sairo

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「雨に濡れたせいだよ。泣いてないから大丈夫」

眉を下げて彼は笑う。
あからさまな嘘に、けれどそれを指摘する事も出来ずに視線を逸らした。

「心配させてしまったね。ごめんね、大丈夫だから」

濡れた体をタオルで拭きながら、彼はそっとタオルに顔を押し当てる。微かに漏れる嗚咽は、外の激しい雨音に掻き消されていく。
こんな時、姉ならばどんな言葉をかけるだろう。
そう思い、馬鹿な事を考えたと自嘲する。そもそも姉がここにいれば、彼が泣く事もなかったのだから。
雨音が強くなっている。強い雨はきっと雷を連れてくる事だろう。雷は嫌いだ。雷雨は姉を連れていってしまったのだから。
泣くのを堪えて、彼に背を向けた。自室に向かい、何も言わずに歩き出す。彼が泣いていないというなら、自分が泣く訳にもいかない。

姉が消えて、もうすぐ一年が経とうとしている。





カーテン越しに、外が眩い白に染まる。
少し遅れて重苦しい音が響く。低くて力強い、雷の音。
少し悩み、そっと窓際に近づいてカーテンを開ける。いつもより暗い夜の街を、激しい雨が打ち付けている。
空が白く光った。白のような紫のような、一瞬の稲光。心の中でゆっくりと五つ数えて、雷が鳴る。
ほんの少し窓を開けた。その隙間から腕を出し、雨風に晒す。
容赦なく腕を打つ雨が腕を濡らし、風が隠されていたものを暴き出す。
腕を覆う無数の鱗。傷つきいくつも剥がれ落ちた、見窄らしく異様な姿。
小さく息を吐いた。年を重ねる度に傷が増え剥がれ落ちていくそれは、雨に濡れた間だけ現れる。けれど鈍く貫くような痛みは、見えていようといまいと構わずに襲う。眠る事すら困難なほどのその痛み。鱗の浮き出た腕を見つめ、顔を顰めた。
腕を引く。だが引いた瞬間、見えない何かに腕を掴まれた。
目を凝らしても何も見えない。温かく冷たい、そんな不思議な感覚。
腕を掴まれているのに、不思議と痛みはなかった。軽く触れられるだけで、激しい痛みを伴うとはずだというのに。

「随分と剥がれ落ちたなぁ。これだけの傷だ。相当の痛みを伴うだろう」

声が聞こえた。柔らかく、硬い。手を掴む何かと同じく、捉えどころのない声音。その響きに何故か懐かしさを覚えて、気づけば窓を大きく開け放っていた。

「あぁ、痛みのせいで眠れていないな。こんなに窶れて、可哀想に」

何かが頬に触れる。目の下をそっとなぞり、雨粒が顔の鱗を浮かび上がらせていく。

「どこもかしこもぼろぼろだ。姉御の帰還を先に告げてやろうと来てみたが、駄目だな。姉御に一目でも逢わせてやりたいが、このまま連れていかねば手遅れになる」

外の激しい雨とは異なり、体を包む雨は痛みを忘れさせる程に優しい。強張る体の力を抜いて目を閉じると、優しく頭を撫でられた。

「おねえちゃん」
「うん。すまんな。逢わせてやりたいとは思うが、おそらくは戻れぬだろう。姉御と違い、お前の体は現世に馴染めていない。姉御が戻る大暑の頃もまだ遠く、それまで体が持たぬだろう」

腕に何かが触れ、痛みが消えていく。その温もりに姉を重ねて呼べば、悲しみを帯びた声が返ってくる。
姉に逢えないのが寂しい。けれど声は言った。姉が帰ってくるのだと。確かにそう言った。

「おねえちゃん。帰ってくる?」
「帰ってくるよ。大暑の頃、あと一月もすれば戻ってくる。ここにいる男とお前と共に過ごすために、その身に溜まり続けた雷を手放していたのだよ」
「――なら、いい」

それだけで、十分だ。姉の居場所はここなのだから。
婚約者である彼の隣。今も帰りを待ち続けている彼が、報われるのならばそれでいい。
ほぅ、と吐息を零し、何かに身を委ねる。
可哀想に、と囁く言葉に、思わず笑った。
可哀想なものか。
姉に庇護され、姉が愛した彼にも優しくされて。姉がいなくなってからも、追い出される事なく大切にしてくれたのだから。
これ以上の恵まれた幸せはそうないだろう、と。
目を開け、憂いを帯びて佇む同胞である白銀の龍に笑ってみせた。





「どうしたの?」

己を背後から抱きしめ黙したままの男に、女は静かに声をかけた。
問う形ではあるものの、女には男の思いが痛いほどに分かる。喪失の痛みは癒える気配も見せずに身を苛み続けているのは、女もまた同じだからだ。
梅雨が明け、夏の盛りが近づく頃。一年と少しを過ぎてこの家へと戻ってきた女を待っていたのは、ソファで俯き座る幽鬼のような男だけであった。女の妹の姿はどこにもない。抱きつき涙する男に聞けば、ある雷雨の夜に忽然と姿を消したらしい。
女が戻り、妹が姿を消して一年が過ぎ、そして二年が過ぎようとしている。女と男が婚約者の関係から夫婦へと変わった以外、この家は変わりはない。妹の部屋も私物も、何もかもがそのままだ。

「寂しい」
「――うん。寂しいね」

男の囁く声に、女は頷いた。
女と男と、そして妹と。互いの欠落を埋めるように、三人で生きていた。誰か欠けても、欠落は埋まらなかった。
かつて女が姿を眩ませたのは、三人で未来を生きるためだった。妖の血が混じる女にとって、妖の力は足枷でしかない。故に同胞に頼み込み、妖の力すべてを切り離してもらったのだ。
背後から抱きつく男の腕に力が籠もる。肩口に額を寄せて、願うように囁いた。

「寂しい。もう一人にしないで……早く帰ってきて」

女は何も言わずに男に向き直り、正面から男を抱きしめた。胸元が濡れる感覚がして、女の頬にも一筋の滴が流れ落ちていく。
妹は帰ってはこないのだろう。女のように、妖の力を切り離しに行ったのであれば希望は持てる。しかし女の記憶にある限り、妹の周囲で雨や風が不自然に起きる事はなかった。ただ成長するに従って妹の活気はなくなっていき、触れられる事をどこか怯えるようになった。
一度だけ、雨の日に妹の濡れた腕を見た事がある。傷だらけで鱗の剥がれ落ちた、痛々しい細い腕。おそらくは、妹は人の世界に適応出来ていなかったのだろう。
ならば、妹がここに帰る事は二度とない。

「寂しいね」

男を強く抱きしめ、女は目を閉じる。

不意に風が吹き抜けた。僅かに開いた窓から入り込んできたのだろう。
鼻腔を擽る、湿った土の匂い。雨の香りに、二人の涙の跡が残る頬をまた一筋の滴が流れ落ちていく。
妹が帰ってきたのだろうか。妖の力を手放した事で、妖を見れなくなった女には分からない。
寂しさだけを募らせて、風は自由気ままに部屋を飛び回り、やがては外へと帰っていく。寂しさを抱えた二人を部屋に残したまま。
温もりを求めて、女は男に擦り寄った。男もまた女に寄り添い。
降り始めた雨の音を聞きながら、帰らぬ妹を待ち続けた。



20250619 『雨の香り、涙の跡』

6/20/2025, 12:16:23 PM