電車に揺られながら、過ぎる景色を眺めていた。
膝には凭れて穏やかに寝息を立てる小さな子供。離れないようにと手を繋がれて、その執着に密かに嘆息した。
窓の外は立ち並ぶビルの無機質な景色から、青々とした木々の生い茂る森の景色へと変わっていく。この電車の辿り着く終点が、実家の最寄りの駅だ。
「おねえちゃん」
繋いだ手を解いて半分閉じた瞼を擦り、子供が顔を上げる。手のひらや顔の輪郭が揺らぎだして、慌ててペットボトルの口を開け、小さな手に押しつけた。
「こんな所で戻らないで。犬猫でもあれなのに、獺《かわうそ》なんて目立ってしょうがないんだから」
「ん。ごめんね。おねえちゃん」
両手で持ったペットボトルを持ち水を飲む子供は、謝りながらも満面の笑みを浮かべている。一緒に実家に帰れる事が、余程嬉しいらしい。
実家から連絡があったのは、三日前の事。
父が倒れた。
母のその一言で、詳細も聞かず実家に帰る事を決めた。
学校への連絡。部屋の整理。諸々を熟して、今は子供の姿をしている獺と共に電車に乗り込んだ。
「父さん。大丈夫だといいけど」
「大丈夫だよ。おねえちゃんに会いにお家を出る時、神主さま、とっても元気だったもの」
小首を傾げて獺は笑う。そう言われると大丈夫な気がして、獺の笑顔に釣られて小さく笑った。
「それより、おねえちゃんとお家に帰れるの、とっても嬉しい。皆も喜ぶし、このままずっとお家にいてね」
けれど続く獺の無邪気な言葉に、笑みが引き攣ったが。
終点の無人駅を出れば、懐かしい景色が出迎えてくれた。
家を出た時と何一つ変わらない、時が止まっているようなその景色。
雨上がりの湿った土の匂い。草木の香り。大きく息を吸って、懐かしさを堪能した。
「来たのか」
「あ、兄ちゃん」
聞き馴染んだ声に視線を向ける。道の端に佇む彼の姿に、一瞬だけ胸が高鳴った。
「久しぶり。元気そうだな」
「う、うん。そっちこそ」
獺に手を引かれ、彼の元へ歩み寄る。手を離して彼に飛びつく獺を抱き留めながら、彼は涼しい顔をして声をかけてくる。ついぎこちなくなってしまうのは、久しぶりだからだと思いたい。
「この馬鹿が迷惑をかけて悪かった」
「あ、いや。干物になる前に会えて良かったよ。アパートでも良い子だったし」
目を逸らす。
彼を正面から見る勇気がないのもあるが、一ヶ月前の事を思い出してしまったからだ。
偶然耳にした怪談話。
踏切の近くに現れるという老人や子供。最初は声だけが聞こえ、最後には姿を現すという、ありきたりな怪談話。
気になって訪れて見れば、どちらとも獺が化けた姿だったという。
胸騒ぎがしてその場所を訪れ、結果水不足で倒れそうな川獺を保護出来たのは本当に幸運だった。
「立ち話も何だし、そろそろ行くか」
さりげなく荷物を取られ、慌てて歩き出す彼の背を追う。
優しいのは変わらない。彼はいつでも、誰に対しても誠実で親切だ。
勘違いしそうになる気持ちを抑えて、無邪気に走り回る獺を呼ぶ。側に来た獺と手を繋げば、また一層嬉しそうに笑顔になるのに、複雑な思いを隠して笑い返した。
「ただいま、って!?」
玄関を開けた瞬間に、いくつもの影が飛び出し襲われる。
あまりの勢いに体が後ろに傾くが、素早く彼に支えられ倒れ込む事はなかった。
「あらあら。皆元気ねぇ」
玄関先で母が呑気に笑っている。その笑顔に一瞬ここに来た目的を忘れそうになるが、軽く頭を振って体制を立て直し、母に詰め寄った。
「母さん!父さんの容態は!?」
「大丈夫よ。ちょっとしたぎっくり腰だから」
「は?……ぎっくり、腰?」
想像していたのとは違う母の答えに、目を瞬いて固まる。
電話では、倒れたと言っていたはずだ。
「最後まで話を聞かないからよ。まったくもう、あなたはいつまで経ってもお父さんっ子なんだから」
呆れたように笑われて、一瞬で顔が熱を持つ。恥ずかしさに今すぐ逃げ帰りたいものの、体にしがみつくいくつもの手がそれを許さない。
「おかえり。やっと帰ってきた」
「お帰りなさい。ずっと待ってたのよ」
「嘘つくお姉ちゃんは、もう帰さないからね」
口々に言われるおかえりの言葉と、時折聞こえる不穏な言葉に、頬を引き攣らせながらただいまを返す。
猫や狐、狸のような小さな子達から、足下でとぐろを巻く蛇。見えないけれど腰に一際強くしがみついているのは、河童か座敷童だろうか。
実家に棲み着く妖達。予想はしていたが、思っていた以上の反応に思わず溜息が零れ出た。
「気持ちは分かるが、先ずは家の中で休ませてやってくれ。長旅で疲れているだろうから」
「そうね。それと、休んでからでいいから、お父さんに顔を見せてあげなさいね」
彼と母の言葉に、妖達は素直に返事をして離れていく。
またね、と声をかけられて、それぞれ元気よく外へと飛び出していった。
「――相変わらずだね」
「まぁな。悪気はないんだ。許してやってくれ」
苦笑しながら、彼は手を差し出す。
気づけば獺もどこかへ遊びに行き、母は奥へと戻ったようだ。
「そんなの。昔から知ってる」
落ち着かない気持ちになりながら、差し出された手を取り立ち上がる。少しだけ冷たい彼の指が絡んで手を繋がれて離れない。じわりと熱を持ち出す体に、恥ずかしくなって俯いた。
「疲れてるだろう。床は用意してあるから、ゆっくり休め」
何も変わらない彼に、小さく頷く。手を引かれるままに家の中に入り、自室へと連れて行かれた。
襖を開けば、記憶の中のそれと全く変わらない部屋。足を踏み入れれば、不意に訪れた眠気に体がふらついた。
「あ、ごめん」
「疲れが出たんだろう。このまま眠ってしまえ」
「でも……」
反論しようにも、体は重く。段々に瞼も閉じていってしまう。
どうしたのだろう。さっきまではまったく眠くはなかったのに。
「帰ってきたから安心したんだ。もう余計な事を考えず、深く眠って体を休めろ」
彼の声が近い。そんな事も気にならないほど、今は眠くて仕方ない。
温かな何かに包まれて、どんどん意識が落ちていく。
「おやすみ……もう、どこにも行かせない」
頬に触れた熱と声は、果たして現実だったのだろうか。
目を覚ましたのは、それから丸一日経ってからだった。
鳴り響くお腹の音。喉が渇いて起き上がれば、ちょうど彼が部屋に入ってくる。
「よく寝てたな。ほら、腹が減っただろう」
彼の手には、湯気の立ち上る雑炊。食欲を誘う匂いに、遠慮を知らないお腹がくぅ、と音を立てた。
隣に座った彼に水を手渡され、一気に飲み干す。ほっと息を吐くと、彼は空になったコップを取り盆に置き、雑炊をよそい始めた。
「ゆっくり食えよ。腹壊すからな」
笑われながらそう言われて、顔が熱くなる。それでも空腹には勝てず、彼からお椀を手渡されると、いただきますとほぼ同時に食べ始めた。
不意にいくつもの視線を感じて、視線だけを向ける。僅かに開いた襖から覗くいくつもの目に、思わず盛大に咽せ返った。
「わっ。お姉ちゃん大丈夫?」
「大変!お母さんを呼んでこなくちゃ」
「それより人工呼吸だよ。人間は空気がないと死んじゃうんだから」
「そっか。じゃあ、兄さんお願い」
いくつもの声と共に、部屋になだれ込む小さな影。
彼に背をさすられ咳き込みながら、涙目で小さな妖達を睨み付けた。
「咽せる、原因が……変な事、言わない、で」
「まぁ、悪気はないんだし」
苦笑する彼に視線を向ける。お椀を除け、汚れた布団を手早く取っていく。覗き見をしていた妖達に、汚れた布団を母に持って行くのと換えの布団の用意を指示すれば、慌てたように妖達は布団を抱えて去って行った。
「――嵐が去ったみたい」
「賑やかなのは、悪い事ではないさ」
そう言って新しく雑炊をよそい手渡される。温かな優しい味は変わらない。
変わらない味。変わらない部屋。変わらない妖達。
変わらない、彼との関係。
雑炊を食べながら考える。これからの事。家の事や自分の事。
「なんだか難しい事を考えているな」
「――別に」
難しい事ではない、と思う。
そう反論する前に彼の親指が唇の端を拭い、ついた米粒を口に含む。
「あんまり考え込むな。時間はあるんだ。これからゆっくり考えればいい」
一瞬で赤くなっただろう顔を笑いもせず、彼は涼しい顔をして言う。
恥ずかしさに文句を言いかけ、ひとつ遅れて彼の言葉が引っかかり眉を寄せた。
「時間はあるって。父さんの顔を見たら帰るつもりなんだけど」
「帰れないさ」
当然のように彼は告げた。
いつの間にか空になっていた雑炊のお椀を取り、盆に乗せて立ち上がる。
「帰れない、って」
「そうだろう?」
襖の向こう側へと彼が声をかける。音もなく開いた襖から妖達が入ってきて囲まれた。
「うん。帰っちゃ駄目だよ」
「どこにも行かないでね」
「ずっとここにいるの。お姉ちゃんはここにいないと」
「お外には出られないよ。これでどこにも行けないよね」
口々にどこにも行くなと言われ、戸惑いに視線が揺れる。
何が起こっているのかよく分からない。そこまで言う子達ではなかったはずなのに。
「おねえちゃん」
側に寄った獺が、腕に鼻を擦り付ける。
それを合図に妖達が、腕に足にしがみついた。
「おねえちゃんは、兄ちゃんのお嫁さんになって、ずっとここにいるの。おとうさんもおかあさんも、喜んでくれるよ」
「そんなの。だって、学校が」
卒業まで残り半年以上ある。無理を言って通わせて貰っている学校だ。中退など両親は悲しむだろう。
そう伝えたくても、皆行かないでと言うばかりで話を聞いてくれる様子はない。縋るように彼を見れば、穏やかさの中に冷たさを含んだ眼をして笑った。
「ぎっくり腰とは言え、動けなくない時間ですっかり弱ってしまってな。俺に後を継いでほしいと頼んで来た。お前を戻す条件をつけようかとも思ったが、その前に戻ってきてくれてよかった」
「――え?」
「学校の件も心配しなくていい。どのみち卒業後は戻ってくるんだ。それが早まっただけの事だよ」
それだけを告げて、彼は盆を手に部屋を出て行く。
怒っていた。この家を出ると告げた時も、何も言わなかった彼が静かに、けれども確かに怒っていた。
その事実に呆然としていれば、獺が腕にじゃれつきながら笑い声を上げた。同調するように他の妖達も笑う。
それにどこか怖ろしさを感じて、小さく息を呑む。
「おねえちゃん」
獺が呼ぶ。恐る恐る視線を向ければ、楽しそうに細まる黒い目と視線が交わり、逸らせない。
「兄ちゃんね。誰にでも優しい訳じゃないよ。甘やかしたりだってしないし、世話も焼かない……鈍感で思い込みが激しいのは、おねえちゃんの悪い所だね」
鼻先を腕に押し当て笑う獺に、可哀想ね、と妖達が囁く。
その可哀想な相手は誰なのか。
それを理解する前に、混乱しすぎた頭が限界を迎えて、目の前が黒く染まっていった。
20250621 『どこにも行かないで』
――大人になったら何になりたい?
周りの大人達からの質問に、幼い頃の自分はいつも同じ答えを返していたらしい。
――雨!
理由を聞いても答えない。ただ笑顔で外を指差しながら、雨になりたいのだと繰り返していたようだ。
「雨、ねぇ」
降り頻る雨を見ながら、思い出せない記憶を手繰り寄せる。
先日母から聞かされた幼い頃の話は、自分の記憶の中には、欠片も残ってはいなかった。
雨になりたかった幼い頃。何度も繰り返し言っていたほど雨に憧れていたのであれば、記憶に残っていても可笑しくはないはずだ。それなのに思い出せるものは何もない。
思い出せるのはいつだって、野山を駆けまわった賑やかな日々だ。曾祖母の家は寂れた田舎の村にあり、目にするものすべてが幼い自分には輝いて見えていた。
そこで出来た友人達は、今も元気にしているだろうか。曾祖母が亡くなり村を訪れなくなってから、もう何年も経っている。村を出た子もいたのかもしれない。
「雨」
窓の外で降る雨は止まない。梅雨の終わりはまだ当分先だ。
――雨が降れば。
雨になりたい理由。雨になれば、雨が降れば何か特別な事が起きるのだろうか。それとも雨の間だけ、誰かに会えるのだろうか。
――大人になったら、きっと雨に。
雨は降り続いている。明日もきっと雨だろう。
思い立って、立ち上がる。時刻は夜九時。寝るにはまだ早い時間帯。
だが早朝に発つのであれば、もう眠ってしまった方がいいだろう。
曾祖母の家はない。友人達にも会える確立は低い。
それでも、あの懐かしい場所に帰りたいと、強く思った。
早朝から電車を乗り継ぎ、昼前になってようやく辿りついた懐かしい場所は、幼い頃と変わらず不思議な静けさを湛えていた。
糸のように細かな雨が降る。傘を差し、優しい雨の音を聞きながら当てもなく歩いていく。
雨のせいか、辺りに人影は見えない。まるで自分一人だけが取り残されたようだ。どこか落ち着かず、居心地の悪さを感じながら朧気な記憶を手繰り、目の前の光景と重ね合わせていく。
ふと、遠くに何かが見えて目を凝らした。
石段とその先の山門。村の唯一の寺だと思い出す。
そう言えば、曾祖母の墓参りも久しくしていなかった。何も用意はしていないが、手を合わせるくらいはしてもいいだろう。
そう思い立って、寺へ向かい歩き出した。
寺についても、誰の姿も見えなかった。
いくつも建つ墓石に困惑する。記憶には曾祖母の墓の場所まで残ってはいない。一つ一つ探すしかないかと、溜息を吐きながら墓地へと足を踏み入れた。
「何をしているの」
不意にかけられた声に、思わず出かかる悲鳴を呑み込んだ。振り返れば、自分と同年代に見える少女。紫陽花の花束を抱えているが、墓参りに来たのだろうか。
「雨、上がってるよ。いつまで傘を差しているの?」
指摘されて顔を上げる。相変わらずの曇天ではあるが、いつの間にか雨は止んでいた。
傘をたたみ、視線を逸らす。恥ずかしさに、後ろ手に傘を持ちながら話題を逸らすため声をかける。
「えっと……君は誰かの墓参りに来たの?」
視界の端で紫陽花の花がゆらりと揺れた。
小さく笑う声。どこか懐かしいその響きに、目を瞬いて少女を見た。
楽しげなその笑みに、記憶が揺さぶられる。重なる誰かの面影に、惹かれるようにして一歩距離を詰め、口を開く。
「あ、あのさ……」
「おばあさまに、戻ってきた事を報告しに来たの。ここまで来てくれるとは思わなかったから」
「――え?」
「こっち。皆先に行ってるから」
そう言って、少女は歩き出す。着いてくるようにと促されて、慌てて少女の背を追った。
込み上げる懐かしさと、僅かな違和感。落ち着かなくて、けれど何と声をかけたら良いのかも分からず無言で少女に着いて歩く。
水を含んだ土に足を取られぬよう気を付けながら、奥へと進んでいく。点在する古い墓を過ぎ、獣道のような細い坂道を上っていく。
そうして辿り着いた一番奥。四つ並んだ立派な墓石の一つの前で、三人の人影が集まり談笑しているのが見えた。
「あぁ、来たか」
「あれぇ?途中で拾ってきたんだ」
「そういや、ばあさまっ子だっけか。その割には何年も来なかったが」
同年代の男女。やはり懐かしい面影に眉が寄る。
いつも遊んでいた友人達。彼らがそうなのだろうか。
「変な顔。もしかして忘れちゃったの?」
一番小柄な少女が、腰に手を当て憤慨する。
「あれじゃね?好きな子以外は目に入らない。記憶にも残らないってやつだろどうせ」
陽に焼けた短髪の大柄な青年が、からかい混じりに声をかける。
「どんな理由であれ、帰って来たのだから。それは喜ばしい事だろう。御婆様への報告が済んだらすぐに祝言の準備に取りかからないと」
細身の着流しを着た青年が穏やかに微笑む。
記憶が揺れる。懐かしい感情。その端々に感じる微かな違和感。
戸惑う自分を置き去りに、彼らは楽しそうに談笑を続けている。
「しっかし、本当に戻ってくるとは。俺と違って、外の生まれだってのに……純愛だな」
「これで残りはあの子だけね。戻ってくると聞いたけれど」
「あぁ。当代が腰を痛めて、その報告をしたらすぐに戻ってくると言っていた。明日には着くだろう」
「物好きだよねぇ。外で学びたいなんてさ」
「勤勉なんだ。後を継ぐ事に真剣に向き合っている証拠だよ」
知らない話題。知っているような誰かの話。聞いているだけで、誰かの面影が浮かんでくる。
ここに連れて来た少女が花束を供え、手を合わせた。ぼんやりとそれを見ていれば、振り返った少女が一歩脇に除けてこちらに視線を向けた。
「ここよ」
少女が花束を供えた場所。曾祖母の名字が刻まれた立派な墓標。
ここに曾祖母は眠っているのか。
促されて墓石に近づき手を合わせる。懐かしさを感じながら、それでも感じる違和感に、心が騒ついている。
――大人になったら。
ふと、子供の頃の夢を思い出す。
大人になったら雨になりたい。
滑稽で奇妙な夢。外の大人には分からない、大切な約束。
――一緒に、雨に。
約束した誰かは、ここにはいない。
足りないのだ。だから落ち着かず、居心地が悪い。
そう思い顔を上げた瞬間、冷たい何かが腰に絡みついた。
「――え?」
「おっと、迎えに来たようだな。お熱いこって」
「いいじゃん。憧れるなぁ」
「憧れない相手で悪ぅございやしたね」
「離れていたから余計にだろう。気にするな」
くすくすと、周りの彼らが楽しげに笑う。
彼らには何が見えているのか。視線を向けても、そこには何もないというのに。
そっと腰に絡みつく何かの感覚がある場所へ、手を触れる。
冷たい皮膚の感触。先を辿れば、手が何かと繋がれる。
くらり、と世界が揺れた気がした。
足に力が入らず、崩れ落ちる。近くに感じる愛しい冷たさに、涙が溢れて世界が滲んでいく。
「大丈夫?」
「問題ないみたいだ。再会に、感情が高ぶっていたんだろう」
周りの声など気にならない。長く欠けていたものが満たされていく感覚。足りなかった唯一が、ここにいる。
涙越しに見える、約束した時と変わらない愛しいその姿を抱きしめた。
「――ただいま」
「おかえりなさい」
幼い頃にした約束。
大人になったら家の役目を引き継いで、一緒に雨になる。
曾祖母の代で一度途切れてしまった役。灌漑《かんがい》の役目を、婚姻という形で引き継ぐのだ。
「確かにちょっと羨ましいかな」
「帰ったらやってもらえよ……俺はやんねぇからな。人前でなんて小っ恥ずかしい」
「ケチ!」
「そこまでにしてくれ。明日には戻るとはいえ、俺は帰っても相手がいないんだから」
周りの声に、記憶が重なる。
幼い頃の思い出が、途切れ途切れの記憶が形を整え、輪郭を露わにしていく。
彼らは大切な友人達だ。すぐに思い出せなかったのが不思議なほどに、今ではすべてを思い出せる。
彼らの家の役目。二人ほど欠けてはいるが、ここにいる彼らは皆、自分と同じ役目を引き継ぐ者達だ。
「これで統治、葬送だけでなく、灌漑も揃った。後は仲介の戻りを待って、祝儀を挙げよう」
「そうね……ほら、続きは家に戻ってからにして。家の引き継ぎは祝儀前でも出来るんだから」
笑われ、促されて立ち上がる。片手は繋いだまま、涙を拭って頷いた。
確かに、やるべき事はたくさんある。祝儀前に出来る事は済ませておきたい。
手は繋いだまま、歩き出す。
曾祖母の、これから二人で暮らす家が待っている。
子供の頃の夢。雨になる事。
それがようやく叶うのだ。
20250623 『子供の頃の夢』
6/23/2025, 8:00:48 AM