sairo

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――雨上がりの夜に、一人で外に出てはいけない。

幼い頃から母に何度も言われてきた事。
その理由を、母は悲しげな目をして海に攫われるからだを説明した。
私も、周りの友人達も、その話を親から聞かされてはいたが、誰一人信じてはいなかった。

「雨上がりの夜に、外に出ては駄目よ」
「どうして?」
「――布に攫われてしまうのよ。海から現れた、柿渋色の布が子供を攫うの……お母さんの好きだった人も、昔攫われてしまったわ」

悲しい目をして笑う母に、信じていないなど言えるはずもなかった。



「布が怖い。赤の布がやってきて、連れて行かれる」

梅雨入り前。友人が学校に来なくなった。
お見舞いに尋ねると、部屋の隅で友人は震えながら布が怖いと繰り返した。

「赤い布?茶色の布じゃなくて?」
「違う。赤い布よ。部活の帰りに見たの。海の方から赤い布が来るのを……私、行きたくない。知らない人のところになんて、そのままずっと帰れないなんて絶対にいやっ!」

首を振って泣きじゃくる友人は、それから数日が過ぎて姿を消した。友人の両親は何も言わず、それから程なくして残された一家はどこかへ引っ越してしまった。
それから、少しだけ布が怖くなった。
柿渋色の布。赤い布。攫われた母の好きだった人や友人。
友人は知らない人の所へ行ってしまったのだろうか。友人の家族も、友人の所へ行ったのだろうか。
はぁ、と溜息を吐く。学校からの帰り道。
朝に降った雨のせいで地面はぬかるみ、じっとりとした湿気が肌に纏わり付いて気持ちが悪い。早く帰ろうと足を速め、何気なく海の方へと視線を向けた。

海の上を何かが漂っている。海に溶けてしまいそうな深い青が、海の上でゆらりと踊り、風に乗って空に舞う。
布だ。青の布が空を漂い、風に乗ってこちらへやってくる。

――海から現れた布に攫われる。
――布が、怖い。

ひっと短く悲鳴を上げて、急いで家に駆け込んだ。
部屋に籠もり、深く息を吐く。扉を背にずるずるとしゃがみ込んで、吹き出す汗を拭い乱れた呼吸を整える。
心臓が痛いくらいに脈を打っている。悲しそうな母の目、友人の怯えた目が浮かび、涙が滲み出す。
不意に、視界に青が揺らいだ。
びくりと体を震わせて、恐る恐る視線を向ける。

「――なんだ。カーテンか」

青いカーテンが、僅かに空いた窓から吹き込む風に揺れている。
迷いながらもカーテンに近づいた。外に近づくのは怖かったが、開いた窓をそのままにしている方が怖ろしい。
ゆっくりと窓に近づき、手を伸ばす。窓をしっかりと閉めて鍵を掛け。
何気なく窓の外へと視線を向けて、息を呑んだ。

遠く、海の方からゆっくりと。
あの深い青をした布が、近づいてきていた。





あれからずっと、あの青の布が離れない。
どこへ行っても、何をしていても、視界の端に必ず青がちらついていた。
柿渋色でも、赤色でもない。底の見えない海のような深い青色。
青が離れなくなってから五日が過ぎ、六日が過ぎて。
外に出るのが怖くなった。

「お母さん」
「大丈夫よ。家から出ないでね。招き入れなければ、きっと大丈夫だから」

母はそう言って私を抱きしめ、朝早くからどこかへ行ってしまった。
神仏に頼りに行ったのかもしれない。
部屋の中で一人、膝を抱えて蹲る。少しでも窓から離れるように。
そう言えば、姿を消した友人も同じように窓から離れて怯えていた事を思い出した。赤い布に怯えていた彼女。
彼女は今、どこへいるのだろうか。


ふわり。
視界の端に青がちらつき、はっとして顔を上げた。
いつの間にか部屋は暗く、じわりとした湿気を纏う空気が漂っている。どうやら少しばかり眠ってしまっていたようだ。
部屋はしんとして静まりかえっている。母が帰ってきた様子はみられない。

ひらり。
視界の隅に青がちらつく。
視線を向ければ、締め切った青のカーテンが少しだけ揺れているのが見て取れた。
窓を開けた記憶はない。別の所から吹いた風にカーテンが揺らいでいるだけだ。
そうは思うが、不安は消えない。カーテンの向こうは見えず、窓が開いているのかも、あの布が外にいるのかも分からない。
ゆっくりと立ち上がり、窓に寄る。変わらずカーテンは微かに揺れて、向こう側を見る事は出来ない。
手を伸ばした。揺れるカーテンに、一度だけ躊躇して触れる。
その瞬間、カーテンが手を掴むように絡みついた。

「――っ、いや!」

慌てて振り解こうとするもカーテンは解けない。それどころか手首に腕に絡みついて、全身に巻き付こうとする。
必死に藻掻き暴れていれば、足が縺れて倒れ込んだ。痛みに呻いている間にも布はどんどん体に巻き付いて、身動き一つ取れなくなってしまう。
僅かに動く首を動かして、窓を見た。

「そんな……」

カーテンはそこにあった。
揺れる事もなく、私の体に巻き付くでもなく、静かにカーテンはあった。

「お母さん」

目を伏せて、力を抜く。視界を覆い出す布に、じわりと涙が滲んだ。
どうして、という疑問よりも、帰れなくなる事が悲しかった。





気づくと、暗くて狭いどこかにいた。
開いた扉から差し込む、丸くて淡い二つの光以外に灯りはない。それでも室内を見渡せる暗いには部屋は狭く、何もなかった。
ただ一人、目の前にいる男の人を除いて。

「だれ……?」

首を傾げて問いかける。
知らない男の人。小さく息を呑んで、彼は手にしていた布を私の背に掛けた。
そのまま引き寄せられて、告げられる。

「お前の、夫となる者だ」

夫。それは何を意味していただろうか。
考えて、けれど何も思い出せない。頭の中に靄がかかっているように、思考がまとまらない。
深い青の中に沈み込んでいくような、不思議な感覚。絡みつく青から、目を伏せる事で逃げ出した。

「行こうか」

抱き上げられて、暗い場所から外へ出る。
外もまた暗く、細かな雨が降っていた。
湿った土の匂い。青々とした草木の香り。
私の記憶にはないもの。踏み締める土の音や雨の音すら、馴染みがない。

ここはどこなのか。
私は誰なのか。

絡みつく青が思い出す事を許さない。

「――あぁ」

小さく声を上げた。
耳の奥に残る波の音が消えていく。鼻腔を掠める潮の匂いが、雨と共に流れ落ちていく。

――私は、この人のもの。

浮かぶ思考を、青に染まりきらない私の欠片が否定する。
けれどそんな僅かな欠片もすぐに塗り潰されて。
涙となって頬を流れ落ち、消えてなくなった。



20250630 『カーテン』

7/1/2025, 9:47:42 AM