sairo

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無心で彼の背中を追いかける。
届かないと知っている。それでも追いかけずにはいられない、その大きな背。
彼は振り返らない。振り返る甘さを持たない、厳しさを抱いた人だ。
だから何も考えずに追いかける。
いつか彼に追いつく事を夢見て、只管に地を駆けた。
駆ける度にぬかるむ地面から、飛沫が跳ねる。水を含んだ土が、足に絡みつき引き留める。

――いかないで。

脳裏を過ぎていく誰かの声に、思わず進む足が鈍る。
知らない声。だが懐かしさを感じる愛しい声音。
いつどこで聞いたのだろうか。

――行かなくては。

頭を振って、重い足に力を込めた。
彼を追いかけなければ。ただでさえ開いて行く距離。このままでは、本当に追いつけなくなってしまう。
地を駆ける。速度を上げて、彼の背中を追いかける。

「いかないで」

声がした。足下から。泥の中から、声が聞こえた。
それとほぼ同時。足首を何かが掴み、強引に引き留める。
無理矢理に止められた体は、突然の事に受け身も取れずに地に叩きつけられた。
ばしゃん、と水音。咄嗟に目を瞑るが、痛みはない。
恐る恐る目を開け、体を起こす。
粘つく泥。足首へと視線を向ければ、地面から伸びた泥が、足首を強く掴んでいた。

「いかないで」

声が聞こえた。すぐ側、泥の下から。
泣くようにか細い声音。少し悩んで、泥を掘り進めていく。
思考の片隅では、まだ彼を追いかけろと急かしている。けれど今は、この声が誰なのかが気になった。
泥を掻き分け、地面を掘る。中から水が湧き出すが、それでも泥を掻く手は止まらない。
掘り進める内、指先が何か硬いものに触れた。つるりとした、丸い何か。周囲の泥を掻き分け、それを取り出した。
掘り出されたのは、手のひら大の白く丸い石。

「お願いだ。どうか」

石の中から声がした。
服の裾で石についた泥を拭き取り、目を凝らす。微かに見える人影に、あぁと声を漏らす。
石の中にいた、膝を抱えて泣く誰か。彼によく似た、その姿。

――彼が人として生きるために置いていったもの。

彼が去っていった方へと視線を向ける。既にその姿は見えない。
石に視線を向けた。置いていかれた、石の中の彼はまだ泣いている。
そっと石を撫でる。両手で石を包み込み、静かに立ち上がる。
彼が置いていったものだ。拾ってはいけないのだろう。
それでも見ない振りをして、再び泥の中に埋めるのは気が引けた。
ポケットの中に石を入れる。彼が去った方角へ向き直り、再び駆け出した。
彼に少しでも追いつけるように。





「何をしている」

腕を引かれて、顔を上げた。
視線を向ければ、眉間に皺を寄せた彼と目が合った。

「え……?」

目を瞬いて辺りを見る。見慣れた室内は、自宅の居間のものだ。
手元を見れば、開かれたままの本。その見開かれたページには皺が寄っている。
どうやら本を読みながら、うたた寝をしてしまっていたらしい。

「寝るなら部屋に戻れ」
「あ、うん」

気の抜けた返事をしながら、本を閉じて立ち上がる。
今日の彼は随分と不機嫌だ。何かあったのだろうか。
そう思いながらも、問いかける勇気はない。おとなしく本を持って、自室へと歩き出した。

「待て」

珍しく彼に引き留められる。振り返り見る彼は、やはり眉間に皺を寄せていた。

「それは棄てろ。なんで持っている」

それ。彼の指差す方へ視線を向けた。
ズボンのポケット。外から触れれば、布越しに何かが触れた。

「――石?」

ポケットに手を入れる。出てきたのは、白くて丸い石。
つるりとした光沢に、思わず見入る。

「棄てろ。それか寄越せ……折角切り離したのに、なんで今更戻ってきたんだか」

溜息を吐きながら、彼が手を出す。
その手に石を乗せようとして逡巡し、石を抱きしめ首を振った。

「これ、欲しい」
「駄目だ。それは此方側に在ってはならないものだ」

ぴしゃりと告げられ、有無を言わさず石を取り上げられる。
彼の手の中の石が、小さく震えたように見えた。

「なにそれ。なんでここに置いておくのは駄目なの?」

石が泣いている気がして、彼に食い下がる。

「これは記憶だからだ。遠い過去の……俺ではない俺の記憶。お前を育てていくのに、邪魔にしかならないものだ」

そう言って彼は石をごみ箱へと投げ捨てた。綺麗な放物線を描いてごみ箱へと入ったはずの石は少しも音を立てず。
不思議に思って近づいて中を覗けば、石はどこにも見当たらなかった。

「綺麗だったのに」
「あれが綺麗?醜いの間違いだろう」

名残惜しげに呟けば、呆れたような声が返る。
乱雑に頭を撫でられて、いつまで立ってもなくならない子供扱いにむくれてしまう。
そんな所が子供でしかないと、そう分かっているはずなのに。

「止めてよ。いつまでも子供扱いしないで、叔父さん」
「そう反論する内はまだまだ子供だ……いいからさっさと寝てこい。飯になったら起こしてやるから」

ほら、と背を押されて仕方なく歩き出す。
親代わりの彼には、何を言っても結局は子供扱いされてしまう。どんなに努力をしても彼にとっては子供の背伸びで、どんなに追いかけてもその背には追いつけない。
仕方がない事ではあるが、それでも不満は残るものだ。

「叔父さんの記憶。見てみたかった。きっと見せられないような、そんな恥ずかしい記憶なんだろうから」

悔し紛れにそう言えば、馬鹿かと低い声が返る。

「まぁ、ある意味で恥ずかしいがな。後悔するくらいならば、最初から足掻くべきだったんだ……逝かないでくれなど、自分が手を下しておきながら」

忌々しげに吐き捨てられた言葉に、思わず振り返る。
背を向ける彼の足下で、蹲り慟哭する男の姿が見えた気がした。



20250621 『彼の背中を追って』

6/22/2025, 11:28:52 AM