sairo

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7/24/2025, 9:08:02 PM

誰もいない廃駅で、来ない汽車を待っていた。
針の止まった駅舎の時計。錆びつき、文字の読めなくなった看板。
アスファルトの割れ目からは、名も知らぬ草が茂っている。
小さい駅でありながらも、隅々まで手入れが施され、賑やかだった面影はどこにもない。
汽車が来る度に、はしゃいでいた幼い頃。幼馴染みと、よく未来について話していたことを思い出す。

夏休みになったら、何をしたいか。
大人になったら、何になりたいか。
あの汽車に乗って、どこへ行きたいか。

明日のことから、何年も先のことまで。
たくさんのことを話した。どんな些細なことでも、真剣に向き合ってくれた。
二つ年上の幼馴染み。彼は自分の憧れであり、唯一恋をした相手でもあった。


遠く、微かに警笛の音が聞こえた気がした。
ぼんやりと視線を向ける。電灯も潰えた暗いこの場所からは、闇に呑まれた線路の先に何も見ることはできない。
ほぅ、と吐息を溢した。光を求めて見上げる空もまた暗く、僅かに星々が瞬くのみ。
新月だ。だからこんなにもくらいのだと、今更なことを思い笑う。
汽車を待って、どれだけの時が過ぎたのだろう。時間の感覚さえ忘れてしまった。それほど長く、ここに留まっていた。
後悔しているのだ。あの日、素直になれなかったことを。


幼馴染みがこの駅から汽車に乗って旅立った日。
自分は幼馴染にただ一言だけ告げて、背を向けた。

――またいつか。

さよならの代わりの言葉。素直になれなかった自分の、精一杯の強がりだった。
何かを言いかけた幼馴染みから逃げるように、見送ることもなく駅を出た。
泣くのが怖かった。縋り付いて行かないでと言ってしまいそうで、それが怖ろしくて堪らなかった。
もう二度と幼馴染みは戻ることはないのだと。それを知りながら敢えて告げた言葉は、まるで呪いのようだ。
こうして長い間、自分を駅に縛り付けている。
幼馴染みを縛る呪いでなかったのだけは、唯一の救いだった。



遠く、警笛の音が聞こえた。
かたん、かたん、と線路の鳴る音。
はっとして立ち上がる。ふらふらと線路に近づいて、どこか祈るような気持ちで視線を向けた。

「――あぁ」

暗い線路の先で、光が見えた。
汽笛。静寂を切り裂くように響き渡る。
駅舎の屋根が眩い光に揺らいだ。光の向こうに煙が見える。
記憶と変わらないその姿。
呆然と立ち尽くす自分の前で、ゆっくりと汽車は止まった。

暗い車両の中では、いくつかの影が揺らいでいるのが見える。
何も変わらない。
あの日、幼馴染みを乗せて去って行った汽車が、長い時の果てに帰ってきていた。
ゆっくりと扉が開いていく。中の影が揺らぐのを見て、静かに扉の脇へと避けた。
影が下りる。迎えの火を目印に、家に帰っていくのだろう。
帰ってきた彼らを見送って、汽車へと向き直った。
夜よりも黒いその色。懐かしさに口元が綻んだ。

やがて汽笛を鳴らして、汽車は再び動き出す。次の駅に向かい、線路を鳴らして去って行く。
遠ざかる汽車を見つめ、小さく手を振った。幼い頃と同じように、一度も乗ることのなかった汽車に思いを馳せながら。
やがて汽車は見えなくなる。静寂が場を満たして、駅は再び眠りについていく。
笑みを浮かべたまま、静かに歩き出す。どこか満たされた充足感を抱きながら、また汽車を待つためベンチへと向かい。

不意に、腕を引かれた。
突然のことに抵抗ができぬまま体が傾ぐ。倒れる体を抱き留めて、腕を引いた誰かは声を震わせた。

「こんな所にいたのか」

びくりと肩が跳ねた。
耳に馴染むその低めの声を、忘れたことは一度もない。

「随分と遅くなった。すまない」

抱き留める腕の力が強くなる。声と同じく震えるその腕に、そっと触れた。

「――どうして?」

辛うじて紡ぐことのできた言葉は、消え入りそうなほど微かに震えて。
だが伝わったのだろう。腕に触れた手を取り指を絡め、誰か――幼馴染みは、耳元に唇を寄せた。

「迎えに来た……約束を果たさせてほしい」

約束。記憶にないそれに、顔を上げる。視線を向ければ、泣くように微笑む幼馴染みの顔が、暗闇の中でもはっきりと見えた。

「行こう」

肩を抱かれ、歩き出す。
駅舎を出て、自分と幼馴染みの家のある方向へと向かう。

「またいつか」

不意に幼馴染みが呟いた。
強がり、素直になれなかった言葉。自分を駅に留めた呪いの言葉に、僅かに眉が寄る。

「俺を待ってくれる。それが救いだった……家にいるのかと思っていたから、気づかなくて悪かった」
「――え?」

いつの間にか離れた幼馴染みの手の上には、精霊馬が乗せられていた。馬は手のひらの上で跳ね、宙を駆けて去って行く。

「今回は汽車に乗って正解だった。還る時も汽車に乗ろうか。今度は一緒に」

微笑む幼馴染みに、戸惑いながらも小さく頷いた。
何故だが気恥ずかしくなって、視線を前へ向けた。
向かう先に見える火は、自分の家のものだろうか。
火を前に、腕を組んで待つ懐かしい姿を認め、思わず息を呑んだ。

「お父さん」

幼馴染みと同じく帰ってこなかった父の姿に、僅かに涙が滲む。
父だけではない。母や弟たち、家族が家の前で待っていた。

「行こう。お前の来世を貰う挨拶をさせてくれ」

穏やかな声に、目を瞬いて幼馴染みを見る。穏やかな笑みに遅れてその言葉の意味を理解して、声にならない悲鳴が漏れた。
頬が熱い。視線の行き場に迷い、逃げるように再び繋がれた手に視線を落とした。

「左様ならなど、仕方がないと別れるのでなく。またいつかと、再会の約束をくれてありがとう」

縛り付ける呪いではなく、再会を約束する言葉。
優しく囁かれて、幼馴染みの胸に凭れ、一筋涙を流した。



20250722 『またいつか』






縁側に座り、少女はぼんやりと空を見上げていた。
夏休みに入り、初めて一人で泊まった祖父母宅。どこか落ち着かない気持ちに、少女は溜息を吐く。
学校の宿題は、絵日記と自由研究を残すのみ。初日に両親に連れられてから、三日目にはすでに殆どの宿題が終わってしまっていた。
田舎には娯楽が少ない。テレビは退屈な大人向けの番組ばかりで、子供用のゲームなどもありはしない。そも、少女はテレビやゲームよりも読書を好んでいた。
しかし、祖父母の家の書架には本があるものの、幼い少女にはまだ難しい内容のものばかり。故に現時点でできる宿題を終えた後は、こうして縁側の片隅で空を見上げている事が多かった。


「――ごめんください」

不意に、玄関から声がした。
子供特有の、高めの声音。少女は玄関の方へ顔を向けながら、意味もなくおろおろと視線を彷徨わせた。
今、この家にいるのは少女だけだ。祖父は畑仕事に出てしまったし、祖母は先ほど買い物に出たばかりだ。

「おじゃまします」

その言葉に、少女は益々狼狽える。
誰かが許可もなく家の中に入ってくる。都会暮らしの少女には理解できない田舎特有の感覚に、どうすればいいのか分からない。
近づく足音に、少女の目には次第に涙の膜が張る。縁側の先に小さな人影を認めて、耐えきれなくなった涙が一筋、少女の頬を伝い流れていた。

「あぁ、やっぱりいたんだ。返事がないから勝手に上がったけど」

影が少女に近づき、その姿を明確にする。
少女と然程変わらない年頃の少年。人好きの笑みを浮かべて、少女の側に歩み寄る。

「怖がらないで。大丈夫、君のお祖母ちゃんに言われて来たんだ。一緒に遊んで欲しいって」

小さく蹲る少女の頬に手を伸ばし、流れる涙を拭いながら少年は優しく告げる。祖母の名が出たことで、少女の警戒はいくらか緩くなった。
目を瞬いて涙を溢しながら、少年を見つめる。
少女よりも頭一つ高い背丈。笑顔を浮かべながらも、少しだけ下がった眉。優しく涙を拭う手つき。
恐怖とは違う鼓動の高鳴りを感じた。切なく胸を締め付ける知らない感情に、少女は戸惑うことしかできない。
懐かしい。
ふと込み上げた思いに、少女は何故だか無性に泣きたくなった。

「ここを案内してあげる……おいで」

差し出された手を取って、泣く代わりに少女は控えめに微笑んだ。



少年に手を引かれ訪れた場所は、まるで別世界のように少女を魅了した。
神社でのかくれんぼ。小川での水遊び。
蝉やザリガニを捕まえるのも、何もかもが初めての経験だった。

「ほら」

駄菓子屋で買ったアイスを、ぱきんと二つに割って、少年はその片方を少女に手渡した。

「――ありがとう」

軽く俯いて礼を言う少女の頬が赤い。誰かとこうして何かを分けるということすら、少女は初めてだった。
少年の隣に座り、少女はそっとアイスに口を付ける。
ほんのり甘く、冷たい氷の味。
初めての味に、しかし少女の胸を不思議な懐かしさが過る。
既視感、とでもいうのだろうか。少年と過ごし経験するすべてが懐かしく、そして愛おしくて堪らなかった。
横目でアイスを囓る少年を密かに覗う。
お互いに初対面であるはずだ。だというのに、何故こんなにも懐かしく思うのだろうか。
少女には分からない。痛みすら覚える、切ない感情の名を、幼さ故に少女は知らなかった。

「アイス、溶けるよ?」

少年の指摘に、少女は慌ててアイスを囓る。
きん、とした頭の痛みに、笑い合った誰かのいつかの記憶が過ぎた気がした。



「最後に、とっておきの場所に連れて行ってあげる」

そう言って笑う少年に手を引かれ、少女が最後に訪れたのは、小さな廃駅だった。

「ここ?」
「そうだよ。今日は特別なんだ」

困惑し立ち止まる少女に、少年は穏やかに告げる。
少年らしからぬ、何かを想う達観した大人のような目をして廃駅を見つめていた。
少女は少年と繋いでいた手に力を込めた。何かに縋っていなければ、今にも崩れてしまいそうだった。
懐かしい。
覚えのないその感情に、呼吸が乱れていく。泣き叫びたいような、笑いたいような、そんな不思議な感覚に目眩がした。
少年に手を引かれ、駅舎の中に入り込む。
廃駅となって幾分か傷みはあるものの、中は大分綺麗だ。
慣れた様子で改札に向かう少年に、少女は何かを言いかけ。結局何も言えずに、少年に手を引かれるままに改札を抜けた。


「――え?」

改札を抜けた瞬間に、すべてが変わった。
高く昇っていたはずの陽は何処にも見えない。
月のない夜空を、少女は呆然と見上げた。

「大丈夫、今日は特別だから」

少年に促され、歩き出す。
駅には、夜の闇よりも黒い汽車が静かに止まっていた。

「汽車……」

不思議と恐怖はなかった。
ただ込み上げる名前の知らない思いに、少女の目には涙の膜が張りだした。
一筋、頬を伝う。その涙を拭う少年の姿に、誰かが重なって見えた気がした。

「行こう」

そっと囁かれて、少女は小さく頷いた。
手を引かれるまま、車両に乗り込む。音もなく扉が閉まり、汽笛が鳴った。



少年と少女、二人だけを乗せて汽車は走り出す。

「この汽車、どこに向かっているの?」

少年の向かいに座り、少女は窓の外を見ながら呟いた。

「特別な場所……ほら、線路を越えて海に出るよ」

少年の言葉とほぼ同時、車両内が小さく揺れた。
ふわりと小さく浮かんだ汽車が、音もなく海の上に降り立った。線路のない、凪いだ水面を走り抜けていく。
星を映した水面が煌めいた。まるで夜空を走っているようだ。
どこかで、微かに鈴の音のような音が聞こえた。それは汽車の車輪が水面にさざめく音だったのかもしれない。
遠く、いくつも連なる灯が海に浮かんでいた。初めて見るはずのその火の名が、少女の唇から溢れ落ちる。

「――不知火」

本来ならば、夏の終わりと共に見られる現象。
海辺に座り、遠く連なり揺らぐ火を見た記憶が過ぎていく。
少女のものではない記憶。隣に座り、その火の名を教えてくれたのは、誰だっただろうか。

「渡したいものがあるんだ」

静かな声に、少女は少年へと視線を向ける。

「左手、出してくれる?」

真剣な面持ちの少年に、少女はゆっくりと左手を差し出した。
少女の前で膝をついた少年は、恭しくその手を取る。薬指に軽く唇を触れさせて、そっとその指に何かを嵌めた。

「――指輪?」

それは小さな赤い石のついた、玩具の指輪だった。

「本物じゃなくてごめん。でも、今の俺にはこれしか渡せないから」

眉を下げてはにかんで、少年は手を離す。
膝をついたままで少女を見上げ、強い目をして今日を忘れてもいいけれど、と静かに思いを口にする。

「覚えていなくても構わない。ただこれだけは知っていてほしい……お前がくれた約束を、俺は決して忘れはしない。前世も今世も、そして来世も。俺はお前だけを愛している。例え結ばれなくとも、俺の愛はお前だけのものだ」

ひゅっと、少女は息を呑んだ。
少年の姿に、学生服を着た青年の姿が重なる。
遠い過去、少女が少女となる前の記憶が弾けて、涙となって落ちていく。
少女は震える手を伸ばした。少年に引き寄せられるままにその胸に飛び込んで、強くしがみつく。

「ずっと、言えなかったことがあるの」

小さくしゃくり上げながら、必死で言葉を紡ぐ。背を撫でる少年の優しさに泣きながらも笑い、別れの日に言えなかった本当の思いを打ち明けた。

「行かないでほしかった。ずっと、側にいてほしかった……私のこと好きだって、お嫁さんにしてくれるって。子供の頃の約束を守ってほしかった」

少女の言葉に、少年は目を閉じ、あぁと声を溢した。
一度強く抱きしめてから、体を離す。額を合わせて、そっと囁いた。

「今度は必ず守る。結婚の約束も、俺の船で不知火を探しに行く約束も……前世でできなかったことをすべて、今世で叶えよう」


夜の海を、汽車が走っていく。
重なった二人の影を乗せて。
ただひとつの、永遠とも言える愛を内に抱いて。





少女が目覚めた時、そこは汽車の中ではなく、見慣れた祖父母の家だった。
体を起こし、部屋を見回す。少年の姿はどこにもない。
夢だったのだろうか。少女は小さく息を吐いて、何気なく左手に視線を落とした。

「――っ」

左薬指に嵌められた、赤い煌めき。
夢ではない確かな約束に、少女は泣くように微笑んだ。



20250723 『true love』

7/22/2025, 10:13:47 PM

緩やかな流れに、手を浸す。
夜の小川。川上から止めどなく流れてくる星の欠片を、掬い上げては空へと還していく。
求める星は、まだ見つからない。
どれだけ掬い上げても、その煌めきは求めるものではなかった。
煌めく星は剥き出しの感情。還ることを忘れ漂う魂の一部。
死を前にした恐怖や悲嘆、絶望の塊だった。

「――っ」

掬い上げる度、触れる度に手に傷が増えていく。誰かの死を痛みごと垣間見て、苦痛に手が止まりかける。
それでも手を止める訳にはいかない。手を止めた間に流れ去る星が、求めるものであったとしたら。その懸念が、手を止めることを許さない。
そうしてまた、知らぬ誰かの死の痛みを掬い上げることを繰り返す。

求める星は、まだ見つからない。



「何をしているの?」

ふと、声が聞こえた。聞き馴染みのあるような、まったく聞き覚えのないような、不思議な声音。
答えず、手も止めずにいれば、そっと隣から両手を包まれ止められる。
細く、白い手。簡単に振り解けそうな小さな手を、けれども何故か離すことができなかった。

「何を探しているの?」

問われて、どう答えるべきかを迷う。

「――友達」

かつての関係を答えてみる。変わらぬはずだと思っていた言葉は、空しく滑稽に響いた。
自嘲して、傷だらけの手に視線を落とす。

「友達、だった人。勝手に疑って、手を離して。そして置き去りにして……星に攫われた、大切な人」

目を閉じる。
決して忘れることはない自分の罪は、今でもはっきりと思い出すことができる。
星の降り頻る夜。友人の手を引いて、丘の上へと向かった。
そこで、手を引かなければどこにも行けない友人の手を離した。星を追いかける振りをして、置き去りにした。
後悔してもしきれない自分の罪。姉が神隠しに遭い、その場に友人がいた。ただそれだけで神隠しの原因を、友人だと疑った。

「離れて、少し頭が冷えて……慌てて戻ったけど、間に合わなかった。手を取る前にあいつは星に貫かれて、そのまま消えてしまった」

痛みに泣く声。恐怖に流れる涙。助けを求めて伸ばされた手。
忘れたことなどなかった。何度も悪夢に見て、何度もその丘へと足を運んだ。
神隠しに遭った者は、七日を過ぎれば戻る。
姉は戻ってきた。心が壊れた状態で、山の中で見つかった。
友人も帰ってくるのだと信じていた。それだけが希望だった。
しかし、友人は最後まで帰ることはなかった。

「だから、あいつの星を探している。一人ではどこにも行けないあいつは、きっとここにいるはずだから」
「いないよ」

静かな否定の言葉に目を開ける。そうしてようやく声の方へと視線を向けた。
長い黒髪。白の病衣から除く痩せた手足。
見覚えのない、けれども懐かしい空気を纏う少女がいた。

「ここにはあなたの求める人はいない。朝陽を追いかけて、先に進んでしまったから」
「朝陽……?」

呟いて空を見上げた。月が傾き、遠くで微かに白み始めた空に、何故だか泣きたい気持ちになった。

「そういえば、陽の光はまだ微かに感じられるって言ってたっけ」
「うん。だからここで星を追いかけ掬い上げていても、あなたの傷が増えるだけだよ」
「そうか。一人でも行けるのか……ここに留まるだけの未練は、持ってくれなかったのか」

身勝手にも、それを寂しいと思った。
恨みでも何でも持ってくれれば、もう一度手を引けたのに。
友人の心など考えもしない、どこまでも浅ましい自分自身に吐き気がした。

「大丈夫」

優しい声が囁いた。

「朝陽の向こう側で待ってる。一人で、短い生を足掻いている……だから行って」

ふわりと微笑むその姿が、次第に揺らぎ形を失っていく。
そうして少女の姿は消え、手の中にはひとつの小さな星の欠片だけが残った。
小さな、弱い光を纏った星。川を流れて行くどの星とも違う、温かな光を纏う星。
伝わる思いもまた、とても温かだ。
目を閉じずとも、浮かぶ記憶。一夏の、まだその眼が星の光を捕らえることができていた頃の、友人の思い出。
その中に常に自分がいることに、妙な気恥ずかしさと切なさを覚えた。

「ばかな奴。恨んでくれれば良かったのに」

呟いて、今更ながらにそれはないなと笑った。
穏やかで怒ることを知らないような友人が、自分を恨む姿など想像ができない。
見上げる空は、暗い紺から淡い赤へと色を変え始めている。
東雲色。いつだったか、友人から教えてもらった言葉を思い出した。

「――行くか」

立ち上がり、ゆっくりと朝陽の方へと歩き出す。
いつの間にか手の傷はすっかり癒えて、知らない誰かの死の痛みなど欠片も残ってはいない。
本当に優しい友人だ。その友人に報いるために、自分ができることを考える。
病衣。痩せた手足。温かな記憶に僅かに混じっていた、無機質な病室。
間に合うかは分からない。けれどどうか、と祈りにも似た気持ちで朝陽を追いかけた。



朝の光に消えていく夜空に一筋、星が流れていく。
その煌めきに気づかずに、ただ朝陽だけを求めて駆け抜けた。
その星の煌めきが、優しい奇跡を起こしていたことを。

朝陽の向こう側。友人との出会いの場で知った。



20250721 『星を追いかけて』

7/21/2025, 11:03:55 PM

朝は遠い。
カーテン越しの暗い空を思いながら、密かに息を吐いた。

「夢か」

夢を見ていた。目覚めた時にはその殆どが零れ落ち、夢を見ていたという感覚だけが残っている。
同じ夢だ。覚えてはいないが、ここ数日同じ夢を繰り返し見ている。そんな根拠のない確信に目を伏せた。

かちかちと、時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。
規則正しいその音を聞きながら、静かに目を閉じた。
まだ朝は来ない。もう一眠りするべきだと、微睡み始めた意識に身を委ねていく。
時計の音。近くで、あるいは遠くから響く、無機質な音。
かち、かち。かち――。

――どぉん。

時計の音に、別の音が混じる。
低い音。時計のように一定の間隔で鳴らされ続ける音は、次第に時計の音を呑み込んで、成り代わる。
聞き覚えのある音だ。体の内側まで響くような音は、夜祭で聞いた、太鼓の音によく似ていた。
もっとも、自分は夜祭に行ったことはないのだが。

太鼓の音が響く。意識がゆっくりと沈んでいく。

そしてまた。
記憶に残らない、夢の中へと落ちていく。





太鼓の音。それに混じる笛の音。
目を開ければ、目の前には夜祭の光景が広がっていた。
たくさんの出店。甘く香ばしい、食欲をそそる匂いが辺りを満たす。
楽しげな談笑。はしゃぐ子供の声がする。自分の横を、子供たちが笑いながら駆け抜けて行く。
何気なく、子供たちが気になった。
駆け抜けるその背を追って、奥へと歩き出す。

辿り着いたのは、神社の社の前。
子供たちが、手にした食べ物やおもちゃを見せ合っている。
辺りには、大人の姿はない。いつの間にか、太鼓や笛の音も聞こえなくなっていた。
一人がこちらに気がつき、大きく手を振った。

「お前も早く来いよ!」

知らない子供。けれどよく知っている。
そんな違和感に、思わず目を閉じた。



水の流れる音がして、目を開けた。
陽の光を反射して煌めく水面に目が眩む。
いつの間にか、真昼の川縁に立っていた。
楽しげな声と水音が聞こえ、視線を向ける。川上で、子供たちが水遊びをしていた。
笑い声。跳ねる水しぶき。川のせせらぎと相俟って、とても涼しげだ。
ゆっくりと歩き出す。子供たちの側まで歩み寄り、立ち止まった。
川の流れは緩やかで、浅い。けれども川の中に入ることを躊躇していれば、目の前に小さな手が差し出された。

「怖くねぇよ。ほら、大丈夫だから」

笑みを浮かべる少年を、どこかで見た気がした。
思い出せない。欠けた記憶のもどかしさに、目を閉じた。



風鈴の音が聞こえた。
目を開ければ、知らない家の縁側に座っていた。
空を見上げる。眩いばかりの陽は、容赦なく辺りを照りつけ、それに負けじと蝉時雨が響き渡る。
時折吹く風が、風鈴を鳴らす。涼やかな音は、それでも完全に暑さを静めてはくれそうにはなかった。

不意に、隣に誰かが座る気配がした。
視線を下ろし、隣へ向ける。
スイカの乗った盆を置き、スイカを手にする友人。
大胆に齧り付くその姿を見ていれば、友人はこちらに視線を向けて、不思議そうに首を傾げた。

「食わねぇの?」

自分と友人の間に置かれた盆を指差す。そこには、もう一切れ、瑞々しいスイカが置かれていた。
手を伸ばす。しかしスイカに触れる前に手を止め、もう一度友人を見た。
静かにこちらを見つめる目と視線が交わる。何もかもを見透かすような、呑み込んでしまいそうなその眼。
くらりと、目眩にも似た感覚に、咄嗟に目を閉じた。



目を開ける。
黄昏に染まる空。影を落とした神社の社の前。
そこに友人と二人、立ち尽くしていた。

「なぁ、話があるんだけどさ。大事な話」

真剣な眼差しの友人に、静かに向き直る。

「俺さ。本当は――」
「ねぇ」

友人の言葉を遮って、一言告げる。

「戻るつもりはないよ」

その言葉に、友人は凪いだ声音で問いかけた。

「なぜ?」
「今を、生きたいから」

答えたその瞬間。
世界が、崩壊した。



一瞬の暗闇。
思わず閉じていた目を開ける。
暗がりに浮かぶ、見慣れた天井。ベッドで横たわっていることに、混乱する。
体を起こそうとして、胸の痛みに倒れ込んだ。息苦しさに、体を丸めて必死で呼吸を繰り返す。
この苦痛は現実のものか。ならば夢から覚めたのだろうか。

「可哀想に」

すぐ側で聞こえた声に、身を強張らせる。

「今を生きるとか、意地を張って……ただ逃げたいだけだろう?お前がお前である前の過去から」

冷たい指が髪を撫でる。頬に触れて、滲んだ涙を拭っていく。
これは現実なのか。それともまだ夢の中なのか。
痛みで朦朧とする意識の中、残酷なほどに優しい声が囁いた。

「大丈夫だ。あのまま、何も知らない子供のままを繰り返せば、何も怖くないだろう?余計なことを考えずにいれば、俺も今度は間違えない」

背に触れられる。無理矢理に体を起こされて、一瞬呼吸が止まった。

「――っ」
「意地を張るな。今を生きるといっても、こんな出来損ないで壊れかけた体じゃあ、何もできないだろうに。生きる前に、体が朽ちて死んでいく」

甘い誘惑に、必死で首を振る。
分かっている。自分はあと、数年しか生きられない。
それでも過去に、それも前世にしがみつくつもりはなかった。
前の自分は、とうの昔に終わってしまったのだ。ならば、短い生でも今を生きるしかない。
目を閉じ、耳を塞いで夢に逃げるのは、それこそ逃げでしかないのだから。

「強情だな。そんな所は前と何も変わらない」

小さな呟きに、痛みに顔を顰めながらも顔を上げる。
悲しげな微笑み。滲んだ視界でもはっきりと見えるのは、その微笑みを覚えているからだろうか。
ごめん、と声にならない呟きが、唇から溢れ落ちた。
自分のせいで過去に囚われたままの友人に、痛みとは違う涙が零れ落ちた。

「――仕方がない。もう少し待ってやるよ」

優しい声と共に、起こされていた体を横たえさせられる。
涙を拭われ、そのまま目を塞がれた。

「お前の終わる時に、また迎えに来る。それまで精々苦しみながら、今を生きることだ」

苦しみ生きろと言いながら、その声はどこまでも優しい。
素直でない友人の変わらない優しさに、過去の自分を少しだけ羨ましく思った。

「じゃあ、またな」

意識が落ちていく。
痛みも苦しさも感じない、夢も見ないほど深い眠りへ、沈んでいく。





明るい陽射しに目が覚めた。
気づけばカーテンは開けられて、晴れやかな青空が窓越しに見えた。
小さく息を吐き、ベッドを起こす。痛みは感じない。普段よりも呼吸が楽にできている気がした。

「おはようござます」

検温に来た、馴染みの看護師が声をかける。
それに答えながら、いつものように思い出せない夢を辿った。

「今日は調子がいいみたいですね。昨日からいらした先生の、新しい処方が効いているみたい」

首を傾げた。
そういえばと、新しく赴任した医師が挨拶に来たことを朧気に思い出す。

「朝食後には、先生が回診に来られますからね」

そう言って去って行く看護師の背を見送りながら、医師の姿を思い浮かべる。
ぼんやりとした輪郭が、一瞬だけ懐かしい誰かの姿を伴って消えていく。
緩く頭を振って、目を閉じた。無理に思い出そうとしなくても、すぐに会うことになる。
窓越しに、蝉の鳴く声がした。どこかで子供たちの笑う声が聞こえる。

今年の夏も暑くなりそうだ。



20250720 『今を生きる』

7/21/2025, 3:09:34 AM

人の絶えた校舎の中を、一人の青年と一羽の青い鳥が歩いて行く。

「ここか?」

軽く翼を広げて鳥が示す棚の中に、青年は手を差し入れる。奥を探り、しばらくして青年は手を引いた。
その手の中には、錆び付いた小さなキーホルダー。埃を拭えば、龍が巻き付いた剣が鈍く光を反射した気がした。

「――また見つけたな」

小さく呟いて、青年は教室の窓に歩み寄る。差し込む月明かりにキーホルダーを晒すと、それは丸い光となって教室の中を漂いだした。

――見ろよ!この前旅行に行った時に、母ちゃんが買ってくれたんだぜ。
――すげぇ。格好いいじゃん!
――いいなぁ。俺も欲しかったけど、買ってくんなかったんだよなぁ。

楽しげな声が教室内に響き渡る。
在りし日の一場面。光が淡く照らす場所に、楽しげに話す子供たちの影が浮かび、消えていく。
漂う光もやがて消え、後には静寂だけが残った。

ふっと、青年は笑みを溢した。しかしその目はどこか寂しそうに、悲しそうに揺らいでいる。
そんな青年を見上げ、鳥は小さく鳴き声を上げた。

「あぁ、大丈夫だ……全部、見つけてやらないとな」

身を屈め、青年は鳥の頭をそっと撫でる。目を細める鳥に微笑んでから、教室内を一瞥した。
廃校になり、誰も訪れなくなった校舎。かつてここで、青年は教師として働いていた。
青年がいつからこの校舎で失せもの探しをし始めたのか、青年自身も覚えてはいない。気づけばここにいて、青年に懐く飛ばない鳥と共に失せもの探しを始めていた。

「そろそろ次に行くか」

呟いて、静かに立ち上がる。
鳥は小さく鳴いて、先導するように青年の前を歩き出した。

「まだ飛べないのか?……それとも飛ばないのか」

青年の言葉に鳥は振り返らない。教室を出る姿に苦笑して、青年もその後に続いて教室を出た。



使いかけの消しゴムを、月明かりに晒す。
ふわりと丸い光が教室を漂い、密かな声が聞こえてきた。

――皆には、内緒にしてよね。
――分かってるよ。おまじないの相手は、誰にも言わないから。

くすくすと笑い声がする。

――それにしても、先生かぁ。予想はしてたけどね。
――な、なんで。知って!?
――だって、分かりやすかったし?たぶん皆知ってるよ。

声にならない悲鳴。仄かに光が浮かばせる影が、顔を覆って机に伏した。

――頑張って。両思いになれるといいね。
――うぅ……がんばる。

慰めるように机に伏した影の頭を撫でる、もう一人の影。
密やかな日常が、光と共に消えていく。

「おまじない、か」

何もない手に視線を落とし、青年は小さく笑みを浮かべた。

「何かこそこそやっているとは思ってたが……本当に女子はそういうのが好きだな」

笑う青年に、咎めるように鳥が鳴く。嘴で足を突けば、痛がりながらも青年は楽しそうに鳥を見た。

「悪かった。じゃあ、次に行こうか」

いつものように、鳥に告げる。だが鳥は動かない。
澄んだ瞳が青年を見上げる。ややあって、すべてを理解した青年は静かに微笑んだ。

「そうか……これで、全部なのか」

鳥は鳴く。
それに頷いて、青年はそっと鳥を抱き上げた。

「屋上に行こうか。そこが一番空に近い」

鳥を撫で、青年は歩き出す。
その表情は、微笑みながらも泣いているように見えた。



柔らかな風が吹き抜ける。

「良い風だ。旅立ちに相応しい」

穏やかに呟いて、青年は鳥を抱いたままフェンスの側まで歩いていく。
屋上から見下ろす景色は、青年の知るものとまったく様子が異なっていた。
遠くで瞬くいくつもの灯り。夜だというのに昼と変わらぬ明るさに、青年は目を細める。

「全部探すのに、随分時間がかかっちまったな」

苦笑しながら、鳥を抱く腕を空へと伸ばす。青年を見つめる鳥に向けて、一言告げた。

「飛べ」

ぱちり、と鳥の目が瞬いた。

「後はお前だけだ。今まで、長く付き合わせて悪かったな。もう自由になっていいぞ」

鳥は鳴かない。翼を広げることも、青年に擦り寄ることもなく、ただ青年を見つめていた。
まるで、自分が飛び去った後の、青年のその後を尋ねるように。

「大丈夫だ。お前たちを全員送り出したら、先生もいくから」

だから、と続ける青年の言葉を、強く吹いた風が掻き消した。

――うそつき。

誰かの声がした。

――先生は、いつもうそつきだ。

囁く声と共に、いくつもの丸い光が辺りに浮かぶ。

「これは……?」

目を見張る青年と静かに見つめる鳥を囲うように、光が揺らぎ形を変えていく。
小さな子供たちの姿。青年のかつての教え子たちが、笑いながら囁いた。

――ここから動かないくせに。
――一人で残ろうとしてるの、ばればれだよ。
――先生、寂しがり屋なのに、素直じゃないんだから。
――一緒に行けばいいじゃん。

囁く声に合わせて、鳥が鳴く。

「先生。先生も一緒に卒業しようよ」

鳴き声が言葉になる。
青年の頬を一筋の涙が流れ落ちた。

「――いいのか?」

微かな呟きに、鳥は翼を広げ応える。青年の腕から肩へと移り、その頬に擦り寄った。

「先生が皆の忘れものに祈ってくれたから、皆帰ってこれた。だから、皆で還ろうよ」

鳥の言葉に目を伏せる。しかしその口元は緩く笑みを浮かべて。

「そうだな。先生も皆と一緒に行こうか」

きゃあ、とあちこちで歓声があがる。
子供たちに抱きつかれた青年の体が、少しずつ揺らぎ始めていく。
鳥が鳴く。翼を広げ飛び立ち、青年の周りをぐるりと旋回した。
その声に応えるように、青年が鳴き声を上げた。
低い鳥の声。揺らぐ姿もまた、鳥の姿となり。

「行こうか。途中で逸れないでくれよ?失せもの探しは先生、苦手なんだ」

戯ける黒の鳥が、いくつもの蛍のような光に囲まれ、傍の青の鳥と共に夜空を飛び去っていった。



その学校が何故廃校になったのか、今となって正しく知る者はいない。

とある教師が、自分のクラスの生徒を道連れに死んだ。
その当時流行ったおなじないが、生徒と教師を巻き込んで異界へと連れ去った。
裏山に封じられた祟り神に、生徒と教師が喰われてしまった。

様々な噂が流れた。それのどれが本当で、あるいはすべてが偽りなのかも、最早知りようがない。
やがて、時代に取り残された校舎は取り壊された。そこに学校があったことも、消えた生徒と教師がいたことも、すべて忘れ去られてしまった。
それでも――。


「ちょっと男子!もう少し離れなさいよ」
「なんでだよ。あいつだけ先生の側にいて狡くねぇ?」
「いいの!ちょっとだけでも恋人っぽいことさせないと……デートよ、デート」
「デートぉ!?先生とあいつ、付き合ってんの?マジで?」
「じゃあ、結婚式やろうぜ!誓いのちゅーしよう!ちゅー」
「さいてー。本当に男子ってデリカシーにかけるんだから」

番のように寄り添う二羽の鳥が、消えた生徒のために長い間彷徨っていたのを。
夜に吹き抜ける風だけは、忘れることなく覚えている。



20250719 『飛べ』

7/20/2025, 6:54:13 AM

「あれ……?」

彼女と二人、映画を見た帰り道。知らない路地に迷い込んだ。
いつもは通らない道。好奇心に任せて、彼女と手を繋いだまま歩いていく。
ふと、彼女が立ち止まった。

「どうしたの?」
「ここ。甘い香りがする。木と、草と……知らない水と風の匂い」
「水と風?」

首を傾げながら視線を向ける。そこは雑貨屋ともカフェともつかない、小さな店のようだった。
看板には、不思議な文字で「Aisling」と書かれている。

「入ってみる?」

彼女が感じた香りは、自分には分からない。でも彼女の様子から、嫌なものではないと分かる。
声をかけると、彼女は少し迷ったようにしてから、小さく頷いて扉に手をかけた。



店の扉を開けると、ちりんと軽やかな鈴の音がした。
店の中は外からは想像できないほど広く、不思議な色をした木材の柱や棚が並んでいる。
色とりどりのドライフラワー、布細工や木彫りの雑貨、ハーブティーの香り。

「すごい……」
「雑貨屋さん、なのかな?」

棚に並べられた、手作りの小さな人形たちを見ながら首を傾げる。
不思議な店。見慣れないものしかないのにとても落ち着く空間に、肩の力が抜けていく。彼女の前では格好よくいたくて気を張っていたのがなくなって、どこか夢見心地で彼女に視線を向けた。
少し離れた場所で、彼女は店の柱を見ていた。そっと手を伸ばして、柱に触れる。

「すごく、きれい」

柱をなぞるその指の爪が、次第に鋭くなっていく。
慌てて彼女の側に寄ってその手を取るが、彼女は柱を見たまま、爪も鋭いままでいいなぁ、と小さく呟いた。

「その柱で爪を研ぐのは止めとくれね。猫のお嬢さん」

店の奥から声がした。びくりと肩を揺らして声のする方を見ると、奥から不思議な雰囲気を纏った女の人が現れた。

「その柱は、あたしの故郷のオークで作られてるんだ。店の匂いで酔っちまってるとこ悪いんだがね、ちっと奥においでな」

穏やかな笑みを浮かべる女の人に、焦りながら頭を下げる。
奥へと促されて、まだぼんやりしている彼女の手を引いた。


奥にはいくつかの机と椅子、そしてカウンターの席があった。どうやらここはカフェでもあったらしい。
カウンター席に座る。隣に座った彼女はおとなしく座ってはいるが、まだ視線は柱を向いたままだ。

「心配はいらないよ。猫は鼻がきくからねぇ。ハーブやアロマの匂いに酔っちまったんだよ。少し落ち着けば元に戻るさ」

女の人はそう言って、カウンターの向こうへ行く。店主なのだろうか。手際よく棚からガラスの瓶を選び、ハーブやドライフラワーを手早くブレンドしていく。不思議な模様の描かれたポットに入れて、お湯を注いだ。
ふわり、と湯気と共に甘い香りが立ちこめる。その香りに、彼女は柱からポットへと視線を移して、目を瞬いて首を傾げた。

「〝special day〟のブレンドをどうぞ。特別な日だけに振る舞われる、特別な一杯さ」

テーブルに置かれたカップの中には、色とりどりの花びらが浮かぶ琥珀色のお茶。
惹かれるように彼女の手がカップに伸びる。湯気を吸い込み、カップに口を付ける。

「――美味しい」

小さく呟いた彼女の爪は、元の綺麗に整えられた爪に戻っていた。

「よかった」

カップを両手で持つ彼女の指先を見て、小さく安堵の息を吐く。
初めてのことだ。祖先に猫がいたらしい彼女が、猫のように喉を鳴らしたり、動くものを追いかけることはよくある。
でもそれだけだ。彼女はちょっとだけ猫に近い人間の女の子で、猫ではない。そう考えていると安心した気持ちが萎んでいって、また不安が込み上げてくる。

「ごめん。迷惑かけて」
「だ、大丈夫だよ!迷惑じゃなくて、心配しただけだから。えっと、その……彼女が、いつもと違うって、ほら、心配になる、し……」

カップを手に肩を落とす彼女に、慌てて気にしないでと声をかけた。
迷惑なんてまったく思っていない。その気持ちが少しでも伝わればと、カップを持つ彼女の両手を包んで眼を合わせて告げる。

「迷惑なんかじゃない。僕は彼氏なんだから、彼女の心配はさせてよ」
「――うん」

頷いて俯く彼女の頬が赤い。つられて自分も顔が熱くなり、恥ずかしくなって同じように俯いた。
お互い何も言えず。でも手は離せずにいれば、カウンターの向こうから、くすくすと忍び笑いが聞こえた。

「仲睦まじいことは、とってもいいことさね。素直なのが一番だ」

視線を向ければ女の人が自分の前にカップを置きながら、楽しそうに囁いた。

「ようこそ、Aisling《アシュリン》へ。特別な日に訪れた、とても幸運なお客さん」

人差し指を口にあてる女の人――店主は、そう言って少女のようにも老婆のようにも見える目をして笑った。

「さて折角の〝special day〟だからね。魔法のフォーチュンクッキーでも如何かな?」

ことり、と小さな白のお皿が自分と彼女の間に置かれる。

「フォーチュンクッキー?」
「この国で言うところの、おみくじみたいなものさ。ひとつ取って割ってごらん?」

彼女と顔を合わせ、首を傾げる。彼女がカップを置くのをみて手を離し、代わりにクッキーに手を伸ばした。
鳥の形をしたクッキーを取り、力を入れて半分に割る。中から出てきた小さな紙片に目を瞬きながら、紙片を開いて中の文字を読んだ。

「――二人の恋は、前途多難……?」

思わず眉を寄せる。そんなこと、自分が誰より知っている。猫の祖先を持つ彼女と、雀の妖の自分。どんなに楽観的に見ても相性はとてもよろしくない。
小さく溜息を吐きながらクッキーをかじる。何だか悲しくなって彼女に視線を向けた。
彼女の指が猫の形をしたクッキーを手に取る。半分に割って中の紙片の文字を読んだ彼女が、そのまま動きを止めた。

「どうしたの?」

聞いても彼女は何も答えない。
ただ頬が先ほどよりも赤くなっていく。

「何が書いてあったの?」

気になって彼女の手元を見れば、小さな紙片には一言。

「――好きをキスで伝えれば、すべて大丈夫……?」

目を瞬く。

「キス……」

遅れて意味を理解して、顔が熱くなっていく。

「好きを……キス、で……」

彼女のクッキーから出てきた紙片。彼女の占いの結果。
つまりは、彼女が、自分に――。
ぽんっ、と情けない音を立てて、雀に戻る。忙しなく辺りを飛び回っていれば、店主に声を上げて笑われた。

「なんだい、なんだい。初々しいったらありゃしない」

笑いながらも、店主はカウンターの下から綺麗な青い缶を取り出す。

「キスが駄目なら、人間になれるチョコレートもあるが、どうするかい?」
「え?」

人間になれる。その言葉にカウンターに下りて、恐る恐る店主へと近づいた。

「まあ、これは別料金になるがね。雀の坊ちゃんが食べれば、猫の嬢ちゃんも安心だろう?」

どうする?と問われて、心が騒ついた。
もしも。もしも彼女と同じ人間になれたのならば。
彼女ともっと近く、隣にいられるのかもしれない。

「――やだ」

けれどそんな淡い期待で近づく足は、彼女の小さな呟きによって止まる。

「このままがいい。このままが好きなの。人の姿も、雀の姿も……全部が好きだから」

真っ赤になった彼女のその言葉に、急いで彼女の隣へと飛んだ。人の姿になって、泣きそうな彼女の背をそっとさする。

「僕も……僕も、そのままの君が好き。猫のような君が、大好き。ごめんね」

小さく謝ると、彼女は俯いたまま首を振る。顔を上げた彼女と目を合わせ、涙の膜が張ったその目を見て、力なく笑った。
彼女もまた眉を下げて笑い。その可愛い姿に惹かれて、自然とその頬に手を当てて、唇を寄せた。

「――っ!?」
「おやまあ」

店主のからかい混じりの声に、今更になって恥ずかしさが込み上げた。
力が抜けて席に座り、温くなったカップに口を付ける。仄かな甘みに息を吐いて、そっと横目で彼女を見た。
濡れた目と視線が合う。深い、森の奥にいるような緑色が真っ直ぐにこちらを見つめている。
その緑色が近づいて、見えなくなる。
代わりに頬に触れたのは、温かくて柔らかな――。

気づけば彼女の手の中で、雀の姿に戻っていた。


「どうやら心配はなさそうだ。なあに、どんな恋にだって、障害がつきものさ。それに悪い魔法を解くのはいつだって、好きな人のキスだって決まっているからねえ」

楽しげで穏やかな店主の声。
妖で在ることも、妖の衝動が残ることも、悪い魔法なんかではない。そう反論したいけれど何も言えず、力が入らず上手く動くこともできない。

「悪い魔法……」

小さく呟いて、彼女は目を瞬いた。指先で頭を撫でながら、彼女はひとつ頷いて。

「あ、戻った」

額に感じた熱。
人の姿を取り、額を抑えて後退った。

「分かった。頑張る」
「何を!?」

静かに何かを決意する彼女に、悲鳴混じりに問いかける。
色々なことがありすぎて、感情が追いつかない。思いが溢れて、じわりと視界がぼやけていく。

「さあさ、お二人とも席にお戻りな。〝special day〟はまだ始まったばかりだ。この魔女の隠れ家Aislingの、美味しい魔法をたあんと召し上がれ」

それでも、頬を染めて笑う彼女と、店主のにんまりとした笑みははっきりと見えた。



20250718 『special day』

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