ポケットの中に入っていたそれに、少年は不思議そうに目を瞬いた。
少年の手の中に収まるそれは、緑色をした小さな石だった。濃い緑の中に、赤茶色の斑点模様が散っている。
ざらりとした表面を撫でながら、少年は首を傾げる。こんな特徴的な石を、少年は自分のポケットの中に入れた覚えがなかった。
石を撫でながら、少年は考える。果たしてこれは、持って帰ってもいいだろうか。覚えはないが、自分のポケットの中に入っていた石だ。ならば、これは自分の持ち物になるのだろう。
そんな幼い思考は、だがすぐに別の思考へと移り変わっていく。
先日喧嘩をした友人のこと。それきり一緒に遊ぶことはおろか、挨拶を交わすこともなかった。
このままではいけない。謝らなければと思いながらも、友人を見る度に決意は揺らぐ。時間が過ぎていくにつれ、気まずさだけが大きくなり、謝る勇気も声をかける勇気さえも出てこなくなった。
手の中の石を、握り締める。手の熱が移ったのか、石はほんのり温もりを宿している。
とくり、と石が脈動した気がした。驚いて手を開くも、石に変わった様子はない。
もう一度石を握り、目を閉じる。深呼吸を繰り返すと、友人に会いたい気持ちが強くなっていく。
謝ろう。自分が悪かったのだから。
意地も気まずさも消えて、残るのは後悔だけだ。
このまま離ればなれになるのは、きっと何よりも怖ろしい。
目を開ける。決意を宿した目をして、少年は力強く頷く。
石をポケットの中に入れ、駆け出した。
友人の元へ、仲直りをするために。
「こんなところにいたのか」
去っていく少年の背を見ながら、男はそっと呟いた。
握る手を解く。その手の中から、先ほど少年がポケットの中にいれていた緑の石が現れた。
「まったく……お節介過ぎるのはいつまで経っても変わらないな。少しは探す方の身になってくれ」
苦笑しながらも、男は優しく石を撫でる。微かな振動を感じて、切なげに目が細まる。
石は何も語らない。石に残るのは、僅かな想いだけだからだ。
誰かのためにという献身と、その誰かのために与える勇気。
その身が失われても尚、男の愛した少女の優しさは変わらず石に残り続けた。
少女はここにいる。ここに在る、それが何もできなかった男のささやかな救いだった。
「――そろそろ帰ろうか」
願うように囁いて、男は静かに歩き出す。
帰るといいながらも、その場所は疾うに失われた。少女を犠牲に太陽を呼び戻そうとした故郷は、太陽の熱に焼かれて消えた。
残ったのは男一人と、少女の思いが宿ったこの石だけ。
少女が残した石と共に、男は当てもなく歩き続ける。それだけが男にできることだった。
不意に一陣の風が吹き抜けた。
男の手の中の石が、強く脈動する。
「なんだ……?」
初めてのことに、男は眉を寄せ立ち止まる。
吹き抜けた先に見えた小さな人影に、目を見張り息を呑んだ。
あの頃と変わらない姿。優しい微笑みと慈愛の眼差し。
駆け寄る在りし日の少女を抱き留めながら、男は一筋の涙を溢した。
「――迎えに、来てくれたのか」
呟く男に、少女はくすくすと笑い声を上げる。
「気づかなかっただけよ。形のある、残りものだけを見てるんですもの。ずっと側にいたのに、全然気づいてくれないのだから」
だから時折、悪戯をしていたのだと少女は笑う。
迷う者の所へと石を運びながら、男が気づいてくれるのを待っていた。石ではなく、いつか自身を見てくれると期待していたのだと、少女は少しばかり拗ねてみせた。
「すまない。俺は、ずっと……」
「鈍感なのは変わらないのね……そういう所が、可愛らしいのだけれど」
悲嘆に暮れる間もなく、少女に言われた可愛いの言葉に男の頬が僅かに赤くなる。僅かに視線を逸らす男の顔を包んで、少女はその頬に唇を触れさせた。
「――っ!?」
益々赤みを増す男を笑い、少女は少しだけ体を離すと男の手を取り繋いだ。導くように手を引いて歩き出す。
「そろそろ行きましょう?」
手を引かれるままに、男は歩き出す。
どこに、とは問わない。死者が還る場所はひとつだけだからだ。
いつの間にか、少女の思いを宿した石が消えていることに気づく。振り向く男に少女は頬を膨らませ、繋いだ手を強く引く。
「私がいるのだから、あれはもう必要ないでしょう?阿野石はもう、自身の意思で必要な人の元へ行くわ。ささやかな勇気を与えに、ね」
石は残り続けるのだと、少女は告げる。
少女の献身を宿した、深い緑の中に血を思わせる赤を散りばめた異国の石。
彼女がいた証が残るのだと知って、男は穏やかに微笑みを浮かべた。
繋いだ手を引き、傾ぐ少女の肩を抱き寄せる。
頬を膨らませ睨むその額に、そっと口付けた。
「なっ!?ちょっと!」
「さっきのお返しだ」
そのまま肩を抱いて、男は歩き出す。
その表情は柔らかく、少女は何も言えずに頬を赤く染めて前を向いた。
互いに何も言わず、ただ寄り添いながら歩いていく。
二人の影はやがてひとつになって、暗がりの向こう側へと消えていった。
「あれ?なんだろ、これ」
ポケットに違和感を感じて、制服姿の少女は手を差し入れた。
中から取り出されたのは、深い緑色をした小さな石。
「いつのまに……」
赤い斑点模様を眺めながら、少女はぼやく。
入れた覚えのない石。けれども嫌な感じはしなかった。
そっと手のひらの中に握り込んでみる。手の熱が移ったのか、ほんのりと温かい。
その温もりに、不意にある人の姿が思い浮かぶ。
同じクラスの少年。静かに本を読む姿を、目で追い始めたのはいつからだっただろうか。
話せば穏やかに応えてくれる少年に、けれど告白する勇気はいつまでたっても起きなかった。
あと半年もすれば、自分達は学校を卒業する。卒業してしまえば、接点はなくなってしまうだろう。
それは嫌だ。そう強く思った。
今まで何度もそう思いながら、でもまだ時間はあると思っていた。けれども今日は何故か、それでは駄目だと強く感じている。
「――よしっ!」
手の中の石を見つめ、少女は強く頷いた。
石をポケットの中に戻し、来た道を駆け戻る。今ならまだ、少年は図書室で本を読んでいるはずだ。
足が軽い。早く会いたいと、さらに速度を上げる。
――何も言わないまま、さよならなんてしたくない。
誰かの声が聞こえた気がした。
後悔の滲むその声音。
その通り、と少女は高らかに同意し、晴れやかに笑った。
20250827 『ここにある』
素足で濡れた地面を踏み締める。
濡れた土はぬかるみ、肌に纏わり付く。何度も足を取られそうになりながらも、先へと進み続けた。
足が沈む。水を多量に含んだ土が泥となり、これ以上進むことを拒んでいる。そんな気がして、思わず眉を顰めた。
沈む足を引き抜き、前に出す。一歩、また一歩と、遅々としながらも確実に前へと進む。
目指す先は、まだ見えない。
「諦めてしまえばいいのに」
不意に声がした。
「苦労しながら目指す場所には、もう何もないんだと知ってるはずだ」
無感情な声が、風に乗って静かに告げる。
分かっている。心の内で呟いて、それでもまた一歩足を踏み出した。
草ひとつ生えない大地。記憶の中の光景とは似ても似つかない。
おそらくは目指す先も同じようなものなのだろう。
「強情なのは相変わらずか。ならば好きにするといい」
微かな溜息の音と共に、一陣の風が背中を押した。
それきり声は沈黙する。
苦笑して、足を踏み出す。
沈むはずの足は、だが沈むことはない。
まるで雲の上を歩いているかのような、柔らかで不思議な感覚。踏み締めた足から伝わる温もりに、浮かべた笑みが涙に変わった。
一筋流れ落ちた滴を拭い、前を向く。変わらず何もない先を見据えて、ゆっくりと歩き出した。
足が止まる。
辿り着いた先に広がる光景に、思わず息を呑んだ。
地面の中から僅かに覗く瓦屋根。焼けた電柱の先端。崩れ落ちた二階建ての家の残骸。
分かっていたはずだった。すべてを知って、それでもここに帰ってくることを決めたのは自分だった。
それでも広がる惨状に、胸が苦しくなる。目を逸らし、今すぐ引き返してしまいたい衝動に、歯を食いしばり必死に耐えることしかできない。
呆然と立ち尽くす自分の横を、風が過ぎていく。風の向かう先に視線を向ければ、枯れた森が目についた。
「――あぁ」
枯木の合間から煤けた朱が見え、声を漏らす。
ふらつく足取りで、その朱い鳥居に向けて歩き出した。
「途中で引き返せばよかっただろうに」
声が聞こえた。
無感情の中に僅かに哀れみを含んで、声が囁く。
「ここにはもう、何もない。かつてのお前が愛したものはすべて焼け、土の下だ」
告げられた言葉に俯けば、風は優しく頬を撫でていく。
耐えられず足が止まりかけるが、風はそれを許さない。
「ただの悪夢だと忘れてしまえば、幸せに生きれたはずだ。それを忘れずここまで来たのだから、引き返せないことは覚悟していただろう」
風に背を押され促されて、俯く顔を上げて鳥居に近づく。
鳥居の向こう側。懐かしい人影を認めて、風に抗うように立ち止まった。
揺らぐ人影が、境界を越えて足を踏み入れるのを待っている。
一歩、足を踏み出した。もう一歩、また一歩と鳥居に近づいていく。
土の感覚が変わった。柔らかさではなく、固く濡れた土の感触が、触れる足から伝わってくる。
ゆっくりと、鳥居を潜り抜ける。
瞬間。景色が変わった。
枯れ果てた木々は青々と茂り、風に吹かれ葉を揺する。地面は剥き出しの土から石畳に変わり、ひやりとした石の冷たさに小さく肩が震えた。
「おかえり」
鳥居の先で待っていた彼が、声をかける。
「あの子の所へ行こうか」
差し出される手を取ろうと腕を上げかけ、何気なく落とした視線に入ったそれを見て止める。
綺麗な石畳と、泥に汚れた自分の素足。
このまま歩けば、石畳を汚してしまう。
「お前は変わらず、変な所で臆病だ。今更、そんな少しの汚れを気にしてどうする」
小さな溜息と共に、手を繋がれ引かれる。
そのまま歩き出し、抗うこともできずに彼に手を引かれるままに続いた。
石畳が続くの先に見えたのは、小さな社。
懐かしい記憶が過ぎていく。彼女が待っていると思うと、胸がざわついた。
「あの子は壊れてしまったが……お前が帰って来たと知れば喜ぶだろう」
迷いなく彼が、社の戸を開け放つ。
履き物を脱いで社に上がる彼を見て、このまま上がってもいいのだろうかと迷う。
足の泥は道中に乾き落ちてはいたが、それでも素足のままで外を歩いていたことには変わりない。
せめて足を拭うべきかと、身を屈めた時だった。
「――来た」
社の奥から、声が聞こえた。
彼の声ではない。ひび割れ、ざらついた歪な声。
視線を向けた瞬間。社の奥から白い縄のようなものが伸びてきた。
逃げる間もなく胴に絡みつかれ、社の奥へと引き摺り込まれる。
声を上げる間もない。無抵抗な体は幾重にも何かに巻き付かれ、身動きひとつ取れなくなった。
ずず、と何かを引き摺る音。社の入口から入り込む光が、最奥に佇む主の姿を浮かばせる。
「やっと……来てくれた」
白い大蛇。
赤い目を揺らがせ、頬に頭を擦り寄せる。
「皆、いなくなった。良い人間も、悪い人間も全部……でも、あなたは帰って来てくれた」
声に喜色を滲ませて、大蛇――彼女はさらにぐるりと自身の胴を巻き付ける。離れることを怖れるように。
ふと視界の隅で、何かが煌めいた。
視線を向ける。光を反射するそれを認めて、息を呑んだ。
「今度こそ、一緒にいよう。前のあなたは呑んでしまったけど、やっぱり触れていたいの」
砕けた手鏡。母から受け継いだ、かつての自分のもの。
最後まで肌身離さず持っていたはずのそれ。近くに散らばる赤黒く染まった布端に、そっと目を逸らす。
「そうだな。触れていれば、孤独に狂うこともない。生きているのならば、また始めることもできる……自らの意思で戻ってきたのだから、そのまま受け入れるべきだ」
彼の声がする。毒のように甘美で残酷な言葉を、優しく囁く。
彼の言葉に彼女が喜びの声を上げた。時折覗く舌先が首筋に触れ、こそばゆさに身動ぐ。
その僅かな動きすら許さないと、巻き付く胴が体を締め上げる。眉を寄せ小さく呻くが、力が緩むことはない。
壊れてしまった。
社に入る前の、彼の言葉を思い出す。
本来の大蛇の姿を厭い、人の姿を取ることが殆どだったはずの彼女。
控えめで優しい彼女は、もうどこにもいないのだ。
「ずっと一緒。もう二度と、離したりはしない」
彼女の囁きが、鼓膜を揺する。
「――うん。今度こそ、ずっと一緒にいて。二度と離さないで」
願うように呟いて、静かに目を閉じる。
冷たい毒が、体中に巡っていく。
ゆっくりと訪れる微睡みに、意識を沈めていく。
「――ごめんなさい」
小さく呟いた。
砕けた鏡。血濡れた服の切れ端。
神聖な場所を穢したこと。彼女を壊したこと。
「謝らないで。私は今、とても幸せなの。もう我慢しなくていいのだもの」
「謝る必要はない。こうして戻ることを期待してお前の記憶を残したのは、私なのだから」
彼女達が笑っている。
村で祀られていた神とその眷属の社が、静かに閉じていく。
「おやすみなさい。私の、可愛い子」
甘い囁きと広がる闇。
彼女に凭れ、もう一度だけごめんなさいと呟いた。
20250826 『素足のままで』
霧の中を、女が一人歩いていた。
足下は酷く覚束ない。手を伸ばし、霧の向こう側を探るように前へと進んでいる。
霧は深く、女が向かう先は僅かにも見えはしない。ただ烏とも違う低い鳥の声が、時折不気味に響くのみだった。
「もう一歩、あと一歩だけ……」
繰り返す譫言。夢見のように辿々しい。
また一歩足が進む。ゆっくりとだが確実に、霧の中へ女の体が呑み込まれていく。
不意にその腕を、少女の手が掴んだ。
「おねえさん」
鈴の音を転がしたかのような、澄んだ声音が女を呼ぶ。
「この先には、何もないよ。だから戻ろう?」
「でも……」
少女の言葉に、女は逡巡する。
少女を見つめ、その目が泣きそうに揺らいだ。
「行かないと……もう一歩だけって、声がするから」
見えない霧の向こうへと女は視線を向ける。少女もまた女と同じ方向を一瞥し、静かに問いかけた。
「それは誰の声?」
「彼の声よ。ほら、聞こえている。ずっと私を呼んでいるの……だから行かないと」
迷いのない女の答えに、少女は首を傾げる。
耳を澄ませるが、聞こえるのは鳥の鳴く声だけだ。
「本当に?」
問いを重ねれば、女は言葉に詰まる。
彷徨う視線。霧の先と少女の間で迷うように揺れ動く。
女の戦慄く唇がゆっくりと動く。だがそれは声にはならず、吐息だけが溢れ落ちていった。
鳥が鳴く。低い声が霧の向こう側から響いてくる。女の肩が震え、少女に掴まれたままの手を霧の向こうへと伸ばす。
「呼んでるの……もう一歩だけ、前に進めって呼んでる」
呼んでると繰り返しながらも、女の足は動かない。掴まれた腕を振り解くでもなく、縋る目をして少女を見つめた。
少女は黙したまま、女を見据える。女の言葉を肯定するでもなく、否定する訳でもない。
沈黙。時折聞こえる鳥の声だけが、場の静寂を乱していく。
「おねえさん」
少女が呼ぶ。女の目を見つめ、ふわりと微笑む。
「戻ろう、おねえさん」
静かな声に、女の頬を滴が伝い落ちた。
不意に霧が揺らぎ、道の先を微かに浮かばせた。
影が揺れ動く。それは巨大な黒の鳥の形をしていた。
「――あぁ」
女の目が鳥を認め、唇から嘆くような声が漏れる。
「あの鳥はね、おねえさんの思いを鳴くんだよ。もう一度呼んでほしいって、そう思っていれば鳥が代わりに鳴いてくれるの」
鳥が鳴く。その声は女を呼ぶのだろう。鳥を見つめる女の目から、はらはらと止めどなく涙が零れ落ちていく。
耐えきれなくなったのか、女はその場に崩れ落ちる。顔を覆い、嗚咽を溢す女の背を、少女はそっとさする。
しかしその目は鋭く、晴れていく霧が露わにする道の先を睨み付けた。
道の先は途中で途切れていた。黒い水を湛えた、池のような何かが広がっている。
その水面から、音もなく何かが浮かび上がる。
青白い男の顔。無表情にこちらを凝視し、ひび割れた唇が静かに開いていく。
「もう一歩。もう一歩だけ、こっちに」
歪な声が響く。男の未練が、女を呼び寄せ続ける。
男を睨み付けたまま、少女は女の背をさする。声だけは穏やかに、女に告げる。
「戻ろう、おねえさん」
女は泣きながら、小さく頷いた。
男の頭が揺れ動き、黒い波紋を広げていく。ゆっくりとこちらに近づくが、それでも黒い水から離れられないのだろう。水面から浮かぶ折れた指が縁を掻くが、水の中から這い上がる様子はない。
男の唇が再び開いていく。
「もう一歩……」
鳥が鳴いた。男の言葉を掻き消すように。
再び立ち込める霧が、男を覆い隠していく。
泣きながらも女が顔を上げた時には、男の姿は影すらも見えない深い霧の中に沈んでいた。
「――ありがとう」
鳥を見上げ、女が小さく呟く。それに応えて鳴く鳥は静かに飛び立ち、霧の向こう側へと消えていく。
それを見送って立ち上がる女の手を、少女はそっと繋ぐ。
軽く引けば、女は名残惜しげに霧の向こうを見つめながらも、振り返り元来た道を歩き出した。
途中で少女が手を離しても、立ち止まる様子はない。
その足取りは力強く。振り返ることは二度となかった。
遠ざかる女の背を見つめ、鳥は静かに鳴き声を上げた。
「もう振り切れたみたい」
鳥の止まる木の根元。凭れた少女が微笑み鳥を見上げる。
だがその笑みは不意に陰り、立ち込める深い霧の向こうへと憂う視線を向ける。
「おねえさんは大丈夫だけど……あっちはどうなのかな?諦めてくれればいいのだけれど」
黒い水の中に漂う男を差しているのだろう。死してなお、恋う者を呼び続けるその執念は、男が漂っていた水のように黒い。
女の先を憂う少女に、鳥は短く鳴いた。翼を広げ少女の元まで降り立つと、華奢な体を翼で包み込む。
「ありがとう」
淡く微笑みを浮かべ、少女は鳥の首に腕を回す。温かな体に擦り寄り、小さく吐息を溢した。
鳥は目を細めながら、少女を見つめ。愛を囀り、甘く声を上げる。
「少しだけ、どちらの気持ちも分かるかもしれない……一人になったら寂しくなって、もう一度だけでも呼んでほしいって思うし……一緒にいて欲しいって呼びたくなるから」
ごめんね、と囁く少女の声はか細く、儚い。
その声を掻き消すように、鳥は強く鳴く。
そんな未来は永遠に来ないのだと伝えるように、少女の頬に嘴を擦り寄せた。
20250825 『もう一度だけ、』
遠くに、揺らぐ街が見えた。
鮮やかな色彩。煉瓦の家々。石畳の道が奥へと続いている。
異国の街並みは、見知らぬはずであるのにどこか懐かしい。
誘われるように近づけば、途端に街は周囲に解けて消えていく。
後には焼けたアスファルトの道しかなく、名残のように逃げ水が遠くに煌めいていた。
決して届かない街並みを思い、小さく息を吐く。
何度目だろうか。向かう先に滲む街並みを見かけ、追いかけては消えていくのを繰り返したのは。
気づかない振りをするのは簡単だ。目を逸らせばいい。
分かってはいても、追いかけるのを止められない。
あの街には、きっと今も幼馴染みがいるのだろうから。
幼い頃、古い絵本に描かれた街並みに憧れた。
石畳の道。煉瓦の家。高い塔に、大きな城。
いつかこんな街で暮らしてみたいと、幼馴染みに何度も語った。
「ちょっと、難しいかな」
眉を寄せ難しい顔をした幼馴染みが、絵本から視線を逸らさず呟く。
「酷い!なんでそんなこと言うの」
幼馴染みの手から絵本を取り上げ胸に抱きしめる。夢を否定され泣きそうになれば、幼馴染みは眉を寄せたまま絵本を指差した。
「だって複雑だし。それに、こんなに広いのは大変だ」
迷子になるとでも言いたいのか。
涙目で睨み付ける。すると幼馴染みは、小さく溜息を吐いて笑った。
「難しいんだけどな」
そう言って後ろを向く。指で弧を描けば、幼馴染みの周りの空気が微かに揺らぐのを感じた。
揺らぐ空気が形を変えていく。色を纏い、大きく広がって、それは次第に絵本の中の街並みを形作っていく。
「凄い……!」
「でも駄目だ。大きいし複雑だしで、形を整えるので精一杯」
歓声を上げる自分とは対照的に、幼馴染みの声は不満げだ。
よく見れば、確かに家の壁はさざ波のように揺れ動き、所々でほつれている。
けれどもそれすら気にならないほどに、街は煌めいて見えた。絵本を抱く腕に力を込めて、高鳴る胸の鼓動のままに一歩、街へと近づいた。
「駄目」
近づく足を幼馴染みの声が止める。
視線を向ければ、幼馴染みはこちらを向いて首を振った。どうしてと食い下がろうとするのを察してか、幼馴染みの手が宥めるように頭を撫でる。
「まだ不安定だから、近づけばすぐに消えてしまうよ」
ここから見ているだけ。
少しだけ気分が沈むが、幼馴染みは大丈夫だと笑う。
撫でていた手を離して、揺らぐ街に向けて歩き出した。
「少し待ってて。しっかり作り上げてくるから」
それだけを告げて、幼馴染みは街の中へと消えていく。
しかし、どれだけ待っても幼馴染みは戻ってはこなかった。
揺らぐ街も日暮れと共に霞み消えて、寂しさに泣きながら一人家路に就いたのを覚えている。
あれから数年が経つ。
幼馴染みはまだ戻らない。
時折現れる街の幻だけが幼馴染みとを繋ぐ縁に思えて、今日もまた街の幻を追いかけている。
その日、見えた街はいつもと違っていた。
朧気に揺らいでいたはずの街並みは、輪郭をはっきりとさせている。
石畳や煉瓦のひとつひとつの形すら、離れているこの場所からも見えている。
街の中心部にある高い塔が時計台だったのだと、初めて知った。
胸が騒めく。
惹かれるように、一歩足を踏み出した。
街は揺らがない。
一歩、また一歩と、街へと近づく。
消えない街。根を下ろした大樹のように、静かにそこに佇んでいる。
「――呼んでる?」
小さな呟きが、やけに大きく感じられた。
とても静かだ。いつもならば聞こえる蝉時雨も、車の音も聞こえない。
思わず立ち止まる。後ろを振り返り、逡巡する。
後ろには見慣れたアスファルトの道。遠く霞む、馴染んだ住宅街。
一歩だけ、足を引き戻す。アスファルトから立ち上る熱気が、この先が現実だと告げていた。
戻るべきか、進むべきか。
もう一度、街を見つめ、込み上げる切なさに胸を押さえた。
街が呼んでいる。その感覚が抜けない。引き返す足が進まない。
――少し待ってて。
不意に幼馴染みの声が、脳裏を過ぎる。
忘れかけていた懐かしい響きのそれに、気づけば足を踏み出していた。
今度は途中で立ち止まらずに、街の門へと辿り着く。
見上げる程に大きな門に足が止まりかけるが、そのまま潜り抜けていく。
その瞬間、空気が変わった。
刺すような暑さはなく、冷えた風が体の熱を奪っていく。
ざらりとした石畳の感触。陽に照らされ、煉瓦が鮮やかさを増している。
昔憧れた、絵本の中の街並み。擦り切れるほどに読み返したあの絵と、何一つ変わらない風景。
そっと壁に手を触れる。冷たい石の感覚に、しかしどこか違和感を感じた。
ざらつく石とは違うもの。目を凝らせば、一瞬だけ虹色に煌めく大きな鱗が見えた。
「――っ!?」
慌てて手を離す。
辺りを見回すが、他に誰の姿も見えない。
それでも何かを感じる。
伸びた影の輪郭に重なる揺らぎ。風が運ぶ匂いに混じるもの。静けさに紛れる微かな振動。
じり、と足が後ろに下がった。
街に呑まれる。街の模った何かに、取り込まれようとしている。
そんな不安に、街を出ようと振り返った。
「どうしたの?」
聞こえた声に、足が止まる。
懐かしい声音。記憶のそれと、寸分変わらないその響き。
「ちょうど迎えに行こうと思ってたけど、待ちきれなかった?」
鼓動が速くなる。
俯く視界に伸びる人影が見え、息を呑んだ。
「まだ少し不安定だけど、ようやく形にはなったんだ」
手が触れる。
指を絡めて繋がれ、その冷たさに肩が震えた。
手を引かれ、逆らうことができずにゆっくりと振り返る。
「どうかな?気に入った?」
あの日、街に消えていった幼馴染みが、変わらぬ姿のままで微笑んでいた。
体が震える。
滲み出す視界の端で、街が蠢く。
鼓動のように壁が脈打ち、石畳が足に絡みついた。
「いや。やだ、離して……帰るから、お願いっ……!」
掠れた懇願に、幼馴染みは首を傾げた。
「なぜ?この街に憧れていたんだろう?なら、ずっとここで暮らせばいい」
不思議で仕方ないというように、幼馴染みは困惑を顔に浮かべる。
頭を撫でようと手を伸ばし、あぁと納得したように頷いた。
「人間の成長は早いのを忘れていた。ただでさえ怖がりなのに、これじゃあ怖がらせるだけか」
伸ばしかけた手を引いてその手を見つめ、こちらを見上げる。
頭を撫でる代わりに込み上げる涙を拭い、幼馴染みは何かを思案しながら周囲を見渡した。
蠢く街を見つめ、小さく溜息を吐く。
「これ以上は、駄目かな。形を変えようとするとすぐに綻ぶ……それよりは、夢を見ながら忘れてしまった方がいいか」
小さな呟きと共に、足下の石畳が波紋のように広がった。
街全体が揺らぎ、石畳の中から何かが浮かび上がってくる。
それは大きな蛤だった。
「なに……怖い……」
「大丈夫。怖いモノではないよ。優しい夢を見せてくれるから」
静かに殻が開いていく。
逃げだそうと足に力を込めても、絡みつく石畳は解けない。
嫌だと首を振っても、幼馴染みは大丈夫と繰り返すだけだ。
殻の隙間から、静かに影が這い出てくる。次々に這い出る影は腕に、足に絡みつく。
「離して!やだ……いやぁ……!」
繋がれた手が離れていく。足を縫い止めていた石畳が解けていく。
留めるものを失い、体が蛤の中へ引き摺り込まれる。
「夢の中で、すべて忘れていくといい。その間に、街を仕上げておくから」
閉じていく世界の中。
最後に見えたのは、虹色に煌めく鱗を持つ龍の姿だった。
「どうしたの?」
立ち止まる自分に、幼馴染みが声をかける。
その声に、形になりかけていた何かが跡形もなく解けていくのを感じた。
「やっぱり、二人だけの鬼事は無理があるって気づいた?」
「違うよ!ただ……」
言いかけて、口を噤む。
やはり、何も思い出せない。解けてしまった何かが、もう一度形を作ることはなかった。
俯く自分の側に、幼馴染みが近寄る。いつものように頭を撫でられて、胸の中に僅かに灯り出した不安が消えていく。
そっと、頭を撫でる幼馴染みの手を取った。
「捕まえた」
顔を上げて笑ってみせれば、幼馴染みが呆れたように溜息を吐く。
「それは反則なんじゃないの」
そう言って肩を竦めながらも、ゆっくりと数を数え始める。
幼馴染みの優しさが嬉しくて、笑いながら街の奥へと駆け出した。
「次は隠れ鬼ね!だから百数えてよ」
「はいはい。あんまり遠くに行かないでね」
最初から数を数え直す幼馴染みの声が遠くなる。
どこへ隠れようか考えながら、空を見上げた。
煌めく陽が陰る様子はない。広がる異国の街並みを、優しく照らしている。
この見知らぬ街には、怖いものなどどこにもない。
自分のために、幼馴染みが作り上げてくれた街。
時折感じていた違和感は、もう感じない。
大蛤の内側で眠り続ける少女を思い、一匹の蛟は緩く笑みを浮かべた。
あどけなさの残る少年の姿を取り、蛤の殻に触れて目を閉じる。
ややあって目を開けた蛟は、そっと安堵の息を吐いた。
「落ち着いているようで何よりだ。まだ違和感として残るものはあるようだけど、それもすぐになくなるだろうな」
触れた殻を撫でれば、応えるように蛤の殻の隙間から白い靄が静かに吐き出される。
ゆるりと立ち上る靄は風に乗り、街全体を薄く覆う。蠢く石畳や揺らぐ家々に染み込み、曖昧な輪郭を正していく。
その様を見て、蛟は目を細めた。
「素質があるな。細かい所はどうしても粗が出ていたけど、これなら完全に仕上がりそうだ」
くすりと笑みを溢し、殻を撫でる。内側で眠る少女の髪を撫でるように、優しく愛おしげに。
「目覚めたら、二人で作り上げた街でも一緒に遊ぼうか。……それまで、ゆっくりおやすみ」
その時を思いながら、蛟は殻に唇を触れさせる。
月明かりを反射して、虹色の鱗が煌めいた。
その地には、時折不思議な街が現れるらしい。
異国の色を強く湛えた、見知らぬ街。遠目では色鮮やかに、だが近づけば忽ち霞み消えてしまうという。
蜃気楼。
だがその街を実際に見た者はなく、季節も関係なく、街は忽然と現れ消えていく。
決して辿り着けない、不思議な街の幻。
いつからかその街の幻は、こう噂されるようになった。
――その街は、夢の吐息でできている。
今日もまた、その街は七色の煌めきを宿しながら遠くで揺らいでいる。
20250824 『見知らぬ街』
どこか遠くで、雷が鳴った。
顔を上げる。空を睨んでも、稲光は見えない。
「大丈夫だよ」
地面に絵を描いている友人が、顔も上げずに笑って言う。
「今のは雷じゃないよ。神さまの声だ」
「かみさま?」
絵を描くことに飽きたのか、木の枝を放り出して友人は顔を上げる。
にんまりとした笑みを浮かべ、後ろの社に視線を向けて指を差した。
「怒っている時に、ごろごろと鳴るんだよ。悪いことをした人を連れていく時とか、皆が良くないことをしている時とか」
「連れていかれちゃうの?連れて行かれたらどうなるの?」
「さあ?連れて行かれたことなんてないから、分からないよ……でも、うちの村は大丈夫。悪い人なんていないから」
雷が鳴っている。
山の向こうへ視線を向けた。
隣の村で、誰かが連れて行かれているのだろうか。連れていかれるような、悪い人がいたのだろうか。
悪いこと。眉を寄せて考える。
自分は大丈夫だろうか。今朝は、こっそりにんじんを残してしまった。昨日は片付けをすぐにしなかった。
その前は、と、次々と悪いことが思い浮かんで、じわりと視界が滲んだ。
「わたし……良い子じゃない」
「大丈夫だって。神さまが怒るような悪いことはね、線を越えた時だよ。鳥居をくぐってはいけない夜に何度もくぐるとか。お祭りでやらないといけないことを、ちゃんとやらないとか……そういう悪いこと」
「にんじん残すのは?お片付けもすぐにできなかったのも、悪いことじゃない?」
思いつく悪いことを挙げれば、友人は声をあげて笑う。
近づいて頬を両手で包み込み、親指で目尻に溜まった涙を拭ってくれた。
「そんな小さなことなんて、神さまは見てないよ」
大丈夫、と繰り返して、友人は頭を撫でてくる。友人の言葉にほっとしながら、それでも落ち着かない気持ちがぐるぐると胸の中で渦を巻いた。
「そんなに怖いなら、今日はもうお家に帰ろうか。お家には守ってくれる神さまがいるから、怖くはないでしょう?」
「そのかみさまは、怒らないの?」
「怒るよ。でも、悪いことをした時だけ……子供はお父さんやお母さんたちに怒られるから、怒られることはほとんどないよ」
不安はまだ消えない。
空を見上げる。どんよりと曇った空が、少しだけ色を濃くしているように見えた。
その空に光は見えない。雷の音だけが鳴り続けている。
「帰ろう。また明日ね」
そう言って差し出された手を、そっと握る。
温かな手。ほぅと息を吐いて、手を引かれるまま歩き出す。
「怖くないよ、大丈夫。この村に悪い人はいないから」
歌うように友人が繰り返す。
悪い、悪くないの境が曖昧なまま、友人の言葉を信じてただ頷いた。
遠くで雷が響いている。
数年ぶりに訪れた村は、すでに朽ちかけ村の形を留めてはいなかった。
道も家々も、ほとんどが草木に呑まれてしまっている。誰の気配もせず、聞こえるのは蝉時雨と遠雷の音だけ。
空を見上げれば、晴れた空が広がっている。稲光は少しも見えない。
ただ音だけが響いている。友人の言った神の怒る声が、あの夜からずっと続いているのだろう。
思い出す。あの夜のことを。
火が焚かれ、祭囃子が鳴り響き、村中が集まった祭の夜。
色とりどりの提灯。香ばしい匂いのする屋台。子供たちは笑い駆け回る。
この夜だけは、遅くまで祭に参加しても怒られることはなかった。だから村の子供は皆、祭に参加していた。
自分も、友人も。
楽しげな音に重なるように、雷の音が遠くで鳴った。
空を見ても、見えるのは月や星の明かりだけ。空を走る一瞬の稲光は見えず、音だけが続いていた。
「大丈夫。この村に悪い人はいないから」
友人は笑う。自分の反応が可笑しいと言わんばかりに、楽しげに。
「本当に怖がりだね」
揶揄うようにそう言われても、不安は消えなかった。音が響く度に不安は大きくなり、怖くて仕方がなかった。
結局、祭の途中で両親と家に帰り、そのまま久しぶりに両親と一緒の布団で眠りについた。
雷はずっと鳴り響いている。少しずつ近づいてくる。
怖くてしがみつく自分に、両親も友人のように笑っていた。あれは祭の太鼓の音だと宥められたが、どうしても雷の音にしか聞こえなかった。
夜ごと続いた音が、やはり雷の音だと知ったのは翌朝のことだ。
隣に住む人が、血相を変えて駆け込んできた。
――祭に参加していた人が、皆消えてしまった。
泣き叫び訴える声に、途端に家の中は慌ただしくなった。
神の怒りに触れた。祭の手順を誤ったのか、それとも誰かが禁忌を犯したのか。
険しい顔で、隣の人と共に外へ出て行く父。母に抱きしめられながら、その背を見送った。
結局村に残ったのは、祭に参加していなかった僅かな人ばかりで、消えた人々は誰一人戻っては来なかった。
残った人は皆、逃げるように村を出た。自分達も、家を手放し引っ越した。
家を出る時も、雷は鳴り続けていた。
比較的歩きやすい道を選んで辿り着いたのは、祭のあった神社だった。
朽ちかけた村とは異なり、鳥居を挟んだ向こう側は朽ちている様子はない。
鳥居を潜り抜けようとして、立ち止まる。
――鳥居をくぐりぬけてはいけない夜に、何度も……。
友人の声を思い出す。
今は昼間だ。夜ではないし、あの時は祭があって特別だったはずだ。
そうは思うが、足が竦んで動かない。
鳥居の向こう側と、こちら側。なぜ様相が違うのか。
今も遠くで鳴り続けている雷。
強く目を閉じ、頭を振った。
帰ろう。そして、この村のことは忘れてしまおう。
友人のことも、忘れて――。
「来てくれたんだ」
聞き覚えのある声に、目を開けた。
鳥居の向こう側で、友人が笑っている。あの祭の夜と変わらぬ姿で、こちらに近づいてくる。
「待ってたんだよ」
鳥居の前で立ち止まり、手を差し出す。
あの日のまま、何も変わらない。いつものように、臆病だった自分の手を引こうとしている。
どこかで、雷の音が鳴った。
「どうして……」
掠れた声が漏れる。
「どうして、いなくなったの……みんな、どうして……」
「いなくなった?」
溢れ落ちる疑問の言葉に、友人は首を傾げた。
そして笑う。可笑しくて仕方ないように。
あの日、雷を怖がる自分を笑ったように、楽しげに。
「違うよ。みんな、ここにいる。祭を楽しんでいるんだよ」
そんなはずは、と続けるはずの言葉は、声にならなかった。
友人の背後で、いくつもの影が蠢いている。影は揺らぎ、人の形を取って近づいてくる。
「おいでよ。一緒に遊ぼう?みんなここにいるから、寂しくはないよ。怖いものも、いつものように追い払ってあげる――だから、おいで?」
一歩。足が前に出る。
友人の笑みが深くなり、おいでと繰り返す。その囁きに、また一歩足が前に出た。
差し出す手を取ろうと、腕が持ち上がる。
友人の手と手が重なる、その瞬間――。
雷の音が鳴り響いた。
はっとして、後退る。重ねようとした手を抱いて、震える唇を開いた。
「――やだ」
微かな拒絶の言葉に、友人の顔から笑みが消える。
「いや。いきたくない」
首を振る。込み上げる涙で滲む友人を見つめながら、必死でいやだと繰り返した。
「そっか」
ぽつりと、小さな呟き。
涙を拭い見た友人は、いつものような笑みを浮かべていた。
「じゃあ、今はいいや……来ればきっと楽しいのにね。残念」
霧が立つように、友人の輪郭が薄れていく。
「またね」
声だけを残して、友人の姿は跡形もなく消えていった。
雷はまだ、どこか遠くで鳴り響いている。
家に戻ってから数日が過ぎた。
村からは遠く離れた場所。村とは違い神との距離が遠い場所だというのに、ふとした瞬間に耳を澄ませてしまう。
――またね。
友人の最後の言葉が離れない。
雷の音がする度、神社の鳥居を見かける度に、小さな浴衣姿の影を探してしまう。
不意に、遠くで雷が鳴った。
空を見上げても、雲ひとつない青が広がるだけで稲光は見えない。
雷の音が、耳の奥で反響する。
「おいで」
雷の音に混じり、友人の囁きが聞こえた気がして振り返る。
だが忙しなく行き交う人々の中に、友人の姿はない。
小さく息を吐く。気のせいだと自分に言い聞かせて、前を向いた。
瞬間、音が消えた。
目の前には、あの村の鳥居。
その向こう側。遠くで、友人が手を振っているのが見えた。
「おいで。もう怖くも、寂しくもないよ」
誘う声は、どこまでも甘く。惹かれるように、足が友人の元へと向かう。
強く目を閉じた。
足が止まる。友人の声は聞こえない。
「怖いよ……」
思わず溢れた呟きに、楽しげな笑い声が重なった。
耳元に吐息が触れる。優しく、残酷に友人の声が囁く。
「またね」
目を開けると、そこに友人の姿はなかった。
道を行く人々が、立ち尽くす自分を避けていく。賑やかな喧騒が、戻ってくる。
それでも、雷の音は消えない。
友人の声を孕んだ遠雷が、いつまでも響き渡っていた。
20250823 『遠雷』