「好きは嫌い。痛みしか与えてくれないから」
そう言って彼女は背を向けた。さよならすら言わず、去っていく。
「やだっ。待って、お願い」
腕を伸ばして、必死に追いすがる。幼心に彼女とは二度と会えないのだと感じて、離れたくないと泣きじゃくる。
彼女が止まる。その腰にしがみつき、泣きながらごめんなさいと何度も繰り返した。
さよならは嫌だ。彼女と二度と会えなくなる事が、何よりも怖い。
小さな溜息。腰に絡むわたしの腕を解いて、ゆっくりと彼女は振り返る。
身を屈めて目を合わせ、両手を繋ぐ。涙の向こう側にいる彼女が静かに微笑むのに期待して、行かないでと願った。
「もう好きって言わないから、だから一緒にいて」
「その言葉も嫌い。一緒にと言いながら、人間はすぐに死んでしまうのだから」
だから、と彼女は笑う。冷たい笑い方だ。今まで優しくしてくれた彼女との違いに、小さく肩が震えた。
怒っているのだろうか。彼女の嫌いな言葉しか吐けないわたしに、愛想が尽きてしまったのか。家族のように。
「私に死をちょうだい?永遠に一緒にいるために。私が在る限り、あなたは私と共に在る……そういう契約なら、結んであげる」
声だけは優しく、彼女は告げる。わたしには出来ないだろうと、彼女の態度が拒絶を示している。
解かれていく両手を握り、彼女を見据えた。何も知らない子供の言葉だと思われないために。
「あげる」
人ではなくなる事の意味は分かっている。それがとても悲しく苦しい事も知っている。
それでも、彼女と一緒にいたい。
一度目を間違い、この二度目を手放したら、きっと三度目は訪れないだろうから。
「死をあげるから、契約して」
息を呑む彼女に、笑ってみせる。
お願いと告げれば、彼女は泣きそうに顔を歪めて繋いだ両手を強く引いた。
「馬鹿な子」
掠れた呟き。抱きしめる腕の温もりを、目を閉じて受け入れる。
ようやく帰ってこれた。大好きな彼女の元に。
もう二度と、間違えない。
「本当に馬鹿な子……あなたのその記憶は、あなたのものではないのにね」
可哀想に。
悲しみを帯びて呟かれる言葉と共に彼女はわたしから何かを切り離し、意識は真っ黒に染まっていった。
穏やかな表情をして眠る少女の髪を梳きながら、女は物憂げに目を伏せた。
少女のポケットを探る。中から取り出したのは、砕けた何かの一部。
それはかつて、少女のように女に焦がれた男が女へ永遠を誓うために送ったかんざしの一欠片であった。
「可哀想に。こんなもの拾ったばっかりに」
欠片を握り込めば、それは女の手の中で金の炎となって溶けていく。再び女の手が開かれた時には、その中には何もない。
「本当に可哀想にね」
少女が女を求めるのは、欠片の記憶に引き摺られていたからだろう。少女の意思ではない。それを知りながら、女は少女と契約を交わした。少女の影を切り離し、自身の影と繋げて逃げられないようにしながら。
その男は結局、女に送ったはずのかんざしを奪い逃げ出した。それを許せず、女は逃げ出した男を捕らえ、その身をすべて喰らった。無理矢理にでもひとつになれば満たされるかと思っての行為だが、結局は空しさが増すばかりであった。
いつもそうだ。他の者と同じ。女が恋い、女に焦がれる者は皆、最後には女の元から逃げ出してしまう。
ただ一人。女が人を恋う切っ掛けとなった娘を除いて。
「君は、あの子に似ているね」
眠る少女の髪を掬い、唇を触れさせる。身動ぐ少女に微笑んで、在りし日の娘を想う。
不思議な娘だった。妖を祓う立場にありながら女に懐き、一族を裏切った。女のために永遠を共にする契約を結び、寄り添い続けてくれた。
そんな優しい娘を女から奪ったのは、娘の一族の末裔だ。穏やかに日々を過ごしていただけの二人の元へと末裔らは強襲し、女を庇い娘は消えてしまった。
悲しみと怒りの感情に任せて末裔らを根絶やしにし、怒りは鎮める事が出来た。だが悲しみが癒える事はない。喪った温もりを求めて人を恋い、それに応えた者を愛でても最後には逃げ出してしまう。逃げ出した事に怒り、その裏切り者を喰らい。一人になって、また恋しくなる。
それを繰り返して、どれほどの時が経ったのか。
「あの子のように、影を繋いで。あの子の記憶を入れれば、もう寂しくはなくなるね」
少女と繋がる影を見て、女は目を細めた。うっとりと頬を染め、喜色を湛えて微笑みを浮かべる。
「好きは嫌い。でも、君の事は好きになれそうだ。君も私が好きだと言っていたし、嬉しいでしょう?」
そう囁けば、少女の瞼が震え薄く目が開いた。焦点の合わぬ微睡んだ目が彷徨い、女を認めて綻んだ。
徐に少女の手が女へと伸ばされる。思わず女がその手を取れば、離れないようにと強く繋がれる。
「――ただいま」
ただ一言。
少女の唇から溢れ落ちた、柔らかな響きのそれ。たった四文字の言葉が、女の記憶を揺さぶり涙となって流れていく。
女はまだ、少女の記憶に手を触れてはいない。少女の記憶に紛れ込んだ男の残滓は、金の炎に包まれて跡形もなくなってしまった。それなのに――。
「待って――」
再び瞼を閉じて寝入ってしまった少女の手を握りながら、女は途方に暮れる。少女を起こしてその言葉の真意を問うべきか、このまま寂しさを埋めるために少女の記憶を書き換えるべきか。どうすればいいのか分からない。
「帰って……来たの?」
問いかけても少女は答えない。穏やかな寝息に、女の頬をまた一筋涙が伝い落ちていく。
ふふ、と微かな笑い声。楽しい夢でも見ているのか、寝ながら笑う少女の唇が、むにゃむにゃと言葉を紡いでいく。
「――大好き」
好きでも、嫌いでもない言葉。
少女の言葉を聞くために耳を澄ませていた女が、呆れたように笑い、泣いた。
少女を抱きしめ横になる。泣きながら目を閉じて、女は少女の隣で眠りについた。
柔らかな日差し。穏やかな木漏れ日の降り注ぐ森の奥。
人喰い狐と呼ばれる九本の尾を持つ寂しい狐が、一人の少女に寄り添い眠っていた。
20250620 『好き、嫌い、』
6/21/2025, 12:43:01 PM