sairo

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微かに薫る線香の匂いに目が覚めた。
いつもよりも早い朝。外もまだ薄暗い。
カーテンを引き、窓を開ける。
肌に纏わり付く湿った空気。気の早い蝉の鳴く声。
朝靄を歩く人。庭の小さな花壇で、花の手入れをする祖母の姿。
ひとつ息を吐いた。目を伏せて、窓を閉める。
微かに線香の匂いがした。庭にいる祖母がゆっくりと立ち上がり、此方を振り返る。
それに気づかない振りをして、顔を洗うために部屋を出た。
気づかれてはいけない。祖母は二年前に亡くなっているのだから。
また一つ息を吐いた。重苦しいこの思いを息と共に吐き出した。
彼が帰ってくる。
今年もまた、夏が来てしまったのだ。



着替えて、朝食を取りながら、ちらりとキッチンを覗う。
洗い物をする母の隣。祖母が寄り添うように立ち、母を静かに見つめている。

「今年も綺麗に咲きそうよ。ちゃんとお世話をしてくれてありがとうね」

母は気づかない。手を止める様子もない。
祖母はそんな母を気にせず、にこにこと感謝の言葉を述べていた。
零れ落ちそうになった溜息を呑み込んで立ち上がる。食べ終えた食器を持って、出来るだけ祖母を見ないように俯きながら、キッチンへと向かう。

「ごちそうさま」
「もういいの?いつもより元気もないみたいだし、大丈夫?」
「暑いけど、ちゃんとご飯を食べないと駄目だよ。夏に負けてしまうからね」

心配そうな祖母には視線を向けず、母に食器を手渡しながら小さく笑ってみせる。

「大丈夫。ちょっと暑くていつもより食欲がないだけ」
「そう?無理はしないでね。お祖母ちゃんも夏の暑さに食欲がなくなって、そのままどんどん悪くなっちゃったんだから」

悲しげな目をして仏間へと視線を向ける母に、大丈夫だと繰り返し、キッチンを出る。
体調は問題ない。問題があるのは心の方だ。
行きたくないと思う気持ちに無理矢理蓋をして、準備を整えていく。
重くなっていく足を引きずって、玄関で靴を履き扉に手を掛けた。

「いってきます」
「いってらっしゃい。ちゃんと嫌な事は嫌っていうんだよ。それでも無理矢理手を引かれた時は、ばあちゃんが守ってあげるからね」

優しい祖母の声に、一瞬だけ止まる。
心の中でありがとうと呟いて、扉を開けて外に出た。





茹だるような暑さの中。煩い程の蝉の鳴く声が辺りに響き渡る。
足取りは重い。それは焼け付くような陽射しや、じっとりとした湿気だけが原因ではない。
この道の先。角を曲がってすぐの場所に、小さな花屋がある。
色鮮やかで瑞々しい花。可憐に笑う店員の女性。
その女性を見つめる、彼。
夏はきっと彼の事も連れてきているのだろう。

角の前で一度立ち止まり、そっと足を踏み出した。
店先に並べられる花達は、浴びたばかりの水の名残を煌めかせて生き生きとしている。花に水を与える女性も、陽の光に負けないくらいに輝いている。
その生に満ちた場所に、彼はいた。
青白く表情のない、虚ろな目をした彼が、女性の側に佇んでいた。
女性は気づかない。笑顔で花の手入れをし、他の店員と楽しげに何かを話している。
彼は女性だけを見つめ、ゆっくりと手を伸ばした。女性の腕へと伸びた手は、けれど掴む事なくすり抜ける。
そっと目を逸らした。
出来るだけ静かに花屋の横を過ぎる。強くなる線香の匂いに眉を寄せながら、俯き足を速めた。
視界の端で、彼の足がこちらを向いたのが見えた。それに気づかない振りをして、只管に足を前へと進めていく。
気づいてはいけない。気づいた事に気づかれてしまったら、どこまでもついてくるから。


「無視するなよ。見てたんだろ?可哀想な俺を」

後ろから聞こえる彼の声。
聞こえない振りをする。ただの悪あがきだけれど、これ以上彼に近くなりたくなかった。

「冷たい奴だな。恋人に気づかれず、触れられないのを見ただろ。慰めてくれてもいいじゃないか」

声が近づく。視界の隅に彼の足が見えた。

「あいつもお前も、変わっていくな。あいつはもう俺を忘れて次の恋人を作って楽しそうだし、お前も新しい道を進もうとした……そんな事許さないし、結局相手は逃げ出したみたいだが」

思わず足を止めた。止めてしまった。
新しい道。逃げ出した相手。
それは、もしかして先日の――。

「お前しか俺が分からないのに、俺を忘れて別の男のところになんていかせない。何度でも邪魔をしてやるよ。悪夢を見せて、少しばかり不幸を与えれば、どんな奴だってすぐにお前から遠ざかる」

楽しそうな、歪んだ笑い声。
立ち止まった事で正面に回り込んだ彼が、手を伸ばす。俯く視界で、青白い手が私の手首に絡みつき引くのが見えた。
ひんやりと冷たい手。爪を立てられ、痛みに顔を上げた。

「あれだけ俺を好きだと言っておきながら、死んだらさっさと忘れるなんて許さない。お前だけが俺を見て、俺に触れられるんだ……絶対に、逃がさない」

虚ろな、濁り白濁した彼の目に見据えられ、体が硬直する。
血の通わない白い顔。線香の匂いが彼の葬式を思い起こさせる。
最後に見た、彼の顔。棺で覚めない眠りについていた彼が、目覚めてここにいるような錯覚を覚えて胸が苦しくなる。

「――やめて」

小さく、願うように呟いた。
手は離れない。さらに強く爪を立てられ、痛みに眉を寄せて短く悲鳴を上げた。
彼が内側へと入ってくる。皮膚を破り、血を介して全身に彼が浸食し、私という存在を根源から変えようとしている。
ありもしない幻想を見て、その恐怖にじわりと涙が滲み出した。

「止めない。このまま先に進むなら、いっそ同じ場所まで引き込むだけだ。孤独と絶望を、お前の命で鎮めてもらう……俺と同じ日、同じ場所で死んでくれ。この終わらない夏に、俺だけ置いていかせはしない」

手を引かれた。強く、逆らう事を許さないように。

「いやっ……!」
「っ!?」

けれど何か乾いた音がして、彼は掴んでいた私の手を離す。
滲む視界の中、彼の手が力なく垂れ下がっているのが見えた。

「祖霊、か。正しく祀られてるなんて、贅沢だな。羨ましいよ」

彼の小さな呟きと共に、背後から誰かに抱きしめられているような温もりを感じた。
線香の匂い。でも彼の側にいる時のような苦さは感じない。
甘く柔らかく、落ち着けるような匂いだった。

「いいよ、夏は始まったばかりだ。それに、本当に嫌がってるって訳でもない。迷いがあるなら、まだ入り込む余地はある」

虚ろな無表情が歪み、笑みのような怒りのような不思議な表情を作る。
呆然と見ていれば、やがて彼の姿は薄くなり、陽炎に紛れて見えなくなった。

深く息を吐く。
背中の温もりはもう感じない。けれどそれが誰だったのか、見なくても分かる。

「お祖母ちゃん」

そっと呟いた。
俯く顔を上げ、涙を拭い歩き出す。

蝉の声が響く。強い陽射しが肌を焼く。
夏が来た。
死者が還る、夏がやってきていた。



20250701 『夏の匂い』

7/2/2025, 9:54:46 AM