とても静かな夜だった。
虫の羽音も、蛙の鳴き声も聞こえない。静謐が部屋を満たしている。
気になって、外を見た。窓越しでは暗くてはっきりとは見えないが、どうやら細かな雨が降っているらしい。
雨の向こう側。誰かの声が聞こえた気がした。
耳を澄ませても、微かに雨音が聞こえるのみで声は聞こえない。
気のせいだっただろうか。何かを嘆く声に聞こえたのだけれども。
少しだけ、窓を開けた。
湿気を纏った冷えた空気が頬を撫で、夜と雨の気配と共に部屋に入り込む。外と内の境がなくなっていく感覚。鼻腔を擽る雨の匂いに、誘われるようにして大きく窓を開け放った。
「誰か、いるの?」
答える声はない。耳を澄ませても、やはり聞こえるのは雨の音だけだ。
「どこにいるの?」
もう一度声をかけ、腕を伸ばす。
冷たい細かな雨が腕に纏わり付く。服が雨を擦ってずっしりと重さを増して、その不快さに眉を潜めた。
ふと、雨ではない何かが腕に纏わり付く。見えないけれども確かに感じるそれは、誰かの手だろうか。
小さな手。幼い子供の、母に縋るようなその強さ。遠慮を知らない必死さは、痛みすら覚えるほど。
「怖くないよ」
声をかけた。
けれども腕の力は弱まらない。腕を引かれ、体が窓の外へと傾いでいく。
「大丈夫」
引かれる腕を、見えない誰かの手ごと撫でる。もう淋しくはないのだと伝えるために。
その手も取られ繋がれて、外へと強く引かれた。
雨に濡れて、見えない手の輪郭が浮かび上がる。両腕に絡みつく無数の小さな手。聞こえない声の代わりに、必死さを伝えてくれるその強さ。
強く腕を引かれて、上半身が窓の外へと引き摺り出されていく。見上げた空は重く、暗い。込み上げる哀しみに目を伏せた。
――空はこんなにも静かで、誰かの声すら届かない。
その事が、淋しくて。
腕を引かれるまま、外へと抜け出した。
声もなく、飛び起きる。
心臓が痛い。息が苦しい。
汗で張り付いた服の不快さも気にならないほど、直前に見た夢の怖ろしさに身を縮めて震える体を抱きしめた。
怖い夢を見た。
雨の降る夜の部屋。微かに雨音が聞こえるだけの静けさ。
声が聞こえた気がして窓を開ければ、見えないたくさんの手に腕を掴まれ、外へと引き摺り出されていく。
怖い夢だった。静けさも、見えない手も、怖ろしくて仕方がない。
けれどそれより怖かったのは、それを怖いと思わなかった事。腕を掴む手に哀しみだけを感じて、声が聞こえない事に淋しさを感じていた。
「大丈夫。ただの夢。大丈夫」
呼吸を整えながら、呪文のように繰り返し言い聞かせる。
夢など朝が来れば忘れてしまう。だから大丈夫なのだと。
――い……で。
ふと声が聞こえた。
びくりと肩を大きく震わせて、恐る恐る顔を上げる。
暗い室内には、当然自分以外いないはずだ。それなのに声がした。
――おね……ないで。
悲鳴が喉に張り付いて、ひゅうと可笑しな空気が漏れる。
窓の外。声はそこから聞こえていた。
――お願い、置いていかないで。
――淋しい。怖い。苦しい。
――開けて。中に入れて。
たくさんの声。夢の中で掴まれた腕が、思い出したように痛みを訴え出す。
今、窓は閉まっている。内側から開かない限りは、中へ入ってはこられないはずだ。息を殺し、膝を抱えて蹲る。
――側にいて。
――ここにいるの。ここにいるのに。
――どうして。一緒に帰りましょう。
知らない、と。叫びそうになり、咄嗟に唇を噛みしめた。
無言で首を振る。彼らを知らない。それは確かな事だ。
それなのに、次第に込み上げるこの苦しさや痛みは、恐怖からではない。外の何かに対する哀しみと淋しさからくるものだ。
自分は今、外の何かに恐怖するよりも同情してしまっている。夢と同じように。
それに気づいた瞬間。震えて動けなかった体がベッドから出て、窓へと歩み寄っていく。
行きたくない、見たくないという気持ちなど気にもかける事なく、足は止まらない。
「止めて……いや、お願いっ」
手がカーテンへと伸びる。
首を振り、嫌だと泣いても止まらない。
――迎えにきたよ。
――ここを開けて。あなたから招き入れて。
カーテンが開かれ、窓が露わになる。
雨雫に濡れた窓。たくさんの小さな手形。
もう悲鳴も出なかった。
――また皆の声を聞いてよ。
――あなたしか、聞こえないの。
――あなただけなの。あなただけが気づいてくれる。
――あなたが帰れば、ひとりが還れるの。お願い、どうか。
手が窓の鍵を開けていく。
そのまま窓を開けば、外の空気と共に何かが入り込む感覚がした。
外と内。それを分けていた境がなくなってしまったのだ。
腕に、体にたくさんの手が纏わり付くのを感じる。腕を引かれて、窓の外へと連れて行かれる。
――帰りましょう。皆で。
嬉しそうな笑い声。目を閉じて、項垂れた。
「そうだね……帰ろうか。あの村に」
諦めて受け入れる。受け入れるしか選択肢は残されていない。
空は、世界はこんなにも広いのに、どこにも逃げ場はないのだから。
「おや?」
寺務所の窓から見えた人影に、青年は作業をしていた手を止め、窓へと歩み寄る。
静かな雨が降り続く境内に、寝間着姿の娘が一人、裸足で奥へと歩いていく。その両腕は誰かに引かれているように不自然に前へと出され、その足取りは重い。まるで刑場へと向かう罪人のようだ。
「珍しい。まさか豊穣まで揃うとはな」
「何見てんの?浮気ぃ?」
「馬鹿」
背中にじゃれつく小柄な少女をあしらいながら、青年は窓の外を指し示す。青年の示す方へ視線を向けた少女は、驚いたように目を瞬いた後、頬を軽く染めて喜びをあわらにした。
「豊穣じゃん。凄い縁起物が来たのね!前に迷い込んだ時に、囲っておけなかったから諦めてたけど、戻ってきて良かった」
「眷属共に呼ばれたんだろうな。歴代の豊穣、声なきモノの声を聞いて触れられる。豊穣の中でも質が高い。これで向こう百年、村は安泰だ」
「おめでたいねぇ。灌漑《かんがい》も、仲介も戻って、豊穣も揃うなんて。特に豊穣は客人《まれびと》だから、滅多に揃わないのに」
少女の言葉に同意しながら、青年は境内を俯き歩く娘へと視線を向ける。
気づけば境内の奥に男が立っていた。側に歩み寄る娘の体を抱き寄せる。肩を震わせ僅かに抵抗の素振りを見せた娘は、だがすぐに諦めたように項垂れて、男と共に墓地へと向かっていく。
おそらくこれが、娘を見る最後だろう。豊穣は青年達とは扱いが違う。祝儀すら豊穣の屋敷で行われ、屋敷の外へは二度と出られぬのだから。
――可哀想に。
心の内で男は呟いた。
村で生まれ育った青年らとは異なる、外から来た娘。閉ざされたこの村は、きっと娘にとっては檻の中と変わらないだろう。
昔、豊穣の娘が屋敷から逃げ出した事があったらしい。
泣きながら帰りたいと繰り返し。迎えが来たと知るや半狂乱になり、舌を噛み切って死んだという。とはいえ、その体は屋敷に戻され外に戻る事はなく、屋敷の眷属として今もあるのだろうが。死した身ではあるが、豊穣はその名の通り村の貴重な恵みだ。屋敷に留めておかねばならない。
憐れだとは思うが、それが豊穣として選ばれた者の定めだ。閉ざされた村の循環のためには、特別な客人が必要なのだから。
「いいよねぇ。これからずっと側で大切にされるんだもの。死んでもその体は屋敷の中で、永遠に一緒……もちろん、あたしもあんたが死んだら毎日お墓に詣ってあげるけどね」
「そりゃどうも」
「でも長生きしてよ。大切に、愛してあげるから」
うっとりと微笑みを浮かべ、青年に凭れながら少女は願う。その言葉に苦笑して、娘に対する考えを検めた。
例え檻の中であろうと、一人ではない。常に寄り添い、こうして愛してくれる相手がいるのだから、それは幸せな事だろう。
外はどこまでも広いが、それ故か孤独な者が多いと聞く。淋しさを抱えて自由に生きるよりは、愛され満たされた不自由の方が余程良い。
ならばここは檻の中ではなく楽園だ。豊穣の娘は楽園で幸せな永遠を過ごす事だろう。
「何考えてるの?やっぱり浮気?」
頬を膨らませ不機嫌になる少女に、青年は声をあげて笑い出す。
腕を引き、胸の中に抱き寄せて。
「お前の事しか考えてねぇよ。祝儀が終わった後の、夫婦としての生活の事を考えてた」
驚き頬を染める愛しい伴侶を、閉じ込めるようにして口付けた。
20250624 『空はこんなにも』
電車に揺られながら、過ぎる景色を眺めていた。
膝には凭れて穏やかに寝息を立てる小さな子供。離れないようにと手を繋がれて、その執着に密かに嘆息した。
窓の外は立ち並ぶビルの無機質な景色から、青々とした木々の生い茂る森の景色へと変わっていく。この電車の辿り着く終点が、実家の最寄りの駅だ。
「おねえちゃん」
繋いだ手を解いて半分閉じた瞼を擦り、子供が顔を上げる。手のひらや顔の輪郭が揺らぎだして、慌ててペットボトルの口を開け、小さな手に押しつけた。
「こんな所で戻らないで。犬猫でもあれなのに、獺《かわうそ》なんて目立ってしょうがないんだから」
「ん。ごめんね。おねえちゃん」
両手で持ったペットボトルを持ち水を飲む子供は、謝りながらも満面の笑みを浮かべている。一緒に実家に帰れる事が、余程嬉しいらしい。
実家から連絡があったのは、三日前の事。
父が倒れた。
母のその一言で、詳細も聞かず実家に帰る事を決めた。
学校への連絡。部屋の整理。諸々を熟して、今は子供の姿をしている獺と共に電車に乗り込んだ。
「父さん。大丈夫だといいけど」
「大丈夫だよ。おねえちゃんに会いにお家を出る時、神主さま、とっても元気だったもの」
小首を傾げて獺は笑う。そう言われると大丈夫な気がして、獺の笑顔に釣られて小さく笑った。
「それより、おねえちゃんとお家に帰れるの、とっても嬉しい。皆も喜ぶし、このままずっとお家にいてね」
けれど続く獺の無邪気な言葉に、笑みが引き攣ったが。
終点の無人駅を出れば、懐かしい景色が出迎えてくれた。
家を出た時と何一つ変わらない、時が止まっているようなその景色。
雨上がりの湿った土の匂い。草木の香り。大きく息を吸って、懐かしさを堪能した。
「来たのか」
「あ、兄ちゃん」
聞き馴染んだ声に視線を向ける。道の端に佇む彼の姿に、一瞬だけ胸が高鳴った。
「久しぶり。元気そうだな」
「う、うん。そっちこそ」
獺に手を引かれ、彼の元へ歩み寄る。手を離して彼に飛びつく獺を抱き留めながら、彼は涼しい顔をして声をかけてくる。ついぎこちなくなってしまうのは、久しぶりだからだと思いたい。
「この馬鹿が迷惑をかけて悪かった」
「あ、いや。干物になる前に会えて良かったよ。アパートでも良い子だったし」
目を逸らす。
彼を正面から見る勇気がないのもあるが、一ヶ月前の事を思い出してしまったからだ。
偶然耳にした怪談話。
踏切の近くに現れるという老人や子供。最初は声だけが聞こえ、最後には姿を現すという、ありきたりな怪談話。
気になって訪れて見れば、どちらとも獺が化けた姿だったという。
胸騒ぎがしてその場所を訪れ、結果水不足で倒れそうな川獺を保護出来たのは本当に幸運だった。
「立ち話も何だし、そろそろ行くか」
さりげなく荷物を取られ、慌てて歩き出す彼の背を追う。
優しいのは変わらない。彼はいつでも、誰に対しても誠実で親切だ。
勘違いしそうになる気持ちを抑えて、無邪気に走り回る獺を呼ぶ。側に来た獺と手を繋げば、また一層嬉しそうに笑顔になるのに、複雑な思いを隠して笑い返した。
「ただいま、って!?」
玄関を開けた瞬間に、いくつもの影が飛び出し襲われる。
あまりの勢いに体が後ろに傾くが、素早く彼に支えられ倒れ込む事はなかった。
「あらあら。皆元気ねぇ」
玄関先で母が呑気に笑っている。その笑顔に一瞬ここに来た目的を忘れそうになるが、軽く頭を振って体制を立て直し、母に詰め寄った。
「母さん!父さんの容態は!?」
「大丈夫よ。ちょっとしたぎっくり腰だから」
「は?……ぎっくり、腰?」
想像していたのとは違う母の答えに、目を瞬いて固まる。
電話では、倒れたと言っていたはずだ。
「最後まで話を聞かないからよ。まったくもう、あなたはいつまで経ってもお父さんっ子なんだから」
呆れたように笑われて、一瞬で顔が熱を持つ。恥ずかしさに今すぐ逃げ帰りたいものの、体にしがみつくいくつもの手がそれを許さない。
「おかえり。やっと帰ってきた」
「お帰りなさい。ずっと待ってたのよ」
「嘘つくお姉ちゃんは、もう帰さないからね」
口々に言われるおかえりの言葉と、時折聞こえる不穏な言葉に、頬を引き攣らせながらただいまを返す。
猫や狐、狸のような小さな子達から、足下でとぐろを巻く蛇。見えないけれど腰に一際強くしがみついているのは、河童か座敷童だろうか。
実家に棲み着く妖達。予想はしていたが、思っていた以上の反応に思わず溜息が零れ出た。
「気持ちは分かるが、先ずは家の中で休ませてやってくれ。長旅で疲れているだろうから」
「そうね。それと、休んでからでいいから、お父さんに顔を見せてあげなさいね」
彼と母の言葉に、妖達は素直に返事をして離れていく。
またね、と声をかけられて、それぞれ元気よく外へと飛び出していった。
「――相変わらずだね」
「まぁな。悪気はないんだ。許してやってくれ」
苦笑しながら、彼は手を差し出す。
気づけば獺もどこかへ遊びに行き、母は奥へと戻ったようだ。
「そんなの。昔から知ってる」
落ち着かない気持ちになりながら、差し出された手を取り立ち上がる。少しだけ冷たい彼の指が絡んで手を繋がれて離れない。じわりと熱を持ち出す体に、恥ずかしくなって俯いた。
「疲れてるだろう。床は用意してあるから、ゆっくり休め」
何も変わらない彼に、小さく頷く。手を引かれるままに家の中に入り、自室へと連れて行かれた。
襖を開けば、記憶の中のそれと全く変わらない部屋。足を踏み入れれば、不意に訪れた眠気に体がふらついた。
「あ、ごめん」
「疲れが出たんだろう。このまま眠ってしまえ」
「でも……」
反論しようにも、体は重く。段々に瞼も閉じていってしまう。
どうしたのだろう。さっきまではまったく眠くはなかったのに。
「帰ってきたから安心したんだ。もう余計な事を考えず、深く眠って体を休めろ」
彼の声が近い。そんな事も気にならないほど、今は眠くて仕方ない。
温かな何かに包まれて、どんどん意識が落ちていく。
「おやすみ……もう、どこにも行かせない」
頬に触れた熱と声は、果たして現実だったのだろうか。
目を覚ましたのは、それから丸一日経ってからだった。
鳴り響くお腹の音。喉が渇いて起き上がれば、ちょうど彼が部屋に入ってくる。
「よく寝てたな。ほら、腹が減っただろう」
彼の手には、湯気の立ち上る雑炊。食欲を誘う匂いに、遠慮を知らないお腹がくぅ、と音を立てた。
隣に座った彼に水を手渡され、一気に飲み干す。ほっと息を吐くと、彼は空になったコップを取り盆に置き、雑炊をよそい始めた。
「ゆっくり食えよ。腹壊すからな」
笑われながらそう言われて、顔が熱くなる。それでも空腹には勝てず、彼からお椀を手渡されると、いただきますとほぼ同時に食べ始めた。
不意にいくつもの視線を感じて、視線だけを向ける。僅かに開いた襖から覗くいくつもの目に、思わず盛大に咽せ返った。
「わっ。お姉ちゃん大丈夫?」
「大変!お母さんを呼んでこなくちゃ」
「それより人工呼吸だよ。人間は空気がないと死んじゃうんだから」
「そっか。じゃあ、兄さんお願い」
いくつもの声と共に、部屋になだれ込む小さな影。
彼に背をさすられ咳き込みながら、涙目で小さな妖達を睨み付けた。
「咽せる、原因が……変な事、言わない、で」
「まぁ、悪気はないんだし」
苦笑する彼に視線を向ける。お椀を除け、汚れた布団を手早く取っていく。覗き見をしていた妖達に、汚れた布団を母に持って行くのと換えの布団の用意を指示すれば、慌てたように妖達は布団を抱えて去って行った。
「――嵐が去ったみたい」
「賑やかなのは、悪い事ではないさ」
そう言って新しく雑炊をよそい手渡される。温かな優しい味は変わらない。
変わらない味。変わらない部屋。変わらない妖達。
変わらない、彼との関係。
雑炊を食べながら考える。これからの事。家の事や自分の事。
「なんだか難しい事を考えているな」
「――別に」
難しい事ではない、と思う。
そう反論する前に彼の親指が唇の端を拭い、ついた米粒を口に含む。
「あんまり考え込むな。時間はあるんだ。これからゆっくり考えればいい」
一瞬で赤くなっただろう顔を笑いもせず、彼は涼しい顔をして言う。
恥ずかしさに文句を言いかけ、ひとつ遅れて彼の言葉が引っかかり眉を寄せた。
「時間はあるって。父さんの顔を見たら帰るつもりなんだけど」
「帰れないさ」
当然のように彼は告げた。
いつの間にか空になっていた雑炊のお椀を取り、盆に乗せて立ち上がる。
「帰れない、って」
「そうだろう?」
襖の向こう側へと彼が声をかける。音もなく開いた襖から妖達が入ってきて囲まれた。
「うん。帰っちゃ駄目だよ」
「どこにも行かないでね」
「ずっとここにいるの。お姉ちゃんはここにいないと」
「お外には出られないよ。これでどこにも行けないよね」
口々にどこにも行くなと言われ、戸惑いに視線が揺れる。
何が起こっているのかよく分からない。そこまで言う子達ではなかったはずなのに。
「おねえちゃん」
側に寄った獺が、腕に鼻を擦り付ける。
それを合図に妖達が、腕に足にしがみついた。
「おねえちゃんは、兄ちゃんのお嫁さんになって、ずっとここにいるの。おとうさんもおかあさんも、喜んでくれるよ」
「そんなの。だって、学校が」
卒業まで残り半年以上ある。無理を言って通わせて貰っている学校だ。中退など両親は悲しむだろう。
そう伝えたくても、皆行かないでと言うばかりで話を聞いてくれる様子はない。縋るように彼を見れば、穏やかさの中に冷たさを含んだ眼をして笑った。
「ぎっくり腰とは言え、動けなくない時間ですっかり弱ってしまってな。俺に後を継いでほしいと頼んで来た。お前を戻す条件をつけようかとも思ったが、その前に戻ってきてくれてよかった」
「――え?」
「学校の件も心配しなくていい。どのみち卒業後は戻ってくるんだ。それが早まっただけの事だよ」
それだけを告げて、彼は盆を手に部屋を出て行く。
怒っていた。この家を出ると告げた時も、何も言わなかった彼が静かに、けれども確かに怒っていた。
その事実に呆然としていれば、獺が腕にじゃれつきながら笑い声を上げた。同調するように他の妖達も笑う。
それにどこか怖ろしさを感じて、小さく息を呑む。
「おねえちゃん」
獺が呼ぶ。恐る恐る視線を向ければ、楽しそうに細まる黒い目と視線が交わり、逸らせない。
「兄ちゃんね。誰にでも優しい訳じゃないよ。甘やかしたりだってしないし、世話も焼かない……鈍感で思い込みが激しいのは、おねえちゃんの悪い所だね」
鼻先を腕に押し当て笑う獺に、可哀想ね、と妖達が囁く。
その可哀想な相手は誰なのか。
それを理解する前に、混乱しすぎた頭が限界を迎えて、目の前が黒く染まっていった。
20250621 『どこにも行かないで』
――大人になったら何になりたい?
周りの大人達からの質問に、幼い頃の自分はいつも同じ答えを返していたらしい。
――雨!
理由を聞いても答えない。ただ笑顔で外を指差しながら、雨になりたいのだと繰り返していたようだ。
「雨、ねぇ」
降り頻る雨を見ながら、思い出せない記憶を手繰り寄せる。
先日母から聞かされた幼い頃の話は、自分の記憶の中には、欠片も残ってはいなかった。
雨になりたかった幼い頃。何度も繰り返し言っていたほど雨に憧れていたのであれば、記憶に残っていても可笑しくはないはずだ。それなのに思い出せるものは何もない。
思い出せるのはいつだって、野山を駆けまわった賑やかな日々だ。曾祖母の家は寂れた田舎の村にあり、目にするものすべてが幼い自分には輝いて見えていた。
そこで出来た友人達は、今も元気にしているだろうか。曾祖母が亡くなり村を訪れなくなってから、もう何年も経っている。村を出た子もいたのかもしれない。
「雨」
窓の外で降る雨は止まない。梅雨の終わりはまだ当分先だ。
――雨が降れば。
雨になりたい理由。雨になれば、雨が降れば何か特別な事が起きるのだろうか。それとも雨の間だけ、誰かに会えるのだろうか。
――大人になったら、きっと雨に。
雨は降り続いている。明日もきっと雨だろう。
思い立って、立ち上がる。時刻は夜九時。寝るにはまだ早い時間帯。
だが早朝に発つのであれば、もう眠ってしまった方がいいだろう。
曾祖母の家はない。友人達にも会える確立は低い。
それでも、あの懐かしい場所に帰りたいと、強く思った。
早朝から電車を乗り継ぎ、昼前になってようやく辿りついた懐かしい場所は、幼い頃と変わらず不思議な静けさを湛えていた。
糸のように細かな雨が降る。傘を差し、優しい雨の音を聞きながら当てもなく歩いていく。
雨のせいか、辺りに人影は見えない。まるで自分一人だけが取り残されたようだ。どこか落ち着かず、居心地の悪さを感じながら朧気な記憶を手繰り、目の前の光景と重ね合わせていく。
ふと、遠くに何かが見えて目を凝らした。
石段とその先の山門。村の唯一の寺だと思い出す。
そう言えば、曾祖母の墓参りも久しくしていなかった。何も用意はしていないが、手を合わせるくらいはしてもいいだろう。
そう思い立って、寺へ向かい歩き出した。
寺についても、誰の姿も見えなかった。
いくつも建つ墓石に困惑する。記憶には曾祖母の墓の場所まで残ってはいない。一つ一つ探すしかないかと、溜息を吐きながら墓地へと足を踏み入れた。
「何をしているの」
不意にかけられた声に、思わず出かかる悲鳴を呑み込んだ。振り返れば、自分と同年代に見える少女。紫陽花の花束を抱えているが、墓参りに来たのだろうか。
「雨、上がってるよ。いつまで傘を差しているの?」
指摘されて顔を上げる。相変わらずの曇天ではあるが、いつの間にか雨は止んでいた。
傘をたたみ、視線を逸らす。恥ずかしさに、後ろ手に傘を持ちながら話題を逸らすため声をかける。
「えっと……君は誰かの墓参りに来たの?」
視界の端で紫陽花の花がゆらりと揺れた。
小さく笑う声。どこか懐かしいその響きに、目を瞬いて少女を見た。
楽しげなその笑みに、記憶が揺さぶられる。重なる誰かの面影に、惹かれるようにして一歩距離を詰め、口を開く。
「あ、あのさ……」
「おばあさまに、戻ってきた事を報告しに来たの。ここまで来てくれるとは思わなかったから」
「――え?」
「こっち。皆先に行ってるから」
そう言って、少女は歩き出す。着いてくるようにと促されて、慌てて少女の背を追った。
込み上げる懐かしさと、僅かな違和感。落ち着かなくて、けれど何と声をかけたら良いのかも分からず無言で少女に着いて歩く。
水を含んだ土に足を取られぬよう気を付けながら、奥へと進んでいく。点在する古い墓を過ぎ、獣道のような細い坂道を上っていく。
そうして辿り着いた一番奥。四つ並んだ立派な墓石の一つの前で、三人の人影が集まり談笑しているのが見えた。
「あぁ、来たか」
「あれぇ?途中で拾ってきたんだ」
「そういや、ばあさまっ子だっけか。その割には何年も来なかったが」
同年代の男女。やはり懐かしい面影に眉が寄る。
いつも遊んでいた友人達。彼らがそうなのだろうか。
「変な顔。もしかして忘れちゃったの?」
一番小柄な少女が、腰に手を当て憤慨する。
「あれじゃね?好きな子以外は目に入らない。記憶にも残らないってやつだろどうせ」
陽に焼けた短髪の大柄な青年が、からかい混じりに声をかける。
「どんな理由であれ、帰って来たのだから。それは喜ばしい事だろう。御婆様への報告が済んだらすぐに祝言の準備に取りかからないと」
細身の着流しを着た青年が穏やかに微笑む。
記憶が揺れる。懐かしい感情。その端々に感じる微かな違和感。
戸惑う自分を置き去りに、彼らは楽しそうに談笑を続けている。
「しっかし、本当に戻ってくるとは。俺と違って、外の生まれだってのに……純愛だな」
「これで残りはあの子だけね。戻ってくると聞いたけれど」
「あぁ。当代が腰を痛めて、その報告をしたらすぐに戻ってくると言っていた。明日には着くだろう」
「物好きだよねぇ。外で学びたいなんてさ」
「勤勉なんだ。後を継ぐ事に真剣に向き合っている証拠だよ」
知らない話題。知っているような誰かの話。聞いているだけで、誰かの面影が浮かんでくる。
ここに連れて来た少女が花束を供え、手を合わせた。ぼんやりとそれを見ていれば、振り返った少女が一歩脇に除けてこちらに視線を向けた。
「ここよ」
少女が花束を供えた場所。曾祖母の名字が刻まれた立派な墓標。
ここに曾祖母は眠っているのか。
促されて墓石に近づき手を合わせる。懐かしさを感じながら、それでも感じる違和感に、心が騒ついている。
――大人になったら。
ふと、子供の頃の夢を思い出す。
大人になったら雨になりたい。
滑稽で奇妙な夢。外の大人には分からない、大切な約束。
――一緒に、雨に。
約束した誰かは、ここにはいない。
足りないのだ。だから落ち着かず、居心地が悪い。
そう思い顔を上げた瞬間、冷たい何かが腰に絡みついた。
「――え?」
「おっと、迎えに来たようだな。お熱いこって」
「いいじゃん。憧れるなぁ」
「憧れない相手で悪ぅございやしたね」
「離れていたから余計にだろう。気にするな」
くすくすと、周りの彼らが楽しげに笑う。
彼らには何が見えているのか。視線を向けても、そこには何もないというのに。
そっと腰に絡みつく何かの感覚がある場所へ、手を触れる。
冷たい皮膚の感触。先を辿れば、手が何かと繋がれる。
くらり、と世界が揺れた気がした。
足に力が入らず、崩れ落ちる。近くに感じる愛しい冷たさに、涙が溢れて世界が滲んでいく。
「大丈夫?」
「問題ないみたいだ。再会に、感情が高ぶっていたんだろう」
周りの声など気にならない。長く欠けていたものが満たされていく感覚。足りなかった唯一が、ここにいる。
涙越しに見える、約束した時と変わらない愛しいその姿を抱きしめた。
「――ただいま」
「おかえりなさい」
幼い頃にした約束。
大人になったら家の役目を引き継いで、一緒に雨になる。
曾祖母の代で一度途切れてしまった役。灌漑《かんがい》の役目を、婚姻という形で引き継ぐのだ。
「確かにちょっと羨ましいかな」
「帰ったらやってもらえよ……俺はやんねぇからな。人前でなんて小っ恥ずかしい」
「ケチ!」
「そこまでにしてくれ。明日には戻るとはいえ、俺は帰っても相手がいないんだから」
周りの声に、記憶が重なる。
幼い頃の思い出が、途切れ途切れの記憶が形を整え、輪郭を露わにしていく。
彼らは大切な友人達だ。すぐに思い出せなかったのが不思議なほどに、今ではすべてを思い出せる。
彼らの家の役目。二人ほど欠けてはいるが、ここにいる彼らは皆、自分と同じ役目を引き継ぐ者達だ。
「これで統治、葬送だけでなく、灌漑も揃った。後は仲介の戻りを待って、祝儀を挙げよう」
「そうね……ほら、続きは家に戻ってからにして。家の引き継ぎは祝儀前でも出来るんだから」
笑われ、促されて立ち上がる。片手は繋いだまま、涙を拭って頷いた。
確かに、やるべき事はたくさんある。祝儀前に出来る事は済ませておきたい。
手は繋いだまま、歩き出す。
曾祖母の、これから二人で暮らす家が待っている。
子供の頃の夢。雨になる事。
それがようやく叶うのだ。
20250623 『子供の頃の夢』
無心で彼の背中を追いかける。
届かないと知っている。それでも追いかけずにはいられない、その大きな背。
彼は振り返らない。振り返る甘さを持たない、厳しさを抱いた人だ。
だから何も考えずに追いかける。
いつか彼に追いつく事を夢見て、只管に地を駆けた。
駆ける度にぬかるむ地面から、飛沫が跳ねる。水を含んだ土が、足に絡みつき引き留める。
――いかないで。
脳裏を過ぎていく誰かの声に、思わず進む足が鈍る。
知らない声。だが懐かしさを感じる愛しい声音。
いつどこで聞いたのだろうか。
――行かなくては。
頭を振って、重い足に力を込めた。
彼を追いかけなければ。ただでさえ開いて行く距離。このままでは、本当に追いつけなくなってしまう。
地を駆ける。速度を上げて、彼の背中を追いかける。
「いかないで」
声がした。足下から。泥の中から、声が聞こえた。
それとほぼ同時。足首を何かが掴み、強引に引き留める。
無理矢理に止められた体は、突然の事に受け身も取れずに地に叩きつけられた。
ばしゃん、と水音。咄嗟に目を瞑るが、痛みはない。
恐る恐る目を開け、体を起こす。
粘つく泥。足首へと視線を向ければ、地面から伸びた泥が、足首を強く掴んでいた。
「いかないで」
声が聞こえた。すぐ側、泥の下から。
泣くようにか細い声音。少し悩んで、泥を掘り進めていく。
思考の片隅では、まだ彼を追いかけろと急かしている。けれど今は、この声が誰なのかが気になった。
泥を掻き分け、地面を掘る。中から水が湧き出すが、それでも泥を掻く手は止まらない。
掘り進める内、指先が何か硬いものに触れた。つるりとした、丸い何か。周囲の泥を掻き分け、それを取り出した。
掘り出されたのは、手のひら大の白く丸い石。
「お願いだ。どうか」
石の中から声がした。
服の裾で石についた泥を拭き取り、目を凝らす。微かに見える人影に、あぁと声を漏らす。
石の中にいた、膝を抱えて泣く誰か。彼によく似た、その姿。
――彼が人として生きるために置いていったもの。
彼が去っていった方へと視線を向ける。既にその姿は見えない。
石に視線を向けた。置いていかれた、石の中の彼はまだ泣いている。
そっと石を撫でる。両手で石を包み込み、静かに立ち上がる。
彼が置いていったものだ。拾ってはいけないのだろう。
それでも見ない振りをして、再び泥の中に埋めるのは気が引けた。
ポケットの中に石を入れる。彼が去った方角へ向き直り、再び駆け出した。
彼に少しでも追いつけるように。
「何をしている」
腕を引かれて、顔を上げた。
視線を向ければ、眉間に皺を寄せた彼と目が合った。
「え……?」
目を瞬いて辺りを見る。見慣れた室内は、自宅の居間のものだ。
手元を見れば、開かれたままの本。その見開かれたページには皺が寄っている。
どうやら本を読みながら、うたた寝をしてしまっていたらしい。
「寝るなら部屋に戻れ」
「あ、うん」
気の抜けた返事をしながら、本を閉じて立ち上がる。
今日の彼は随分と不機嫌だ。何かあったのだろうか。
そう思いながらも、問いかける勇気はない。おとなしく本を持って、自室へと歩き出した。
「待て」
珍しく彼に引き留められる。振り返り見る彼は、やはり眉間に皺を寄せていた。
「それは棄てろ。なんで持っている」
それ。彼の指差す方へ視線を向けた。
ズボンのポケット。外から触れれば、布越しに何かが触れた。
「――石?」
ポケットに手を入れる。出てきたのは、白くて丸い石。
つるりとした光沢に、思わず見入る。
「棄てろ。それか寄越せ……折角切り離したのに、なんで今更戻ってきたんだか」
溜息を吐きながら、彼が手を出す。
その手に石を乗せようとして逡巡し、石を抱きしめ首を振った。
「これ、欲しい」
「駄目だ。それは此方側に在ってはならないものだ」
ぴしゃりと告げられ、有無を言わさず石を取り上げられる。
彼の手の中の石が、小さく震えたように見えた。
「なにそれ。なんでここに置いておくのは駄目なの?」
石が泣いている気がして、彼に食い下がる。
「これは記憶だからだ。遠い過去の……俺ではない俺の記憶。お前を育てていくのに、邪魔にしかならないものだ」
そう言って彼は石をごみ箱へと投げ捨てた。綺麗な放物線を描いてごみ箱へと入ったはずの石は少しも音を立てず。
不思議に思って近づいて中を覗けば、石はどこにも見当たらなかった。
「綺麗だったのに」
「あれが綺麗?醜いの間違いだろう」
名残惜しげに呟けば、呆れたような声が返る。
乱雑に頭を撫でられて、いつまで立ってもなくならない子供扱いにむくれてしまう。
そんな所が子供でしかないと、そう分かっているはずなのに。
「止めてよ。いつまでも子供扱いしないで、叔父さん」
「そう反論する内はまだまだ子供だ……いいからさっさと寝てこい。飯になったら起こしてやるから」
ほら、と背を押されて仕方なく歩き出す。
親代わりの彼には、何を言っても結局は子供扱いされてしまう。どんなに努力をしても彼にとっては子供の背伸びで、どんなに追いかけてもその背には追いつけない。
仕方がない事ではあるが、それでも不満は残るものだ。
「叔父さんの記憶。見てみたかった。きっと見せられないような、そんな恥ずかしい記憶なんだろうから」
悔し紛れにそう言えば、馬鹿かと低い声が返る。
「まぁ、ある意味で恥ずかしいがな。後悔するくらいならば、最初から足掻くべきだったんだ……逝かないでくれなど、自分が手を下しておきながら」
忌々しげに吐き捨てられた言葉に、思わず振り返る。
背を向ける彼の足下で、蹲り慟哭する男の姿が見えた気がした。
20250621 『彼の背中を追って』
「好きは嫌い。痛みしか与えてくれないから」
そう言って彼女は背を向けた。さよならすら言わず、去っていく。
「やだっ。待って、お願い」
腕を伸ばして、必死に追いすがる。幼心に彼女とは二度と会えないのだと感じて、離れたくないと泣きじゃくる。
彼女が止まる。その腰にしがみつき、泣きながらごめんなさいと何度も繰り返した。
さよならは嫌だ。彼女と二度と会えなくなる事が、何よりも怖い。
小さな溜息。腰に絡むわたしの腕を解いて、ゆっくりと彼女は振り返る。
身を屈めて目を合わせ、両手を繋ぐ。涙の向こう側にいる彼女が静かに微笑むのに期待して、行かないでと願った。
「もう好きって言わないから、だから一緒にいて」
「その言葉も嫌い。一緒にと言いながら、人間はすぐに死んでしまうのだから」
だから、と彼女は笑う。冷たい笑い方だ。今まで優しくしてくれた彼女との違いに、小さく肩が震えた。
怒っているのだろうか。彼女の嫌いな言葉しか吐けないわたしに、愛想が尽きてしまったのか。家族のように。
「私に死をちょうだい?永遠に一緒にいるために。私が在る限り、あなたは私と共に在る……そういう契約なら、結んであげる」
声だけは優しく、彼女は告げる。わたしには出来ないだろうと、彼女の態度が拒絶を示している。
解かれていく両手を握り、彼女を見据えた。何も知らない子供の言葉だと思われないために。
「あげる」
人ではなくなる事の意味は分かっている。それがとても悲しく苦しい事も知っている。
それでも、彼女と一緒にいたい。
一度目を間違い、この二度目を手放したら、きっと三度目は訪れないだろうから。
「死をあげるから、契約して」
息を呑む彼女に、笑ってみせる。
お願いと告げれば、彼女は泣きそうに顔を歪めて繋いだ両手を強く引いた。
「馬鹿な子」
掠れた呟き。抱きしめる腕の温もりを、目を閉じて受け入れる。
ようやく帰ってこれた。大好きな彼女の元に。
もう二度と、間違えない。
「本当に馬鹿な子……あなたのその記憶は、あなたのものではないのにね」
可哀想に。
悲しみを帯びて呟かれる言葉と共に彼女はわたしから何かを切り離し、意識は真っ黒に染まっていった。
穏やかな表情をして眠る少女の髪を梳きながら、女は物憂げに目を伏せた。
少女のポケットを探る。中から取り出したのは、砕けた何かの一部。
それはかつて、少女のように女に焦がれた男が女へ永遠を誓うために送ったかんざしの一欠片であった。
「可哀想に。こんなもの拾ったばっかりに」
欠片を握り込めば、それは女の手の中で金の炎となって溶けていく。再び女の手が開かれた時には、その中には何もない。
「本当に可哀想にね」
少女が女を求めるのは、欠片の記憶に引き摺られていたからだろう。少女の意思ではない。それを知りながら、女は少女と契約を交わした。少女の影を切り離し、自身の影と繋げて逃げられないようにしながら。
その男は結局、女に送ったはずのかんざしを奪い逃げ出した。それを許せず、女は逃げ出した男を捕らえ、その身をすべて喰らった。無理矢理にでもひとつになれば満たされるかと思っての行為だが、結局は空しさが増すばかりであった。
いつもそうだ。他の者と同じ。女が恋い、女に焦がれる者は皆、最後には女の元から逃げ出してしまう。
ただ一人。女が人を恋う切っ掛けとなった娘を除いて。
「君は、あの子に似ているね」
眠る少女の髪を掬い、唇を触れさせる。身動ぐ少女に微笑んで、在りし日の娘を想う。
不思議な娘だった。妖を祓う立場にありながら女に懐き、一族を裏切った。女のために永遠を共にする契約を結び、寄り添い続けてくれた。
そんな優しい娘を女から奪ったのは、娘の一族の末裔だ。穏やかに日々を過ごしていただけの二人の元へと末裔らは強襲し、女を庇い娘は消えてしまった。
悲しみと怒りの感情に任せて末裔らを根絶やしにし、怒りは鎮める事が出来た。だが悲しみが癒える事はない。喪った温もりを求めて人を恋い、それに応えた者を愛でても最後には逃げ出してしまう。逃げ出した事に怒り、その裏切り者を喰らい。一人になって、また恋しくなる。
それを繰り返して、どれほどの時が経ったのか。
「あの子のように、影を繋いで。あの子の記憶を入れれば、もう寂しくはなくなるね」
少女と繋がる影を見て、女は目を細めた。うっとりと頬を染め、喜色を湛えて微笑みを浮かべる。
「好きは嫌い。でも、君の事は好きになれそうだ。君も私が好きだと言っていたし、嬉しいでしょう?」
そう囁けば、少女の瞼が震え薄く目が開いた。焦点の合わぬ微睡んだ目が彷徨い、女を認めて綻んだ。
徐に少女の手が女へと伸ばされる。思わず女がその手を取れば、離れないようにと強く繋がれる。
「――ただいま」
ただ一言。
少女の唇から溢れ落ちた、柔らかな響きのそれ。たった四文字の言葉が、女の記憶を揺さぶり涙となって流れていく。
女はまだ、少女の記憶に手を触れてはいない。少女の記憶に紛れ込んだ男の残滓は、金の炎に包まれて跡形もなくなってしまった。それなのに――。
「待って――」
再び瞼を閉じて寝入ってしまった少女の手を握りながら、女は途方に暮れる。少女を起こしてその言葉の真意を問うべきか、このまま寂しさを埋めるために少女の記憶を書き換えるべきか。どうすればいいのか分からない。
「帰って……来たの?」
問いかけても少女は答えない。穏やかな寝息に、女の頬をまた一筋涙が伝い落ちていく。
ふふ、と微かな笑い声。楽しい夢でも見ているのか、寝ながら笑う少女の唇が、むにゃむにゃと言葉を紡いでいく。
「――大好き」
好きでも、嫌いでもない言葉。
少女の言葉を聞くために耳を澄ませていた女が、呆れたように笑い、泣いた。
少女を抱きしめ横になる。泣きながら目を閉じて、女は少女の隣で眠りについた。
柔らかな日差し。穏やかな木漏れ日の降り注ぐ森の奥。
人喰い狐と呼ばれる九本の尾を持つ寂しい狐が、一人の少女に寄り添い眠っていた。
20250620 『好き、嫌い、』
「雨に濡れたせいだよ。泣いてないから大丈夫」
眉を下げて彼は笑う。
あからさまな嘘に、けれどそれを指摘する事も出来ずに視線を逸らした。
「心配させてしまったね。ごめんね、大丈夫だから」
濡れた体をタオルで拭きながら、彼はそっとタオルに顔を押し当てる。微かに漏れる嗚咽は、外の激しい雨音に掻き消されていく。
こんな時、姉ならばどんな言葉をかけるだろう。
そう思い、馬鹿な事を考えたと自嘲する。そもそも姉がここにいれば、彼が泣く事もなかったのだから。
雨音が強くなっている。強い雨はきっと雷を連れてくる事だろう。雷は嫌いだ。雷雨は姉を連れていってしまったのだから。
泣くのを堪えて、彼に背を向けた。自室に向かい、何も言わずに歩き出す。彼が泣いていないというなら、自分が泣く訳にもいかない。
姉が消えて、もうすぐ一年が経とうとしている。
カーテン越しに、外が眩い白に染まる。
少し遅れて重苦しい音が響く。低くて力強い、雷の音。
少し悩み、そっと窓際に近づいてカーテンを開ける。いつもより暗い夜の街を、激しい雨が打ち付けている。
空が白く光った。白のような紫のような、一瞬の稲光。心の中でゆっくりと五つ数えて、雷が鳴る。
ほんの少し窓を開けた。その隙間から腕を出し、雨風に晒す。
容赦なく腕を打つ雨が腕を濡らし、風が隠されていたものを暴き出す。
腕を覆う無数の鱗。傷つきいくつも剥がれ落ちた、見窄らしく異様な姿。
小さく息を吐いた。年を重ねる度に傷が増え剥がれ落ちていくそれは、雨に濡れた間だけ現れる。けれど鈍く貫くような痛みは、見えていようといまいと構わずに襲う。眠る事すら困難なほどのその痛み。鱗の浮き出た腕を見つめ、顔を顰めた。
腕を引く。だが引いた瞬間、見えない何かに腕を掴まれた。
目を凝らしても何も見えない。温かく冷たい、そんな不思議な感覚。
腕を掴まれているのに、不思議と痛みはなかった。軽く触れられるだけで、激しい痛みを伴うとはずだというのに。
「随分と剥がれ落ちたなぁ。これだけの傷だ。相当の痛みを伴うだろう」
声が聞こえた。柔らかく、硬い。手を掴む何かと同じく、捉えどころのない声音。その響きに何故か懐かしさを覚えて、気づけば窓を大きく開け放っていた。
「あぁ、痛みのせいで眠れていないな。こんなに窶れて、可哀想に」
何かが頬に触れる。目の下をそっとなぞり、雨粒が顔の鱗を浮かび上がらせていく。
「どこもかしこもぼろぼろだ。姉御の帰還を先に告げてやろうと来てみたが、駄目だな。姉御に一目でも逢わせてやりたいが、このまま連れていかねば手遅れになる」
外の激しい雨とは異なり、体を包む雨は痛みを忘れさせる程に優しい。強張る体の力を抜いて目を閉じると、優しく頭を撫でられた。
「おねえちゃん」
「うん。すまんな。逢わせてやりたいとは思うが、おそらくは戻れぬだろう。姉御と違い、お前の体は現世に馴染めていない。姉御が戻る大暑の頃もまだ遠く、それまで体が持たぬだろう」
腕に何かが触れ、痛みが消えていく。その温もりに姉を重ねて呼べば、悲しみを帯びた声が返ってくる。
姉に逢えないのが寂しい。けれど声は言った。姉が帰ってくるのだと。確かにそう言った。
「おねえちゃん。帰ってくる?」
「帰ってくるよ。大暑の頃、あと一月もすれば戻ってくる。ここにいる男とお前と共に過ごすために、その身に溜まり続けた雷を手放していたのだよ」
「――なら、いい」
それだけで、十分だ。姉の居場所はここなのだから。
婚約者である彼の隣。今も帰りを待ち続けている彼が、報われるのならばそれでいい。
ほぅ、と吐息を零し、何かに身を委ねる。
可哀想に、と囁く言葉に、思わず笑った。
可哀想なものか。
姉に庇護され、姉が愛した彼にも優しくされて。姉がいなくなってからも、追い出される事なく大切にしてくれたのだから。
これ以上の恵まれた幸せはそうないだろう、と。
目を開け、憂いを帯びて佇む同胞である白銀の龍に笑ってみせた。
「どうしたの?」
己を背後から抱きしめ黙したままの男に、女は静かに声をかけた。
問う形ではあるものの、女には男の思いが痛いほどに分かる。喪失の痛みは癒える気配も見せずに身を苛み続けているのは、女もまた同じだからだ。
梅雨が明け、夏の盛りが近づく頃。一年と少しを過ぎてこの家へと戻ってきた女を待っていたのは、ソファで俯き座る幽鬼のような男だけであった。女の妹の姿はどこにもない。抱きつき涙する男に聞けば、ある雷雨の夜に忽然と姿を消したらしい。
女が戻り、妹が姿を消して一年が過ぎ、そして二年が過ぎようとしている。女と男が婚約者の関係から夫婦へと変わった以外、この家は変わりはない。妹の部屋も私物も、何もかもがそのままだ。
「寂しい」
「――うん。寂しいね」
男の囁く声に、女は頷いた。
女と男と、そして妹と。互いの欠落を埋めるように、三人で生きていた。誰か欠けても、欠落は埋まらなかった。
かつて女が姿を眩ませたのは、三人で未来を生きるためだった。妖の血が混じる女にとって、妖の力は足枷でしかない。故に同胞に頼み込み、妖の力すべてを切り離してもらったのだ。
背後から抱きつく男の腕に力が籠もる。肩口に額を寄せて、願うように囁いた。
「寂しい。もう一人にしないで……早く帰ってきて」
女は何も言わずに男に向き直り、正面から男を抱きしめた。胸元が濡れる感覚がして、女の頬にも一筋の滴が流れ落ちていく。
妹は帰ってはこないのだろう。女のように、妖の力を切り離しに行ったのであれば希望は持てる。しかし女の記憶にある限り、妹の周囲で雨や風が不自然に起きる事はなかった。ただ成長するに従って妹の活気はなくなっていき、触れられる事をどこか怯えるようになった。
一度だけ、雨の日に妹の濡れた腕を見た事がある。傷だらけで鱗の剥がれ落ちた、痛々しい細い腕。おそらくは、妹は人の世界に適応出来ていなかったのだろう。
ならば、妹がここに帰る事は二度とない。
「寂しいね」
男を強く抱きしめ、女は目を閉じる。
不意に風が吹き抜けた。僅かに開いた窓から入り込んできたのだろう。
鼻腔を擽る、湿った土の匂い。雨の香りに、二人の涙の跡が残る頬をまた一筋の滴が流れ落ちていく。
妹が帰ってきたのだろうか。妖の力を手放した事で、妖を見れなくなった女には分からない。
寂しさだけを募らせて、風は自由気ままに部屋を飛び回り、やがては外へと帰っていく。寂しさを抱えた二人を部屋に残したまま。
温もりを求めて、女は男に擦り寄った。男もまた女に寄り添い。
降り始めた雨の音を聞きながら、帰らぬ妹を待ち続けた。
20250619 『雨の香り、涙の跡』