sairo

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8/25/2025, 3:49:57 AM

どこか遠くで、雷が鳴った。
顔を上げる。空を睨んでも、稲光は見えない。

「大丈夫だよ」

地面に絵を描いている友人が、顔も上げずに笑って言う。

「今のは雷じゃないよ。神さまの声だ」
「かみさま?」

絵を描くことに飽きたのか、木の枝を放り出して友人は顔を上げる。
にんまりとした笑みを浮かべ、後ろの社に視線を向けて指を差した。

「怒っている時に、ごろごろと鳴るんだよ。悪いことをした人を連れていく時とか、皆が良くないことをしている時とか」
「連れていかれちゃうの?連れて行かれたらどうなるの?」
「さあ?連れて行かれたことなんてないから、分からないよ……でも、うちの村は大丈夫。悪い人なんていないから」

雷が鳴っている。
山の向こうへ視線を向けた。
隣の村で、誰かが連れて行かれているのだろうか。連れていかれるような、悪い人がいたのだろうか。
悪いこと。眉を寄せて考える。
自分は大丈夫だろうか。今朝は、こっそりにんじんを残してしまった。昨日は片付けをすぐにしなかった。
その前は、と、次々と悪いことが思い浮かんで、じわりと視界が滲んだ。

「わたし……良い子じゃない」
「大丈夫だって。神さまが怒るような悪いことはね、線を越えた時だよ。鳥居をくぐってはいけない夜に何度もくぐるとか。お祭りでやらないといけないことを、ちゃんとやらないとか……そういう悪いこと」
「にんじん残すのは?お片付けもすぐにできなかったのも、悪いことじゃない?」

思いつく悪いことを挙げれば、友人は声をあげて笑う。
近づいて頬を両手で包み込み、親指で目尻に溜まった涙を拭ってくれた。

「そんな小さなことなんて、神さまは見てないよ」

大丈夫、と繰り返して、友人は頭を撫でてくる。友人の言葉にほっとしながら、それでも落ち着かない気持ちがぐるぐると胸の中で渦を巻いた。

「そんなに怖いなら、今日はもうお家に帰ろうか。お家には守ってくれる神さまがいるから、怖くはないでしょう?」
「そのかみさまは、怒らないの?」
「怒るよ。でも、悪いことをした時だけ……子供はお父さんやお母さんたちに怒られるから、怒られることはほとんどないよ」

不安はまだ消えない。
空を見上げる。どんよりと曇った空が、少しだけ色を濃くしているように見えた。
その空に光は見えない。雷の音だけが鳴り続けている。


「帰ろう。また明日ね」

そう言って差し出された手を、そっと握る。
温かな手。ほぅと息を吐いて、手を引かれるまま歩き出す。

「怖くないよ、大丈夫。この村に悪い人はいないから」

歌うように友人が繰り返す。
悪い、悪くないの境が曖昧なまま、友人の言葉を信じてただ頷いた。





遠くで雷が響いている。
数年ぶりに訪れた村は、すでに朽ちかけ村の形を留めてはいなかった。
道も家々も、ほとんどが草木に呑まれてしまっている。誰の気配もせず、聞こえるのは蝉時雨と遠雷の音だけ。
空を見上げれば、晴れた空が広がっている。稲光は少しも見えない。
ただ音だけが響いている。友人の言った神の怒る声が、あの夜からずっと続いているのだろう。



思い出す。あの夜のことを。

火が焚かれ、祭囃子が鳴り響き、村中が集まった祭の夜。
色とりどりの提灯。香ばしい匂いのする屋台。子供たちは笑い駆け回る。
この夜だけは、遅くまで祭に参加しても怒られることはなかった。だから村の子供は皆、祭に参加していた。
自分も、友人も。

楽しげな音に重なるように、雷の音が遠くで鳴った。
空を見ても、見えるのは月や星の明かりだけ。空を走る一瞬の稲光は見えず、音だけが続いていた。

「大丈夫。この村に悪い人はいないから」

友人は笑う。自分の反応が可笑しいと言わんばかりに、楽しげに。

「本当に怖がりだね」

揶揄うようにそう言われても、不安は消えなかった。音が響く度に不安は大きくなり、怖くて仕方がなかった。
結局、祭の途中で両親と家に帰り、そのまま久しぶりに両親と一緒の布団で眠りについた。

雷はずっと鳴り響いている。少しずつ近づいてくる。
怖くてしがみつく自分に、両親も友人のように笑っていた。あれは祭の太鼓の音だと宥められたが、どうしても雷の音にしか聞こえなかった。

夜ごと続いた音が、やはり雷の音だと知ったのは翌朝のことだ。
隣に住む人が、血相を変えて駆け込んできた。

――祭に参加していた人が、皆消えてしまった。

泣き叫び訴える声に、途端に家の中は慌ただしくなった。
神の怒りに触れた。祭の手順を誤ったのか、それとも誰かが禁忌を犯したのか。
険しい顔で、隣の人と共に外へ出て行く父。母に抱きしめられながら、その背を見送った。

結局村に残ったのは、祭に参加していなかった僅かな人ばかりで、消えた人々は誰一人戻っては来なかった。
残った人は皆、逃げるように村を出た。自分達も、家を手放し引っ越した。

家を出る時も、雷は鳴り続けていた。



比較的歩きやすい道を選んで辿り着いたのは、祭のあった神社だった。
朽ちかけた村とは異なり、鳥居を挟んだ向こう側は朽ちている様子はない。
鳥居を潜り抜けようとして、立ち止まる。

――鳥居をくぐりぬけてはいけない夜に、何度も……。

友人の声を思い出す。
今は昼間だ。夜ではないし、あの時は祭があって特別だったはずだ。
そうは思うが、足が竦んで動かない。
鳥居の向こう側と、こちら側。なぜ様相が違うのか。
今も遠くで鳴り続けている雷。
強く目を閉じ、頭を振った。
帰ろう。そして、この村のことは忘れてしまおう。
友人のことも、忘れて――。

「来てくれたんだ」

聞き覚えのある声に、目を開けた。
鳥居の向こう側で、友人が笑っている。あの祭の夜と変わらぬ姿で、こちらに近づいてくる。

「待ってたんだよ」

鳥居の前で立ち止まり、手を差し出す。
あの日のまま、何も変わらない。いつものように、臆病だった自分の手を引こうとしている。
どこかで、雷の音が鳴った。

「どうして……」

掠れた声が漏れる。

「どうして、いなくなったの……みんな、どうして……」
「いなくなった?」

溢れ落ちる疑問の言葉に、友人は首を傾げた。
そして笑う。可笑しくて仕方ないように。
あの日、雷を怖がる自分を笑ったように、楽しげに。

「違うよ。みんな、ここにいる。祭を楽しんでいるんだよ」

そんなはずは、と続けるはずの言葉は、声にならなかった。
友人の背後で、いくつもの影が蠢いている。影は揺らぎ、人の形を取って近づいてくる。

「おいでよ。一緒に遊ぼう?みんなここにいるから、寂しくはないよ。怖いものも、いつものように追い払ってあげる――だから、おいで?」

一歩。足が前に出る。
友人の笑みが深くなり、おいでと繰り返す。その囁きに、また一歩足が前に出た。
差し出す手を取ろうと、腕が持ち上がる。
友人の手と手が重なる、その瞬間――。

雷の音が鳴り響いた。

はっとして、後退る。重ねようとした手を抱いて、震える唇を開いた。

「――やだ」

微かな拒絶の言葉に、友人の顔から笑みが消える。

「いや。いきたくない」

首を振る。込み上げる涙で滲む友人を見つめながら、必死でいやだと繰り返した。

「そっか」

ぽつりと、小さな呟き。
涙を拭い見た友人は、いつものような笑みを浮かべていた。

「じゃあ、今はいいや……来ればきっと楽しいのにね。残念」

霧が立つように、友人の輪郭が薄れていく。

「またね」

声だけを残して、友人の姿は跡形もなく消えていった。


雷はまだ、どこか遠くで鳴り響いている。





家に戻ってから数日が過ぎた。
村からは遠く離れた場所。村とは違い神との距離が遠い場所だというのに、ふとした瞬間に耳を澄ませてしまう。

――またね。

友人の最後の言葉が離れない。
雷の音がする度、神社の鳥居を見かける度に、小さな浴衣姿の影を探してしまう。

不意に、遠くで雷が鳴った。
空を見上げても、雲ひとつない青が広がるだけで稲光は見えない。
雷の音が、耳の奥で反響する。

「おいで」

雷の音に混じり、友人の囁きが聞こえた気がして振り返る。
だが忙しなく行き交う人々の中に、友人の姿はない。
小さく息を吐く。気のせいだと自分に言い聞かせて、前を向いた。
瞬間、音が消えた。
目の前には、あの村の鳥居。
その向こう側。遠くで、友人が手を振っているのが見えた。

「おいで。もう怖くも、寂しくもないよ」

誘う声は、どこまでも甘く。惹かれるように、足が友人の元へと向かう。

強く目を閉じた。
足が止まる。友人の声は聞こえない。

「怖いよ……」

思わず溢れた呟きに、楽しげな笑い声が重なった。
耳元に吐息が触れる。優しく、残酷に友人の声が囁く。

「またね」

目を開けると、そこに友人の姿はなかった。
道を行く人々が、立ち尽くす自分を避けていく。賑やかな喧騒が、戻ってくる。

それでも、雷の音は消えない。
友人の声を孕んだ遠雷が、いつまでも響き渡っていた。



20250823 『遠雷』

8/24/2025, 9:16:42 AM

潮風が吹き抜ける岬の先端に、その灯台は建っていた。
元々白かったであろう壁はくすみ、見上げた先に見える窓もまた曇っていた。
近づくために踏み出したはずの足は、それ以上動こうとはしない。灯台に近づくことを怖れているようで、胸がざわついた。
このまま戻るべきだろうか。灯台に行ったところで、中に入れるはずもないのだから。
ここに来る途中に聞いた話を思い出す。
潮の流れが変わり、船を出しても何も獲れなくなった。そのため人々は海から去り、灯台も役目を終えた。
表向きの歴史だけどと付け足し、内緒話でもするように顔を寄せた話し好きの女性達の笑みが浮かんだ。

――灯台守がね、消えちゃったのよ。それで灯台は攫われた灯台守の帰りを待ち続けているんですって。だから灯台守以外を中へは入れないし、時々夜中に霧笛が鳴るのよ。
――きっと灯台守を呼んでいるのね。私も一度だけ聞いたことがあるわ。
――怖いわよねぇ。

好き勝手に話し、去って行った女性達の勢いまで思い出してしまい、思わず溜息が漏れる。だがその噂話も、すべてがでたらめだと言う訳ではないのだろう。

――そういえば、消えた灯台守もあなたのような色の瞳をしていたらしいわよ。夜の海の色よね。

そっと目を覆う。
家族の中で、自分だけ瞳の色が違う。
真夜中を思わせる、黒に近い青の色。
だが祖父は、この瞳を夜の海の色だと評した。海に選ばれた者の瞳だと。
その理由が気になり、祖父に話を聞いた。最初は何も語らなかった祖父は、最後には悲しい目をして、灯台の話をしてくれた。

祖父の父――曾祖父の瞳の色と同じだということ。
曾祖父は灯台守だったが、ある日忽然と姿を消したこと。
開いているはずの灯台の扉が、なぜか開かなかったこと。
姿を消す前の晩。頻りに外を気にしていたこと。

――随分と怖い顔をしていてなぁ。もしかしたら、海から何かが来ていたのかもしれん。

そう言って項垂れた祖父は、いつもよりも小さく見えた。



ぎぃ、と扉が開く音がした。
灯台に視線を向けると、僅かに扉が開いている。
息を呑んだ。無意識に数歩、後退る。
開かないはずの扉が、ゆっくりと開いていく。隙間から誰かの手が覗き、指が扉の縁にかかる。
今引き返せば、間に合う。戻ることができる。
そんな思いが脳裏を過ぎる。けれどもう、指先ひとつ動かせず、開いていく扉から目を逸らすことすらできない。

扉が開く。

「――っ」

中から現れた青年の姿に、声にならない悲鳴が漏れた。
祖父から見せて貰った白黒の写真に写っていた男性。写真のままの姿の曾祖父が、そこにいた。
自分と同じ夜の海の色をした目が、こちらに向けられる。

「やはり、来ていたのか」

立ち尽くす自分の元へと、曾祖父が近づいてくる。
片目を覆ったままの手を取られ、覗き込まれる。

「しっかりと徴《しるし》が現れているな。扉が開く訳だ」
「徴?何を言って……それにあなたは……?」

疑問に答える代わりに、曾祖父は微笑んだ。
潮の匂いがする。気にならなかったはずの潮騒が、やけに耳につく。
目の前の暗い青から目を逸らせない。

「――おいで」

肩を抱かれ促されれば、動かなかった体は自分の意に反して歩き出す。
微かに震える体とは裏腹に、灯台へと向かう足取りに迷いはなかった。



扉を過ぎた瞬間、冷えた空気が頬を撫でた。
潮の匂いが強くなる。潮騒が反響し、誰かの呼び声のように聞こえた。
触れた壁が冷たく濡れている。手から腕へと伝う滴が、誰かの指先のように感じられて、体が震えた。
立ち竦む背を、曾祖父の手が撫でる。それだけで体は上へと続く階段に向かい、足をかけた。

「――可哀想に」

肩を抱く曾祖父が小さく呟いた。

「どういう、意味……?」

問いかけても、やはり曾祖父は答えない。
喉がひりつく。階段を上る度に強くなっていく潮の匂いに、反響する潮騒に目眩がした。

「materが来ている。求め続けた、filiaが戻ってきたからか」

曾祖父の唇から溢れる異国の言葉に、胸がざわついた。
母。娘。知らないはずの言葉の意味を理解して、苦しくなる。
これ以上進みたくはないはずなのに、足は止まらない。階段を軋ませ、躊躇いもなく上っていく。

「可哀想に」

繰り返される言葉は潮騒を混じり合い、諦めろと告げているかのように響いた。



最後の段を踏み締め灯室に入ると、室内は一瞬で暗く沈んだ。
灯台に入る前までの明るさはどこにもなく、くすんだガラス越しに見える空には、星ひとつ見えない。
目を凝らせば、じっとりと重さを纏ったような霧が立ち込めているのが見えた。

不意に室内が明るくなる。海に差し込む一筋の強い光に、照射灯が点いたのだと気づいた。
霧を抜け海に届く光が、一瞬何かを浮かばせる。しかし、すぐに闇が光を呑み込み、それが何であるのかは分からない。
夜の闇よりも暗い何か。光を呑む、底なしの深い黒に似た青が蠢く。
ぞわり、と背筋を冷たいものが駆け上がる。

「来ているな」

背後から肩を抱く曾祖父が、無感情に呟いた。
逃げ出すことを許さない、冷たい手が体温を奪っていく。

「霧が深い故、光だけでは導けないのだろう……Voca」

曾祖父の囁きに、無言で首を振る。
唇を噛みしめ、必死で声を殺す。今声を上げてしまったのならば、それはあの何かを呼ぶ声になるのだろう。
得体の知れないモノを呼びたくなどはない。受け入れるのが怖ろしい。

「Voca,Cantare」

曾祖父の声が拒絶を許さない。
異国の言葉が、噛みしめた唇を解かせていく。

「受け入れろ。materを呼び寄せるのは、filiaの役目だ」

肩を抱く手に、僅かに力が籠もる。
涙が滲む。だがそれだけだ。
体の自由がきかず、もう首を振ることさえできない。

「Canta. Filia. Voca matrem tuam」

歌え。娘よ。母を呼べ。

唇が開き、喉が震える。
泣きながら高らかに叫んだ声は室内に響き渡り、外へと向かう。
灯台の霧笛と混じり、光の呑まれる先。母の元へと辿り着く。

母が来る。
その言葉だけが胸に残り、他のすべてが遠ざかっていく。
声は止まらない。泣き叫ぶように、歌うように、霧笛と混じり合い夜の海へと響き渡る。

光が、闇に呑まれていく。
夜の青が、瞳の奥に満ちていく。

意識が揺らぐ。深い夜の海に沈んでいく。


少女の笑う声がする。
呼び声に応えるかのように、海の底から歌声が聞こえていた。



20250822 『Midnight Blue』

8/23/2025, 9:16:14 AM

山奥の、誰も知らない屋敷。
そこが少女の世界のすべてだった。

少女の足は動かない。
何が原因となったのか、それとも始めからそうだったのか。少女はもう覚えてはいなかった。それほど永くを、このお屋敷で過ごしてきた。

「――ねぇ」
「ん?なぁに」

おずおずと声をかける妹に、少女は優しく言葉を返す。
妹、としているが、少女との間に血縁関係はない。ある日、屋敷の庭で傷だらけで蹲っていた所を、少女が屋敷の中に招き入れた。傷の手当をし、食べ物を与え、寄り添って眠った。
多くを語らない妹は、それでも少女を慕い従順であった。
少女もまた、自身を妹に語らない。語る記憶の殆どは抜け落ち、告げられるものはなかったからだ。
互いの殆どを知らない中で、それでも二人は屋敷で共に暮らしていた。
数年を過ぎれば、共に在ることが当たり前となり。
そうして二人は姉妹になった。

口籠もる妹に少女は優しく微笑みかけ、そっとその肩を抱き寄せる。そっと頭を撫でれば、妹の強張る体から次第に力が抜けていった。
目を合わせる。迷うように揺れる妹の目が少女の目を見て、僅かに歪んだ。

「私……私、ね……」

少女は何も言わない。
ただ静かに妹の決意を聞いている。

「また……踊りたい。今度はちゃんと、最後までおつとめを果たすから。だから……」

揺れる目が、まっすぐに少女に向けられた。

「だからお姉ちゃん――かみさま、帰ってきて。もう一度だけ、飛んで」

少女の目が僅かに見開かれる。
妹は強い目をして立ち上がり、何も言えないでいる少女の前で、静かに舞い出した。
神楽。神に捧げられる舞。人々の祈り、願いを形にしたもの。
妹の舞は、人々のためのものではなかった。
少女を思い、捧げられている。再び飛び立てるように、少女の傷が癒えるように。祈り、願い、舞っていた。
舞い続ける妹を見つめる少女の目から、一筋涙が溢れ落ちた。
忘れていた、忘れようとしていた記憶が思い起こされ、少女を苛む。だがその痛みも、妹の舞が優しく包み込み癒やしていく。

「――ごめんなさい」

すべて、思い出した。

かつて、少女はとある小さな村の守り神だった。
穏やかに人々を見守り、人々のために尽くしてきた。
少女は人を愛していた。愛する人に応えられることが誇りだった。
ただ一度。過ちを犯す前までは。

その年の巫女は、他とは違っていた。
雅楽の音が豊穣を祈る。健やかに、穏やかに過ごせるようにと、願いを乗せて厳かに響き渡る。
だが巫女は。神楽を舞う巫女は、神である少女を思い舞っていた。
平穏であることを、自由に空を飛べることを祈り、願っていた。
神楽を見て、祈りを聞いて、少女は巫女がほしくなった。

そして気づけば、巫女を隠していた。


思い出してしまった。
巫女を屋敷に取り込んだこと。自身が怖ろしくなり、すべてを忘れてこの屋敷に閉じこもったこと。
舞い続ける妹が、あの日の巫女に重なる。巫女によく似たその横顔に、胸が苦しくなる。
妹の傷から伝わった負の思い。巫女が消え、少女もまた隠れたことで、その後の巫女の血族は神を誘惑したとして扱われていたのだろう。
ぐらり、と妹の体が大きく傾いだ。その小さな体が倒れ込む前に、少女は翼を広げ妹の元まで飛んだ。

「ごめん。ごめんなさい」
「おねえ、ちゃん……?」

妹の体を強く抱きしめ少女は謝罪の言葉を繰り返し、泣き続けた。



「ごめんなさい」

静かな妹の言葉に、少女は驚き顔を上げた。

「私の先祖が神様を苦しめて、ごめんなさい」
「違うっ!それは違うの」

首を振って、強く否定する。
苦しんでいるのは、巫女の方だ。屋敷に取り込まれ、二度と人として生きることはできない。

「私が悪いの。私だけを思って神楽を舞う巫女が欲しくなった。衝動を抑えることができなかった。全部私のせい」

それに、と少女は妹を抱く腕に力を込める。
きっとこの手を離せない。少女だけの特別、神への供物を手放せるはずなどなかった。


「ごめんね」
「かみさま?」
「その呼び方は嫌かな。お姉ちゃんがいい」

首を傾げる妹の体を、少女の背の翼が包み込んでいく。泣きながら笑い、次第に虚ろになる妹の目を手で覆った。

「一緒に村に戻ろうか。巫女としてでなく、妹として私の側にいて、一緒に飛んで」

左の翼が妹に融けていく。
力が抜け凭れかかる妹の背に、融けた翼が現れ出す。

「――お姉ちゃん」

小さな呟きに、少女は笑う。
止められない涙を流し続けながら、妹の言葉を肯定した。
妹の目を覆う手を離す。されるがままの妹の右手に自らの左手を繋ぎ、残った右の翼を広げた。

「行こうか。一緒に飛び立つよ」

妹の翼がゆっくりと広がっていく。
少女の翼が羽ばたき、起こした風が障子戸を、窓を開け放つ。
ふわりと少女の体が浮き上がる。手を引かれ、拙い動きで妹の翼が羽ばたいた。
一際強い風が、二人を囲うように巻き起こる。
外へと駆け抜けていく風が収まった後。

遠く空の向こうで、片翼の二羽の鳥が寄り添いながら飛んでいった。





その村には、片翼を持つ姉妹神が祀られている。
祭の夜。神楽殿から見上げた空に、寄り添い飛び立つ二柱の姿が見られたのならば、願いは叶えられるのだという。
故に村人は皆、祈りを込めて神楽を舞う。
眠らぬ夜を、二柱の神は見つめる。
互いに寄り添い翼を広げ、静かに山の向こうへと飛び立っていった。



20250821 『君と飛び立つ』

8/22/2025, 9:25:03 AM

「花火を見に行こうか」

不意に現れた彼に手を引かれ、夜道を二人歩いていく。
道中、誰ともすれ違わない。虫の声もしない、しんと静まり返った周囲に首を傾げた。

「今日、花火なんてあったっけ?」
「特別な花火だからな。知ってる奴は殆どいないよ」

彼は笑う。繋がれた手は離されることなく、歩いていく。
向かう先は、二人だけの秘密の場所だろう。
小高い丘の上。花火を見る時は、いつもそこで見ていた。
アスファルトの道路を外れ、小道に入る。木々の合間を抜けて、やがて目的の丘の上に着いた。

空が鮮やかに彩られ、どぉんと低い音が響く。
光と音がほぼ同時だったことに驚き、目を瞬いた。

「どこで花火を打ち上げているの?」

普段花火を打ち上げる河原からこの丘までは距離がある。
だからいつも花火が見え、一呼吸してから音がしていたはずだ。

「今日は特別なんだよ」

彼は笑うだけで、詳しくは語ろうとしない。
手を引き、いつもの場所に腰を下ろした。
手は繋いだまま。肩を寄せ合い、打ち上がる花火を見上げた。

夜空に大輪の花が咲く。
咲く音が鼓膜だけでなく、全身を震わせる。

「――どんなに喧嘩をしても、花火の時はこうして必ず二人で見ていたよな」

ぽつりと呟く彼に、花火を見たまま小さく頷いた。

「だって、花火は二人で見るって約束したから」
「そういえば、そうだったな。初めてここに連れてきた時にお前は泣くほど感激して、約束したんだっけか」

くすくすと、隣から笑い声が聞こえる。
花火の音にも消されなかったそれに、思わず眉が寄る。けれど初めて出会った時の彼の強引さを思い出し、笑みが溢れ落ちる。
母の後ろに隠れていた自分の手を引いて、無理矢理に連れ出した。怖くて泣く自分を宥めようと必死になりながら、それでも手は離さず戻りもしなかった。
結局丘まで連れられて、そのまま二人で花火を見た。あの時も、最後まで手は繋いだままだった。

「懐かしいな……実はさ、一目惚れだったんだ。俺を見てほしい。笑ってほしいって、必死だった」
「知ってる。顔真っ赤だったし、手も汗まみれだし……第一印象は、怖い人で最悪だった」
「だよなぁ。初対面でいきなり攫っちまったもんなぁ。こうして今も隣にいてくれることが、本当に奇跡だよ」
「私もそう思う。でも花火があったから、怖い人でなくて、いい人にはなったし。それからずっと優しかったからね」

昔話に花が咲く。
初対面こそ最低ではあったが、その後の彼はいつでも優しかった。
困っている時に必ず現れる、まるでヒーローのような人。
彼の差し出す手を取るのは、当然だった。

花火が打ち上がる。
夜空に鮮やかな花が咲き乱れる。
いつまで経っても終わる気配を見せない花火に、そっと横目で彼を見た。

「どうした?」

視線に気づき、彼がこちらを見る。
穏やかな微笑み。優しい眼差し。
いつもと変わらない彼が、隣にいる。

「花火、いつまで続くの?」
「いつまでも」

手は繋いだまま。

「特別だから、終わりなんてないよ」

手を引かれ、彼の胸に倒れ込む。
抱きしめられて、小さく体が震えた。

「ごめんな。置いていって」

静かな声が降る。
聞きたくないと思っても、片手は繋がれ、自由な手も彼の服を握り締め動かない。

「帰って来れなくて、本当にごめん」

繋ぐ手に力が籠もる。
冷たい手だ。抱きしめる腕も冷たく、彼の胸からは何の音もしない。
聞こえるのは、花火の音。どぉんと打ち上がり、ぱらぱらと散っていく。その音だけ。

「どうする?」

問いかけられ、意味が分からず困惑する。
強く抱きしめられて、息が詰まる。けれど彼は気にすることなく、耳元に唇を寄せ囁いた。

「このままずっと、手を繋いで。終わらない花火を見ていようか」

穏やかに、残酷に。
彼は誘う。何より求めていた言葉を告げ、答えを委ねている。
なんて酷い選択をさせるのだろう。いつものように手を引いて、奪っていってくれればいいのに。
そう思いながら、小さく息を吐く。
ゆっくりと顔を上げて、彼の目を見た。

「手を離すわ。先に進むって、そう決めたから」

例え一人きりでも。立ち止まらないと、あの日の彼の前で決めたのだから。
その選択に、彼は目を細めて頷いた。

「それでいい」

笑顔でありながら、その目は涙で濡れている。抱きしめる腕の力はさらに強くなり、繋ぐ手は離れないようにと指を絡められた。
矛盾する彼の行動が可笑しくて、笑みが溢れる。彼のように泣きながら、それでも服を掴む手をそっと離した。

「今日をきっと忘れない。前に進むけどあなたを忘れられないから、私はこの先誰とも恋はしないわ」
「俺が最初で最後の恋ってわけか。じゃあ、愛は?」

顔を近づけ、彼は囁く。
強い眼差しに、呆れながら告げた。

「愛は、まだよく分からない……分からないから、奪ってしまえば?」

そっと目を閉じる。
唇に熱を感じて、体はこんなにも冷たいのに可笑しなものだと笑いそうになる。
花火の音が激しくなる。終わらぬはずの花火が、終わりを告げるように盛大に打ち上がる。
手は離れない。抱きしめる腕の力も緩むことはない。

「側にいる。ずっとお前だけの側に」

囁かれた言葉に耐えきれず、声を上げて笑った。
最後の花火が打ち上がる音が、一際大きく鳴り響く。
夏の終わりを惜しむように、いつまでも聞こえていた。





アラームの音で目が覚めた。
腕を伸ばし、アラームを止める。そのまま起き上がり、大きく伸びをした。
夢を見ていた気がする。
星のように静かに煌めく、小さくて温かな夢だった。
思い出せないことを、少しだけ惜しむ。
苦笑して、気分を切り替えようとベッドから抜け出し、カーテンを開けた。
快晴。目を細めて澄み切った青空を見上げた。
そっと窓を開けてみる。途端に吹き込む風が髪を揺すり、服の裾を捲る。手首に巻かれた包帯を撫でて、部屋の中へと入り込んだ。

「あぁ、うん。大丈夫……もう大丈夫だよ。立ち止まったりなんてしない」

部屋の小物を揺らす風に向けて、するりと言葉が出た。
思わず苦笑する。忘れないと言いながら、すぐに忘れてしまうとは。
一時でも忘れたことを謝るように、手を伸ばした。

「思い出した。ちゃんと思い出せたから、心配しないで。もう忘れたりしないから」

優しく裾を揺らす風が、外へ出る様子はない。
心配性だなと思い、だがすぐにそうさせているのは自分なのだと申し訳なくなる。

「大丈夫だって。側にいてくれるんでしょう?なら、もう二度と立ち止まったりしない……前を向いて歩けるから」

あの花火の夜の記憶があれば、前を向ける。
自分は一人ではないのだと、信じられるから。

約束、と差し出した小指に絡みつく風に、ありがとうと囁いた。



20250820 『きっと忘れない』

8/21/2025, 9:23:54 AM

なぜ泣くの?
それは当然、悲しいからですよ。
裏切られ、傷つけられて、悲しくて堪らないから泣くのです。
嬉しいから泣く?
ごく一部の、恵まれた方の特権でしょうね。
少なくとも、私は悲しみ以外で泣いたことはありません。
あぁ、たまに苦痛に泣くこともありますが。
それ以外の感情で、泣くはずなどないのです。



そこで声は途切れ、停止ボタンを押した。
いつの間にか鞄の中に紛れていた、古いカセットテープ。
おそらくは、実家に帰省した時に紛れてしまったのだろう。
ラベルには何も書かれていない。何が吹き込まれているのか分からないことが、好奇心を掻き立てた。
ひとつ息を吐く。
わざわざデッキを手に入れたというのに、肝心の中身は知らない女性の一人語り。期待が大きかったこともあり、その分落胆も大きかった。
カセットテープを、デッキごと押し入れに仕舞い込む。
気分を切り替えるため、鞄を手に出かけることにした。



数日後。部屋の片付けをしていると、押し入れの中からカセットデッキが転がり出てきた。
デッキを手に取り、中のカセットテープを見て思い出す。
何の面白みもなかったカセットテープ。淡々とした女性の声が脳裏を過り、眉が寄る。
処分してしまおうか。
売りに出すという選択肢もあるが、これ以上テープのために時間を浪費したくない。
そう思い、デッキを手に立ち上がった時だった。

「――私は、裏切られたのです」

デッキから、あの女性の声が聞こえた。
偶然、再生ボタンを押してしまったらしい。
泣く理由を聞かれ答えていたはずの声は、裏切られたことに対する恨み言へと変わっていた。
抑揚の薄い、淡々とした口調が怖ろしい。
怖くなり、急いでデッキの停止ボタンを押した。

「私は、あなたを許さない」

ボタンを押す直前、聞こえた声に肩が揺れる。
今まで聞こえていた、ノイズ混じりの不明瞭な声ではなかった。
すぐ側で直接告げられたかのような、そんな明瞭な声だった。
不意に背筋が寒くなる。
後ろに誰かがいる。そんな気配がして、体が硬直する。
勇気を振り絞り振り向いても、誰もいない。当たり前のことに安堵して、同時に酷く怖ろしかった。
手の中のデッキに視線を落とす。
捨てるのすら、怖ろしい。元は実家にあったのだから、戻すべきだ。次の休みに戻しに行こう。
そう判断して手近にあった紙袋を掴み、中にデッキを入れる。机の脇に押しやり、出来る限り視界に入れないようにしながら、片付けに専念した。



その夜。
ふと目が覚めた。
辺りはしんと静まりかえっている。いつもなら聞こえる時計の音も、外を走る車の音も聞こえない。
体を起こそうとして、しかし指先ひとつ動かせないことに気づいた。
金縛り。途端に何かの気配がして、心臓が大きく跳ねた。
誰かがいる。すぐ側で、寝ている自分の顔を覗き込んでいる。
そんな気がして、閉じた瞼に力が籠もる。目を開けたくない。見てしまうのが怖ろしい。
だが意識とは裏腹に閉じた瞼から力が抜け、ゆっくりと開いていく。目の前の誰かを確認しようと、視線が上を向く。

「――っ」

暗がりの中、誰かがこちらを見ていた。
長い髪が、顔にかかる。逆さまの顔が、静かに近づいてくる。
じじ、とカセットテープのノイズが聞こえた。女性の声が聞こえ始める。

「悲しいから泣くのです」

テープの音声に合わせて、誰かの唇が動く。暗闇に慣れてきた目が、誰かの姿を認識する。

「悲しい。苦しい。それ以外の感情で、泣くはずなど……」

息を呑み、目を見開いた。
覗き込むその目から、視線を逸らせない。

「あなたを、許さない」

表情の抜け落ちた、能面のようなその顔は。

自分の顔だった。



朝が来て、我慢できずに会社に連絡し、休む旨を伝えた。
次の休みなど待っていられない。すぐにでもカセットテープを手放したかった。

車に乗り込み、実家へと向かう。
助手席に置いた紙袋から、また音が聞こえるのではないか。そんな恐怖に耐えながら、震える手でハンドルを握り締めた。



連絡もせずに訪れたため、実家には姪しかいなかった。

「どうしたの?忘れ物?」

首を傾げる姪に、笑って誤魔化しながら家へと入る。
カセットテープは、両親の部屋にでも置いておけばいい。
早く解放されたい。その思いで部屋へ向かおうとした自分を、姪の無邪気な声が呼び止めた。

「ねぇ……なぜ、泣いているの?」

思わず立ち止まる。
振り向けば、視界の先の姪の姿がやけに滲んでいた。
ゆっくりと目元を拭う。濡れた感覚と僅かに明瞭になった視界に、自分が泣いていたことに気づいた。

「なぜ泣いているの?」

再度姪に問われ、答えに戸惑う。
なぜ泣いているかなど、自分でも分からない。

――私は、悲しみ以外で泣いたことなど……

頭の中で、女性の声が繰り返している。淡々とした、けれども悲しい声が離れない。

「――悲しいから」

泣きながら、それだけを答えた。

「そっか。悲しいの」

小さく呟いて、姪はそっと手を握る。
そのままリビングに連れられて、椅子に座らされた。
紙袋を取られ、中からカセットデッキを取り出される。呆然とする自分の前で、姪はデッキからテープを取り出すと、くるりと裏返し、デッキに入れた。

「――いやだ……まって……」

止める間もなく、再生ボタンが押される。
ノイズと、続いて声が聞こえてきた。

「――なぜ泣くのって?」

だがそれは、あの女性の声ではなかった。

「あの子が笑わないから」

柔らかな声が語る。
約束を破ってしまった。一緒に卒業する、側にいるという約束を守れなかった。
あの子の側にいても、気づいてもらえない。慰めることができず、一人泣くあの子を見ていることしかできないのが悲しい。

「あの子が悲しいと、私も悲しい。あの子が泣くから、私も泣くの」

そこで、声は途切れた。

「なぜ泣くの?」

姪が尋ねる。
流れる涙を拭い、答えた。

「寂しいから」

姪は――彼女は、その答えに悲しく笑った。

「ごめんね。約束したのに」

首を振る。
彼女は何も悪くない。悪いのは、弱かった自分なのだから。

「ごめんなさい……気づけなくて……自分勝手に恨んでしまって。本当にごめんなさい」

彼女に手を伸ばす。
拒絶されてもおかしくはない。けれども彼女はその手を取って、ごめんねと囁いた。

「次こそ、一緒にいようね」

その言葉に強く頷いた。
霞んでいく彼女が差し出す小指に、自分の小指を絡めて約束する。

「必ず……約束」

微笑む彼女が残した小指の熱が、いつまでも引かなかった。



20250819 『なぜ泣くの?と聞かれたから』

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