とても静かな夜だった。
虫の羽音も、蛙の鳴き声も聞こえない。静謐が部屋を満たしている。
気になって、外を見た。窓越しでは暗くてはっきりとは見えないが、どうやら細かな雨が降っているらしい。
雨の向こう側。誰かの声が聞こえた気がした。
耳を澄ませても、微かに雨音が聞こえるのみで声は聞こえない。
気のせいだっただろうか。何かを嘆く声に聞こえたのだけれども。
少しだけ、窓を開けた。
湿気を纏った冷えた空気が頬を撫で、夜と雨の気配と共に部屋に入り込む。外と内の境がなくなっていく感覚。鼻腔を擽る雨の匂いに、誘われるようにして大きく窓を開け放った。
「誰か、いるの?」
答える声はない。耳を澄ませても、やはり聞こえるのは雨の音だけだ。
「どこにいるの?」
もう一度声をかけ、腕を伸ばす。
冷たい細かな雨が腕に纏わり付く。服が雨を擦ってずっしりと重さを増して、その不快さに眉を潜めた。
ふと、雨ではない何かが腕に纏わり付く。見えないけれども確かに感じるそれは、誰かの手だろうか。
小さな手。幼い子供の、母に縋るようなその強さ。遠慮を知らない必死さは、痛みすら覚えるほど。
「怖くないよ」
声をかけた。
けれども腕の力は弱まらない。腕を引かれ、体が窓の外へと傾いでいく。
「大丈夫」
引かれる腕を、見えない誰かの手ごと撫でる。もう淋しくはないのだと伝えるために。
その手も取られ繋がれて、外へと強く引かれた。
雨に濡れて、見えない手の輪郭が浮かび上がる。両腕に絡みつく無数の小さな手。聞こえない声の代わりに、必死さを伝えてくれるその強さ。
強く腕を引かれて、上半身が窓の外へと引き摺り出されていく。見上げた空は重く、暗い。込み上げる哀しみに目を伏せた。
――空はこんなにも静かで、誰かの声すら届かない。
その事が、淋しくて。
腕を引かれるまま、外へと抜け出した。
声もなく、飛び起きる。
心臓が痛い。息が苦しい。
汗で張り付いた服の不快さも気にならないほど、直前に見た夢の怖ろしさに身を縮めて震える体を抱きしめた。
怖い夢を見た。
雨の降る夜の部屋。微かに雨音が聞こえるだけの静けさ。
声が聞こえた気がして窓を開ければ、見えないたくさんの手に腕を掴まれ、外へと引き摺り出されていく。
怖い夢だった。静けさも、見えない手も、怖ろしくて仕方がない。
けれどそれより怖かったのは、それを怖いと思わなかった事。腕を掴む手に哀しみだけを感じて、声が聞こえない事に淋しさを感じていた。
「大丈夫。ただの夢。大丈夫」
呼吸を整えながら、呪文のように繰り返し言い聞かせる。
夢など朝が来れば忘れてしまう。だから大丈夫なのだと。
――い……で。
ふと声が聞こえた。
びくりと肩を大きく震わせて、恐る恐る顔を上げる。
暗い室内には、当然自分以外いないはずだ。それなのに声がした。
――おね……ないで。
悲鳴が喉に張り付いて、ひゅうと可笑しな空気が漏れる。
窓の外。声はそこから聞こえていた。
――お願い、置いていかないで。
――淋しい。怖い。苦しい。
――開けて。中に入れて。
たくさんの声。夢の中で掴まれた腕が、思い出したように痛みを訴え出す。
今、窓は閉まっている。内側から開かない限りは、中へ入ってはこられないはずだ。息を殺し、膝を抱えて蹲る。
――側にいて。
――ここにいるの。ここにいるのに。
――どうして。一緒に帰りましょう。
知らない、と。叫びそうになり、咄嗟に唇を噛みしめた。
無言で首を振る。彼らを知らない。それは確かな事だ。
それなのに、次第に込み上げるこの苦しさや痛みは、恐怖からではない。外の何かに対する哀しみと淋しさからくるものだ。
自分は今、外の何かに恐怖するよりも同情してしまっている。夢と同じように。
それに気づいた瞬間。震えて動けなかった体がベッドから出て、窓へと歩み寄っていく。
行きたくない、見たくないという気持ちなど気にもかける事なく、足は止まらない。
「止めて……いや、お願いっ」
手がカーテンへと伸びる。
首を振り、嫌だと泣いても止まらない。
――迎えにきたよ。
――ここを開けて。あなたから招き入れて。
カーテンが開かれ、窓が露わになる。
雨雫に濡れた窓。たくさんの小さな手形。
もう悲鳴も出なかった。
――また皆の声を聞いてよ。
――あなたしか、聞こえないの。
――あなただけなの。あなただけが気づいてくれる。
――あなたが帰れば、ひとりが還れるの。お願い、どうか。
手が窓の鍵を開けていく。
そのまま窓を開けば、外の空気と共に何かが入り込む感覚がした。
外と内。それを分けていた境がなくなってしまったのだ。
腕に、体にたくさんの手が纏わり付くのを感じる。腕を引かれて、窓の外へと連れて行かれる。
――帰りましょう。皆で。
嬉しそうな笑い声。目を閉じて、項垂れた。
「そうだね……帰ろうか。あの村に」
諦めて受け入れる。受け入れるしか選択肢は残されていない。
空は、世界はこんなにも広いのに、どこにも逃げ場はないのだから。
「おや?」
寺務所の窓から見えた人影に、青年は作業をしていた手を止め、窓へと歩み寄る。
静かな雨が降り続く境内に、寝間着姿の娘が一人、裸足で奥へと歩いていく。その両腕は誰かに引かれているように不自然に前へと出され、その足取りは重い。まるで刑場へと向かう罪人のようだ。
「珍しい。まさか豊穣まで揃うとはな」
「何見てんの?浮気ぃ?」
「馬鹿」
背中にじゃれつく小柄な少女をあしらいながら、青年は窓の外を指し示す。青年の示す方へ視線を向けた少女は、驚いたように目を瞬いた後、頬を軽く染めて喜びをあわらにした。
「豊穣じゃん。凄い縁起物が来たのね!前に迷い込んだ時に、囲っておけなかったから諦めてたけど、戻ってきて良かった」
「眷属共に呼ばれたんだろうな。歴代の豊穣、声なきモノの声を聞いて触れられる。豊穣の中でも質が高い。これで向こう百年、村は安泰だ」
「おめでたいねぇ。灌漑《かんがい》も、仲介も戻って、豊穣も揃うなんて。特に豊穣は客人《まれびと》だから、滅多に揃わないのに」
少女の言葉に同意しながら、青年は境内を俯き歩く娘へと視線を向ける。
気づけば境内の奥に男が立っていた。側に歩み寄る娘の体を抱き寄せる。肩を震わせ僅かに抵抗の素振りを見せた娘は、だがすぐに諦めたように項垂れて、男と共に墓地へと向かっていく。
おそらくこれが、娘を見る最後だろう。豊穣は青年達とは扱いが違う。祝儀すら豊穣の屋敷で行われ、屋敷の外へは二度と出られぬのだから。
――可哀想に。
心の内で男は呟いた。
村で生まれ育った青年らとは異なる、外から来た娘。閉ざされたこの村は、きっと娘にとっては檻の中と変わらないだろう。
昔、豊穣の娘が屋敷から逃げ出した事があったらしい。
泣きながら帰りたいと繰り返し。迎えが来たと知るや半狂乱になり、舌を噛み切って死んだという。とはいえ、その体は屋敷に戻され外に戻る事はなく、屋敷の眷属として今もあるのだろうが。死した身ではあるが、豊穣はその名の通り村の貴重な恵みだ。屋敷に留めておかねばならない。
憐れだとは思うが、それが豊穣として選ばれた者の定めだ。閉ざされた村の循環のためには、特別な客人が必要なのだから。
「いいよねぇ。これからずっと側で大切にされるんだもの。死んでもその体は屋敷の中で、永遠に一緒……もちろん、あたしもあんたが死んだら毎日お墓に詣ってあげるけどね」
「そりゃどうも」
「でも長生きしてよ。大切に、愛してあげるから」
うっとりと微笑みを浮かべ、青年に凭れながら少女は願う。その言葉に苦笑して、娘に対する考えを検めた。
例え檻の中であろうと、一人ではない。常に寄り添い、こうして愛してくれる相手がいるのだから、それは幸せな事だろう。
外はどこまでも広いが、それ故か孤独な者が多いと聞く。淋しさを抱えて自由に生きるよりは、愛され満たされた不自由の方が余程良い。
ならばここは檻の中ではなく楽園だ。豊穣の娘は楽園で幸せな永遠を過ごす事だろう。
「何考えてるの?やっぱり浮気?」
頬を膨らませ不機嫌になる少女に、青年は声をあげて笑い出す。
腕を引き、胸の中に抱き寄せて。
「お前の事しか考えてねぇよ。祝儀が終わった後の、夫婦としての生活の事を考えてた」
驚き頬を染める愛しい伴侶を、閉じ込めるようにして口付けた。
20250624 『空はこんなにも』
6/25/2025, 9:57:30 AM