sairo

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7/21/2025, 3:09:34 AM

人の絶えた校舎の中を、一人の青年と一羽の青い鳥が歩いて行く。

「ここか?」

軽く翼を広げて鳥が示す棚の中に、青年は手を差し入れる。奥を探り、しばらくして青年は手を引いた。
その手の中には、錆び付いた小さなキーホルダー。埃を拭えば、龍が巻き付いた剣が鈍く光を反射した気がした。

「――また見つけたな」

小さく呟いて、青年は教室の窓に歩み寄る。差し込む月明かりにキーホルダーを晒すと、それは丸い光となって教室の中を漂いだした。

――見ろよ!この前旅行に行った時に、母ちゃんが買ってくれたんだぜ。
――すげぇ。格好いいじゃん!
――いいなぁ。俺も欲しかったけど、買ってくんなかったんだよなぁ。

楽しげな声が教室内に響き渡る。
在りし日の一場面。光が淡く照らす場所に、楽しげに話す子供たちの影が浮かび、消えていく。
漂う光もやがて消え、後には静寂だけが残った。

ふっと、青年は笑みを溢した。しかしその目はどこか寂しそうに、悲しそうに揺らいでいる。
そんな青年を見上げ、鳥は小さく鳴き声を上げた。

「あぁ、大丈夫だ……全部、見つけてやらないとな」

身を屈め、青年は鳥の頭をそっと撫でる。目を細める鳥に微笑んでから、教室内を一瞥した。
廃校になり、誰も訪れなくなった校舎。かつてここで、青年は教師として働いていた。
青年がいつからこの校舎で失せもの探しをし始めたのか、青年自身も覚えてはいない。気づけばここにいて、青年に懐く飛ばない鳥と共に失せもの探しを始めていた。

「そろそろ次に行くか」

呟いて、静かに立ち上がる。
鳥は小さく鳴いて、先導するように青年の前を歩き出した。

「まだ飛べないのか?……それとも飛ばないのか」

青年の言葉に鳥は振り返らない。教室を出る姿に苦笑して、青年もその後に続いて教室を出た。



使いかけの消しゴムを、月明かりに晒す。
ふわりと丸い光が教室を漂い、密かな声が聞こえてきた。

――皆には、内緒にしてよね。
――分かってるよ。おまじないの相手は、誰にも言わないから。

くすくすと笑い声がする。

――それにしても、先生かぁ。予想はしてたけどね。
――な、なんで。知って!?
――だって、分かりやすかったし?たぶん皆知ってるよ。

声にならない悲鳴。仄かに光が浮かばせる影が、顔を覆って机に伏した。

――頑張って。両思いになれるといいね。
――うぅ……がんばる。

慰めるように机に伏した影の頭を撫でる、もう一人の影。
密やかな日常が、光と共に消えていく。

「おまじない、か」

何もない手に視線を落とし、青年は小さく笑みを浮かべた。

「何かこそこそやっているとは思ってたが……本当に女子はそういうのが好きだな」

笑う青年に、咎めるように鳥が鳴く。嘴で足を突けば、痛がりながらも青年は楽しそうに鳥を見た。

「悪かった。じゃあ、次に行こうか」

いつものように、鳥に告げる。だが鳥は動かない。
澄んだ瞳が青年を見上げる。ややあって、すべてを理解した青年は静かに微笑んだ。

「そうか……これで、全部なのか」

鳥は鳴く。
それに頷いて、青年はそっと鳥を抱き上げた。

「屋上に行こうか。そこが一番空に近い」

鳥を撫で、青年は歩き出す。
その表情は、微笑みながらも泣いているように見えた。



柔らかな風が吹き抜ける。

「良い風だ。旅立ちに相応しい」

穏やかに呟いて、青年は鳥を抱いたままフェンスの側まで歩いていく。
屋上から見下ろす景色は、青年の知るものとまったく様子が異なっていた。
遠くで瞬くいくつもの灯り。夜だというのに昼と変わらぬ明るさに、青年は目を細める。

「全部探すのに、随分時間がかかっちまったな」

苦笑しながら、鳥を抱く腕を空へと伸ばす。青年を見つめる鳥に向けて、一言告げた。

「飛べ」

ぱちり、と鳥の目が瞬いた。

「後はお前だけだ。今まで、長く付き合わせて悪かったな。もう自由になっていいぞ」

鳥は鳴かない。翼を広げることも、青年に擦り寄ることもなく、ただ青年を見つめていた。
まるで、自分が飛び去った後の、青年のその後を尋ねるように。

「大丈夫だ。お前たちを全員送り出したら、先生もいくから」

だから、と続ける青年の言葉を、強く吹いた風が掻き消した。

――うそつき。

誰かの声がした。

――先生は、いつもうそつきだ。

囁く声と共に、いくつもの丸い光が辺りに浮かぶ。

「これは……?」

目を見張る青年と静かに見つめる鳥を囲うように、光が揺らぎ形を変えていく。
小さな子供たちの姿。青年のかつての教え子たちが、笑いながら囁いた。

――ここから動かないくせに。
――一人で残ろうとしてるの、ばればれだよ。
――先生、寂しがり屋なのに、素直じゃないんだから。
――一緒に行けばいいじゃん。

囁く声に合わせて、鳥が鳴く。

「先生。先生も一緒に卒業しようよ」

鳴き声が言葉になる。
青年の頬を一筋の涙が流れ落ちた。

「――いいのか?」

微かな呟きに、鳥は翼を広げ応える。青年の腕から肩へと移り、その頬に擦り寄った。

「先生が皆の忘れものに祈ってくれたから、皆帰ってこれた。だから、皆で還ろうよ」

鳥の言葉に目を伏せる。しかしその口元は緩く笑みを浮かべて。

「そうだな。先生も皆と一緒に行こうか」

きゃあ、とあちこちで歓声があがる。
子供たちに抱きつかれた青年の体が、少しずつ揺らぎ始めていく。
鳥が鳴く。翼を広げ飛び立ち、青年の周りをぐるりと旋回した。
その声に応えるように、青年が鳴き声を上げた。
低い鳥の声。揺らぐ姿もまた、鳥の姿となり。

「行こうか。途中で逸れないでくれよ?失せもの探しは先生、苦手なんだ」

戯ける黒の鳥が、いくつもの蛍のような光に囲まれ、傍の青の鳥と共に夜空を飛び去っていった。



その学校が何故廃校になったのか、今となって正しく知る者はいない。

とある教師が、自分のクラスの生徒を道連れに死んだ。
その当時流行ったおなじないが、生徒と教師を巻き込んで異界へと連れ去った。
裏山に封じられた祟り神に、生徒と教師が喰われてしまった。

様々な噂が流れた。それのどれが本当で、あるいはすべてが偽りなのかも、最早知りようがない。
やがて、時代に取り残された校舎は取り壊された。そこに学校があったことも、消えた生徒と教師がいたことも、すべて忘れ去られてしまった。
それでも――。


「ちょっと男子!もう少し離れなさいよ」
「なんでだよ。あいつだけ先生の側にいて狡くねぇ?」
「いいの!ちょっとだけでも恋人っぽいことさせないと……デートよ、デート」
「デートぉ!?先生とあいつ、付き合ってんの?マジで?」
「じゃあ、結婚式やろうぜ!誓いのちゅーしよう!ちゅー」
「さいてー。本当に男子ってデリカシーにかけるんだから」

番のように寄り添う二羽の鳥が、消えた生徒のために長い間彷徨っていたのを。
夜に吹き抜ける風だけは、忘れることなく覚えている。



20250719 『飛べ』

7/20/2025, 6:54:13 AM

「あれ……?」

彼女と二人、映画を見た帰り道。知らない路地に迷い込んだ。
いつもは通らない道。好奇心に任せて、彼女と手を繋いだまま歩いていく。
ふと、彼女が立ち止まった。

「どうしたの?」
「ここ。甘い香りがする。木と、草と……知らない水と風の匂い」
「水と風?」

首を傾げながら視線を向ける。そこは雑貨屋ともカフェともつかない、小さな店のようだった。
看板には、不思議な文字で「Aisling」と書かれている。

「入ってみる?」

彼女が感じた香りは、自分には分からない。でも彼女の様子から、嫌なものではないと分かる。
声をかけると、彼女は少し迷ったようにしてから、小さく頷いて扉に手をかけた。



店の扉を開けると、ちりんと軽やかな鈴の音がした。
店の中は外からは想像できないほど広く、不思議な色をした木材の柱や棚が並んでいる。
色とりどりのドライフラワー、布細工や木彫りの雑貨、ハーブティーの香り。

「すごい……」
「雑貨屋さん、なのかな?」

棚に並べられた、手作りの小さな人形たちを見ながら首を傾げる。
不思議な店。見慣れないものしかないのにとても落ち着く空間に、肩の力が抜けていく。彼女の前では格好よくいたくて気を張っていたのがなくなって、どこか夢見心地で彼女に視線を向けた。
少し離れた場所で、彼女は店の柱を見ていた。そっと手を伸ばして、柱に触れる。

「すごく、きれい」

柱をなぞるその指の爪が、次第に鋭くなっていく。
慌てて彼女の側に寄ってその手を取るが、彼女は柱を見たまま、爪も鋭いままでいいなぁ、と小さく呟いた。

「その柱で爪を研ぐのは止めとくれね。猫のお嬢さん」

店の奥から声がした。びくりと肩を揺らして声のする方を見ると、奥から不思議な雰囲気を纏った女の人が現れた。

「その柱は、あたしの故郷のオークで作られてるんだ。店の匂いで酔っちまってるとこ悪いんだがね、ちっと奥においでな」

穏やかな笑みを浮かべる女の人に、焦りながら頭を下げる。
奥へと促されて、まだぼんやりしている彼女の手を引いた。


奥にはいくつかの机と椅子、そしてカウンターの席があった。どうやらここはカフェでもあったらしい。
カウンター席に座る。隣に座った彼女はおとなしく座ってはいるが、まだ視線は柱を向いたままだ。

「心配はいらないよ。猫は鼻がきくからねぇ。ハーブやアロマの匂いに酔っちまったんだよ。少し落ち着けば元に戻るさ」

女の人はそう言って、カウンターの向こうへ行く。店主なのだろうか。手際よく棚からガラスの瓶を選び、ハーブやドライフラワーを手早くブレンドしていく。不思議な模様の描かれたポットに入れて、お湯を注いだ。
ふわり、と湯気と共に甘い香りが立ちこめる。その香りに、彼女は柱からポットへと視線を移して、目を瞬いて首を傾げた。

「〝special day〟のブレンドをどうぞ。特別な日だけに振る舞われる、特別な一杯さ」

テーブルに置かれたカップの中には、色とりどりの花びらが浮かぶ琥珀色のお茶。
惹かれるように彼女の手がカップに伸びる。湯気を吸い込み、カップに口を付ける。

「――美味しい」

小さく呟いた彼女の爪は、元の綺麗に整えられた爪に戻っていた。

「よかった」

カップを両手で持つ彼女の指先を見て、小さく安堵の息を吐く。
初めてのことだ。祖先に猫がいたらしい彼女が、猫のように喉を鳴らしたり、動くものを追いかけることはよくある。
でもそれだけだ。彼女はちょっとだけ猫に近い人間の女の子で、猫ではない。そう考えていると安心した気持ちが萎んでいって、また不安が込み上げてくる。

「ごめん。迷惑かけて」
「だ、大丈夫だよ!迷惑じゃなくて、心配しただけだから。えっと、その……彼女が、いつもと違うって、ほら、心配になる、し……」

カップを手に肩を落とす彼女に、慌てて気にしないでと声をかけた。
迷惑なんてまったく思っていない。その気持ちが少しでも伝わればと、カップを持つ彼女の両手を包んで眼を合わせて告げる。

「迷惑なんかじゃない。僕は彼氏なんだから、彼女の心配はさせてよ」
「――うん」

頷いて俯く彼女の頬が赤い。つられて自分も顔が熱くなり、恥ずかしくなって同じように俯いた。
お互い何も言えず。でも手は離せずにいれば、カウンターの向こうから、くすくすと忍び笑いが聞こえた。

「仲睦まじいことは、とってもいいことさね。素直なのが一番だ」

視線を向ければ女の人が自分の前にカップを置きながら、楽しそうに囁いた。

「ようこそ、Aisling《アシュリン》へ。特別な日に訪れた、とても幸運なお客さん」

人差し指を口にあてる女の人――店主は、そう言って少女のようにも老婆のようにも見える目をして笑った。

「さて折角の〝special day〟だからね。魔法のフォーチュンクッキーでも如何かな?」

ことり、と小さな白のお皿が自分と彼女の間に置かれる。

「フォーチュンクッキー?」
「この国で言うところの、おみくじみたいなものさ。ひとつ取って割ってごらん?」

彼女と顔を合わせ、首を傾げる。彼女がカップを置くのをみて手を離し、代わりにクッキーに手を伸ばした。
鳥の形をしたクッキーを取り、力を入れて半分に割る。中から出てきた小さな紙片に目を瞬きながら、紙片を開いて中の文字を読んだ。

「――二人の恋は、前途多難……?」

思わず眉を寄せる。そんなこと、自分が誰より知っている。猫の祖先を持つ彼女と、雀の妖の自分。どんなに楽観的に見ても相性はとてもよろしくない。
小さく溜息を吐きながらクッキーをかじる。何だか悲しくなって彼女に視線を向けた。
彼女の指が猫の形をしたクッキーを手に取る。半分に割って中の紙片の文字を読んだ彼女が、そのまま動きを止めた。

「どうしたの?」

聞いても彼女は何も答えない。
ただ頬が先ほどよりも赤くなっていく。

「何が書いてあったの?」

気になって彼女の手元を見れば、小さな紙片には一言。

「――好きをキスで伝えれば、すべて大丈夫……?」

目を瞬く。

「キス……」

遅れて意味を理解して、顔が熱くなっていく。

「好きを……キス、で……」

彼女のクッキーから出てきた紙片。彼女の占いの結果。
つまりは、彼女が、自分に――。
ぽんっ、と情けない音を立てて、雀に戻る。忙しなく辺りを飛び回っていれば、店主に声を上げて笑われた。

「なんだい、なんだい。初々しいったらありゃしない」

笑いながらも、店主はカウンターの下から綺麗な青い缶を取り出す。

「キスが駄目なら、人間になれるチョコレートもあるが、どうするかい?」
「え?」

人間になれる。その言葉にカウンターに下りて、恐る恐る店主へと近づいた。

「まあ、これは別料金になるがね。雀の坊ちゃんが食べれば、猫の嬢ちゃんも安心だろう?」

どうする?と問われて、心が騒ついた。
もしも。もしも彼女と同じ人間になれたのならば。
彼女ともっと近く、隣にいられるのかもしれない。

「――やだ」

けれどそんな淡い期待で近づく足は、彼女の小さな呟きによって止まる。

「このままがいい。このままが好きなの。人の姿も、雀の姿も……全部が好きだから」

真っ赤になった彼女のその言葉に、急いで彼女の隣へと飛んだ。人の姿になって、泣きそうな彼女の背をそっとさする。

「僕も……僕も、そのままの君が好き。猫のような君が、大好き。ごめんね」

小さく謝ると、彼女は俯いたまま首を振る。顔を上げた彼女と目を合わせ、涙の膜が張ったその目を見て、力なく笑った。
彼女もまた眉を下げて笑い。その可愛い姿に惹かれて、自然とその頬に手を当てて、唇を寄せた。

「――っ!?」
「おやまあ」

店主のからかい混じりの声に、今更になって恥ずかしさが込み上げた。
力が抜けて席に座り、温くなったカップに口を付ける。仄かな甘みに息を吐いて、そっと横目で彼女を見た。
濡れた目と視線が合う。深い、森の奥にいるような緑色が真っ直ぐにこちらを見つめている。
その緑色が近づいて、見えなくなる。
代わりに頬に触れたのは、温かくて柔らかな――。

気づけば彼女の手の中で、雀の姿に戻っていた。


「どうやら心配はなさそうだ。なあに、どんな恋にだって、障害がつきものさ。それに悪い魔法を解くのはいつだって、好きな人のキスだって決まっているからねえ」

楽しげで穏やかな店主の声。
妖で在ることも、妖の衝動が残ることも、悪い魔法なんかではない。そう反論したいけれど何も言えず、力が入らず上手く動くこともできない。

「悪い魔法……」

小さく呟いて、彼女は目を瞬いた。指先で頭を撫でながら、彼女はひとつ頷いて。

「あ、戻った」

額に感じた熱。
人の姿を取り、額を抑えて後退った。

「分かった。頑張る」
「何を!?」

静かに何かを決意する彼女に、悲鳴混じりに問いかける。
色々なことがありすぎて、感情が追いつかない。思いが溢れて、じわりと視界がぼやけていく。

「さあさ、お二人とも席にお戻りな。〝special day〟はまだ始まったばかりだ。この魔女の隠れ家Aislingの、美味しい魔法をたあんと召し上がれ」

それでも、頬を染めて笑う彼女と、店主のにんまりとした笑みははっきりと見えた。



20250718 『special day』

7/18/2025, 9:51:22 PM

森の中を彷徨い歩いて辿り着いたのは、一本の大きな木だった。
ひんやりとした風が吹いて、痛み疲れた体を冷やしてくれる。ふらふらと惹かれるようにして木の根元、揺らぐ木陰へ近づいた。
そこにはすでに誰かがいた。幹に凭れて、目を閉じている。
眠っているのだろうか。涙で滲む視界ではよく分からない。
乱暴に涙を拭って、恐る恐る近づいた。
誰かは目覚めない。黒く長い髪が地面に広がって、まるで昔のお姫様のようだった。

「――何用だ」

低い声がした。目の前の綺麗な誰かから。
びくり、と肩を揺らして一歩後退る。冷たささえ感じられる静かな眼差しに、止まりかけていた涙がまた溢れ出した。
男の人は苦手だ。特に年上の男の人はとても怖くて、痛い。
手がこちらに伸ばされるのを見て、反射的に目を閉じ身を竦めた。
しかし、痛みは来なかった。
優しく触れられる感触に、そろりと目を開ける。
頭を撫でられている。初めて知る優しく慈しむような撫で方に、恐怖とは違う涙が零れた。

「おいで」

呼ばれて、促されるまま男の人の隣に座る。頭をもう一度撫でる指は、そのまま黒い木の陰を差した。
指差す方を眺めていれば、風もないのに木が揺らめき、小さく影がいくつか別れた。
別れた影がずるりと地面から抜け出して、小さな生き物の形を取る。兎やリスなどの小動物になった影が辺りを駆け回り、小鳥になった影は自由に空を飛び、男の人の肩に留まる。
駆け回る小動物たちが膝に乗り、側に寄り添う。男の人の肩に留まっていた小鳥が、こちらに飛んで今度は私の肩に乗った。
不思議な感覚。温かいような、冷たいような。けれど少しも嫌な感じはしない。
思わず小さく笑みが溢れた、笑ってから、慌てて男の人の反応を覗う。感情の読めない目。少なくとも、気分を害してはいないようで安堵した。

「気に入ったか」

問われて、少し考える。
すべて初めてのこと。嬉しかった。そして楽しかった。
男の人の反応を覗いながら、小さく頷いた。

「そうか」

そう言って男の人は、また指を差す。今度は木の根元。ちょうど私の足下を指し示す。

「掘るといい」

静かにそう言われて、そっと地面に手を触れた。
土を掻く。直前に掘り起こしていたのか、あまり力を入れなくても簡単に掘ることができた。
そのまま掘ると、小さな箱が現れる。閉まりきっていない蓋がかたり、と音を立てた。

「開けてみろ」

男の人の指示で、そっと箱の蓋を持ち上げる。中を覗けば、そこには溢れんばかりのお菓子が入っていた。
それを見て、小さくお腹が鳴った。慌てて男の人を見るが、気分を害した様子はない。

「それはすべてお前のものだ」

私のもの。その意味を理解するとほぼ同時に、箱の中のお菓子に手が伸びた。
夢中で袋を破り、手当たり次第にお菓子を口に運ぶ。初めて知る甘さが、心まで満たしていくようだった。


久しぶりにお腹が満たされ、段々と眠気が訪れる。
頭が揺らぐ。それを見て男の人は手を伸ばして私の頭を引き寄せ、膝に乗せてくれた。
大きな手で目を塞がれる。一瞬だけ体が強張るが、すぐに力が抜けて、意識も遠くなる。

「おやすみ」

静かだけれど穏やかな声に、小さく頷いて目を閉じた。



ふと、目が覚めた。
まだぼんやりする意識で、ゆっくりと体を起こす。辺りはすっかり陽が落ちて、暗闇が森の姿を一層怖ろしいものに見せていた。

「起きたのか」

静かな声に視線を向けた。昼間と変わらない位置に、男の人は座っている。
暗闇の中でも、その姿は何故かはっきりと見えた。
男の人が指を差す。昼間、お菓子が出てきた場所だった。

「掘れ」

男の人の指示に従い、土を掘る。昼間とは違い、硬い土の感触。力を込めて土を掻いた。
そうして土の中から出てきたのは、昼間の箱よりも一回り小さな白い壺。しっかりと蓋が閉められて、中に何が入っているのか分からない。
壺を掘り出し、男の人へ差し出す。男の人は壺を受け取ると蓋を開き、中から小さな丸いものをひとつ取り出した。

「食べろ」

手渡されたそれは、透明な黄色い色をした飴のように見えた。少しだけ戸惑って、飴を手にしたまま男の人へ視線を向ける。
男の人は何も言わない。けれど長い黒髪がゆらりと蠢いた気がして、びくりと肩を震わせた。慌てて視線を飴へと戻し、覚悟を決めて飴を口に入れる。
甘くも、苦くもない味。口に入れた瞬間にとろりと溶け出して、小さく喉を鳴らして飲み込んだ。

「――ぁ」

最初に感じたのは、熱だった。体の内側からじわりと広がっていく。
次に感じたのは、知らない記憶。小さな木の根元に、複数の大人たちが何かを埋めていた。
知らない記憶が流れる度、私の記憶が消えていく。消費されるだけ、苦しいだけの日々の記憶が書き換えられていく。
小さな木が長い年月を経て、生長していく。木と埋められた何かが混じり合い、目の前の男の人になっていく。

「良い子だ」

記憶の書き換えに意識が揺らぎ、体が傾ぐ。それを抱き留めて、彼は優しく背を撫でる。

「眠れ……次に目覚めた時には、お前は私と同等になる」

そっと耳元で囁かれ、意識が深く沈んでいく。
落ちていく。どこまでも深く、静かな場所へ。

「苦しめ、傷をつけるだけの生ならば、いっそ書き換えて在り方すら変えてしまえ」

静かな声が聞こえ。
記憶が変わり、私は彼になった。



鳥の囀る声に、目が覚めた。
体を起こし、辺りを見る。
変わらず綺麗な森だ。ここにいるすべてが愛おしい。
ゆっくりと立ち上がる。木陰を抜けて、陽の光の下で振り返った。
榧《かや》の巨木。共に長く森を見届けてきた、半身ともいえる存在。
その木陰が揺らぐ。影が形を変え、長い黒髪の男の姿を取った。
柔らかく微笑んで、ゆるりと手を振られる。

「いっておいで」

その言葉に小さく頷いた。
榧から離れられない私の代わりに、森を見て回る。それが私の新しい役目だった。

「いってきます」

呟いて、私と榧に背を向け歩き出す。
新しい始まりに、知らず笑みが零れ落ちた。



20250717 『揺れる木陰』

7/17/2025, 9:15:29 PM

差すような強い陽射しの下、陽炎に揺らぐ道を歩いていく。軽率に買い物に出たことを後悔するが、今更戻るのわけにもいかない。
田んぼを横目に、ただ前を見て進む。
夏の陽射しに揺らめく空気の先で、近づく雑木林の木陰が滲んで見えた。

木陰に座り、額の汗を拭う。暑いことには変わりがないが、陽射しが遮られている分、吹き抜ける風が涼しく感じられた。
ぼんやりと陽炎に揺れる田んぼを見つめる。
蝉時雨が響き渡る。視界と相俟って、一段と暑くなったようだ。
思わず溜息を吐く。涼を求めても、これではあまり意味がない。
それならば少しでも早く買い物を終わらせて、部屋で涼んでいた方がいいだろう。もう一度溜息を吐いて、ゆっくりと立ち上がった。
見据える先もまた、陽炎に揺らいでいる。仕方がないと覚悟を決めて、一歩足を踏み出した。

「――っ!?」

纏わり付く熱気とは違う、冷たい何かが手に触れた。
反射的に足を止め、視線を落とす。何かに触れたと思った手には、しかし何もない。
ゆっくりと手を上げる。何かの名残を探すように目を凝らす。
一瞬だけ、揺らめきの中に誰かの手を見た気がした。

「……?」

見えない手に自分の手が繋がれる。ひやりとした感覚に、咄嗟に振り解こうとして。

その瞬間、音が消えた。

煩いと感じられる程の蝉時雨も、風に騒めく木々の音も、遠く微かに聞こえていた車の音さえも。何もかもが聞こえない。
いつの間にか、繋がれた手の感覚はなくなっていた。視線を巡らせ背後を振り返り、視界に映ったものに息を呑んだ。
雑木林の中に、細い道ができていた。その奥から、誰かがゆっくりと近づいてくる。
揺らぐ陽炎が、誰かの姿を曖昧にさせる。そこにいるようでいないような、そんな違和感に何故か胸が痛くなっていく。
ぴしゃん、と。どこからか、微かに水の落ちる音がした。
一定の間隔で落ちていく水音。誰かが近づく度に、まるで足音のように音が大きくなっていく。
ぱしゃん。
一際大きく水が跳ねる音を響かせ、誰かが目の前で止まる。
その顔はやはり揺らいで分からない。
ぼんやりと立ち尽くしている自分に、目の前の誰かは笑ったように見えた。
手を差し出される。大きく角張った手が、取られるのを静かに待っている。

「おいで」

低くもなく、高くもない声音。記憶にない声が痛みとして全身を巡り、一筋涙が頬を伝った。
ゆっくりと誰かの手に自分の手を重ねる。ひんやりと冷たい手に、優しく繋がれていく。
来た道に向き直り、誰かはこちらに視線を向ける。それに頷きを返して、足を踏み出し――。

雑木林の中で、蝉時雨が響き渡った。


はっとして顔を上げた。

「――っ?」

目の前は陽炎に揺らぐ道。
自分の他には誰もいない。ただ、煩いほどに辺りを蝉の鳴く声が満たしている。
直前の記憶が思い出せない。誰かと一緒だったと思っても、その誰かの姿が思い出せない。
はぁ、と溜息を吐く。意識を切り替えるために軽く頭を振って、何気なく背後を振り返る。。
誰もいない雑木林の中の道を一瞥して、前に向き直る。
早く帰ろうと覚悟を決めて、足を踏み出した。





手を繋ぎ、歩いて行く。
とても静かだ。誰の声も、何の音も聞こえない。
繋いだ手に視線を向ける。大きな手。冷たくて、とても心地が良い。
横目で見上げる彼は、やはり揺らいで顔が見えない。少しだけ寂しさを感じながら、視線を前に向ける。
遠く、誰かの影が見えた。こちらに向けて手を大きく振っている。
ばしゃん、と水の跳ねる音。誰かがこちらに駆け寄る度に、ばしゃばしゃと水音がした。
まるで浅い川の上を渡っているようだ。ふとそんなことを思い、近づく誰かの揺らぐ姿を見つめていた。

「おいで」

彼が囁く。駆け寄る誰かを待って立ち止まり、繋いでいた手を強く引いた。
倒れてしまう。傾ぐ体に、思わず目を閉じて。

蝉時雨が響き渡る。


びくり、と肩を揺らして目を開けた。
いつの間にか、雑木林の中の道の前に佇んでいた。
手には白い買い物袋。中の汗をかいたジュースの缶が、がさりと音を立てる。
酷く記憶が曖昧だ。いつ買い物を終えて、ここまで戻ってきたのか。今が現実なのか、それとも夢の中なのかがはっきりとしない。
白昼夢。陽炎の中に、誰かの幻を見ていたような気もする。あまりの暑さに、疲れが溜まっているのかもしれない。
軽く息を吐く。空を見上げれば陽が傾いて、空が青から赤へと色を変え始めていた。
帰らなければ。緩く首を振って、家の方へと歩き出す。
ばしゃりと、足下の水たまりが小さく音を立てた。



それからも夏の陽射しに陽炎が揺らぐと、時折あの夢を見た。
誰かに手を引かれ、雑木林の道を進む夢。夢を見る度に、人が増えていく。
最初に手を繋いだ誰かは手を離し、代わりに両手をそれぞれ違う誰かに繋がれていた。顔は揺らいで見えないが、同年代の同じ格好をした少年少女。もしかしたら双子なのかもしれない。
周りを小さな子供たちが駆け回り、気まぐれに腰に抱きついては離れていく。楽しそうな笑い声。ばしゃばしゃと跳ねる水音。

蝉の鳴く声を聞きながら、玄関を開ける。途端に入り込む熱気に眉を顰め、外に出ることを躊躇した。
玄関先から見える外は、今日も陽炎が揺らいでいる。周りの景色が揺らいで、水の底のように滲ませている。
あぁ、そういえば。ふと、思い出す。
白昼夢を見る時は、いつも陽炎が揺らいでいた。

不意に、音が消えた。

蝉の声も、車の音も、何もかもが聞こえなくなる。
また白昼夢を見ている。そう思いながら、玄関を出て外に出た。
彼が迎えに来る。手を繋いで、一緒に帰るために。

ふらふらと歩き出す道の先に、彼がいた。いつものように黒い着流しを来て、自分が来るのを待っている。

「おいで」

手を差し伸べられる。迷わずその手に自分の手を重ねた。
手を繋いで歩き出す。進む先には、皆が待っている。
こちらに向けて手を振る皆。駆け寄ってくる友人たちに、彼は小さく笑って手を離し、友人たちの方へと軽く背を押した。
するりと、それぞれ両手を繋がれる。同じように駆け寄ってきた子たちに囲まれながら、ゆっくりと歩き出す。
ばしゃり。水音がした。視線を落とすと、いつの間にか地面ではなく水の中を歩いていた。
足首までの深さの水を、ぱしゃぱしゃと跳ねながら歩いていく。顔を上げると、近所の景色ではなくいつもの雑木林の中にいた。

「待ってたよ」

誰かが囁く。

「早く帰ろう」

皆が笑い、友人たちが手を引いて急かす。

進む先が開けてきた。揺らぐ陽炎の向こう側に、記憶にない懐かしい景色が広がっている。
手を引かれ歩いて行く。水が跳ねて音を立てる。
雑木林を抜ける、その瞬間。
また、蝉時雨が――。

「――ぁ」

背後から耳を塞がれた。
冷たくて大きな手の感触。ゆっくりと顔を上げれば、耳を塞ぐ彼がいた。
目が、合った。

「おかえり」

耳を塞がれていても、彼の声ははっきりと聞こえた。今まで聞いていた声ではない、彼の声。
低い、落ち着いた声色。あぁ、と思わず声が漏れる。
両手を引かれ、耳を塞がれて、雑木林を抜ける。
ばしゃんと大きな水音がして、視界が黒く染まっていく。

「おかえり」

友人たちが、子供たちが笑う。
帰ったことを喜ぶ声に。

「ただいま」

低くもなく、高くもない。自分の声が静かに答えた。





「ねえ、聞いた?またあったらしいわよ、神隠し」
「またなの?本当に怖いわよねぇ。いくら数日経てば戻ってくるからといっても、親御さんは心配でしょうね」

ひそひそと、今日もまた噂話が囁かれる。

「それがね、今回はちょっと違うみたいなのよ。何年か前の夏祭りを覚えてる?兄妹が神隠しにあった時の事件」
「もちろんよ。踊りがとっても上手だった子たちでしょう?確かまだ、お兄さんの方は見つかってなかったって……もしかして」
「そう、そのもしかしてよ。また妹さん、いなくなったみたい。玄関から出てすぐいなくなったよううなの。家族の誰も気づかなかったんですって」
「確か、ショックであまり声が出なくなったって前に聞いたことがあるわ。助けを求めようにも、声が出ないんじゃあどうしようもないわよね」
「そうよね。でもショックで声が出なくなるくらい、仲が良かったみたいだし……もしかしたら、お兄さんが連れていってしまったのかもしれないわね」
「あらやだ。じゃあ、お兄さんと同じように戻ってこないかもしれないわね」

怖いわ、と言いながら、楽しそうな噂話は続いていく。

「祭の神様に攫われちゃったのかもしれないわね。本当に踊りの上手な子たちだったもの」
「本当の神隠しだってこと?それなら、もう神隠しは起きないのかしら。考えて見れば、今まで戻ってきた神隠しは、皆女の子だったし」
「そうね。親御さんは可哀想だけれど、気に入られてしまったのなら仕方がないわ」
「可哀想だけれど、これで神隠しが起こらなくなるなら、私たちにとってはありがたい話よね」

可哀想にと繰り返し、よかったと安堵する。そしてすぐに別の噂を話し始める。
一時の哀れみ。噂話など所詮は他人事でしかない。


蝉時雨が響き渡る。
陽炎が揺らぐ。

その揺らぎの先で、楽しそうに笑う子供たちの声が聞こえた。



20250716 『真昼の夢』

7/16/2025, 4:11:54 PM

「あれ?」

ひらり、と落ちたそれを視線で追って、目を瞬いた。
手帳からこぼれ落ちたのは、一枚の写真。拾い上げながらも、見覚えのないそれに眉を寄せる。
写真に写っていたのは、一人の少年。田んぼの畦道を、こちらに背を向けて歩いている。水を張った田んぼに青々と育った苗が植えられていることから、どうやら夏の頃に撮った写真なのだろう。
何気なく裏返す。隅に小さく書かれていたのは、去年の日付だった。

「なんだろうなぁ、これ」

普段使っている手帳から、前触れもなく現れた写真。
怖い気持ちはない。ただどこか切なさを感じて、胸が苦しくなる。
この場所はどこで、写っている少年は誰なのだろう。
記憶を探れど、浮かんではこない。

――大丈夫、心配ないよ。

でも確かに覚えている。
手を引いて。迷わぬように、前を歩いて。

――まいごの、まいごの……。

戯けた歌。
初夏の、あの切り取られた場所。
思い出せない少年は、去年、確かに――。
迷い、帰れぬ自分の手を引いてくれた。

ぽたり、写真の上に涙が落ちる。
忘れてしまった悲しみが溢れ、止めようもなく写真に滲む。
乱暴に涙を拭い、シャツの裾で写真を拭う。
手がかりを求めて、写真を見つめる。
青空。田んぼの畦道。背を向けている少年の顔は、いくら目をこらしても見えない。

「でも、この姿……どこかで……」

妙な既視感がした。
細い肩。少しだけ丸まった背。小さな歩幅。

「――もしかして」

思いついた想像を、首を振って否定する。
あるはずのないことだ。この写真は去年に撮られたと書いてある。
この少年が、幼い頃の自分だなんて。
そんな不可思議なことが、あるはずなんてない。

――また来年。覚えていたら。

誰かの声を思い出す。
それはこの少年の声なのか。それとも自分の声なのか。

――大丈夫。ちゃんと帰ってくるから。

鍵のかかる音。離れていく寂しさに泣いたのは、誰だったのだろう。
ふっと息を吐く。
写真を見てから、何だか落ち着かない。手帳の適当なページを開いて写真を挟み、そっと閉じる。
気晴らしに、少し出かけてみようか。そう思い立って、手帳を机の上に置き、外へ歩き出した。
何気なくズボンのポケットに手を入れる。

「――え?」

左の指先に触れる、硬く冷たい感触。
細い何かを掴んで、ゆっくりと目の前に出す。
小さな真鍮の鍵。入れた覚えのないものだ。
手帳に視線を戻す。青空の下、先を行く少年の姿が、ふと脳裏をよぎる。
鍵をポケットにねじ込み、手帳を鞄に入れて部屋を出る。
行く当てはない。けれども、行かなければならない。
その想いだけで外に出る。
近くのバス停まで向かいながら、ポケット越しに鍵を握りしめた。
懐かしい、忘れてしまった記憶の扉を開けるための鍵。
何故か、そんな気がした。



バスと電車を乗り継いで辿り着いたのは、田んぼの広がる小さな村にある、褪せた鳥居の前だった。
背後を振り返る。広がる田んぼはあの写真の景色に似ている気もしたが、ここがそうなのかは分からない。
前へ向き直る。鳥居の先には石段が続いていて、上の様子は見えない。
ひとつ深呼吸をして、石段をゆっくりと上っていく。
この石段の先に、祠はあるはずだ。

――去年は君だった。だから今年は……。

根拠のない確信に目眩がする。記憶にない感情が渦を巻いて、今にも倒れそうだ。

――賭けに勝ったのは自分の方。早く行かなければ。

ゆっくりだった足が、次第に速くなっていく。最後には一段飛ばしに駆け上がっていった。

息を切らせながら辿り着いた、石段の終わり。視界に映り込む懐かしい光景に息を呑んだ。
思い出す。なぜ忘れていたのかも、すべて。
縺れる足を動かして、社の脇、小さな祠へと駆け出した。
ポケットから真鍮の鍵を取り出して、逸る気持ちを抑えながら錠に差し込む。かちり、と軽い音を立てて開いた錠をもぎ取るように外して投げ捨て。
震える手で、扉に手をかけた。

「――一年ぶり。ただいま」

小さな祠の中。その暗がりの中に、あの写真の少年が膝を抱えて蹲っていた。
閉じていた瞼が震えて、静かに開いていく。
虚ろな目が焦点を結び、自分の姿を捉えると、困ったような顔をして笑った。

「あのまま、忘れてくれればよかったのに」
「ばか。一年ずつの約束だろ」

手を伸ばし、少年の手を掴んで祠から連れ出す。
幼い自分と同じ顔。同じ姿。
元はひとつだった。それを切り離され、こうして二人になった。
同じ血と肉を分けた半身。

「今年は僕の番だから。ほら交代しよう」
「でも……」
「だめ。賭けだっただろ?僕はこうして思い出したんだから」

忘れていた記憶が、戻ってくる。
去年した賭け。すべてを忘れた状態で、一年過ぎる前までに思い出せるか、忘れたままか。
その賭けに、自分は勝ったのだ。

十年も前だっただろうか。神社と田んぼを守るため、村の大人たちは自分たちの片方を柱に据えた。
どちらかはもう覚えていない。
けれど、一人だけで生き続けるのは、お互いに望まなかった。

少年――半身の両手を包み、目を閉じる。
半身と自分。一年毎の交換。
僕が君になり、君が僕になる。大切な二人だけの儀式。
そうして一年を、中身を変えて生きてきた。

目を開ければ、さっきまでの自分が目の前に見えて、思わず笑う。
何度繰り返しても、この瞬間は不思議で可笑しくて堪らない。

「さ、現《うつつ》に戻るよ。今年は僕が手を引いてあげる」

半身の手を引く。去年とは逆の立ち位置。
けれど半身は動かない。迷うように、恐れるように視線を彷徨わせ、ねえ、と泣くような声を上げる。

「賭けは、しないよね?」

ぱちり、と目を瞬かせる。賭けをしようと持ちかけたのは自分ではなく半身であることを忘れてしまったのだろうか。

「僕だけは不公平じゃないか。ちゃんと君も忘れないと、賭けにならない」

頬を膨らませながらそう告げれば、引いていた手を逆に引かれ、強く抱きしめられた。

「じゃあ、戻らない。ずっとこのまま、きみとここにいる」
「それは……むりだよ。祠は小さいんだから、きっと二人だととっても狭いよ」

ちらり、と背後の祠を一瞥し、首を振る。子供の大きさに合わせて建てられた祠だ。特に成長してしまったその体では、一人でも入らないだろう。

「やだ。祠の外でもいい。置いていくくらいなら、よっぽどいい」

抱きしめる腕の力が強くなる。額を合わせて、距離がゼロになる。
目の前の半身の姿が揺らいで、時計の針を巻き戻す。二人同じ姿に戻って、泣きながらも笑った。

「ねえ、いいでしょう?ぎゅって、くっついていたら祠にも入れるよきっと。だからお願い」

距離はない。このまま溶け合って行きそうだ。
泣く半身へと、手を伸ばすべきかを迷う。
今年は自分が柱になる番だ。このまま半身を現まで送り届けて、祠で一人眠るのが役目だ。
けれども心は、魂は迷い続ける。
生まれた時のように、手が繋がっていたのなら。ひとつであったのならば、こんなにも迷うことはなかったのに。
もう一度ひとつになれたのならば。余分な体だけを置き去りに、共に生きていけるのに。

どうして。何度も繰り返し思う。
切り離した大人たちを、少しだけ恨む。
ひとつを切り離して、二人にして。その不完全な僕/君で、一柱を作ったのか。


「祠には、一人しか入れない」

静かに告げる。
見開かれた半身の目から涙が零れ落ちるのを見ながら、そっとその背に手を伸ばす。

「交代もしない。帰りもしない……ねえ、ひとつに戻ろう?一番最初の、正しい形になればいい」

驚く半身の表情が、幸せそうに綻んでいく。
どちらからともなく背に回した手を下ろし、一歩だけ下がる。自分は右手を、半身は左手を差し出し、離れないように強く繋いだ。

「うれしい。やっとひとつに戻れる」
「うん。僕も嬉しい。欠けていたのが、ようやく満たされる」

指の欠けた不完全な互いの手が、正しいひとつになっていく。
もう離れない。引き離す者は誰もいない。
笑い合いながら祠へ向き直る。

「おやすみ。良い夢を」
「おやすみ。ずっといっしょだよ」

寄り添い目を閉じる。
扉の閉まる音がして、それきり何も聞こえなくなった。

二人だけの儀式は、もうおしまい。
これからは、ひとつだけの揺り籠で眠り続けていく。



20250715 『二人だけの。』

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