sairo

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7/4/2025, 11:03:08 AM

遠くへ行きたかった。
どこでもいい。この閉ざされた檻の中から出られるのであれば、どんな場所でも。
何故自分はここにいるのか。いつからいるのかすら、覚えてはいない。
すべてが曖昧に解けてしまうほど時は無常に過ぎ、己から何もかもを奪い去っていく。
己を慈しむ腕の温もりも、慰めの言葉も。
すべては時と共に過ぎ、朽ちていく。

遠くへ、この檻の向こう側へと行けたのならば。
あるいは、この檻の中へと慈悲深い誰かが再び訪れてくれたのならば。

朽ちた数多の幻想を夢見て、目を閉じる。
残された残骸だけが、唯一の慰めだった。



かつん、と音を立て、誰かが石段を降りてくる気配がした。
目を開け、視線を向ける。
淡い期待は、だが降りてくるその姿を認めて、落胆に変わった。
無表情で、冷たい気配を纏った男。
まだ年若い青年に見える彼は、決して己をここから出さない。定期的に訪れては、格子の前の行燈の蝋燭を変え、格子に鎖を巻きつける。己を外に出さぬための封を重ねていく。

「ここから出してくれ」

懇願は冷たい一瞥で、なかった事にされる。
無機質な、ものを見るような目。隠そうともしない嫌悪に濡れた視線に、ただ悲しみだけが込み上げる。

「お願いだ、どうか。どうかもう解放してくれ」

男は答えない。視線を向ける事もなく、黙々と格子に鎖を巻いていく。
変わらない男の態度。最初がいつか記憶にないほどの昔から、この男は変わらない。己に対する態度も、そしてその容姿も何一つ。
縋るように伸ばした腕を、男は歯牙にもかけない。ないものとして扱い、慈悲の一つもかけはしない。

「私が何をした?何故こんな酷い仕打ちを受けなければならない?」

思わず問いかける。答えがないと知りながらも、これ以上覚えのない咎を受け続けるのは耐えられなかった。
だが予想に反し、蝋燭を変え終えた男の動きが止まる。徐に立ち上がりこちらに視線を向けると、無言で指を差した。
己の腕の中にある、慰めの欠片。かつては温もりを与えてくれたそれを指し示され、咄嗟に隠すように抱き込んだ。
この男はささやかな慰めすら否定し、奪うというのか。俯いて、男の無機質な目から逃げ出した。
どうして変わってしまったのか。
ふと、過ぎていく思いに、唇を噛み締めた。

昔はこんな子ではなかった。朗らかに笑い、己の後に付き従う、優しい子であったのに。

疾うの昔に溢れてしまった記憶の残り香が、痛いほどに胸を締め付けた。





薄暗く、不気味なほどに静かな森の奥。
小柄な少年が、道なき藪を掻き分け歩いていた。
その足取りは酷く覚束ない。虚ろに開いた目は、まるで夢を見ているかのようにぼんやりと空を見つめていた。

「ここで何をしている」

不意にかけられた冷たい言葉に、少年は足を止める。

「この先は立ち入り禁止だ。さっさと帰れ」

鋭さを含んだ声音に、少年は体を震わせ目を瞬く。虚ろだった目が焦点を結び、困惑を浮かべながら辺りを見渡した。

「え……ここ。どこ?」
「聞こえなかったのか。早く戻れと言っている」

苛立ちを隠そうともしない声。びくりと身を竦めて視線を向ければ、どうやら声は少年の向かう先から聞こえているようであった。

「えっと、その……」
「来た道を戻ればいいだけだ。死にたくないなら、早く帰れ」
「は、はいっ!」

強い言葉に、少年は慌てて来た道を引き返す。
恐怖に涙目になりながら、何故ここにいるのかを思い出そうと記憶を辿る。だが思い出せるものは何もなく、手がかりを求めて背後を振り返った。

「――あ」

草木に埋もれるようにして、僅かに建物が見えた。
神社にある社のような、小さな建物。見知らぬ山奥。
少年の記憶が、ある一つの言い伝えを思い浮かべる。

――森の奥には、人喰いの鬼が封じられている。

ひっと、恐怖に引き攣る声を溢し、少年は急いで来た道を駆け抜ける。
言い伝えは本当だった。封じられても尚、人を求めて呼ぶ鬼。
声が止めなければ、今頃鬼に喰われていただろう。

涙で歪む視界の中。少年は何度も足を縺れさせながら、紙一重で助かった自身の幸運に感謝した。



少年の姿が去っていくのを見届けて、男はひとつ息を吐いた。
少年が村に戻れば、また鬼の話が広まる事だろう。
複雑な思いを抱えながら、男は踵を返し社へと向かった。
中へと入り、静かに座る。この地下で今も封じられている、村の者が鬼と呼ぶ存在に思いを馳せて目を伏せた。

人を喰らう鬼。
それは正しくもあり、誤りでもあった。
この地下にいるのは、鬼ではない。
遠い昔、憑坐《よりまし》として幼い頃から託宣《たくせん》を受け続けた男の兄の成れの果てだ。
元服を過ぎても憑坐として在ったためか、兄はいつからか奇行を繰り返すようになった。家畜の血を啜り、夜半の頃に幽鬼の如く彷徨い歩く。
そして、最後には人を喰らった。

兄はきっと覚えてはいない。
男だけが覚えている。

じっとりとした熱気が肌に絡みつくような夜の事だった。
兄を止めるため掴んだ手を、逆に引かれた。
兄の美しい顔《かんばせ》と、口から覗く人ならざるモノの牙は、男の記憶に刻まれ消える事はない。
その夜、弟は死んだ。

死んだはずであった。

不意に声が聞こえた。兄の嘆く声。どうして、と繰り返される悲痛な声音。
どうして、と問いただしたいのは男の方だ。

死んだはずの弟は、今のこの見知らぬ男の体で目覚めた。
傍には泣きながら笑う兄。そして、弟の骸。
混乱する男に兄は、託宣に従い死んだ弟に新たな体を与えたのだと言った。
罪の意識など何一つ感じず、純粋に男が目覚めた事を喜んでいた。
その瞬間に、男は悟った。男の敬愛する兄は、もうどこにもいないのだと。
故に、男は父と共に兄を封じた。骨となった弟の骸を抱き、呆然と閉じる格子を見つめる兄。その目は、まるで何も知らない幼子の純粋さを湛えていた。

それから果てのない年月を、男は兄と共に在る。
封を重ね、時折現れる兄の嘆きに呼応した子供らを追い払う。
その繰り返しに、男は疲れていた。
歳を取らぬこの体。鼓動も熱もない、死者の体。
兄はもう、何一つ覚えていない。それが余計に男を苦しめる。

かたり、と音がした。
そろそろ新たに封を重ねなければならない。
しかし男が立ち上がる様子はない。項垂れてかりかりと格子を引っ掻く音と、兄の嘆きを聞いている。

兄は遠くへ行きたいのだと言っている。
ならばそれを叶えてもいいのではないか。
いくら男が追い払えど、その目を潜り抜けて子供は兄の元へ訪れる。束の間の慰めを兄へ与え、最後にはその身を犠牲にする。
完全に封じる事が出来ないのなら、解放しても然程変わらないはずだ。
それに、これが託宣だとしたら。兄の言葉は神の言葉だ。人を絶やす事が、神の意志ではないだろうか。

自嘲して、男はゆるゆると立ち上がる。重い足を引きずって隠し戸を開け、石段を降りる。
男はこの永遠を与えた兄を恨んでいる。だが、同時に兄を慕い続けてもいた。

「ここから出してくれ」

兄の懇願に反応を見せず、男は黙々と封を重ねていく。
横目で伺う兄の周囲には、幾つもの骸の山。そして、その腕に抱かれた、細く白い骨。
兄が男の――弟の骨を手放さぬ限り、男は兄を封じ続ける。
兄に罪を重ねさせない。これ以上、人から逸脱させはしない。
それが、男が兄に対して出来る唯一の事だった。



20250702 『遠くへ行きたい』

7/3/2025, 4:48:39 PM

――拝啓
初夏の候、ご健勝のことと存じます。

見知らぬ人から送られて来た手紙には、祖父の家を継いでほしいと書かれていた。
一度も会った事のない祖父。その遺言に、家の事が書かれていたらしい。
興味はなかったが、どちらにしても手続きで一度会いに行かなければならない。調べた住所が県を跨いだ山奥にあるのを見て、思わず嘆息する。
手紙には最寄駅までの切符も同封されていた。
まるで地獄へ導く招待状のように見えて、知らない祖父を密かに恨んだ。





手紙に従い、山奥の無人駅で降りた。
小さくて、古びた駅だ。今も使われている事が信じられないほどには。
降車したのは自分ひとり。
重い溜息を吐き、地獄への一歩を踏み出した。

駅舎の外には、一人の青年の姿があった。

「ようこそ、おいで下さいました」

穏やかな微笑みを浮かべる青年に先導されて、村の奥へと向かう。
昼だというのにどこか薄暗い村には、誰の姿もない。
ただ、周囲の家の中からは、人の気配がする。こちらの様子を窺い、ひそひそと何かを話している。
視線を向ければ、僅かに開いた窓の隙間から誰かの目が見えた。

「お気になさらず。娯楽のない村ですから、新しい人が珍しいのですよ」

僅かに眉を下げ、青年は言う。
目が合った瞬間に、静かに閉じられた窓を見ながら、そうですかと冷たく返す。
それに理解は出来ても、納得はいかない。酷く不快だった。全身に絡みつくような得体の知れない何かに耐えながら、早く帰る事だけを思い足を進めた。
やはり、ここは地獄に違いない。



屋敷は村の一番奥に、ひっそりと建っていた。

「こちらです」

青年の後に続いて無言で歩く。
屋敷の中は、外の暑さが嘘のように涼しく、そして静まり返っていた。道中の好奇な、あるいは警戒の目も感じない。
完全な無人だった。屋敷全体が眠っているようだ。

「誰もいないんですね」
「はい。今は屋敷の管理のため一時的に私も住まわせて頂いておりますが、あなたが継いだ後はあなただけの屋敷となります」

私だけの屋敷。思わず眉が寄る。
大きな屋敷に一人で住むのは現実的ではない。手入れが回らず、仕事にも影響があるだろう。
それに外に出るにも、あの村を通らなければ駅にはつかない。あのいくつもの視線を思い出すだけで、きっと屋敷を出る気も失せてしまうに違いない。
まるで牢獄だ。
屋敷を継ぐ気持ちなど、欠片も湧いてこなかった。


「こちらでお待ちください。お茶の用意をしてきます」

通された部屋は、随分と殺風景な和室だった。
中央に大きめの座卓がある以外は何もない。井草の匂いが漂う和室。
青年を待つ間、どう断るかを考える。
初対面の相手に、はっきりと断れるほどの度胸はない。けれどこのままでは、継ぎたくもない屋敷を継がされてしまう。
頭を悩ませていれば、静かに襖が開き、盆を手にした青年が入ってきた。

「粗茶ですが」

そう言って目の前に置かれたコップには、氷の入った冷茶が注がれていた。
礼を言って、コップに手を伸ばす。随分と喉が渇いていた。無理もない。早朝から電車を乗り継いでこの村に着き、炎天下の中、あの不快な村を通り過ぎて来たのだから。
からん、と涼やかな音を立てる氷に誘われるように口をつける。ほのかな甘みに、つい一気に冷茶を飲み干してしまった。

「道中、お疲れだったでしょう。詳しい説明は明日にして、今日はゆっくりとお休みください」
「え、でも……」
「どちらにしても、電車はもう来ないのです。ですので、今日はこの屋敷でゆっくりとお過ごし頂いて、手続きなどの話は明日行いましょう」

電車がない。その事実に眉が寄るが、何も言わずに新しく注がれた冷茶に口をつける。
密かに溜息を吐いて、帰れぬ事にどこか漠然とした不安が込み上げるのを感じていた。




ふと、目が覚めた。
見慣れぬ天井に、一瞬どこにいるのか分からず混乱する。
体を起こし、辺りを見渡した。薄暗い、殺風景な和室。文机と座椅子、そして奥に飾られた大きな水晶を見て、夕飯後に案内された部屋なのを思い出す。
深く溜息を吐いた。あの後、結局夕飯をご馳走になり、そのまま泊まる事になってしまった。
親切な青年は、自分がこの屋敷を継いでくれると思って疑っていない。その事が余計に心を重くさせる。
この屋敷を継ぎたくはない。だがそれを、あの青年に伝えるのは、悲しませてしまう気がして今日は何も言えなかった。
どうすればいいのか。悩み彷徨う視線が、何気なく水晶を向く。
大きな水晶。澄んだ美しさを湛えるこのクリスタルは、けれどその内側に無数のひびを宿しているのを知っている。
布団を抜け出し水晶に近づきながら、青年の言葉を思い出す。

――この水晶には、手を触れないでください。

確かに下手に触るとひびが広がり、割れてしまいそうだ。触れてほしくない理由は分かる。だが、ならばしまっておけばいいという疑問の答えは、理解が出来なかった。

――水晶は家ですから。家をしまうなど、おかしいでしょう?

水晶が家。この屋敷の象徴という事だろうか。青年は詳しく語らず、部屋を出てしまったため、それ以上詳しくは聞けなかった。

「水晶は、家……」

呟いて、手を伸ばす。
もしも、水晶が割れてしまったのなら、この屋敷も同じように壊れてしまうだろうか。そうなれば、屋敷を継ぐ事なく自分の家に帰る事が出来るのではないか。
くだらない妄想に、思わず苦笑する。水晶に触れる寸前で手を止め、指先で撫でるふりをして戻した。
明日、青年に直接屋敷を継ぐ意思がない事を伝えよう。
そう心の中で決意して、もう一眠りするため立ち上がった。

ぴしり、と。
微かな音に、身を強張らせた。
恐る恐る、水晶へと視線を向ける。暗がりの中でも、何故かはっきりと見える水晶。内側に走る無数のひびとは違う、外側に新しく走ったひびに息を呑んだ。

ぴしり、ぱきっ。
呆然と見ている目の前で、次第にひびは大きくなっていく。
泣きそうなほど歪んだ自分の姿を無数に映し、広がるひびがそれを砕いていく。
そして――。


ぱきん、と。
いっそ儚い音を立てて、水晶は粉々に砕けてしまった。




くすくす。
どこからか、笑い声がした。

「――っ、誰?」

視線を巡らせても、誰の姿もない。

くすり。くすくす。
笑い声が室内に響く。
数を増やし、反響して、密やかな笑い声は次第に大きな嘲笑へと変わっていく。
咄嗟に部屋の出口に向かい駆け出した。開け放たれたままの戸を抜けて、家の外へと向かう。

「いやっ、なんで……?」

しかしどんなに廊下を進んでも、出口が見えてこない。
角を曲がる。走る。そしてまた角を曲がり。

くすくす。
おかしい。何故、角を何度も曲がっているのか。
何故、こんなにも廊下の先が長いのか。
同じくような景色。同じ角。同じ道。
出口が――終わりが、どこにも見えない。

ずるり。
背後から、何かを引きずるような音がした。

「来ないで。来ないで、やめて……」

うわ言のように呟いて、只管に走る。
速度はもう上がらない。息が切れ、心臓の痛みに、視界が滲み出す。
足は止められない。止めてしまったら、そこが自分の終わりだ。

ずるり。ずるっ。
引きずる音は決して早くはないのに、それでも離れない。常に同じ距離を保ち、追いかけてくる。

「いや。いや、やだ……あぁ、いやぁ」

くすくす。くすり。
角を曲がり、廊下を走る。
滲む視界では、もうここがどこなのか分からない。

不意に、音が消えた。
笑い声も、引きずる音も。
走る足音も、呼吸音さえも何もかも。
僅かに速度を落とす。角を曲がりながら、そっと背後に視線を向けかけて。

くすり。
耳元に吹き込まれる笑い声に、声にならない悲鳴をあげて、再び果てのない廊下を走り出した。

何度目かの角を同じように曲がる。
同じようにその先に続く廊下を駆け抜けようとして。
目の前の何かにぶつかり、止まった。

「あ、あぁ」
「どうしましたか?」
「私。私、は……水晶が」

穏やかな声音。案内をしてくれた、青年の。

「水晶?」

落ち着かせるように背をさすりながら、青年は背後へと視線を向けた。
気づけば、また背後の音が消えている。
聞こえるのは自身の荒い呼吸音と心臓の音。
息を整えながら、恐る恐る振り返る。

「――いない?」
「えぇ。ここには私とあなた以外には誰も入っていないはずですが」

少しだけ困惑を乗せた青年の声が遠い。滲んだ視界でもはっきりと映るのは、来た時と何も変わらない廊下。
しばらく呆然と見つめていれば、あぁ、と何かに納得した青年の声が聞こえた。
視線を戻し、青年を見る。
小さく頷いた青年が、笑ったように見えた。

「割れたのならば、繋がなければ」

ずるり。
歌うような囁き。背に回る腕が、すべての終わりを宣告する。

ふふっ。
耳元で誰かの忍び笑いがした。冷たい何かが触れる足を掴み、這い上ってくる。

「あぁ、いや……や、ぁ」
「あなたの、その命で」

青年の腕が離れた。けれどもう動けない。
足も、腕も。体のすべてが何かに掴まれ、自分の意思では動かす事が出来ない。
涙を拭われ、視界が鮮明になる。
穏やかな微笑みを浮かべる青年。
そして、水晶のように透明な、見えない何か。

――つかまえた。

青年と目が合う。

――おかえりなさい。

怯えた自分の姿を映した水晶の目が、嬉しそうに歪んでいた。





蝉の声を遠くに聞きながら、女は案内されるままに屋敷の奥へと歩いていく。
時代に取り残されたかのような、広く古い屋敷。丁寧に手入れをされているのだろう。屋敷には傷み一つ見当たらない。
屋敷に来るまでに通り過ぎてきた村もまた、時が止まったかのような古さがあった。不躾ないくつもの視線を思い出し、女の表情が僅かに曇る。

「申し訳ありませんが、私……」
「そのお話は明日に致しましょう。長旅でお疲れでしょうし、帰りの電車は明日にならなければ来ないのです。ですので今日はゆっくりとお休みください」

案内していた青年は、そう言って微笑みながら女を振り返る。

「それに一晩過ごしてみれば、この屋敷が気にいるかもしれませんし」

そう言いながら、青年は奥のある一室の前で立ち止まった。遅れて女が立ち止まるのを見て、戸に手をかける。

「屋敷のすべては、継いで頂けましたらあなたのものとなります。ですが一つだけお願いがあるのです」

静かに戸を開ける。薄暗い室内に足を踏みいれる。
調度品の少ない部屋だ。文机と座椅子、そして奥に飾られている大きな水晶しかない。
水晶は随分と古いもののようだ。内側には無数のひびが入り、周りの景色を歪めて映している。

「この水晶には、くれぐれも、手を触れないでください」

側に寄り、青年は愛おしげに水晶を見つめながら告げる。

「家が壊れてしまうのは、可哀想でしょう?」

歪む景色を映す水晶の中に、膝を抱えて眠る誰かの姿が見えた気がした。



20250702 『クリスタル』

7/2/2025, 9:54:46 AM

微かに薫る線香の匂いに目が覚めた。
いつもよりも早い朝。外もまだ薄暗い。
カーテンを引き、窓を開ける。
肌に纏わり付く湿った空気。気の早い蝉の鳴く声。
朝靄を歩く人。庭の小さな花壇で、花の手入れをする祖母の姿。
ひとつ息を吐いた。目を伏せて、窓を閉める。
微かに線香の匂いがした。庭にいる祖母がゆっくりと立ち上がり、此方を振り返る。
それに気づかない振りをして、顔を洗うために部屋を出た。
気づかれてはいけない。祖母は二年前に亡くなっているのだから。
また一つ息を吐いた。重苦しいこの思いを息と共に吐き出した。
彼が帰ってくる。
今年もまた、夏が来てしまったのだ。



着替えて、朝食を取りながら、ちらりとキッチンを覗う。
洗い物をする母の隣。祖母が寄り添うように立ち、母を静かに見つめている。

「今年も綺麗に咲きそうよ。ちゃんとお世話をしてくれてありがとうね」

母は気づかない。手を止める様子もない。
祖母はそんな母を気にせず、にこにこと感謝の言葉を述べていた。
零れ落ちそうになった溜息を呑み込んで立ち上がる。食べ終えた食器を持って、出来るだけ祖母を見ないように俯きながら、キッチンへと向かう。

「ごちそうさま」
「もういいの?いつもより元気もないみたいだし、大丈夫?」
「暑いけど、ちゃんとご飯を食べないと駄目だよ。夏に負けてしまうからね」

心配そうな祖母には視線を向けず、母に食器を手渡しながら小さく笑ってみせる。

「大丈夫。ちょっと暑くていつもより食欲がないだけ」
「そう?無理はしないでね。お祖母ちゃんも夏の暑さに食欲がなくなって、そのままどんどん悪くなっちゃったんだから」

悲しげな目をして仏間へと視線を向ける母に、大丈夫だと繰り返し、キッチンを出る。
体調は問題ない。問題があるのは心の方だ。
行きたくないと思う気持ちに無理矢理蓋をして、準備を整えていく。
重くなっていく足を引きずって、玄関で靴を履き扉に手を掛けた。

「いってきます」
「いってらっしゃい。ちゃんと嫌な事は嫌っていうんだよ。それでも無理矢理手を引かれた時は、ばあちゃんが守ってあげるからね」

優しい祖母の声に、一瞬だけ止まる。
心の中でありがとうと呟いて、扉を開けて外に出た。





茹だるような暑さの中。煩い程の蝉の鳴く声が辺りに響き渡る。
足取りは重い。それは焼け付くような陽射しや、じっとりとした湿気だけが原因ではない。
この道の先。角を曲がってすぐの場所に、小さな花屋がある。
色鮮やかで瑞々しい花。可憐に笑う店員の女性。
その女性を見つめる、彼。
夏はきっと彼の事も連れてきているのだろう。

角の前で一度立ち止まり、そっと足を踏み出した。
店先に並べられる花達は、浴びたばかりの水の名残を煌めかせて生き生きとしている。花に水を与える女性も、陽の光に負けないくらいに輝いている。
その生に満ちた場所に、彼はいた。
青白く表情のない、虚ろな目をした彼が、女性の側に佇んでいた。
女性は気づかない。笑顔で花の手入れをし、他の店員と楽しげに何かを話している。
彼は女性だけを見つめ、ゆっくりと手を伸ばした。女性の腕へと伸びた手は、けれど掴む事なくすり抜ける。
そっと目を逸らした。
出来るだけ静かに花屋の横を過ぎる。強くなる線香の匂いに眉を寄せながら、俯き足を速めた。
視界の端で、彼の足がこちらを向いたのが見えた。それに気づかない振りをして、只管に足を前へと進めていく。
気づいてはいけない。気づいた事に気づかれてしまったら、どこまでもついてくるから。


「無視するなよ。見てたんだろ?可哀想な俺を」

後ろから聞こえる彼の声。
聞こえない振りをする。ただの悪あがきだけれど、これ以上彼に近くなりたくなかった。

「冷たい奴だな。恋人に気づかれず、触れられないのを見ただろ。慰めてくれてもいいじゃないか」

声が近づく。視界の隅に彼の足が見えた。

「あいつもお前も、変わっていくな。あいつはもう俺を忘れて次の恋人を作って楽しそうだし、お前も新しい道を進もうとした……そんな事許さないし、結局相手は逃げ出したみたいだが」

思わず足を止めた。止めてしまった。
新しい道。逃げ出した相手。
それは、もしかして先日の――。

「お前しか俺が分からないのに、俺を忘れて別の男のところになんていかせない。何度でも邪魔をしてやるよ。悪夢を見せて、少しばかり不幸を与えれば、どんな奴だってすぐにお前から遠ざかる」

楽しそうな、歪んだ笑い声。
立ち止まった事で正面に回り込んだ彼が、手を伸ばす。俯く視界で、青白い手が私の手首に絡みつき引くのが見えた。
ひんやりと冷たい手。爪を立てられ、痛みに顔を上げた。

「あれだけ俺を好きだと言っておきながら、死んだらさっさと忘れるなんて許さない。お前だけが俺を見て、俺に触れられるんだ……絶対に、逃がさない」

虚ろな、濁り白濁した彼の目に見据えられ、体が硬直する。
血の通わない白い顔。線香の匂いが彼の葬式を思い起こさせる。
最後に見た、彼の顔。棺で覚めない眠りについていた彼が、目覚めてここにいるような錯覚を覚えて胸が苦しくなる。

「――やめて」

小さく、願うように呟いた。
手は離れない。さらに強く爪を立てられ、痛みに眉を寄せて短く悲鳴を上げた。
彼が内側へと入ってくる。皮膚を破り、血を介して全身に彼が浸食し、私という存在を根源から変えようとしている。
ありもしない幻想を見て、その恐怖にじわりと涙が滲み出した。

「止めない。このまま先に進むなら、いっそ同じ場所まで引き込むだけだ。孤独と絶望を、お前の命で鎮めてもらう……俺と同じ日、同じ場所で死んでくれ。この終わらない夏に、俺だけ置いていかせはしない」

手を引かれた。強く、逆らう事を許さないように。

「いやっ……!」
「っ!?」

けれど何か乾いた音がして、彼は掴んでいた私の手を離す。
滲む視界の中、彼の手が力なく垂れ下がっているのが見えた。

「祖霊、か。正しく祀られてるなんて、贅沢だな。羨ましいよ」

彼の小さな呟きと共に、背後から誰かに抱きしめられているような温もりを感じた。
線香の匂い。でも彼の側にいる時のような苦さは感じない。
甘く柔らかく、落ち着けるような匂いだった。

「いいよ、夏は始まったばかりだ。それに、本当に嫌がってるって訳でもない。迷いがあるなら、まだ入り込む余地はある」

虚ろな無表情が歪み、笑みのような怒りのような不思議な表情を作る。
呆然と見ていれば、やがて彼の姿は薄くなり、陽炎に紛れて見えなくなった。

深く息を吐く。
背中の温もりはもう感じない。けれどそれが誰だったのか、見なくても分かる。

「お祖母ちゃん」

そっと呟いた。
俯く顔を上げ、涙を拭い歩き出す。

蝉の声が響く。強い陽射しが肌を焼く。
夏が来た。
死者が還る、夏がやってきていた。



20250701 『夏の匂い』

7/1/2025, 9:47:42 AM

――雨上がりの夜に、一人で外に出てはいけない。

幼い頃から母に何度も言われてきた事。
その理由を、母は悲しげな目をして海に攫われるからだを説明した。
私も、周りの友人達も、その話を親から聞かされてはいたが、誰一人信じてはいなかった。

「雨上がりの夜に、外に出ては駄目よ」
「どうして?」
「――布に攫われてしまうのよ。海から現れた、柿渋色の布が子供を攫うの……お母さんの好きだった人も、昔攫われてしまったわ」

悲しい目をして笑う母に、信じていないなど言えるはずもなかった。



「布が怖い。赤の布がやってきて、連れて行かれる」

梅雨入り前。友人が学校に来なくなった。
お見舞いに尋ねると、部屋の隅で友人は震えながら布が怖いと繰り返した。

「赤い布?茶色の布じゃなくて?」
「違う。赤い布よ。部活の帰りに見たの。海の方から赤い布が来るのを……私、行きたくない。知らない人のところになんて、そのままずっと帰れないなんて絶対にいやっ!」

首を振って泣きじゃくる友人は、それから数日が過ぎて姿を消した。友人の両親は何も言わず、それから程なくして残された一家はどこかへ引っ越してしまった。
それから、少しだけ布が怖くなった。
柿渋色の布。赤い布。攫われた母の好きだった人や友人。
友人は知らない人の所へ行ってしまったのだろうか。友人の家族も、友人の所へ行ったのだろうか。
はぁ、と溜息を吐く。学校からの帰り道。
朝に降った雨のせいで地面はぬかるみ、じっとりとした湿気が肌に纏わり付いて気持ちが悪い。早く帰ろうと足を速め、何気なく海の方へと視線を向けた。

海の上を何かが漂っている。海に溶けてしまいそうな深い青が、海の上でゆらりと踊り、風に乗って空に舞う。
布だ。青の布が空を漂い、風に乗ってこちらへやってくる。

――海から現れた布に攫われる。
――布が、怖い。

ひっと短く悲鳴を上げて、急いで家に駆け込んだ。
部屋に籠もり、深く息を吐く。扉を背にずるずるとしゃがみ込んで、吹き出す汗を拭い乱れた呼吸を整える。
心臓が痛いくらいに脈を打っている。悲しそうな母の目、友人の怯えた目が浮かび、涙が滲み出す。
不意に、視界に青が揺らいだ。
びくりと体を震わせて、恐る恐る視線を向ける。

「――なんだ。カーテンか」

青いカーテンが、僅かに空いた窓から吹き込む風に揺れている。
迷いながらもカーテンに近づいた。外に近づくのは怖かったが、開いた窓をそのままにしている方が怖ろしい。
ゆっくりと窓に近づき、手を伸ばす。窓をしっかりと閉めて鍵を掛け。
何気なく窓の外へと視線を向けて、息を呑んだ。

遠く、海の方からゆっくりと。
あの深い青をした布が、近づいてきていた。





あれからずっと、あの青の布が離れない。
どこへ行っても、何をしていても、視界の端に必ず青がちらついていた。
柿渋色でも、赤色でもない。底の見えない海のような深い青色。
青が離れなくなってから五日が過ぎ、六日が過ぎて。
外に出るのが怖くなった。

「お母さん」
「大丈夫よ。家から出ないでね。招き入れなければ、きっと大丈夫だから」

母はそう言って私を抱きしめ、朝早くからどこかへ行ってしまった。
神仏に頼りに行ったのかもしれない。
部屋の中で一人、膝を抱えて蹲る。少しでも窓から離れるように。
そう言えば、姿を消した友人も同じように窓から離れて怯えていた事を思い出した。赤い布に怯えていた彼女。
彼女は今、どこへいるのだろうか。


ふわり。
視界の端に青がちらつき、はっとして顔を上げた。
いつの間にか部屋は暗く、じわりとした湿気を纏う空気が漂っている。どうやら少しばかり眠ってしまっていたようだ。
部屋はしんとして静まりかえっている。母が帰ってきた様子はみられない。

ひらり。
視界の隅に青がちらつく。
視線を向ければ、締め切った青のカーテンが少しだけ揺れているのが見て取れた。
窓を開けた記憶はない。別の所から吹いた風にカーテンが揺らいでいるだけだ。
そうは思うが、不安は消えない。カーテンの向こうは見えず、窓が開いているのかも、あの布が外にいるのかも分からない。
ゆっくりと立ち上がり、窓に寄る。変わらずカーテンは微かに揺れて、向こう側を見る事は出来ない。
手を伸ばした。揺れるカーテンに、一度だけ躊躇して触れる。
その瞬間、カーテンが手を掴むように絡みついた。

「――っ、いや!」

慌てて振り解こうとするもカーテンは解けない。それどころか手首に腕に絡みついて、全身に巻き付こうとする。
必死に藻掻き暴れていれば、足が縺れて倒れ込んだ。痛みに呻いている間にも布はどんどん体に巻き付いて、身動き一つ取れなくなってしまう。
僅かに動く首を動かして、窓を見た。

「そんな……」

カーテンはそこにあった。
揺れる事もなく、私の体に巻き付くでもなく、静かにカーテンはあった。

「お母さん」

目を伏せて、力を抜く。視界を覆い出す布に、じわりと涙が滲んだ。
どうして、という疑問よりも、帰れなくなる事が悲しかった。





気づくと、暗くて狭いどこかにいた。
開いた扉から差し込む、丸くて淡い二つの光以外に灯りはない。それでも室内を見渡せる暗いには部屋は狭く、何もなかった。
ただ一人、目の前にいる男の人を除いて。

「だれ……?」

首を傾げて問いかける。
知らない男の人。小さく息を呑んで、彼は手にしていた布を私の背に掛けた。
そのまま引き寄せられて、告げられる。

「お前の、夫となる者だ」

夫。それは何を意味していただろうか。
考えて、けれど何も思い出せない。頭の中に靄がかかっているように、思考がまとまらない。
深い青の中に沈み込んでいくような、不思議な感覚。絡みつく青から、目を伏せる事で逃げ出した。

「行こうか」

抱き上げられて、暗い場所から外へ出る。
外もまた暗く、細かな雨が降っていた。
湿った土の匂い。青々とした草木の香り。
私の記憶にはないもの。踏み締める土の音や雨の音すら、馴染みがない。

ここはどこなのか。
私は誰なのか。

絡みつく青が思い出す事を許さない。

「――あぁ」

小さく声を上げた。
耳の奥に残る波の音が消えていく。鼻腔を掠める潮の匂いが、雨と共に流れ落ちていく。

――私は、この人のもの。

浮かぶ思考を、青に染まりきらない私の欠片が否定する。
けれどそんな僅かな欠片もすぐに塗り潰されて。
涙となって頬を流れ落ち、消えてなくなった。



20250630 『カーテン』

6/30/2025, 2:37:04 PM

東雲の頃。静謐が満たす工房内を、昨夜まで降り続いた雨の名残が漂っている。
濡れた土の匂い。藍の香りと混じり、青年は深く息を吸い込んだ。
藍甕《あいがめ》の中で布を静かに揺らす。水面に立つ小さな波に海を重ね、苦笑した。
この山奥の集落で生まれ育った青年は、海など夢の中ですら見た事がない遠いものだ。
ほぅ、と吐息を溢す。吐息は小さく跳ねる水音と混ざり、工房内に溶け込んでいく。だが微かな音は静謐を乱しはせず、薄暗い工房内は未だ微睡の中にあるようであった。
布を揺らす。指先は冷たい水に浸かりきり、皮膚の隙間まで藍が染みていく。
一度目、布はまだ淡く曖昧な色だ。二度、三度と染め重ねるたび、色は深さを増し、静かに沈み込んでいく。
布を揺らす手が止まる。黙々と布を持ち上げ、水面で余分な藍を絞る。
その手は青が染み付いていた。青年が幼い頃より繰り返してきた布を染める技は、その手すら青に染め、消える事を許さない。数少ない青年の友人は、染み付く青を山に縛り付けられているようであると嫌っていた。青年は自身の手に思う事は特段なかったが、時折深い青を見て言いようのない感情が込み上げる。

――この青は、何を隠しているのか。

藍甕の底は見えない。深い青の裏など見通す事など出来ない。
それでも、青年は藍の底を見つめている。染め上がった布を透かし見て、青の裏を探す。
心が騒つくのは、今宵に祭事を執り行うからだろう。。
今年もまた、山奥の社を開く季節がやって来た。



強く差すような陽の下、深い青に染まった布が、風に靡いて揺れている。
揺らぐ青は、空のそれとは違う。このまま風に攫われ空に舞ったとしても、馴染む事はないのだろう。馴染まぬ青は空を漂い、いずれ海へと辿り着く。海は青を受け入れ包み込み、底へと沈めていく。
青年は一つ息を吐いた。
布を染めている時から、見た事のない海がちらつく。聞いた事もない潮騒なるものが、布が風に靡く音に混じり聞こえてくるようだ。
軽く頭を振って、海の幻を散らす。
社へと向かう刻限が近づいている。傾きだした陽を一瞥し、青年は布へと手を伸ばした。
日の出と共に藍で染めた布を、山奥の社まで届けなければならない。
それが青年の役目であった。

「――なんだ?」

竹竿から布を取り外す刹那、青の向こう側に白い着物の裾と、細い裸足の足が見えた気がした。
布を取り露わになった向こう側には、誰もいない。
当然だ。この工房には、青年以外の立ち入りは固く禁じられているのだから。
雨の名残だろうか。濡れた土の匂いや、青臭い植物の匂いが僅かに強くなる。雨が戻ってくるのかもしれない。
布を手に青年は踵を返し、工房へと向かう。
海も足も気のせいだ。そうは思うが、心は騒つき落ち着かない。見えない何かの気配を感じて、無意識に足が速くなる。
いつもより重く感じる布の青さが、気のせいではないと静かに告げているように思えた。



その社は、村の外れにある石造りの鳥居の先、道とも言えぬ細道を辿った先にあった。
じわり、纏わり付く湿気を帯びた夜の気配に青年の眉が寄る。腕に抱いた青の布を抱え直し、無言で社の前に立つ。
社の戸の左右に掛けられた提灯には灯りが入っているが、辺りには青年以外に誰もいない。祭事とは言えど、執り行うのは青年だけだからだ。
社の中にある木彫りの人形に、布を被せる。ただそれだけ。
それは祭事というよりも、風習に近い。
幼い頃より。藍染めの業を父より教え込まれ、七つを過ぎた頃にこの祭事を任された。青年のために父は木彫りの人形を作り、社に納めてくれた。
以来、毎年必ず青年は藍で布を染め、それを人形に与え続けていた。
この祭事の意味を、青年は知らない。知っているのは一つだけだ。

――人形は青年のために在る。

故に、青年以外が祭事に参加する事は一度としてない。
意味も知らず、役目の終わりも知らず。
青年はただ藍を植え育て、摘み取った藍で布を染め続けている。

「――行くか」

ふっと息を吐き、青年は社の戸に手を掛けた。
夜の気配は益々湿気を帯び、空に浮かぶ月は雲に隠されようとしている。
急がなければ。雨が来てしまう前に、終わらせなければならない。
戸を引いて、中へと足を踏み入れる。暗く狭い社の中に外の提灯の灯りが差し込み、ぼんやりと奥の人形の姿を浮かび上がらせる。
人形、とは言えど、その作りは随分と粗末だ。頭と胴を形作り、青い着物を羽織わせただけの。人形と言われなければ、表面を削りくぼませた丸太としか見られないほどのもの。
青年は迷う事なく、人形へと近づいた。青年の手にした布の青よりも、人形の纏う着物の青は浅い。その着物を人形ごと隠すように、布を被せた。
これで祭事は終わりだ。
短く息を吐いて、青年は社を出るため人形に背を向けた。
雨が降る前に戻りたい。祭事の事も、人形の事も意識の隅に追いやり、早く家に戻り休む事だけを考えて足を進める。
宵の頃に行われる、青年だけの祭事。今年も変わらない。
はずだった。

かたん。
小さな音に、青年は足を止めた。
布のせいで人形が倒れてしまったのだろうか。嘆息して振り返る。
布をかぶり倒れ伏す人形。今まで倒れる事がなかったため、少々雑に布を被せてしまったようだ。
ちらりと外を一瞥する。
青年一人の祭事だ。直さずとも、問題になる事などないはずだ。
そうは思えど、青年の几帳面な性格が見て見ぬ振りを許さない。
ひとつ、溜息を吐く。人形の元へ歩み寄り、手を伸ばした。

かたり。
音がした。もぞりと布が蠢いて、波のように揺れる。
もぞりもぞりと布が動く。まるで布の下に誰かがいて、布の外へと出ようと藻掻いているように。
息を呑み硬直していた青年の、伸ばしたままの指先が布に触れる。弾かれたように手を引いて、だがややあって徐に布へと手を伸ばし掴んだ。
恐怖に激しく鼓動を刻む胸が痛みを訴え警告を発するのを気づかない振りをして、布を引き抜く。

「――っ!?」

布が取り払われ、人形が露わになる。だがそれは人形ではなかった。
青い着物姿の少女。焦点の定まらぬ虚ろな目をして、急に開けた視界に目を瞬いていた。
ぼんやりと青年を見つめる目が、次第に焦点を結んでいく。青年の姿を認識し、首を傾げて口を開いた。

「だれ……?」

鈴を転がしたかのような、美しい声音。困惑に眉を寄せたその表情も美しい。
青年は、一目で目の前の少女に心を奪われた。
手にしていた布を少女の背に掛ける。びくりと震える華奢な肩を引き寄せ、青年は告げた。

「お前の、夫となる者だ」

その言葉と同時、青の布が少女の着物へと溶け、着物の青が深くなる。
溶けた布と同じ青。青年の口元に笑みが浮かぶ。

――人形は青年のために在る。

人形に藍で染めた布を被せる祭事。その意味をようやく青年は理解する。
そして気づく。祭事に訪れる度に、去年の布が消えている事。人形の着る着物が次第に青を帯びて行く事。
作られたばかりの頃の人形の着物の色は白だったと、今更ながらに思い出した。

「行こうか」

目を伏せ凭れる少女を抱き上げ、青年は社を出る。
外は細かな雨が降り始めていた。空を一瞥して、青年は少女を抱き込むようにして家路を急ぐ。
さらさらと雨の音に紛れ、潮騒が聞こえた。
あぁ、と微かな声を漏らす少女の頬を、雨が伝い落ちていく。

藍で染めた布が生み出したもの。
海のように青く深い着物を纏った少女。

少女からは、青年が知らない海の香りがするような、そんな気がした。



20250629 『青く深く』

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