無理矢理完成されていく。

「約束通り、これで一緒だよ」

傾く陽が、影を伸ばす。
幼い頃のように、ふたりの影が手を繋いでひとつになっているのが見えた。

「――ずっと、一緒」

今までも、これからも。
微かに残った思考が、あの子はここにいたのだと告げる。約束通り、ずっと一緒。
離れることは、永遠にない。

「そろそろ帰ろうか。暗くなってしまうと大変だ」

影が繋いだ手を揺する。
それだけで固まっていた体が、ゆっくりと動き出した。
家に帰るのは、自分一人。

けれど。


伸びた影は、ふたりぶん。





「指切りげんまん……」

幼い子供の声が聞こえ、女は視線を向けた。
夕暮れの公園。楽しそうに笑う少女はひとりきり。
だが少女の伸びた影は不自然に歪んで、そこに手を繋ぐもう一人を作り出していた。
急いで視線を逸らす。気づいたことに、気づかれてはいけない。

夏も終わりに近づく頃。女の周囲では、不思議な噂が広がっていた。

――夕暮れに、一人でいる誰かの影が二人分になっていることがある。手を繋いだひとつの影に気づいたことを気づかれれば、自分の影も増えてしまう。

ただの噂だと思っていた。女の周りも、誰一人信じている様子はなかった。
その認識が変わったのは、女の友人の影を見てしまったからだ。

別の友人と話しながら、何気なく視線を向けた先。遠くに見えた友人の影が、不自然に増えていた。
一人でいるのに、影は二人分。手を繋いで、一つになった影が夕暮れに揺らいでいた。


「ずっと一緒だよ」

少女の声が聞こえる。一人きりの少女が、見えない誰かと指切りを交わしているのだろう。

――ずっと一緒。

増えた影を見てしまってから、よく聞くようになった言葉。
幼い少女が、年老いた男が、見えない何かときまって同じ約束を交わしている。
以前は気にも留めなかった他人の会話が、増えた影に気づいた日から気になり始めた。
一緒、と声がする度に体が強張る。周囲の影が、声が女を追い詰めていた。

早くこの場を離れよう。
そう思い、女は少女に背を向け一歩足を踏み出した。

「約束だよ」

不意に誰かの声がした。
すぐ近く。耳元で囁かれた声に、女は硬直する。

「ずっと一緒……君が忘れても、僕はいつまでも覚えていてあげる」

右手に何かが触れる感覚に、女の肩が微かに震えた。
実際には何も触れてはいない。しかしその瞬間から、女の思考がじわりと黒く染まり出していく。
夕陽に伸びた影が揺らぐ。誰かと手を繋いだひとつの影を認めて、女の目から一筋、涙が溢れ落ちた。
だがそれきり。

「――ずっと、一緒だね」

女の唇が歪に弧を描く。
一人、右手を軽く振って、歩いていく。

女はひとりきり。
けれど夕陽に伸びたその影は。


誰かと手を繋いで、ふたりぶん。



20250830 『ふたり』

8/31/2025, 9:49:26 AM

歪む鏡面の向こう側で、静かに夜が広がっていく。
青白い上弦の月。星々の仄かな煌めき。
風が草木を揺すり、駆け抜ける。音はない。静謐が暗い夜を支配し、その神秘さを彩っていた。
小さな木の下で、何かが揺らいだ。ゆっくりと立ち上がり歩き出すその人影は、長い髪を下ろした小柄な女性のもののようであった。
淡い月明かりを頼りに、その人影は丘の上まで進んでいく。その髪を、足下の草を風が気まぐれに揺らしていく。
不意に、遠くから小さな影が駆けてくるのが見えた。丘の上で足を止めた人影の元へと、一心不乱に向かっていく。
その影に気づいて、女性の人影が駆け寄る影へと視線を向けた。風に遊ばれる長い髪を片手で抑え、その訪れを待つ。
そして駆け寄る小さな影は、女性の人影へとその勢いのままで抱きついた。二度と離れたくないとでもいうかのように、強くしがみつく。
その影を、女性の人影はそっと抱きしめ返す。優しく、慈しむように。

星が煌めき、流れていく。
星の降る丘で、二人はいつまでも抱き締めあっていた。



小さく溜息を吐き、鏡から視線を逸らした。
また誰かが、覚めない眠りについたのだろう。その誰かが最期に見る夢、心の中の風景をこうして鏡を通して見てしまうのはいつものことだ。
悪い夢ではなかっただけ良かったのだろう。だがそれでも、他人の心の内を覗き見ていることに落ち着かず、無意識に眉が寄る。
俯きながら少しだけ雑に手を洗い、水を止める。顔を上げた時には、鏡の中に夜の風景が広がっていなかった。
鏡に映ったさえない顔をした自分を見て、溜息が出る。タオルで手を拭きながら、足早に洗面台を離れた。



「眉間に皺が寄ってるな。また誰かの心の覗いたのか」

部屋に戻ればベッドを占領する従兄弟に、にやりと笑みを浮かべながら視線を向けられた。

「――好きで覗いているわけじゃない」

溜息を吐きながらそう愚痴を溢せば、従兄弟は声を上げて笑った。
揶揄い混じりの表情をしながら身を起こし、傍らのペットボトルを投げて寄越す。それを受け取りながら、ベッドを背もたれに座り込んだ。
蓋を開けて、ペッドボトルに口をつける。冷たい水が喉を通り過ぎ、もう一度深く溜息を吐いて項垂れた。

「今度はどんな風景だったんだ?」

問われて、一瞬だけ答えに詰まる。誤魔化すようにペットボトルに口を付け、ぼそりと呟いた。

「夜の……どっかの丘の上で、母子っぽい影だ抱き合ってる場面……駆け寄ってきた子供は、まだ小さかった」
「子供……ってことは、この前運ばれてきた坊主か。母親と違って、一時は持ち直したんだが」

どこか遠くを見つめ、従兄弟は独りごちる。その表情に笑みはない。
無言で見つめていると、視線に気づいた従兄弟がこちらを向いて苦く笑う。腕を伸ばし、乱雑に髪を掻き回した。

「また見えたら教えてくれ。できれば、その夜の風景を朝に変える方法も見つけてくれればいいんだが」

茶化すような口調だが、それが従兄弟の本心なのだろう。

街では今、奇妙な病気が蔓延している。
一言で言えば、眠り続ける病。
ある日を境に眠っている時間が長くなり、最後には何をしても目覚めない。
原因は不明。眠っている以外、体に変化はない。
そんな患者を、従兄弟はずっと診てきた。

「――帰るわ」

小さく呟いて、従兄弟はベッドから降りた。軽く手を振り、外へと向かう。

「久しぶりの休日じゃなかったの?」
「仕方がない。ただでさえ今は人手が足りないんだ」

肩を竦めながらも、従兄弟は部屋を出て行く。
一人残されて、遣る瀬なさに何度目かの溜息を吐いた。





鏡面が歪み、夜が広がっていく。
白い三日月。煌めく無数の星々。
河原で一人立ち尽くす人影は、じっと暗い川の底を見つめている。
またか、と思いながらも、視線は逸らさない。人影や河原、川の中に手がかりを求めて、視線を巡らせていく。
従兄弟のためではないと、誰にでもなく言い訳をする。これ以上、眠り続ける人が増えるのは良くないことだ。それに、何故自分が鏡を通して心の風景を覗き見ることができるのか知りたいというのもある。
しかしどんなに目を凝らしても、分かるものは何もない。
少し迷って、そっと手を鏡面に触れさせた。

「――え?」

指先が、鏡面を越えて沈み込んでいく。水の中に手を入れるような、生ぬるい感覚。抵抗なく手が鏡面に呑み込まれ、その異様な光景に不安が込み上げ手を引いた。

――はずだった。

一瞬の暗転。
何も見えず、目を瞬きながら辺りを見渡した。
腕を伸ばしても、何も触れない。恐る恐る踏み出した足は、洗面台にぶつかることはなかった。
代わりに足の裏に感じたのは、いくつもの固い石の感覚。
虫の声がした。さらさらと水の流れる音がする。
風が冷えた空気を運ぶ。風に乗って、夜の匂いがした。
空を仰ぐ。強く目を閉じ、ゆっくり三数えてから目を開けた。
遠くに霞む三日月。瞬き、時折流れていく星々。
視線を下ろして、前を見た。鏡面を通して見た人影は、変わらず水面を見つめている。
一度深く呼吸をして、足を踏み出した。
ゆっくりと人影に近づいていく。足の裏で、大小様々な石が、からんと音を立てた。

「何を、見ているんですか?」

立ち尽くす影に声をかける。
反応はない。
無駄なことかと、少しだけ落胆しながら、もう一度声をかけてみるかと口を開いた時だった。

「――妻とね、よくこの川に来ていたんだ」

低い男の声が、静かに答えた。

「妻?」
「あぁ。可愛らしくて、しっかりした女性でね。妻としても、母としても立派な……私には勿体ないくらいの、できた人だった」

川を見つめたまま、影は語る。
愛しさの滲む、そんな声音だった。

「盆を過ぎれば、還ってしまうのは分かっていたんだ。そのために精霊馬も用意して、送り火も焚いた……だけどね、やはり寂しくなってしまって。牛の足なら、追いかければ間に合うんじゃないかと……そう思ってしまったんだよ」

乾いた笑い声が響く。
俯く人影から、ぽたりと滴が溢れ落ちたように見えた。

「結局追いつけなくて……それで未練がましく、彼女との思い出に浸りながら、こうして川を見ていたんだ」

そう言って、影は顔を上げた。
かけるべき言葉が見つからない。
影は心から妻を愛していたのだろう。一人残されて、寂しかった。
僅かな逢瀬の時間では物足りず、思わず追いかけてしまうほどに。
胸が痛い。何を言っても気休めにもならないことが、苦しくて堪らない。
痛む胸を押さえながら無言で見つめていれば、影はゆっくりとこちらを振り向いた。

「声をかけてくれてありがとう。おかげで戻ろうという気持ちになれた」

穏やかな声音で影は礼を述べる。立ち尽くす自分の横を通り過ぎ、歩いていく。
帰るのだろうか。目覚めるのかもしれない。

「――あぁ、そうだ」

去って行く背を見送っていれば、不意に影は立ち止まる。
振り返る様子はない。それでもどこか固さの滲んだ声で、一つの忠告を残した。

「声をかけてもらった私が言うことではないのだろうが、君の負担になるなら目を逸らすことも大事だよ。私達のような悲しみを、無関係な君が引き受ける必要はないのだから」

影の言葉の意味が分からず、首を傾げる。
問いかけようとした瞬間。また視界が暗転した。
何も見えない。聞こえない。
風や足下の石の感覚もしなくなり、自分が今立っているのか横になっているのかさえも分からない。
目を閉じる。伸ばした手には、何も触れない。

けれど。
遠くで、誰かが呼んでいる。そんな気がした。





閉じた瞼の向こう側に光を感じて目を開ける。
視界に入るのは、白い天井とカーテン。

「――あれ?」

目を瞬いて、視線を巡らせる。
視線を下ろせば、ベッドに横たわっている自分の体。
その腕に刺さるチューブを見て、混乱する。
腕を伸ばして、ベッドのリモコンを手に取った。リクライニングボタンを押して、状態を起こす。
自分は何故、病院にいるのだろうか。

不意に扉が開けられる音がした。
視線を向ければ、仏頂面をした従兄弟と目が合った。

「起きたか」

つかつかとこちらに歩み寄る従兄弟の目はとても険しい。
淡々とバイタルの確認をし終えると、僅かにではるものの張り詰めた空気が緩んだ。

「お前が洗面所で倒れたとここに運ばれて、かれこれ一週間が経つが……倒れる前に何を見た?」

鋭い目に見据えられ、その迫力に思わずたじろぐ。
倒れて一週間。聞きたいことはあるが、従兄弟の雰囲気が質問に答える以外を許しそうにない。
意味もなく視線を彷徨わせ、覚えている限りを口にした。

「えっと……いつものように、鏡に夜の河原の風景が映って……それで、鏡に触れようとして、そしたら何故か、その夜の河原にいた……?」
「そこで何をした?」
「え?別に……ただちょっと、川を見ている影に……声を、かけただけで……」

しどろもどろになりながら従兄弟に伝えると、従兄弟は重苦しい溜息を吐いた。
乱雑に髪を掻き回され、最後に頭を軽く叩かれる。

「まったく……無茶をするな」

安堵の滲む声音に従兄弟を見れば、その表情には穏やかさが戻っていた。
張り詰めた雰囲気もなくなり、小さく息を吐く。今ならば、何があったのか聞けそうだと口を開きかけるが、従兄弟の手がそれを制した。

「一週間前。お前は洗面台の前で昏睡状態に陥っていた。お前のお袋さんが発見してここに運ばれたが、今まで一度も目覚めることはなかった。眠っている間、バイタルに変化はなかったが……お前はずっと泣いていたな」

従兄弟に目元を拭われ、その指についた滴に目を瞬いた。泣いている。実感がないが、目元に触れれば指先がほんの僅かに濡れる感覚があった。

「あまり深入りをするんじゃない。お前はただでさえ、他人の思いに引き摺られやすいんだ。下手をすれば、二度と戻れなくなるぞ」
「――分かってる」

呆れたように、だが真剣な眼差しで告げられ、気まずさに視線を逸らす。
無茶をした自覚はない。影が何を見ているのかを聞いて、そのまま思い出話を聞いていただけ。
そういえば、と影の言葉を思い出す。
戻ると言っていた。それならば、今頃目覚めているのだろうか。

「ねえ」

逸らしていた視線を戻せば、従兄弟は感情の読めない目をしてこちらを見返した。

「目覚めた人はいる?影は戻るつもりだったみたいだけど」

問いかけても、従兄弟は表情を変えない。

「――さあな」

無感情に呟いて、病室を出て行く。
思わず引き留めようと伸ばしかけた腕を引く。何も言わずにその背を見送れば、扉の前で従兄弟は一度だけこちらを振り返る。

「深入りはするな。他人の心に踏み込むものじゃない」

忠告だけを残し、従兄弟は扉の向こうへ消えていく。
これ以上踏み込ませない、そんな冷たい声だった。



20250829 『心の中の風景は』

8/30/2025, 9:52:42 AM

目の前の夏草が一面に広がる光景に、訝しげに眉を寄せる。

「――本当に、ここ?」

聞いていた話とは違う。
そう思い隣を見るが、ここまで案内をしてくれた彼は涼しい顔をして、ここだと肯定する。
さらに眉を寄せながら膝をつき、足下の草を掻き分けた。

「――ぁ」

草を掻き分ける指先が、硬いものに触れる。
摘まみ上げれば、それは砕けた陶器の欠片だった。おそらくは茶碗だったのだろうそれは、ここにかつて人の営みがあったことを示していた。
小さく息を吐き、立ち上がる。リュックを背負い直し、彼を見た。

「ひいばあちゃんのお友達の場所は分かる?それか、ここの墓地の場所」
「こちらだ」

こちらを一瞥して、彼は迷うことなく足を進める。

「ちょっと!待って」

生い茂る夏草を気にも留めず普段通りに進む彼の後を、草を掻き分けながら進んでいく。少しはゆっくり歩いてほしいと声をかけるも、彼は一度も立ち止まることはなかった。



曾祖母の葬儀のあと。
深刻な顔をした父に呼び止められ、仏間で小さな箱を差し出された。

「最期の願いを叶えてほしい」

箱の中身は、曾祖母の骨だという。
故郷に帰りたいと常に話していた曾祖母のために、分骨をしたらしかった。

「了承しろ。案内は俺がする」
「でも……」
「頼むよ。お前が一番、お祖母ちゃんに懐いていただろう?」


隣の彼に言われ、それでも決心がつかないでいれば、さらに父に拝み倒される。普段は声もかけないというのに、現金なことだ。

「お前以外、受け入れる者はないだろう。ここで了承しなければ、彼女の望みは永遠に閉ざされたままだ」

彼にそこまで言われては仕方ない。それに、曾祖母のためになるならば、嫌ではなかった。

「――わかった」

溜息を吐いて、箱を受け取る。
あからさまに安堵の表情を浮かべる父に思う所はあるものの、何も言わずに箱を手に仏間を出た。

「神様の怒りに触れた場所、だっけ?数年後に訪れても、草ひとつ生えてなかったって」

曾祖母の話を思い出しながら、彼に尋ねる。返事は期待していないから、ほぼ独り言のようなものだ。

神の怒りに触れた村。
それが曾祖母の故郷だという。
ある夜、大きな音と共に閃光が村を明るく染め上げた。
赤い空。逃げ惑う人々。空を飛び交う黒い鳥。
幼い曾祖母の記憶に強く刻まれた光景を、彼女は何度も語って聞かせてくれた。
その時の別れ。その悲しみを、後悔を、そしてささやかともいえる願いを聞いて、自分は育った。

彼はいつも、この話の時に何かを言うことはない。ただ曾祖母を見つめ、語り終え悲しく目を伏せる彼女の隣に寄り添うだけ。

「行ってみれば、すべて分かるだろう。お前は幼かった彼女と違うのだから」

珍しく彼から言葉が返ったことに目を瞬く。どういうことかと問いを重ねようとして、止める。
その場に行けば、すべて分かる。そういうことなのだろう。



立ち止まる彼に遅れて追いつき、同じように立ち止まる。

「――ここに埋めればいいの?」

他よりも夏草は生い茂ってはいない場所は、どこかの家の跡地のように見えた。
曾祖母が話していた友人の家だろうか。

「ここに埋まるものを掘り起こせ。瓦礫を避ければすぐに見つかる」

埋める場所への問いかけに彼は首を振り、逆に掘り起こせと言う。
多くは語らない彼に、小さく溜息を吐く。優しかった曾祖母のためだと自分に言い聞かせながら、草を掻き分け黒ずみ朽ちた木々を避けるため手に取った。

「燃やされてる?」

炭化した木片に眉が寄る。
二度と会えなくなった友人を偲び、悲しく笑う曾祖母を思い出した。

「これって……神様の怒りというよりはさ……」

曾祖母の生きた時代を思いながら、言葉を濁す。
元は家の柱だろう残骸を避け、その下から柱とは違う炭化した木片を認めて、胸が苦しくなる。
小さな、片方だけの下駄だったもの。彼が掘り起こせと言ったものはこれだろう。

「あの夜――」

不意に彼が口を開いた。視線を向ければ、晴れ渡る青空を仰いで彼は目を細めていた。

「幼い彼女はあの夜、空に神を見た。黒々とした翼を広げた、異国の神を」
「異国の……神……」

彼と同じように空を見上げる。
赤く染まった空を覆い尽くす、無数の黒く冷たい翼を持った飛行機《神》。
曾祖母を含めた僅かな人々は逃げ延びたが、曾祖母の友人のような多数は、村と共に終を迎えた。
首を振る。下駄を手に立ち上がると、彼はこちらを一瞥し、先ほどよりもゆっくりと歩き出した。

草を掻き分け、彼の後に続く。
焼けて数年も草木が生えなかったという大地。それでも永い時間と共にどこからか運ばれた、あるいは眠っていた種が芽吹き成長する。
かつての悲しみを覆い尽くすように、夏草が生い茂る。

「神とは、無力なモノだ」

呟く言葉は、淡々としているのにどこか悲しげだ。

「彼女は、村の終わりに神を見た。村で祀る神は、最期まで見ることはなかったというのに」

風が吹き抜け、夏草を揺らす。
彼の銀に煌めく毛並みを撫で、かつて神社があっただろう方向へと消えていく。

「命の巡りを見ているだけのモノ。見えぬのも、求めぬのも当然か」

彼は足を止めない。
彼の言葉に対して、何かを言うつもりもなかった。
何を言った所で、彼が望むものではないのだろうから。

夏草茂る村の跡地を進み、やがて開けた場所に出た。
焼けた木の前で、彼が足を止める。その横に並び、膝をついた。
どうすればいいか、敢えて聞く必要はない。枯れた木の根元に新たに生える緑を見ながら、その側の土を掘り返す。
固いと思われた土は思っていたよりも柔らかく、これならば手だけで掘り進められそうだ。
ある程度土を掘り、先ほどの下駄をその中に入れる。背負っていたリュックを下ろし箱を取り出すと、一緒に中に入れ土をかけた。

「おやすみなさい、ひいばあちゃん……お友達と、もう一度会えるといいね」

思わず溢れた声に、彼は何も返さない。
ただ隣に寄り添い、目を細めた。

不意に風が吹き抜ける。夏草を揺すり、音を立てる。
その音に混じり、どこかで笑い声が聞こえた。
顔を上げて振り返る。村へと駆けていく小さな二つの影を認め、息を呑んだ。
視界が滲む。消えていく影を追うように、頬を涙が伝い落ちていく。

「良かった……」

本物か、それとも彼が見せた幻かは分からない。それでも、今だけは本物だと信じていたかった。
彼が鼻先を寄せ、止められない涙を舐める。静かな優しさに、息が苦しくなる。
彼の首に腕を回し、声を上げて泣いた。

「存分に泣くといい。ここには何もない。お前を愛してくれた彼女はいないが、忌避する者もいない。落ち着くまでは……お前が望む限りは側にいよう」

声を出せない代わりに、何度も頷いた。
彼がいる。かつてこの村を愛し、村の終わりを悲しんだ、一柱の真神が側にいてくれる。
一人きりの自分には、それだけが何よりの救いだった。


「消えゆくモノすらその目に映し出す、希有な娘。唯一の理解者である彼女を失い、それでも前に進み続ける、その強い意思を尊重する」

優しい声音。強くしがみつけば、彼からは温かな陽の匂いがした。
深く吸い込んで、目を閉じる。

「――おやすみ、優しい子」

夏草が揺れる。ざわざわと音を立て、不毛の大地をただの草原へと変えていく。
いっそこの胸の痛みも隠してくれればいいのにと、微睡む意識でそんな取り留めのないことを思った。



20250828 『夏草』

8/29/2025, 4:13:10 AM

ポケットの中に入っていたそれに、少年は不思議そうに目を瞬いた。
少年の手の中に収まるそれは、緑色をした小さな石だった。濃い緑の中に、赤茶色の斑点模様が散っている。
ざらりとした表面を撫でながら、少年は首を傾げる。こんな特徴的な石を、少年は自分のポケットの中に入れた覚えがなかった。
石を撫でながら、少年は考える。果たしてこれは、持って帰ってもいいだろうか。覚えはないが、自分のポケットの中に入っていた石だ。ならば、これは自分の持ち物になるのだろう。
そんな幼い思考は、だがすぐに別の思考へと移り変わっていく。
先日喧嘩をした友人のこと。それきり一緒に遊ぶことはおろか、挨拶を交わすこともなかった。
このままではいけない。謝らなければと思いながらも、友人を見る度に決意は揺らぐ。時間が過ぎていくにつれ、気まずさだけが大きくなり、謝る勇気も声をかける勇気さえも出てこなくなった。
手の中の石を、握り締める。手の熱が移ったのか、石はほんのり温もりを宿している。
とくり、と石が脈動した気がした。驚いて手を開くも、石に変わった様子はない。
もう一度石を握り、目を閉じる。深呼吸を繰り返すと、友人に会いたい気持ちが強くなっていく。
謝ろう。自分が悪かったのだから。
意地も気まずさも消えて、残るのは後悔だけだ。
このまま離ればなれになるのは、きっと何よりも怖ろしい。
目を開ける。決意を宿した目をして、少年は力強く頷く。
石をポケットの中に入れ、駆け出した。
友人の元へ、仲直りをするために。



「こんなところにいたのか」

去っていく少年の背を見ながら、男はそっと呟いた。
握る手を解く。その手の中から、先ほど少年がポケットの中にいれていた緑の石が現れた。

「まったく……お節介過ぎるのはいつまで経っても変わらないな。少しは探す方の身になってくれ」

苦笑しながらも、男は優しく石を撫でる。微かな振動を感じて、切なげに目が細まる。
石は何も語らない。石に残るのは、僅かな想いだけだからだ。
誰かのためにという献身と、その誰かのために与える勇気。
その身が失われても尚、男の愛した少女の優しさは変わらず石に残り続けた。
少女はここにいる。ここに在る、それが何もできなかった男のささやかな救いだった。


「――そろそろ帰ろうか」

願うように囁いて、男は静かに歩き出す。
帰るといいながらも、その場所は疾うに失われた。少女を犠牲に太陽を呼び戻そうとした故郷は、太陽の熱に焼かれて消えた。
残ったのは男一人と、少女の思いが宿ったこの石だけ。

少女が残した石と共に、男は当てもなく歩き続ける。それだけが男にできることだった。


不意に一陣の風が吹き抜けた。
男の手の中の石が、強く脈動する。

「なんだ……?」

初めてのことに、男は眉を寄せ立ち止まる。
吹き抜けた先に見えた小さな人影に、目を見張り息を呑んだ。
あの頃と変わらない姿。優しい微笑みと慈愛の眼差し。
駆け寄る在りし日の少女を抱き留めながら、男は一筋の涙を溢した。

「――迎えに、来てくれたのか」

呟く男に、少女はくすくすと笑い声を上げる。

「気づかなかっただけよ。形のある、残りものだけを見てるんですもの。ずっと側にいたのに、全然気づいてくれないのだから」

だから時折、悪戯をしていたのだと少女は笑う。
迷う者の所へと石を運びながら、男が気づいてくれるのを待っていた。石ではなく、いつか自身を見てくれると期待していたのだと、少女は少しばかり拗ねてみせた。

「すまない。俺は、ずっと……」
「鈍感なのは変わらないのね……そういう所が、可愛らしいのだけれど」

悲嘆に暮れる間もなく、少女に言われた可愛いの言葉に男の頬が僅かに赤くなる。僅かに視線を逸らす男の顔を包んで、少女はその頬に唇を触れさせた。

「――っ!?」

益々赤みを増す男を笑い、少女は少しだけ体を離すと男の手を取り繋いだ。導くように手を引いて歩き出す。

「そろそろ行きましょう?」

手を引かれるままに、男は歩き出す。
どこに、とは問わない。死者が還る場所はひとつだけだからだ。
いつの間にか、少女の思いを宿した石が消えていることに気づく。振り向く男に少女は頬を膨らませ、繋いだ手を強く引く。

「私がいるのだから、あれはもう必要ないでしょう?阿野石はもう、自身の意思で必要な人の元へ行くわ。ささやかな勇気を与えに、ね」

石は残り続けるのだと、少女は告げる。
少女の献身を宿した、深い緑の中に血を思わせる赤を散りばめた異国の石。
彼女がいた証が残るのだと知って、男は穏やかに微笑みを浮かべた。
繋いだ手を引き、傾ぐ少女の肩を抱き寄せる。
頬を膨らませ睨むその額に、そっと口付けた。

「なっ!?ちょっと!」
「さっきのお返しだ」

そのまま肩を抱いて、男は歩き出す。
その表情は柔らかく、少女は何も言えずに頬を赤く染めて前を向いた。
互いに何も言わず、ただ寄り添いながら歩いていく。
二人の影はやがてひとつになって、暗がりの向こう側へと消えていった。





「あれ?なんだろ、これ」

ポケットに違和感を感じて、制服姿の少女は手を差し入れた。
中から取り出されたのは、深い緑色をした小さな石。

「いつのまに……」

赤い斑点模様を眺めながら、少女はぼやく。
入れた覚えのない石。けれども嫌な感じはしなかった。
そっと手のひらの中に握り込んでみる。手の熱が移ったのか、ほんのりと温かい。
その温もりに、不意にある人の姿が思い浮かぶ。
同じクラスの少年。静かに本を読む姿を、目で追い始めたのはいつからだっただろうか。
話せば穏やかに応えてくれる少年に、けれど告白する勇気はいつまでたっても起きなかった。
あと半年もすれば、自分達は学校を卒業する。卒業してしまえば、接点はなくなってしまうだろう。
それは嫌だ。そう強く思った。
今まで何度もそう思いながら、でもまだ時間はあると思っていた。けれども今日は何故か、それでは駄目だと強く感じている。

「――よしっ!」

手の中の石を見つめ、少女は強く頷いた。
石をポケットの中に戻し、来た道を駆け戻る。今ならまだ、少年は図書室で本を読んでいるはずだ。
足が軽い。早く会いたいと、さらに速度を上げる。

――何も言わないまま、さよならなんてしたくない。

誰かの声が聞こえた気がした。
後悔の滲むその声音。
その通り、と少女は高らかに同意し、晴れやかに笑った。



20250827 『ここにある』

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