東雲の頃。静謐が満たす工房内を、昨夜まで降り続いた雨の名残が漂っている。
濡れた土の匂い。藍の香りと混じり、青年は深く息を吸い込んだ。
藍甕《あいがめ》の中で布を静かに揺らす。水面に立つ小さな波に海を重ね、苦笑した。
この山奥の集落で生まれ育った青年は、海など夢の中ですら見た事がない遠いものだ。
ほぅ、と吐息を溢す。吐息は小さく跳ねる水音と混ざり、工房内に溶け込んでいく。だが微かな音は静謐を乱しはせず、薄暗い工房内は未だ微睡の中にあるようであった。
布を揺らす。指先は冷たい水に浸かりきり、皮膚の隙間まで藍が染みていく。
一度目、布はまだ淡く曖昧な色だ。二度、三度と染め重ねるたび、色は深さを増し、静かに沈み込んでいく。
布を揺らす手が止まる。黙々と布を持ち上げ、水面で余分な藍を絞る。
その手は青が染み付いていた。青年が幼い頃より繰り返してきた布を染める技は、その手すら青に染め、消える事を許さない。数少ない青年の友人は、染み付く青を山に縛り付けられているようであると嫌っていた。青年は自身の手に思う事は特段なかったが、時折深い青を見て言いようのない感情が込み上げる。
――この青は、何を隠しているのか。
藍甕の底は見えない。深い青の裏など見通す事など出来ない。
それでも、青年は藍の底を見つめている。染め上がった布を透かし見て、青の裏を探す。
心が騒つくのは、今宵に祭事を執り行うからだろう。。
今年もまた、山奥の社を開く季節がやって来た。
強く差すような陽の下、深い青に染まった布が、風に靡いて揺れている。
揺らぐ青は、空のそれとは違う。このまま風に攫われ空に舞ったとしても、馴染む事はないのだろう。馴染まぬ青は空を漂い、いずれ海へと辿り着く。海は青を受け入れ包み込み、底へと沈めていく。
青年は一つ息を吐いた。
布を染めている時から、見た事のない海がちらつく。聞いた事もない潮騒なるものが、布が風に靡く音に混じり聞こえてくるようだ。
軽く頭を振って、海の幻を散らす。
社へと向かう刻限が近づいている。傾きだした陽を一瞥し、青年は布へと手を伸ばした。
日の出と共に藍で染めた布を、山奥の社まで届けなければならない。
それが青年の役目であった。
「――なんだ?」
竹竿から布を取り外す刹那、青の向こう側に白い着物の裾と、細い裸足の足が見えた気がした。
布を取り露わになった向こう側には、誰もいない。
当然だ。この工房には、青年以外の立ち入りは固く禁じられているのだから。
雨の名残だろうか。濡れた土の匂いや、青臭い植物の匂いが僅かに強くなる。雨が戻ってくるのかもしれない。
布を手に青年は踵を返し、工房へと向かう。
海も足も気のせいだ。そうは思うが、心は騒つき落ち着かない。見えない何かの気配を感じて、無意識に足が速くなる。
いつもより重く感じる布の青さが、気のせいではないと静かに告げているように思えた。
その社は、村の外れにある石造りの鳥居の先、道とも言えぬ細道を辿った先にあった。
じわり、纏わり付く湿気を帯びた夜の気配に青年の眉が寄る。腕に抱いた青の布を抱え直し、無言で社の前に立つ。
社の戸の左右に掛けられた提灯には灯りが入っているが、辺りには青年以外に誰もいない。祭事とは言えど、執り行うのは青年だけだからだ。
社の中にある木彫りの人形に、布を被せる。ただそれだけ。
それは祭事というよりも、風習に近い。
幼い頃より。藍染めの業を父より教え込まれ、七つを過ぎた頃にこの祭事を任された。青年のために父は木彫りの人形を作り、社に納めてくれた。
以来、毎年必ず青年は藍で布を染め、それを人形に与え続けていた。
この祭事の意味を、青年は知らない。知っているのは一つだけだ。
――人形は青年のために在る。
故に、青年以外が祭事に参加する事は一度としてない。
意味も知らず、役目の終わりも知らず。
青年はただ藍を植え育て、摘み取った藍で布を染め続けている。
「――行くか」
ふっと息を吐き、青年は社の戸に手を掛けた。
夜の気配は益々湿気を帯び、空に浮かぶ月は雲に隠されようとしている。
急がなければ。雨が来てしまう前に、終わらせなければならない。
戸を引いて、中へと足を踏み入れる。暗く狭い社の中に外の提灯の灯りが差し込み、ぼんやりと奥の人形の姿を浮かび上がらせる。
人形、とは言えど、その作りは随分と粗末だ。頭と胴を形作り、青い着物を羽織わせただけの。人形と言われなければ、表面を削りくぼませた丸太としか見られないほどのもの。
青年は迷う事なく、人形へと近づいた。青年の手にした布の青よりも、人形の纏う着物の青は浅い。その着物を人形ごと隠すように、布を被せた。
これで祭事は終わりだ。
短く息を吐いて、青年は社を出るため人形に背を向けた。
雨が降る前に戻りたい。祭事の事も、人形の事も意識の隅に追いやり、早く家に戻り休む事だけを考えて足を進める。
宵の頃に行われる、青年だけの祭事。今年も変わらない。
はずだった。
かたん。
小さな音に、青年は足を止めた。
布のせいで人形が倒れてしまったのだろうか。嘆息して振り返る。
布をかぶり倒れ伏す人形。今まで倒れる事がなかったため、少々雑に布を被せてしまったようだ。
ちらりと外を一瞥する。
青年一人の祭事だ。直さずとも、問題になる事などないはずだ。
そうは思えど、青年の几帳面な性格が見て見ぬ振りを許さない。
ひとつ、溜息を吐く。人形の元へ歩み寄り、手を伸ばした。
かたり。
音がした。もぞりと布が蠢いて、波のように揺れる。
もぞりもぞりと布が動く。まるで布の下に誰かがいて、布の外へと出ようと藻掻いているように。
息を呑み硬直していた青年の、伸ばしたままの指先が布に触れる。弾かれたように手を引いて、だがややあって徐に布へと手を伸ばし掴んだ。
恐怖に激しく鼓動を刻む胸が痛みを訴え警告を発するのを気づかない振りをして、布を引き抜く。
「――っ!?」
布が取り払われ、人形が露わになる。だがそれは人形ではなかった。
青い着物姿の少女。焦点の定まらぬ虚ろな目をして、急に開けた視界に目を瞬いていた。
ぼんやりと青年を見つめる目が、次第に焦点を結んでいく。青年の姿を認識し、首を傾げて口を開いた。
「だれ……?」
鈴を転がしたかのような、美しい声音。困惑に眉を寄せたその表情も美しい。
青年は、一目で目の前の少女に心を奪われた。
手にしていた布を少女の背に掛ける。びくりと震える華奢な肩を引き寄せ、青年は告げた。
「お前の、夫となる者だ」
その言葉と同時、青の布が少女の着物へと溶け、着物の青が深くなる。
溶けた布と同じ青。青年の口元に笑みが浮かぶ。
――人形は青年のために在る。
人形に藍で染めた布を被せる祭事。その意味をようやく青年は理解する。
そして気づく。祭事に訪れる度に、去年の布が消えている事。人形の着る着物が次第に青を帯びて行く事。
作られたばかりの頃の人形の着物の色は白だったと、今更ながらに思い出した。
「行こうか」
目を伏せ凭れる少女を抱き上げ、青年は社を出る。
外は細かな雨が降り始めていた。空を一瞥して、青年は少女を抱き込むようにして家路を急ぐ。
さらさらと雨の音に紛れ、潮騒が聞こえた。
あぁ、と微かな声を漏らす少女の頬を、雨が伝い落ちていく。
藍で染めた布が生み出したもの。
海のように青く深い着物を纏った少女。
少女からは、青年が知らない海の香りがするような、そんな気がした。
20250629 『青く深く』
6/30/2025, 2:37:04 PM