sairo

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8/1/2025, 6:29:37 AM

暗闇の中、太鼓の音が鳴り響いていた。
その音に導かれるようにして、少年はそっと目を開く。
いくつも連なる提灯の灯り。夜道を淡く照らし、奥へと誘う。
夜祭りだろうか。左右に並ぶ屋台からは、香ばしい匂いが漂っていたが、不思議なことに、どの屋台にも人影はない。
祭を楽しむ気配すら感じられなかった。

ふと、太鼓に混じり、甲高い笛の音が聞こえた。
どこか不安を誘う、その旋律。鼓動のように一定の間隔で響く太鼓の音と混じり合う。
その音の方へ、少年はじっと視線を向ける。
その目は恐怖を色濃く浮かべながらも、強い意志を湛え。
やがて少年は目を閉じ、深く呼吸をする。心の中でゆっくり十数えて、再び目を開けた。
静かに歩き出す。
まだ幼いはずの少年にしては、不釣り合いなほどしっかりとした足取りだった。



太鼓と笛の音に誘われ辿り着いたのは、大きな神楽殿のある開けた場所だった。
大勢の顔の見えない観客が、舞台を取り囲む。面を被った奏者たちが、途切れることなく音を奏でている。
その中心で、男が一人舞っていた。
だが、その動きは酷く鈍い。呼吸は荒く、今にも倒れてしまいそうなほどだ。
男が動く度に、汗が舞台に滴り落ちる。あるいはそれは、男の涙だったのだろうか。
笛が一際高く、鋭い旋律を奏でる。
太鼓が力強く打ち鳴らされるが、男の体はもう持たない。
膝をつき、地面に手をついた。
太鼓の音が止まる。
笛が、悲鳴のような高音を一つだけ響かせ、沈黙する。
聞こえるのは、男の荒い呼吸のみ。
それすらも、次第に浅くか細くなっていく。

不意に、舞台の暗がりが蠢いた。
ぞわり、と黒い影が男の足に絡みつき、沈めていく。

「あ……あぁ、まだ……いやだっ……!」

男は怯えた様子で、這いずりながら舞台から逃げようと踠く。
だが沈む足は止まらず、男の体はゆっくりと舞台に呑まれていく。

「助けて……助けてくれ……まだ、終わりたくない……誰か……」

男の悲痛な叫びを、誰一人聞こうとしない。
必死に伸ばされた手を取るモノはない。
走者も観客も、微動だにせず。
ただ、男の終焉を静かに見つめていた。

「どうして……こんな……」

小さな嘆き。
掻き消すように一度だけ、太鼓の音が響く。
それを最後に、男は舞台に呑まれて消えた。



「次は坊主の番だな。舞台に上がってくれ」

不意にかけられた声に、少年の肩が小さく震えた。
ゆっくりと視線を巡らせる。
舞台の上の奏者が、観客が、少年が舞台に上がるのを待っていた。
震える足に力を入れて、少年は舞台に歩み寄る。
階段に足をかければ、太鼓の枹を手にした男が目の前に立った。

「坊主はまだ七つになってないのか。なら、舞台に上がらなくてもいいぞ」

そう言われて、逡巡する。だが静かに首を振り、少年は足を進めた。

「そうか。なら励むことだ……よく聞け。オレの打ち鳴らす音は、坊主の鼓動だ。途中で止まれば、オレも手を止める。そうすれば終わり。一回きりだ……もし、苦しくて諦めそうになるなら、笛の音を聞け。あの音は、坊主が聞いている音だからな」

ちらりと枹を持つ男が、笛を持つ男に視線を向ける。
笛の男はひとつ頷いて、旋律を奏で始めた。
柔らかな音色。しかしもの悲しい旋律に、少年はそっと胸に手を当て目を閉じる。
聞こえる音は次第に少年の中で形を変え、声になった。
ぼんやりとして、言葉として聞き取れない。それでも悲しみ祈る声が、少年の鼓動に熱を持たせた。
笛の音が止まり、少年は目を開ける。
階段を上がり、舞台に立つ。
枹を持つ男もまた、太鼓の前に立ち。
枹を構えながら、不意に少年へと視線を向けて、言葉をかけた。

「坊主。約束はあるか。何でもいい。未来の約束だ」

問われて、少年は首を傾げる。
ややあって、はっきりと頷いた。

「じゃあ、問題ない。坊主は戻れるだろうよ――さぁ、始めるぞ」

力強く、太鼓の音が打ち鳴らされ。
少年は静かに舞い始めた。



太鼓と笛の音に合わせ、少年の手足が動く。
正しい舞い方などはない。心の赴くまま、鼓動の示すままに、只管舞い続ける。
息が上がる。体が重くなり、足が縺れそうになる。
それでも止まらない。少年の目は光を失わず、強く足を踏み鳴らした。

――元気になったら、海を見に行こうか。

両親の言葉を思い出す。
海を見たことのない少年のための約束。
元気になると答えた、あの日の鼓動の高鳴りは、今も忘れたことがなかった。

笛が高らかに旋律を奏でる。
息苦しさに視界が滲む。動きが次第に鈍くなる。
歯を食いしばり、重だるい腕を上げて、くるりと回った。

――誕生日プレゼント。楽しみにしてろよ。

兄の笑顔がよぎる。
明日に控えた誕生日を、兄は祝ってくれると約束した。
ケーキとお菓子と、そしてプレゼント。聞いても教えてくれなかった中身が、楽しみだった。
その時に感じた温かな熱が、じわりと胸に広がる。

一層力強く、太鼓が打ち鳴らされる。
少年の動きはもはや舞うというよりも、辛うじて動いているといった方が正しい。
震える足が何度も止まりそうになり、眩む視界は何も映さない。
胸が痛む。呼吸ができない。
それでも――。
浅い呼吸を繰り返し、限界を訴える体を動かして、少年は必死で踠き続けた。

――また、明日ね。

少年よりも幼い少女との約束が思い浮かぶ。
たくさんの管に繋がれ、それでも笑みを絶やさない少女。一日の終わりに必ず交わす指切りが、痛みとは違う鼓動となって少年を奮い立たせた。
些細な約束。けれどそれは、互いにとって決して破ってはいけない、生きるための楔だった。

いくつもの未来の約束が、少年の中で熱を持つ。それは体中に広がり、熱い鼓動となって少年に力を与えた。
笛の音が響く。太鼓が打ち鳴らされる。少年が力強く舞う。
舞台に光が差し込んだ。提灯の淡い灯りとは異なる、鋭い光。その暖かさに、少年は最後の力を振り絞り手を伸ばす。
見えない誰かが少年の手を掴み、引いた。光はさらに強くなり、その眩しさに耐えきれず少年は目を閉じた。
強く、激しく。太鼓が打ち鳴らされる。
抗うこともできず、そのまま意識は深く沈んでいった。





目が覚めると、少年は病室のベッドでたくさんの管に繋がれていた。
涙で赤くなった目をして、兄が笑う。その後ろでは、静かに泣く母の肩を抱いて、父が目元を潤ませながら微笑んでいた。

「おかえり。頑張ったな」

兄に頭を撫でられて、少年は目を細めた。
とくとくと、自身の鼓動が強く感じられる。それは太鼓の音のように聞こえて、少年は目を瞬いた。
長い夢を見ていた気がする。しかし夢から覚めてしまった今はもう、何も思い出せない。

「七歳の誕生日、おめでとう。プレゼント、楽しみにしてろよ」

兄の言葉に、あ、と小さく声を上げる。
誕生日。今日で七つになったのだ。
とくん、と鼓動が跳ねる。遠くで、力強く太鼓が打ち鳴らされた気がした。
胸に手を当てる。ふわりと微笑んで、少年は家族を見つめ。

「――ただいま」

神の手を離れ、現世に戻ってきたのだと、誇らしい気持ちで帰還の言葉を告げた。



202507230 『熱い鼓動』

7/31/2025, 6:53:24 AM

楽しげな笑い声が聞こえた。
それが友人の声だと気づいて、その声の方へと歩み寄る。
何か楽しいことがあるのだろうか。近づいて、でも誰かと一緒にいることに気づいた。

「――でね。これは秘密なんだけど」

友人の囁く声に、時折誰かの相づちが混ざる。鈴を転がしたような、水が流れていくような、そんな綺麗な声。
無意識に音を立てないようにしながら、ゆっくりと近づいた。

「凄いでしょ。優しいし、真面目だし……」

くすくすと笑う声。木の後ろに隠れながらそっと覗き込む。
綺麗な水辺で、友人が誰かと話していた。けれど友人の視線の先には誰もいない。
誰と話しているのだろうか。じっと目を凝らしていると、不意に、差し込む光が何かを反射した。
透明な、人の姿。綺麗な長い髪の女の人が、友人の話に相づちを打っていた。
その姿に見覚えがあった。それが誰か記憶を辿っていれば、見えない女の人と目が合った。

「――ぁ」

思わず小さく声を上げた。
その声と女の人の様子から、友人が弾かれたように振り返る。友人の驚き見開かれた目が私を認めて、くしゃりと泣きそうに歪んだ。

「な、んで……」

呆然と呟く声に、何か言わなければと口を開く。
けれども何かを言う前に、友人はこちらに背を向けて走り去ってしまった。

「待って……!」

追いかけようとしても、足の速い友人には追いつけない。
気づけば女の人もいなくなってしまったようだ。
一人きり、水辺に座って揺れる水面を見つめ溜息を吐いた。

「どうしよう」

意味もなく不安になる。このまま友人と離れてしまうのではないかと苦しくなって、じわりと涙が滲んだ。
今度こそ、会えなくなってしまったら。
ふとそんな思いが込み上げ、同時に疑問が浮かぶ。
前にも、こうして会えなくなる不安になることがあった。
記憶を辿り、揺れる水面を見つめて思い出す。

「あの時……川遊びの……」

すべてを思い出して、水辺をぐるりと見渡した。

数年前のことだ。
川遊びをしていた友人が、流されてしまったことがあった。
止める私を気にせず川の中に入り、笑いながら手を差し出す。怒られるよとしか言えない私の腕を取ろうとした友人の体がぐらつき、そのまま流れてしまう。
一瞬でいなくなった友人を追いかけることもできず、ただ泣きじゃくっていた。その声に気づいた大人たちが、何人も集まって探したけれど、友人はすぐには見つからなかった。
見つかったのは、翌日だ。
流されたのとまったく同じ場所で、友人は倒れていた。

「女の人……あの時、一緒にいた……助けてくれた」

思い出す。その時の光景を。
川辺で倒れていた友人。急いで駆け寄れば、朝の光が煌めいて、友人の側にいる見えない誰かの姿を浮かばせた。
長い髪の、綺麗な女の人。優しく、けれどどこか悲しく微笑んで朝霧と共に消えていった誰か。
あれからずっと、女の人は友人の側にいたのだろう。そしてそれは、他の誰かに知られてはいけない秘密だったのかもしれない。
もしも、もっと早く、あるいは遅くに来たのなら。そもそも近づこうとしなければ、このまま何も気づかないで友達でいられたのだろうか。今更な後悔に、唇を噛みしめ俯いた。

「あなたは、いつもタイミングが良い時に現れてくれる」

不意に声がした。顔を上げると、陽の光を反射して浮かぶ、女の人の姿が見えた。

「大丈夫。あの子、知られることを怖がっていただけなの。本当は知ってほしかったのに、それを言えなかった。だからあなたが来てくれて、知ってくれて嬉しい」
「――本当に?」
「えぇ。あの子、いつもあなたの話をしてくれるのよ。自慢の友達ですって。優しくて、真面目で、可愛くて……悪いことをしても、いつも側にいてくれる。怖い時、寂しい時、悲しい時……一人でいたくないと思った時に、必ず来てくれる」

くすくすと、綺麗な声で女の人が笑う。

「あの日から、周りは皆気味悪がって離れたのに、あなただけは変わらず側にいる。助かった命を喜ばれないなんて、とても悲しいから。変わらないあなたがいてくれるだけですくわれる」

笑いながら、あの川辺で見た時と同じ目をする。
優しいのに、どこか悲しげな目。寂しそうな微笑みに、気づけば手を伸ばしていた。

「悲しいの?寂しいの?」

息を呑む音がした。すり抜ける手を掴んで、女の人の姿がはっきりとし出す。

「少しだけね。でも大丈夫」

手を引かれて、抱きしめられた。頭を撫でられて、いい子と囁かれる。

「優しくて、可愛い子……もしもあの子が戻らないなら、このまま連れていってしまおうか」
「なに?」
「水に引かれた子は、戻らないのが普通だもの。だから――」

女の人の話を最後まで聞く前に、強く後ろに体を引かれた。
目を瞬いて後ろを見る。険しい表情をした友人が女の人を睨み付け、次いで私を見て強く抱きしめられる。

「駄目。私の友達は渡さない」
「いいタイミング。でも少し力を緩めないと、苦しそうよ」

そう言われても、友人の腕の力は緩まない。眉を寄せて、はっきりと首を振った。

「どこまで話したの?」
「そうね。自慢の友達だって、いつも話していることくらい。大切で、大好きな――」
「それ以上言わないで!怒るよ」

もう怒ってる。
現実逃避気味に口には出せないことを思いながら、友人から目を逸らす。けれどそれに気を悪くしたのか、抱きしめる腕の力がさらに強くなった。
ひゅっと息を呑む。痛みすら感じる強さに僅かに顔を顰めれば、それに気づいた友人に慌てて解放された。

「ご、ごめんね。苦しかったよね」
「ん、大丈夫。平気」

笑ってみせれば、友人は泣きそうな顔をする。宥めるために背を撫でて、大丈夫だと繰り返した。

「ごめん……逃げたのも、秘密にしてたのも。いろんなことに無理矢理巻き込んできたことも、全部。本当にごめん」
「気にしてない。友達だから……秘密は少し寂しいけど、仕方ないこともあるし」
「――っ、大好き!」

泣きながら抱きしめられる。痛さや苦しさのない程度の力加減。それでも離れない強さに、苦笑しながら、同じようにそっと抱きしめる。
不意に、風が吹き抜けた。見えなくなった女の人の声を残して遠くへと去って行く。

「またね。今度は三人で」

再会の約束に、穏やかな気持ちで笑う。またねと呟いて、友人の背を軽く叩く。
ゆっくりと離れていく友人に、手を差し出す。

「そろそろ帰ろ?今日も泊まりにおいでよ。お母さんが夕飯作って待ってるから」
「――うん!」

友人の目から涙が零れ落ちるのを見ない振りして、手を繋ぐ。

「いっつも、側にいてほしい時に来て、欲しい言葉をくれるよね。タイミングが良すぎる」
「友達だからね」

小さな呟きに、笑って返す。
友達なのだから、変化に気づくのは当然だ。気にかけていれば、すぐに分かる。
それに、きっとそれはお互い様だ。怖がりで、一歩を踏み出せない私の手をいつも引いてくれるのは友人なのだから。

「早く帰らないと。ご飯が待ってる」
「そうだね。お腹すいちゃった」

笑いながら、手を繋いで一緒に帰る。
タイミング良くお腹が鳴った。顔を見合わせ、くすくす笑う。
帰ったら話してくれるだろうか。タイミングを見て、聞いてみるのもいいかもしれない。
あの女の人のこと。話していた内容のこと。

「今日もたくさんおしゃべりしよっか」

期待を込めて、繋いだ手を軽く振った。



20250729 『タイミング』

7/30/2025, 4:59:52 AM

雨上がりの午後。空に虹が架かったのを認めて、学校の裏山へと駆け出した。
虹のはじまりを探す遊び。
誰が言い始めたのか。いつからか流行っていた遊び。数年前のあの日も、友人たちは虹のはじまりを探して裏山へ遊びに行ったのだという。そしてそのまま、誰一人帰っては来なかった。
その日は、熱を出してしまい遊びに行けなかった。数日後、熱が下がり学校に行った時に話を聞いた。
今も帰らない友人たち。誰もが皆の存在を忘れていく中で、自分だけは忘れず覚えている。

――虹のはじまりには宝がある。見つけてもらうのを待ってるんだ。

誰かが言った言葉。宝を求めて、虹の始まりを探しに行った友人たち。
今も、見つけてもらうのを待っているのかもしれない。
そう思うと、心が騒めき落ち着かない。見つけなければという焦燥感に胸が苦しくなる。
だから虹が出る度、友人たちを探して裏山へ向かう。

あれからずっと、虹のはじまりを探している。



何度も足を運んだ裏山は、今日は何故だかひっそりと静まりかえっていた。
虹を一瞥し、辺りを見渡しながら進んでいく。
秘密基地を作った広場を抜け、奥へと向かう。木登りを競い、木の実を探して探索をした裏山で、知らない場所などはない。
木々の合間を抜け、ただ虹を目指す。思い起こされる過去の楽しかった日々に、唇を噛みしめた。
早く行かなければ。今度こそ見つけなければ。
見上げる虹は、まだ鮮明な輪郭を保ったままだ。
今日は何かが違う。
静けさ。澄んだ空気。光の加減。
木々の合間から、七色に煌めく光が差し込んでいた。

――虹の始まりで、待っている。

鼓動が跳ねる。ようやく会える期待に、知らず駆け出していた。
光を追って向かう木々の向こう。

山道の先に、見覚えのない鳥居が立っていた。



鳥居を潜ると、空気が変わった。
微かに水音がする。木漏れ日のように降り注ぐ七色の光が、誘うように煌めいた。
水音に向かい進んだ一番奥に、小さな淵があった。
その前に、誰かが静かに立っている。白い着物を着た少年。まるで死に装束のようなその姿に、思わず足を止めた。

「やっと、来てくれた」

振り返る少年に、見覚えはない。けれども何故か懐かしさを覚え、胸が苦しくなる。

「虹の……はじまり?」
「そう。でもまだ不完全」

柔らかく微笑んで、少年は手を差し伸べた。
白く、細い腕。光を反射して鱗が浮かび、息を呑んだ。

「おいで。君は僕の霓《げい》だ。君がいなければ虹にはなれない」

穏やかでありながら、有無を言わせぬその響き。
行かなければという衝動と、行ってしまえばもう戻れない恐怖に、立ち尽くすことしかできない。

「私……私、友達を探して……だから……」
「その友達とは誰のこと?」

問われて、愕然とした。

「どんな容姿をしているの?名前は?」

口を閉ざし、首を振る。
誰一人、思い出せなかった。顔も、声も、名前すらも何もかも。
じわりと涙が浮かぶ。何かひとつでもと思い出そうとすればするほど、何も思い出せなくなっていくのが怖ろしい。
友人のことだけではない。住んでいた場所のこと。家族のこと。自分のことも思い出せない。
あるのはただ、目の前の少年に対する懐かしさと、満たされない欠落だけ。

「ちゃんと全部消化したみたいだね……これで準備は整った」

動けない自分の側に少年は歩み寄り、手を取った。涙を拭われ、目を合わせられる。
蛇のような細い瞳孔が、慈しむように歪んだ。

「さあ、食後の微睡みから、そろそろ目覚めておいで?」

歌うような囁きに、ゆっくりと瞼が閉じていく。力が抜けて、少年に凭れながら意識が落ちていく。

「まったく。一人で捧げられた時にはどうしようかと思ったけど、君が迷い込んできてくれてよかった……これでようやく虹に成れる」

長かった、と喜びを露わにする少年の声が聞こえた。
その声に重なるようにして、朧気に人影が浮かぶ。
こちらに手を伸ばす誰か。逃げてという声はもう届かない。
意識が落ちる。人影が消えていく。
そうして何もかもが暗闇に消えて、自分すらもなくして冷たい腕の中へ身を委ねた。



小さく気泡が上がる。
虚ろに漂いながら気泡を見上げていれば、背後から伸びた腕に引き寄せられる。
虹色に煌めく鱗に覆われた腕。着物の白もまた七色に揺らいでいる。

「おはよう。しっかりと馴染んだようだね」

直接鼓膜を震わせる、穏やかな声音。
彼の指先が腕を伝って手を取った。彼と同じように浮かぶ虹色の鱗をなぞっていく。
周囲で煌めく七色の光が、囲うように集まってくる。揺らぐふたつの影をひとつに溶かし、それは大きな龍の姿へと形を変える。

「行こうか。恵みの雨を降らし、約束の虹を架けに」

その言葉に振り返る。彼を見上げて小さく頷いた。
こぽりと気泡が上がる。言葉はすべて気泡に変わり、大地を求めて水面へ上がっていく。
水面から光が差し込んだ。七色に煌めく光は階《きざはし》となって、向かうべき道を指し示す。
ざわり、と体中の鱗が揺れる。彼に寄り添い、階を辿って。
彼と二人。天へと舞い上がる。
柔らかな雨を呼び。過ぎる後には、虹霓を残して。

どこまでも高く、昇っていく。



20250728 『虹のはじまりを探して』

7/29/2025, 9:45:07 AM

荒れた獣道を掻き分けて進む。
長時間歩き続けたため、喉が渇く。暑さに喘ぎ、疲労に体が悲鳴を上げるが、それでも足は止まらない。
幼い頃に一度だけ迷い込んだ水辺。ただそれだけを求めていた。
過ぎ去っていく周りに、耐えきれなかった。原因不明の病で声を失って、自分の世界は一変した。
心配する周囲。誰もが自分を気にかけて、腫れ物のような扱いをされた。
けれど次第に、それもなくなり。時折自分がいないように扱われている気がして、苦しかった。
だから逃げ出すように、記憶の中の水辺を探し求め始めた。
優しい微笑みと声。口にした水は甘く、不安も悲しさも溶けてなくなった。
美しく、澄んだ水の匂いのするオアシス。疲れた体も心も癒やす憩いの場。
その一度きりを最後に、水辺に辿り着くことはなかった。
都合の良い、ただの夢だったのかもしれない。それでも、それ以外に今は縋るものがなかった。


朧気な記憶を辿り、足を進める。いっそ途中で倒れ、そのまま終わってしまっても構わないなと、自虐的なことすら考える。
声を失った自分は、いてもいなくても変わらない存在。声がなければ、意味がないのだから。


喉が渇く。
疲れで覚束ない意識の中、ただ前へと進む。
歪み出す世界。気づけば周囲から音が消えていた。
息苦しさは感じない。暑さもなく、逆に冷えた空気が火照った体を覚ましていくようだ。
どこからか、水音が聞こえた気がした。本物か幻聴か判断ができぬまま、音を目指して進み続けた。

そして薄暗い木々の中を抜け、開けた場所に出た。
水音がする。眩む視界で水音を辿れば、小さな滝が見えた。
澄んだ空気。記憶の中の光景と変わらないその水辺。
疲れた体を引き摺って、ゆっくりと歩き出す。
静かな水面に映る自分の姿に、崩れるように膝をつく。恐る恐る手を差し入れれば、疲れを癒やすような冷たさを感じて小さく息を吐いた。

「――どうしたの?」

不意に背後から声が聞こえて、ぎくりと身を強張らせた。
近づく足音。隣で屈む誰かの白の着物の端を見て、咄嗟に目を閉じた。
何故か、否定されることが怖かった。声が出ないことを詰られるかもしれないと思うと、体が震える。
あれだけ求めていた場所だというのに、今はただこの場から逃げ出したくて堪らなかった。

「大丈夫。ほら」

想像とは異なる、柔らかな声音。
手を取られ何かを持たせられた感覚に、そっと目を開けた。
小さな木の器。それを満たす水が、陽の光を反射してきらりと煌めいた。
喉が鳴る。器に口をつけて、一口水を飲み込んだ。
冷たく、どこか甘い味。体の中に広がって、不安や悲しみ、寂しさもすべて溶かしていく。
気づけば無心で水を飲み干していた。あれだけ乾いていた喉は潤い、夢見心地で隣に座る誰かへと視線を向けた。
自分よりもいくつか年上らしき少女。白い着物。長い黒髪。浮かべる微笑みも、どこか懐かしい。

「また、歌って」

促されて、喉が震えた。
声は出ない。そう思うけれど、求めるように口を開いた。
紡がれるのは、なくしたはずの旋律。驚き目を見張りながらも止まらない。
ざわりと空気が揺らめいた。複数の人の気配に応えるように、高らかに歌い上げる。
視界が滲む。溢れ出す涙を止めることも、歌を止めることもできず、泣きながら歌う。声が震える。もはや歌なのか泣き声なのかも分からないまま、ただ歌い上げた。


「上手。いい子」

歌い終えて、嗚咽を漏らす自分の頭を優しく撫でながら、少女は微笑む。そっと抱きしめられて、静かに目を閉じた。
また歌えた。嬉しくて、幸せで笑みが浮かぶ。

「ありがとうございます」

体を離し、少女に礼を言う。ゆっくりと立ち上がり、改めて深く頭を下げた。

「癒やしが欲しくなったら、またおいで」

少女に見送られながら、来た道を戻る。
軽い足取りで、跳ねるように家路に就いた。





しかし奇跡は長く続かなかった。
十日経ち、声が掠れた。二十日経ち、途切れた音しかでなくなり。
そして一月経って、また声は失われた。

記憶を辿り、獣道を掻き分け進む。
またあの水辺に行くために。癒やしを得て、声を戻すためにと、気が逸る。
早く行かなければ。早く声を取り戻さなければ、また誰もが自分を見なくなる。そんな脅迫めいた感情に突き動かされ、茂る葉が肌を裂いても止まることはなかった。

微かに水音が聞こえ、駆け出した。
木々を抜けて、開けた場所に出る。
滝の音。澄んだ空気。けれどそれを堪能し落ち着くよりも、早く水が飲みたかった。
喉が渇く。
水辺に駆け寄り、手を差し入れる。水を掬って口を付けた。
冷えた水。けれど満たされない。
何度も何度も、水を掬っては飲んだ。飲んだ先から乾きを覚え、最後には掬う手間すら惜しんで直接口を付けた。

「――どうしたの?」

後ろから声がして、弾かれたように振り返る。
白の着物を来た黒髪の少女。差し出された手に、泣きながら縋りついた。
酷く喉が渇いていた。声が出ない不安よりも、満たされない乾きが苦しくて、助けてほしかった。

「可哀想に……癒やしてあげる。だからまた歌って?」

微笑みと共にいつの間にか手にしていた白い器で、少女は水を汲む。それを手渡され、すぐに口を付けて水を飲み干した。
どこか甘さのある、不思議な水。体の内側に染み込み広がって、満たされていく。
乾きも不安も、何もかもが消えていく。ほぅと息を吐いて、少女の手に凭れるようにして目を閉じた。

「歌って」

小さく頷いて、目を閉じたまま旋律を奏でていく。
歌いながら、ふと幼い頃を思い出した。
初めてこの場所に迷い込んだ幼い頃。どんなに練習しても、上手く歌えないことに悩んでいた。
水辺に座り、ぼんやりと滝を見つめていた時、目の前の彼女に声をかけられたのだ。

――どうしたの?

優しく微笑まれて、涙が滲む。半ば縋る形で、歌が上手く歌えないことを打ち明けた。
友人にも、家族にも打ち明けられなかった本音を、何故初対面の彼女に話せたのかは分からない。彼女が終始優しかったからか、それとも人でなかったからなのか。
すべてを聞いて、彼女は白い器を取り出した。水を汲んで、器を差し出し。
その時に、ひとつだけ告げられたのを思い出す。

――この水は、不安や恐れ、負の感情を取り除いてくれる。でも飲み過ぎてしまえば、この水がなければ生きられなくなる。この水でなければ乾きは癒えず、呼吸すら侭ならなくなってしまうから気をつけて。

一筋涙が零れ落ちた。
歌い終えると、途端に喉が渇きを訴える。
息が苦しい。水が欲しくて器を持つ手に力が籠もる。
目を開いても、視界は暗く何も見えない。

「可哀想に」

囁きと共に、器が手から離れていく。怖くて、縋るものが欲しくて彷徨う手が冷たい手に取られ、唇に何かが触れた。
器の縁。理解すると共に流れ込んで来る水を、躊躇いもなく飲み込んだ。苦しさが次第に落ち着いて、暗い視界が色を取り戻していく。

「歌って」

請われるまま、再び歌う。
歌い終え、息苦しいほどの喉の渇きに水を求め。
与えられた水の対価に、また歌う。


「とても上手よ。昔から上手。皆そう思ってる」

優しく囁かれ、髪を撫でられる。
いつしか体は白く太い蛇の胴に巻き付かれ、少しずつ水の中へと引き込まれていく。
抵抗はできない。逆らえば水を与えられない恐怖から、ただ従順に歌を歌い続ける。

「本当に可哀想な子。あなたのその乾きは、あなたしか癒やせないのに……偽りに縋って逃げられなくなるなんて」

彼女は笑う。どこか悲しげに。
水の中へと引きずり込みながらも、哀れみを浮かべて呟いた。

「自分自身を認めてあげれば、大地の上で生きられたのに。愛してあげれば、太陽の下で笑えたのに……ここは楽園ではないわ。人間の欲でできた檻の中よ」

彼女の言葉を、声なく肯定する。
そうだ。ここは癒やしを与えるオアシスではない。欲を餌に獲物を捕らえる、大蛇の巣穴だ。
今更理解しても、もう遅い。
水に沈む。まやかしの癒やしを与えられ、再び歌うために息を吸い込んだ。



20250727 『オアシス』

7/27/2025, 11:07:55 PM

猫がいなくなった。
時々あること。猫は死期を悟ると姿を消してしまうのだという。
理解はできても、寂しいことには変わらない。冷たいベッドに触れて、唇を噛みしめた。

「――そうだ」

ふと思い立ち、外に出た。
せめて供養をしてあげたい。そう思い、近くの寺や神社へと足を運んだ。
この辺りは昔、養蚕で栄えていたという。そのため鼠を退治するための猫を飼う家庭が多く、猫を祀る神社も多いと聞いた。それならば、猫の供養塔があってもおかしくはないはずだ。
しかしどれだけ探しても、猫の供養塔は見つからない。それどころか、猫を祀ると言われる神社は、どれもが閑散としていて、社が朽ちている所もあった。

はぁ、と溜息を吐く。
目の前の社の惨状に、ただ悲しさだけが込み上げる。
誰もいない社。長い期間を風雨に晒され柱は腐り、一部屋根が崩れ落ちて閉まっている。
不意に、社の脇に何かが落ちているのが見えた。
近づいて拾い上げると、それは猫を描いた古ぼけた絵馬と、猫を模した木像だった。どちらも雨による浸食で変色し、顔の筋はまるで涙の跡のようにも見えた。
養蚕業が廃れ、信仰が薄れた結果の成れの果てに、遣る瀬なさが込み上げる。土を払い、一度社の脇に置くと、ハンカチを取り出した。
手水場は枯れてしまっていたが、裏に沢があったはずだ。
拭いた所で然程変わりはないだろうが、それでもこのままにはしておきたくなかった。



汚れを拭き取り、ほんの僅かに綺麗になった絵馬と木像を社の前に並べ、そっと指でなぞってみる。

「寂しいね」

涙の跡のような筋は消えない。慰めるように木像の頭を撫でた。

「奉納されたのに、大切にしてもらえないのは悲しいね」
「そうだね」

小さな声に、手が止まる。
息を呑んで木像を見つめていると、緩慢に木像の首が動き、こちらを見上げた。

「寂しいし、悲しいよ。昔はあんなにも大切にしてくれたのに。蚕がいなくなったら、途端に見向きもされない」

木像の虚ろな目と視線が交わる。
その視界の隅で、絵馬から白い猫がするりと抜け出すのが見えた。
甘い声で鳴きながら、止まったままの手に擦り寄る。

「あなたも寂しいのね。置いて行かれて、とても悲しいのね……なら、一緒に行きましょうか」

どこに、と小さな呟きに、答える声はない。
動く木像。絵馬から抜け出した猫。
恐怖のようで、違う思いに戸惑っていれば、背後から近づく誰かの足音が聞こえた。
振り返ろうとして、その前に目を塞がれる。大きな手。身を強張らせ、ひっと声を漏らせば、宥めるように頭を撫でられた。

「怖くない。猫は怖くないだろう」

低めの声。聞き覚えのないその声音に、何故か安心して体の力が抜けていく。

「良い子。じゃあ、今から十数えるよ。そうしたら、二度と寂しくはなくなるから」

優しく告げられて、誰かはゆっくりと数を数え始める。
一、二、とゆっくりと数が増えていく。
次第に意識が揺らいで、背後の誰かに凭れかかった。
懐かしい匂い。日向にいるような暖かな匂いに、目を閉じる。


「――九、十。ほら、もう寂しくない」

目を覆う手を離される。
ゆっくりと目を開けて、視界に入る光景に息を呑んだ。
そこはあの朽ちた社の前ではなかった。
大きな木。楠《くすのき》だろうか。その木の根元に、たくさんの猫が思い思いに休んでいた。
呼びかけようとして、けれど口から零れ落ちたのは嗚咽だけ。
視界が滲む。背中を押されて、よろめくように前に出た。
ふらふらと歩き出す。大切な猫たちの元へ。

「――皆、ここにいたの」

見間違えるはずなどない。ここにいるのは、私の大切な家族だ。
家から姿を消した子も、家で帰りを待っているはずの子も、一匹を除いて皆いた。いないのは、いなくなったばかりの子だけだった。
猫たちの側に寄る。途端に回りを囲われて、甘えるように足に擦り寄ってくる。
崩れ落ちるように膝をついた。膝に乗られ、背にじゃれつかれ、その温もりに涙が零れ落ちる。
何匹かの猫の姿が揺らぐ。猫から人の姿になって、強く抱きしめられた。
いなくなった猫たちだ。いなくなったのは、死期を悟ったのではなく、妖になったからだとようやく気づいた。

「これで寂しくないな」

すぐ後ろで声がした。目を塞ぎ、ここに連れてきた誰かの声。
聞き覚えのない、懐かしい声音にそっと顔を上げる。こちらを見下ろす青年と視線が交わり、あぁ、と小さく声を上げた。
これで全員だ。

「うん。寂しくない」

頭を撫でられる。
満たされていく思いに笑みを浮かべ。
涙を拭われて、静かに目を閉じた。





着飾られ、髪を梳かれながら、ぼんやりと遠くの木々を見つめていた。
楠を囲うように生い茂る桑《くわ》の木。まるで檻のようだと、僅かに残された思考が囁く。

「お腹が空いたの?」

膝の上で微睡んでいた猫が身を起こす。人の姿を取って、側に置かれた籠から木の実をひとつ摘まみ上げた。

「はい、どうぞ」

口を開き、差し出された桑の実を受け入れる。仄かな甘みが広がって、目を細めた。
ここに来てから、どれだけの時間が過ぎたのか。あれから猫たちに世話をされながら、過ごしていた。


「可愛いね。白の着物が似合っているよ」

私の猫たち以外の声に、ゆるゆると顔を上げる。楠の枝に座る木像の猫が、こちらを見下ろしゆらりと尾を揺らした。

「猫は祟ると怖いんだって、人間はすぐに忘れてしまうね。可哀想に……人間だって供養をしなければ祟るのに」

くすくすと笑い声が響く。

「元の世界が気になるかな。それとも、もうそれすら分からなくなっちゃったかな。せっかくだから教えて上げるけれど、皆いなくなっちゃったよ」

楽しそうな声音。少し遅れてその言葉の意味を理解して、小さく息を呑んだ。

「可愛い蚕さん。キミのようにボクたちを愛してくれる子はこうして助けてあげたけどね。他は鼠が運んだ病で倒れたり、逃げ出したりして、今あの町は空っぽだよ」

込み上げる恐怖は、けれど背や頭を撫でられて消えていく。
思い浮かんだ家族や友人の顔が掻き消えて、残るのは猫だけに戻る。
ふと、遠く楽しそうにはしゃぐ子供の声が聞こえた。ここと同じように、誰かも猫に愛されているのだろうか。

「それくらいにしてくれ。この子に余計なことをあまり吹き込むな」
「聞く権利くらいはあると思うけど……本当に過保護だね。そんなに執着されて可哀想に」

後ろから回された腕が耳を塞ぐ。それに何かを言いかけて、何も思いつかずに目を閉じた。
必要ないこと。私には猫がいればいい。
そう言えば、と。木像の猫の姿を思い出す。
最初に見た、風雨に朽ちた姿ではない綺麗な姿。あれが作られた当初の姿なのだろうか。
その顔に、涙の跡はなかった。寂しくも、悲しくもなくなったのだろうか。
ゆっくりと消えていく思いの中、そうであれと密かに願う。

いいなぁ。
誰かの声が聞こえた気がしたけれど、すぐに消えてなくなってしまう。

私には猫がいればいい。ここにいることが、何よりの幸せだ。
だからきっと、頬を伝い落ち跡を残すこの滴は、嬉しいからなのだろう。



20250726 『涙の跡』




※ おまけ


少女の華奢な体を引き寄せる。
籠の中から桑の実をひとつ摘んで、少女の唇に軽く触れさせる。
僅かに開く唇。実を差し入れれば、逆らうことなく実を喰み白い喉を鳴らして飲み込んだ。
本当に蚕のようだ。世話を焼かねば何もできなくなった少女を見て思う。
猫神の怒りに触れた町に住む、愛しい飼い主。元より隠すつもりで動いてはいたが、こうして猫神の神域の一部を与えられたのは僥倖だった。我ら猫のために心を砕く少女の優しさに、愛しさばかりが募っていく。
幸せだと、同胞が鳴く。少女の手に擦り寄れば、頭を撫でられ機嫌良く同胞の喉が鳴った。
同胞にするように少女の髪を撫でてみる。心地良さげに目を細める少女は、けれどもその目にかつての煌めきはない。
虚ろに開いた、ガラス玉のような目。それを少しだけ惜しく思う。
少女は我らの飼い主ではなくなり、我らの蚕となった。
故に、その目が自発的に我らを見ることはない。その唇で名を呼ぶことも失われてしまった。
だかそれでも。

「好きだよ」
「うん。私も好き。大好き」

蚕が糸を紡ぐように、少女は言葉を紡ぐ。
他の猫の所にいる人間のような、上辺だけの言葉ではない。
心から我らを思い紡がれる、極上の絹糸のような言葉。

「皆のことを愛してる」

ふわりと微笑む少女の体を抱いて、額に口付ける。
可愛い、愛しい飼い主。
猫神に目をつけられ、人間から逸脱した哀れな蚕。
我らの唯一。誰かに取られることも、死の別れを怖れることもない。

一筋零れ落ちる滴の跡を舐め取って、幸せだと囁いた。

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