教会の鐘が鳴り響く。
青空の下。教会の前で、花嫁と花婿が幸せそうに寄り添っていた。
一際高い歓声が上がった。花嫁がブーケを投げたのだろう。
誰もが笑顔を浮かべている。幸せそうに、楽しそうに。二人の結婚式を、心から祝っている。
思わず目を背けた。唇を噛みしめて、漏れ出そうになる恨み言を噛み殺す。
今更だ。すでに指輪の交換も、誓いの口づけも終わり、二人は夫婦になったのだ。どう足掻いても、すべて手遅れだ。
それでも。届かないと分かっていても、諦められなかった。今ここで手を伸ばしたら。名前を呼んだら、もしかすれば花婿の手を振り払って、こちらに駆け寄ってきてくれるのではないだろうか。
そんな夢見がちな考えに、一人笑う。
現実ではない。確かにそうだ。普段あれだけ聞こえている〝聲《こえ》〟が、今は一つも聞こえないのだから。
教会の鐘が鳴り響く。大勢の笑い声が、歓声が聞こえてくる。
でも〝聲〟は聞こえない。とても静かだ。
ならばこれは、夢でしかないのだろう。
「おはよう。あの、ね……」
「悪い。後にしてくれ」
「あ。ごめん」
机に伏して眠り出す彼に、目を伏せる。
溜息を吐かないように口を強く閉じる。不自然にならないように気をつけながら、それでも足早に教室を出た。
僅かに滲み始めた視界に、慌てて目元を拭う。一度拒絶されたくらいで落ち込む自分が情けない。
そもそも、最初から彼は私が言おうとした事全部を知っているのだ。人の考えや思いを〝聲〟として覚《さと》れる彼には、声をかける前から言いたい事は伝わっていたのだろう。いつもならば理由を言って断ってくれるのが、今回は何も言わず完全に拒否された。つまりは、それだけこの誘いが嫌だったという事なのだろう。
手にした封筒に視線を落とす。従姉妹から送られてきた結婚式の招待状。友達や彼氏を誘っておいでと書かれたそれに、欲が出たのが良くなかったのだ。
結婚式に、彼と一緒に参加できたなら。神聖な場所で、私とよく似た従姉妹のウェディングドレス姿を彼が見たら。
もしかしたら、彼が意識してくれるのではと思ってしまった。そんな浅はかな気持ちなど、最初から彼には筒抜けだというのに。
届かないものに手を伸ばしている。こうして彼の側にいられるだけで幸せなのに、もっともっとと求めすぎている。
それが、彼には負担だったのだろう。
小さく溜息を吐く。このまま廊下に立っている訳にもいかないが、教室も戻る勇気もない。
午後の授業が始まるまで、まだ時間がある。どこかで時間を潰すため歩き出そうとしたその時、委員会の後輩がこちらに近づいてくるのが見えた。
「先輩!ちょうど良かった。少しだけいいですか?」
委員会で何かあっただろうか。
普段と違い、どこか緊張している後輩に、大丈夫だと頷く。少しでも落ち着いてもらいたくて笑いかければ、後輩も堅い表情をほんの少し崩して笑った。
「えっと、お話したい事があって。それで」
「優花《ゆうか》」
後輩の言葉を遮るように、教室から出てきた彼に呼ばれて振り返る。
「結婚式の事だけどさ」
そう言いながら、彼は私の腕を引く。
ひゅう、と教室内からの冷やかす声に、遅れて抱き寄せられたのだと気づいた。
「え……;ぁ、え?」
「け、結婚式!?」
後輩とほぼ同時に声が上がる。じわじわと熱くなる頬に気づいているのに、気づかない振りをして彼は繰り返す。
「だから、今度の結婚式の事だよ。お前が言ったんだろ」
言ってはいない。いないはずだ。
だというのに、彼は柔らかく笑う。優しく髪を撫でられて、益々顔に熱を持つ。
周りの好奇の視線に、恥ずかしくて目眩がしそうだ。
「今更恥ずかしがる仲じゃないだろ。いい加減に慣れろって」
「な、慣れるって……そんなの、無理っ」
「まったく……そんな所も可愛いけど」
「し、失礼しましたっ!」
慌てたように悲鳴に似た叫びに、後輩の目の前である事に気づく。言い訳をしようにも、後輩は既に走り去っていて。
呆然と後輩の去った方向を見ていれば、背後の彼が小さく息を吐いたのが聞こえた。
「――ようやくいなくなったか」
体は離されたが、それを寂しいと感じる間もなく手を繋がれる。後輩が去った方とは真逆の方向へと歩き出す彼に、意味が分からず慌てて声をかけた。
「ちょっ、ちょっと!急に、なに」
「場所を移すぞ。別に俺はここでもいいけど、お前がまた恥ずかしさで倒れられても困るしな」
いつかの彼の告白に、意識を失ってしまった事を言っているのだろう。と言う事は、あの時に近い話をされるのか。
少しの怯えと隠し切れない期待を抱きながら、おとなしく彼についていく。彼はそれ以上何も言わず、使っていない空き教室に入り込むと繋いだ手を離して座り込んだ。
促されて、同じように隣に座り込む。
「まず言っておく。俺はお前の従姉妹の結婚式には行かない」
真っ直ぐにそう告げられて、ずきりと胸が痛んだ。
分かっていた事。それでも僅かな期待を寄せて、勝手に傷ついている自分自身に苦笑する。
「お前の従姉妹は、お前とそっくりなんだろ?なら、お前と知らない男の結婚式を見ている気になるだろうから、行きたくない」
「――え?」
思っていたのとは違う理由に、思わず目を瞬いた。
私と、知らない男の人の結婚式。それを見るのが嫌だというのなら、それはつまり――。
「でもどうしても来て欲しいなら、条件をつける……優花はどんな条件がいい?」
「条件、って……例えば?」
彼の言いたい事が理解できない。
見たくないから、行きたくない。けれど条件を付けるなら行く。そして今はその条件を聞かれている。
彼は、何を期待しているのだろう。
「そうだな……俺としては、優花のご両親に挨拶させてもらうとか?それとも結婚式が終わった後で、必ず俺に告白をするとか?」
「待ってっ……待って、それって」
「俺との将来を約束するってなら、何でもいいや。それが条件」
顔が熱い。頭がくらくらする。
彼との将来。つまりは、私が密かに望んでいた。
これは夢だろうか。届かないのに手を伸ばし続けている私にとっての都合のいい、そんな甘い夢かもしれない。
「これは夢じゃない。しっかりとお前の〝聲〟が聞こえてるし、さっきの勘違い野郎の〝聲〟も聞こえた。紛れもない現実だ」
彼が笑って、これは現実だと突きつける。泣きたい気持ちで彼を見れば、宥めるように頭を撫でられた。
「で?条件はどうする?特別に決めさせてやる」
撫でる手つきは優しいのに、言葉は全然優しくない。
色々な事が起きすぎて、どうしたらいいのか分からない。感情が追いつかなくて、たくさんの事を考えすぎて、呼吸がうまく出来なくなっていく。
視界が滲み、くらりと世界が回った気がした。
「っおい。やっぱりこうなるか」
遠くで彼の呆れた声が聞こえた。温かな何かに包まれて、段々と意識が落ちていく。
結婚式。条件。
両親に挨拶。
ぼんやりとした意識の片隅で。
彼の両親はどんな人だろうか。私を受け入れてくれるだろうか、と。
見当違いな事を考えていた。
20250617 『届かないのに』
――夕焼け小焼けで日が暮れて。
手を繋いで歩いた帰り道。
朱い空。カラスの鳴き声。木々の騒めき。
繋いだ手の温もりが、地面に伸びる二つの影が嬉しくて、はしゃいで笑いながら帰った、幼い頃の記憶の欠片。
あの小道はどこにあるのだろう。地図を見ても、それらしい道は見当たらない。
手を繋いでいたのは誰なのだろう。欠けた記憶では、それすら分からない。
どうしても思い出せない。ただ朱い夕暮れだけが、記憶に刻まれ焼き付いている。
何もかもを忘れてしまったというのに。何故こんなにも――この小道だけは、懐かしいと感じるのだろう。
地図を辿る指を止めて、小さく息を吐いた。
幼い頃に住んでいたらしい家と、その周囲の地図。事故に遭い、それ以前の記憶が曖昧な自分の記憶を探る手がかりになればと、両親が用意したものだ。この地図があったおかげで、空白ばかりの過去が幾分かは満たされた。
例えば、季節が過ぎる度に表情を変える庭。例えば、縁側に座り祖母にせがんで聞いた物語の数々。例えば、友と遊んだ大人には秘密の広場。
あの遊び場へと続く小道は、地図には描かれていない。どこを辿って向かい、帰ってきたのだろうか。
――地図を見ても思い出せないのならば、直接探しに行けばいい。
ふと頭を過ぎたのは、一つの選択。
顔を上げ、卓上のカレンダーの日付を確認する。幸い明日は休日だ。出かけるのに何ら支障はない。
生家があった場所は電車を乗り継がねばならないが、早朝から出立すれば、行って帰れぬ距離ではない。
ならば行かない選択肢はないだろう。
地図をたたみ、机の脇に掛けていた鞄へと仕舞い込む。必要になるのは、この地図と電車賃。それから、と思考を巡らせながら、側に置かれた杖へと視線を向ける。
最近では滅多に使われる事のなくなったそれ。けれど遠出をするならば必要になるだろう。
一つ頷いて、隠し切れない笑みが浮かぶ。遠足を明日に控えた子供のように、胸の高鳴りを感じながらゆっくりと立ち上がる。
少し早いが、明日に備えて眠る事にした。
翌朝。電車を乗り継ぎ辿り着いた駅は、見知らぬ他人のようによそよそしく、懐かしさの欠片も感じる事が出来なかった。
改札を出て、生家があった場所へと歩いていく。
見覚えのない町並み。新しい小綺麗な家々に、揺さぶられる記憶はない。地図ではこの先が生家のはずであるのに、何も感じられないのが、逆に不安を掻き立てた。
――夕焼け小焼けで日が暮れて。
どこかで子供達の歌声が聞こえた。
空を見上げ、腕時計を確認する。時計の針は、正午を少しばかり過ぎた時刻を示しており、夕暮れとはほど遠い。
――お手々繋いで皆帰ろ。
楽しそうに、笑いながら歌っている。それに懐かしさを感じるのは、やはりここが幼い頃に過ごした場所だからなのだろうか。
「何してんの?こんなとこで」
聞こえた声に顔を上げる。
不機嫌に眉を寄せた青年が、此方を睨み付けるようにして見つめていた。
目を瞬く。慌てて周りを見渡せば、いつの間にか住宅街から外れて寂れた神社の鳥居の前に立っていた。
「聞こえないわけ?何してんのって聞いてんの」
何も答えない自分に焦れて、先ほどよりも険のある口調で訊かれる。強い言葉に肩が震え、慌てて手にしていた地図を差し出した。
「いえ……みち……」
青年の眉がさらに寄る。
掠れてざらついた自分の声が不快なのだろう。覚えてはいないが、記憶を失う切っ掛けとなった事故の前にも自分は事故に遭ったらしい。その時に声帯を傷つけたのだと聞かされている。
「あんたのその声、一時的なやつ?」
問われて首を振る。
小さな舌打ちが聞こえて、縮こまる。今日は諦めて、帰った方が良さそうだ。
これ以上目の前の青年を刺激しないように地図を鞄に詰め込み、一礼して踵を返す。この場を離れるため踏み出した足は、だが腕を掴まれて進む事はなかった。
「何、この杖。あんた、足でも悪くした訳?」
何と返したら良いのか分からずに口籠もる。
常に杖をつかなければ歩けない訳ではない。しかしそれをうまく説明出来るような、自分でも紡げる言葉が思いつかなかった。
どうすればいいのか何も思いつかないでいれば、掴まれた腕を引かれ体が宙に浮く。突然の事に硬直する体を青年は横抱きにし、鳥居を抜けて駆け出した。
あまりの速さに身が竦む。けれどそれも何故かすぐに慣れて、過ぎる景色の懐かしさに胸が痛み出す。
この景色を知っている。境内を逸れて辿る小道。手を繋いで帰ったあの夕暮れの、思い出の欠片。
泣きそうになるのを耐えていれば、ぐす、と鼻を鳴らす音が聞こえた。顔を上げれば大粒の涙を流している青年が、必死に嗚咽を噛み殺していた。
そこに不快さはなく、あるのは純粋な焦りと心配だ。急な変化に混乱する自分を気にする余裕もないらしい青年は、速度を上げて小道を抜けた。
「夕焼け小焼けで日が暮れて」
子供達の歌う声が聞こえた。
横抱きにされたままの状態で、視線だけで辺りを見渡す。
懐かしい広場。秘密の場所。楽しげに遊ぶ子供達。
記憶を揺さぶる景色に、目を細める。
「どうしたの。そんなに慌てて」
「死んじゃう。こいつ、これ以上人間として暮らしたら、今度こそ死んじゃう!」
必死な声とは裏腹に、繊細な手つきで降ろされる。
困ったように微笑む女性と目が合う。状況が何一つ理解出来ず、困惑しながらも取りあえず頭を下げてみる。
「あら、戻ってきたの?元気にしてた……訳ではなさそうね」
女性の目が悲しさに揺らぐ。今手元に杖はない。連れてこられた途中で落としてしまっていた。そして自分はまだ何も言葉を発していないはずなのに、彼女は自分のすべてを見通したような顔をして目を伏せた。
「預かっている手紙をちょうだい」
僅かに眉を潜めた。手紙など誰からも預かった記憶はない。
「鞄の中に地図があるでしょう」
そう言われて持っていたはずの鞄に視線を向ける。だが杖と同じく落としてしまったようだ。
探しに行くべきだろうかと悩んでいれば、背後から伸びた腕が、皺が寄った地図を女性に差し出した。
反射的に振り返る。まだ泣いている青年の手には、中が開けられた鞄。返して貰おうと手を伸ばす前に青年は鞄を無造作に地面に放り投げ、再び横抱きにされ運ばれる。
今度は広場の中央にいた、大きな狼の元まで足早に寄る。横になる狼の体に、背を凭れさせるようにして座らされた。
「取りあえず、声っ。声を治す薬探してくるから!」
それだけを告げて、どこかへと駆けていく。
一人残されて、気まずさに身動いだ。歌う声はもう聞こえず、とても静かだ。
いくつもの視線に見られている事が落ち着かない。
そもそも狼の体に凭れているこの状況は良くないと体を起こせば、こちらを見つめる狼と目が合った。
「お前が一番人間に近かった故に外へと出したが、傷をつけるだけであったか。すまないな」
やはり自分には分からない事を言われ、目を逸らす。
「どうした?」
そう問われても、首を振る事しか出来ない。
ここにいる誰もが、自分を知っているのだろうか。懐かしさはあれど、思い出せるものは何もない。途方に暮れていれば、先ほどの女性が地図を手にこちらに近づいてくるのが見えた。
「記憶の殆どが欠けてしまったようね。可哀想に。兄弟達が煩くなるわ」
手にした地図を狼に見せる。否、地図ではなかった。
達筆な文字で、何かが事細かに書かれている。何が書かれているのかは読めないが、読んで目を伏せる狼の反応から良い事が書かれている訳ではなさそうだ。
「こちらで静養させてほしいみたいだけれど、兄弟達はどうするのかしら」
「あまり過干渉にならないようにだけ気をつければいいだろう」
「それが一番難しい問題だわ。元より皆反対していたもの。二度と外へは出せないでしょうね」
自分を挟んで、分からない話題が過ぎていく。
聞いてみるべきだろうか。でも何と言えば良いのだろう。
悩んで入れば、いつの間にか周りには小さな動物に囲まれていた。
猫や犬。狸や狐に、兎。様々な動物達がこちらを見つめ、目が合った瞬間に距離を詰められ寄り添われる。
優しい温もり。懐かしくて、愛おしい。まるであの夕暮れの帰り道に、繋いだ手の温もりのように。
「夕焼け小焼けで日が暮れて」
誰かが歌っている。歌声が重なり、欠けていたものが満たされていく。空白ばかりの記憶の地図が、正しく書き込まれていく。
ここで色々な遊びをした。追いかけて、じゃれ合って。遊び疲れて、こうして皆で寄り添って眠った記憶が過ぎていく。
「眠いの?」
誰かの問いに頷いた。
記憶のせいなのか、それともこの温もりのせいなのか。次第に意識が微睡んで、過ぎる記憶と共に沈んでいく。
「眠れるのなら、少しでも眠っていなさい。あの子が戻ってきたら、眠る所ではなくなるわ」
あの子。あの青年の事だろうか。
泣かせてしまった。あの不機嫌そうな顔は、怒っていたのではない。泣くのを必死で耐えていた顔だ。ここを出て行った時のように、引き留めたい思いを堪えていたのだろう。
何故ならば、彼は自分の大切な――。
「あの子は最後まで、あなたが外で生きる事を反対していたもの。あなたのためだって無理矢理納得してたのに、傷ついたあなたが戻ってきたのだから、暫くは離れないと思うわよ」
苦笑する女性の言葉に、そうだろうなと心の内で同意する。
けれどそれは元からだ。それに今は、離れないという言葉がとても嬉しい。
夕暮れに伸びた影が二つ。手を繋いで、いつも一緒だった。
他の兄弟よりも近い。たった一人の自分の半身。
「こんな形ではあるけれど、戻ってきてくれて嬉しいわ。おかえりなさい。私の大切な弟」
「お帰り、愛しい子。妖と人間の血を継ぐ子よ。現世に拒絶され人間として生きる事を認められぬのならば、その分我らが共に在り、愛そうか」
優しい声に包まれて、いつかのように体を丸めて横になる。
ふと見上げた空は朱い。半身はいつ戻ってきてくれるのだろう。
帰ってきたのならば、ちゃんと告げよう。
笑って。手を繋いで。
ただいま、と。
20250616 『記憶の地図』
雲一つない、快晴。
窓の外を見上げ、燈里《あかり》は小さく溜息を吐いた。
ここ数日続いた雨の気配は欠片も見えない。窓越しでも照りつける日差しは強く、梅雨の終わりが近い事を示していた。
はぁ、と燈里は再び溜息を吐く。家に帰って来てからというもの、明らかに溜息の数が増えた。分かっていながらも増えていく溜息に、思うのは数日前の非日常だ。
取材に訪れた先で起こった事。出会いと別れ。忘れてしまいたいほどの恐怖は、忘れる事の出来ない切なさになった。
簡易的な三献《さんこん》の儀を終えて、結《ゆい》と縁次《よりつぐ》は互いに寄り添いながら姿を消した。長い間満たされない欠落を抱えて彷徨い続けていた二人が、ようやく結ばれる事が出来たのだ。
祝言絵図に描かれたものよりも美しく、幸せそうな花婿と花嫁は、手を取り合い常世の旅路へと向かうのだろう。
それは喜ばしい事だ。一抹の寂しさはあるものの、燈里は心から二人の門出を祝福している。
溜息を吐いた。
死者の祝言――幽婚が終わり、こうして再び日常に戻ってきた。戻ってきたはずだった。一つの変化を除いては。
「そんなに溜息を吐くと、幸せが逃げていくぞ」
「冬玄《かずとら》」
優しい声と共に、マグカップが手渡される。
暖かな温もりとココアの甘い香り。今の時期には少しばかり不釣り合いなそれに、漏れ出そうになる溜息を呑み込んだ。
そのまま冬玄に抱き上げられて、燈里はソファの元まで運ばれる。後ろから抱き竦められて、燈里は背中から感じる冷たさにおとなしくマグカップに口を付けた。
家に戻ってから、否、あの幽婚の場で燈里が目覚めてから、冬玄は燈里から片時も離れようとはしない。一時であれ、燈里を失った事が冬玄の傷として心に深く刻まれてしまったためだ。
「冬玄」
マグカップから立ち上る湯気を見ながら、燈里は冬玄に声をかける。
「もう大丈夫だよ。縁次さんは結と一緒にいるんだし、楓《かえで》も言っていたでしょ?」
冬玄は何も答えない。ただ燈里を抱き留める腕に力を込めるだけだ。鼻腔を擽る蝋梅の香りと冬玄の腕の冷たさは、まるで冬に戻ったようで、燈里はふるりと肩を震わせる。
それに気づいて、僅かながらに腕の力は弱まるものの、やはり離す気配はないようだ。
変わらない状況に何度目かの溜息を吐き、冷えた体を温めるように、燈里はマグカップに口を付けた。
「――ろう」
「何?」
聞こえた静かな声に、燈里は首を傾げ振り返る。
「あの時、他の絵図にも触っただろう」
小さく繰り返された冬玄の言葉に、燈里は苦笑する。
あの時とは、冬玄を探して仏堂の奥へ向かうため、扉の前に掛かる絵図を外した時の事だろう。
結の警告に従って、燈里は決して紫陽花には触れなかった。だというのに燈里が縁次に連れて行かれたのは、それ以外の直接的な縁《えにし》が結ばれてしまったからだ。家に戻った後で、そう楓が教えてくれた。
あの時、縁次の絵図に触れてしまった事で縁が結ばれ、そして一人でいた事で隙が出来た。直前に結が燈里の精神を自らの内で眠らせていなければ、燈里は縁次と契りを結ばれていたのだろう。
「大丈夫だよ。他の絵図は皆花婿と花嫁が揃っていたんだから。きちんと祀られているから、縁次さんのようにはならないよ」
「分からないだろう。もしも見ていた絵図が偽りだとしたら?触れた後で、絵図が変化していたとしたら?……人間は欲深い存在だ。本物が欲しくならないとは言い切れない」
「心配性だなぁ」
くすくす笑い、燈里はマグカップに口を付ける。冷めてしまったココアを飲み干すと、冬玄は慣れたようにマグカップを燈里から取り上げテーブルに置いた。
「同じ過ちは繰り返したくないだけだ」
頑なな言葉には、どこか怯えが滲んでいる。仕方がないと燈里は身動いで冬玄に向き直り、両手で頬を包み込んだ。
「祖霊祭祀。人は亡くなって魂は常世へ向かい、正しく祀られた御霊《みたま》は子孫や村を守る。祀りとはそういうものでしょう?祀られる事で守り、祀られなくなれば祟る……だから心配はいらないんだよ」
「それでも、絶対ではない」
「冬玄」
「――無駄だよ、燈里」
呆れた声が聞こえたと同時に、燈里の体が冬玄から引き離される。追い縋る手を容赦なくはたき落とし、楓は燈里を背に冬玄の前に立った。
「楓!もう大丈夫なの?」
「まぁね。まだ燈里の体の中にいた感覚が抜けなくて、変な感じではあるけれど」
燈里の精神が結の中にある間、楓は燈里の体に残っていた。虚ろな器となった体に入り込もうとするモノ達から燈里を守る必要があったからだ。同時に縁次との祝言の最後の抵抗として、記憶の片隅ではなく燈里として一時的ではあるが成り代わった。そのため楓としての形が定まらず、ここ数日は現実でも燈里の意識の中でさえも、その姿は翁面の形しか取れなかった。
「そんな事より。燈里、あまりこれを甘やかさないんだよ。どうせ何を言った所で、燈里から離れないのだから……燈里と自分以外の男の祝言の場を見た事が、よほどショックだったらしい」
「煩い。燈里を返せ」
「燈里を凍えさせる気かい?たった一杯のココアで、燈里が君の冷たさに耐えられる訳がないだろう」
鋭い言葉に冬玄は何も言えず、楓を睨む。それを歯牙にも掛けず、楓は燈里の手を引いて窓際へと移動した。
「燈里に触れたいのなら、その妖の衝動を静める事だ。トウゲン様から冬玄に戻らない限りは、近づく事は許さないよ」
舌打ちしながらも、冬玄は動かない。楓の言っている事はすべて正しいのだと、冬玄は何より理解していた。
「分かっている」
絞り出すようにそれだけを告げて、冬玄はマグカップを手に立ち上がる。台所に向かうその背に、燈里は苦笑しながらも呟いた。
「今の時期なら、逆に涼しくて気持ちが良かったんだけどな。これからもっと暑くなるだろうし、冷たいのは悪くないと思うんだけど」
「燈里。そういう所だよ。そうやって甘やかすから、あんな我が儘が出来上がるんだ」
呆れる楓に燈里はでも、と声を上げる。
燈里の優しさは変わらない。すべてを受け入れ包み込む、雪のような静かな美しさ。いつか承一《しょういち》が言った言葉を思い出し、冬玄は小さく笑みを浮かべた。
また温かなココアでも入れて、燈里へと持って行こう。きっと燈里は受け入れてくれるはずだから。
そんな期待を抱きながら、冬玄はお湯を沸かし始める。
外は快晴。夏の前触れの暑さが訪れそうだ。
緩やかに季節がいくつか過ぎて行き。
ある梅雨の始めの頃。祝縁寺の仏堂に、男が一枚の祝言絵図を奉納した。
男とよく似た花婿は、青年の姿をしていてもその顔は幼さを隠し切れてはいない。幼いままに亡くなったであろう事は、そのあどけなさが残る花婿の表情と享年十歳の文字が示していた。
納めた絵図に向かい、男は長く手を合わせていた。表情はなく、男がどんな気持ちでいるのかは分からない。
かたり、と音がして、外の雨音が強くなる。仏堂の扉が開けられた事に気づき、男は合わせていた手を下ろし、振り向いた。
「あぁ、申し訳ありません。邪魔をしてしまいましたな」
扉を開けて入ってきた住職が、男に気づき申し訳なさそうに眉を下げる。
「いえ。そろそろ戻ろうかと思っていた所です」
そんな住職に対して無感情に男は言葉を返し、扉へと歩み寄る。一礼する男に住職は微笑んで、奉納されたばかりの絵図に視線を向け目を細めた。
「立派なお子様でしたのでしょう。大切な語らいの時間に水を差すような真似をして、大変申し訳ない」
男もまた絵図に視線を向け。僅かにその目に悲しみが浮かぶ。
「――ええ。私にはもったいないくらいの、立派な息子でした。他者のために、躊躇いもなくその身を投げ出せる。立派で……どこまでも愚かな息子です」
感情の乗らない男の声が仏堂に響く。愚かと言いながらも、男の表情は後悔に歪んでいた。
住職は何も聞かない。子の亡くなった理由も、男と子の間に何があったのかも。
ただ男が語る言葉を、静かに聞いていた。
「私に出来るのはこれだけです。息子のために何もしてこなかった私に出来るのは、こうして祀る事だけ。例えそれが私の独善的な行為だとしても……ここが再び絵図を受け入れて下さって、本当に良かった」
「私もここを再び開く事が出来て良かったですよ。妙な噂がなくなって、ようやくです」
「花婿・花嫁葬列というやつですか」
男の言葉に、住職は頷く。
実際に行方不明者も出ている噂だ。周囲の反感を買い、寺を締めざるを得ない事は容易に想像がついた。
「ここを必要とされる方は多くおります。慰めや祈りの場を失わずに済んだのは、とても幸いでした。管理を任せていた親類とイワイの方には、感謝してもしきれません」
「イワイ、ですか?」
聞き慣れない単語に、男は住職へと視線を向ける。住職はただ静かに微笑んで男の横を通り過ぎ、正面の扉に掛けられている錠に鍵を差し込んだ。
「この寺に納められる絵図は、亡くなられた方と架空の相手を描いたものが主ですが、一枚だけ亡くなられた方同士の祝言を描いたものがあるのです」
小さな音を立て、鍵が開く。扉を開けて、住職は男を振り返った。
「イワイの方はその絵図に描かれた方々とは何の縁もなかったと聞いています。ですが偶然この地を訪れた際に、絵図を奉納する切っ掛けを与えて下さり、噂をなくして頂いた……そして今も、こうして梅雨の時期になると詣でられるのですよ。この絵図だけでなく、寺に納められたすべての絵図を詣でて下さいます」
住職の柔らかな笑みに、男は気づく。イワイのその意味を。
扉の奥から、微かに風が吹いた。眠っていたものが目覚めたかのように。
「イワイの方はこの奥の間の絵図の祝言を祝い、斎《いわい》人として仏様を祀って下さっているのです」
雨音が聞こえる。
その音に混じり、何かの音が聞こえていた。
耳を澄ませても、はっきりとは聞こえない音。
それは低く、高く。
まるで祝言を祝う雅楽のような、そんな厳かな音色だった。
20250615 『マグカップ』
態とらしい咳払いが、室内に響く。
「その、なんだ……どうなってんのか、説明してくれねぇか」
気まずげな顔をする承一《しょういち》へ、結《ゆい》と冬玄《かずとら》は視線を向ける。すぐに視線を腕の中の燈里《あかり》へと戻す冬玄とは対照的に、結は仕方がないと息を吐いて口を開いた。
「あたしと燈里を勘違いした縁次《よりつぐ》が、強引に燈里と祝言を挙げようとして、兄貴があたしと縁次の絵を納めて、こうなった」
「全然分かんねぇな。説明する気あんのか、結」
眉を寄せる承一に、結は肩を竦めてみせる。縋りつく縁次の背を撫でながら、どこから話すべきかと承一の目を見つめた。
承一もまた結の目を見返し。ややあって、確認だけどよ、と悩みながらも疑問を口にする。
「縁次の絵の嫁の方。塗り潰したのは、本当におめえか?」
視線を結から縁次へと向ける。
結の名を繰り返し呼びながら、必死に離れまいと縋る縁次の姿は、在りし日の姿からは想像が出来ないものだ。結に執着する今の縁次ならば、何度描き直しても結ではない花嫁を黒く塗り潰すのではないか。
そんな予想を、しかし結は苦笑しながら否定した。
「あたしがやった。例え想像上の相手でも、あたし以外は認められなかったし……相手がいない状態で縁次の所へ行ったら、あの花嫁の代わりにあたしが縁次と祝言を挙げられると思ったから」
でも、と縁次と繋ぐ手の小指に絡む白の糸を見ながら、結は暫し口籠もる。衝動的な行動の結果が、願ったものとは悉く異なったであろう事は、二人の様子から明らかだ。
「花嫁を塗り潰されて不完全になったとはいえ、縁次は祀られてる。だから祀られなかったあたしを、縁次は認識出来なかったんだ」
「――祀ってやっただろうが」
寂しさを乗せた声音で呟く結に、承一は苦い顔をしながらもそれを否定する。
驚いたように顔を上げる結に、承一は言い含めるようにして、祀ったと繰り返した。
「おめえが死んで、俺が描いてやっただろ?壁に掛けた瞬間に婿が歪んじまって、すぐに外したがよ……縁次みてぇに何度描き直しても同じようになるから、そのまま家ん中にしまっちまったがな」
短く息を吐く承一に、結は戸惑い視線を揺らす。強く繋がれた手と、しがみつき名を呼ぶ縁次と、そして承一を見て力なく首を振る。
「知らない。あたしの絵の事も、縁次の絵の事も……描き直したって何?あたし、一度しか縁次の絵を塗り潰してない」
「なら、縁次しかいねぇわな」
呆れたような乾いた笑いを浮かべ、承一は結の方へ歩み寄る。縁次の襟を掴んで結から引き剥がし、花婿の席へと座らせた。
花嫁の席に視線を向ける。すでに冬玄と燈里は席を離れ、結が席に着くのを静かに待っている。状況が理解できず困惑する結に、承一は目線だけで花嫁の席に座るように促した。
「結」
「燈里」
少し離れた場所で、冬玄に抱きかかえられたままの燈里が声を掛ける。
「三献《さんこん》の儀。道具はあるから、縁次さんと盃を交わそう?私が御神酒を注ぐから」
「でも……縁次が」
縁次に視線を向ける。承一に引き剥がされる際に、抵抗を見せていた縁次は、しかし今は花婿の席で沈黙を保っていた。顔を上げ姿勢を正し、儀式の始まりを待つ縁次に、結は一瞬だけ泣きそうに顔を歪めた。
幼い頃に交わした戯れのような約束を、死してなお縁次は記憶し、ただ一人を求めている。自身に与えられた花嫁を否定し、結の花婿を拒絶し、契るその時を待っている。
怖ろしさすら感じられる、その一途な想い。真っ直ぐな縁次の視線に、結は思わず俯いた。
深く息を吐く。そして結は顔を上げると、ゆっくりと花嫁の席へ向かい座った。
冬玄に支えられながら燈里は側に寄り、着ていた白無垢を結の肩に掛ける。綿帽子を承一が結に被せ、ぐすと鼻を鳴らしながら離れていった。
「まさか、妹の晴れ姿が見れるなんてな」
声を震わせながら、承一は親族の席に着く。
「いい年して、みっともなく泣かないでよ。恥ずかしい」
「うるせぇ!本当に可愛げのない奴だな」
互いに文句を言い合う兄妹は、それでもその表情はとても穏やかだ。本当に仲の良い兄妹だったのだろう。
どこか切ない気持ちに、燈里は目を細める。慰めのようにその背を撫でる冬玄に笑いかけ、縁次と結の正面に座った。
燈里と結の視線が交わる。
泣くのを耐えたような不格好な微笑みを浮かべ、結はありがとうと、燈里へ頭を下げる。
「燈里が来てくれてよかった。もしも燈里が来なかったら、こんな経験、きっと出来なかった」
「私も結がいてくれてよかった。もしもあの行列が縁次さんじゃなかったら。もしも結がいなかったら、きっと祝言絵図に描かれて、知らない誰かと結ばれてたはずだから」
偶然の出会いが、互いの最善の結果を導いた。
それは最早偶然ではなく、必然かもしれない。
「――じゃあ、始めるよ。形ばかりの式になるけど、ごめんね」
そう言って、燈里は冬玄と共に盃に神酒を注いでいく。
一番小さな盃。花婿と花嫁の過去を表したもの。
それを縁次へと手渡し、縁次は三回に分けて神酒を飲み干した。
返された盃に再び神酒を注ぎ、今度は結へと手渡す。縁次と同じように三回に分けて神酒を飲み干した結は、燈里へ盃を返しながら眉を下げる。
「まさか死んでから酒を飲むとは思わなかった」
「私も、幽婚に立ち会うとは思わなかった」
互いに笑い合う。
燈里が盃に神酒を注いで縁次に渡し、それが飲み干されていくのを、どこか不思議な気持ちで結は見つめていた。
盃を受け取って、今度はそれよりも大きな盃へと変えて神酒を注ぐ。
二番目に小さな盃は、花婿と花嫁の現在を表したものだ。
それを今度は結へと手渡す。結から縁次、そして結へと盃は交わされ、燈里は最後の一番大きな盃を手にした。
「死者に未来は必要ないんじゃない?」
結に止められ、燈里は目を瞬いて盃を見る。
一番大きな盃は、花婿と花嫁の未来。子孫繁栄と一家の安寧は、確かに死者には不釣り合いだ。
そう思いながらも、燈里は神酒を注ぐ手を止めず。盃を手渡された縁次も躊躇いもなく飲み干すのを見て、結は呆れたように溜息を吐いた。
「死者が未来を思ってもいいと思うけどな。祝言絵図は死者の未来を願って描かれているんだから……私が結の未来の幸せを願うように、結は縁次さんとの未来の幸せを願えばいいよ」
「屁理屈……本当に燈里は、あたしと正反対だ」
縁次から返された盃に神酒を注ぐ燈里を結は止めず、手渡された盃におとなしく口を付けた。
「これで終わり?」
縁次が飲み干した盃を受け取る燈里は、結の言葉に頷いた。
そう、と呟き、結は自身の手に視線を落とす。
小指に巻かれた白い糸。盃を交わした前と何も変わらない事に、どこか拍子抜けしながら縁次に視線を向けて。
「結」
手を引かれ、縁次に強く抱きしめられた。
「――縁次っ!」
突然の事に、結は慌てて身を捩る。けれど頬を包み額を合わせて微笑む縁次に、結は動けずに頬を染めた。
「約束……やっと守る事が出来た」
嬉しそうに囁かれて、結は息を呑む。結だけを見つめる縁次の目から視線を逸らせず、気恥ずかしさに目を瞬いた。
「結。俺のお嫁さんになってくれて、ありがとう」
「だ、だって。約束したもの。縁次が、お嫁さんにしてくれるって。だから」
滲み出す視界の中で、結は必死で声を上げる。
幼い頃の、あの秘密の部屋で約束を交わした時の思いが込み上げる。
「結。大好き」
結の頬を包んでいた手は、結の両手と繋ぎ指を絡め。
「あたしも……あたしも、縁次が好き」
吐息が重なる。静かに目を閉じた。
あの特別な日を繰り返すように。誓いを交わすように。
ゆっくりと二人の唇が重なった。
20250614 『もしも君が』
それはほんの僅かな、気のせいだと思えるほど些細な変化だった。
鳴り響く雅楽の狂った音色が、僅かに正される。呪いから祝いへと成り代わるように。
「――きた」
呟いて、結《ゆい》は部屋の入口へと駆け出した。扉に手を掛け、渾身の力を込めて開いていく。
「結っ!?おめえ、なんで……」
「ばか兄貴、その話は後!早く絵を」
扉の向こう。仏堂にいた承一《しょういち》が、驚きに声を上げる。結はそんな承一を睨み強く声をかけると、奥を指差した。
奥に視線を向け、ひっと承一から掠れた悲鳴が漏れる。恐怖に見開かれ、動けない承一に結は焦れてその背を容赦なく叩いた。
「痛ぇ!?何しやがる、このじゃじゃ馬娘!」
「時間がないんだっての!男なんだから、あんなのに怯えんな!」
文句を言う承一にさらに強い言葉を返し、結は拳を振り上げる。それに慌てて、承一は腕の中の額――新しい祝言絵図を抱え直し、小走りで部屋の奥へと向かった。
「縁次《よりつぐ》と……さっきの嬢ちゃんか」
「無駄口はいいから、さっさと絵を掛け替えて!」
赤い糸で互いを繋がれている花婿と花嫁を見て、承一の眉が寄る。足を止める承一を許さないとばかりに、結は強く責め立てる。そして、縁次の糸を砕き続けている冬玄《かずとら》へと声を張り上げた。
「化け物!絵から伸びる糸を砕いて、そのまま外して!今なら外せるはずだ!」
声に反応して結と承一へ視線を向けた冬玄は、すぐさま状況を理解すると、弾かれるように絵図へと向かう。絵図から伸びる太い糸を掴み凍らせて砕くと、そのまま額を壁から取り外した。
「兄貴!」
「わぁってる!」
結の呼び声に叫ぶように返事を返し、承一は手にしていた額を壁に掛ける。
花婿と花嫁の描かれた、祝言絵図。
花婿の名は、遠見《とおみ》縁次。
花嫁の名は、齋《いつき》結。
二人の契りを示す絵図が、奉納された。
優しく揺り起こされて、目を覚ました。
「雨が上がった。だからもう起きないと」
まだぼんやりとする意識で目を瞬き、焦点を合わせていく。
「雨が上がったの?」
「うん。すっかり晴れてる」
手を伸ばす。同じように伸ばされ繋がる手の小指に巻かれた白の糸を見て、自身の右手の小指に視線を落とした。
何も巻かれていない事が、何故だか寂しいと感じてしまう。
「赤は間違った色だから、ないのは当たり前。ちゃんと正しい相手がいるんだから……それが単細胞のろくでなしでも」
「何?」
最後の方が聞き取れず、首を傾げた。それに何でもないと首を振り、手を繋いだまま立ち上がる。
「行こうか」
同じように立ち上がり、手を繋いだまま部屋の外へと向かう。
眠っている間に朝が来たのだろう。明るい室内には雨の名残はどこにも見られない。障子を開けて出た縁側の廊下は、眩いばかりの光が差し込み、外を見れば澄み切った青空が広がっていた。
記憶が混濁している。眉を寄せ、外と廊下、出てきた室内に視線を向け、そして繋がれている手を見た。
「ここは……?」
「あたし達の秘密の部屋」
記憶の中の。
そう付け加える私は、どこか寂しい目をしていた。
「――まだ、寂しいの?」
思わず問いかける。問われた私は、驚いたように目を瞬き、ふんわりと微笑んだ。
「もう寂しくない。ようやく寂しくなくなった」
「ならよかった」
「ありがとう……どうせ迎えが来るだろうし、それまで話していよっか」
そう言って手を離すと、縁側の窓を開け放していく。日差しの差し込む縁側に座って手招かれ、その隣に座った。
何を話そうか。話そうといいながら悩むその姿は、とても楽しそうだ。
「昔話でもする?この辺りの子供なら必ず聞かされる、祝縁寺の昔話」
「うん、聞きたい。聞かせて」
頷くと、私はその話を思い出すように空を見上げ、ゆっくりと語り出す。
「昔々。ある所に、一人の母親と小さな子供がおりました――」
緩やかに、穏やかに。
もの悲しい、祝縁寺の始まりが紡がれていく。
昔の事。夫に先立たれた妻が、幼子を抱えて必死に生きていた。
母一人、子一人。貧しくはあったが母は子を愛し、大切に育てていた。
しかしある春の終わり。子供は流行病にかかり、看病の甲斐もなく亡くなってしまう。唯一の子を喪って、母は深く嘆き悲しんだ。
とある絵師がいた。絵師は近所に住む子を喪った母を哀れに思い、一つの絵を描き上げた。
それは、亡くなった子が成長した姿を想像して描かれたもの。絵を渡すと母は大いに喜び、そしてある願いを口にする。
――どうかこの子に、伴侶を与えてやってはくれませぬか。
一人で亡くなった子の慰めに。そんな母の願いを快く引き受け、絵師は一枚の祝言絵図を描き上げた。
その日の夜。絵師は謎の高熱に魘された。起き上がる事も出来ず、何日も死の淵を彷徨った。
亡くなった子は、七つに満たない幼子だ。子は村の山奥に住む神に連れていかれたのだった。
その子を絵師は、絵の中で成長させ伴侶を持たせた。それは神の元から解き放つ導となり、子は母の元で祖霊として祀られたのだ。
絵師の謎の高熱は、神の怒り。それを知って、母は祝言絵図を手に近くの寺へと駆け込んだ。
境内に咲き誇る青の紫陽花を一本手折り、本尊の前で紫陽花と絵図を置き、こう告げた。
――絵師は子を喪い、嘆く私の願いに応えただけの事。もしも私の子への想いを、絵師の誠実さを誤りだと断ずるのであれば、どうかこの花の色を赤く染めて下さいませ。赤く染まるのであれば私は絵を手放し、どんな咎でも受け入れましょう。しかし青のままであれば、正しいとお認めになるのであるならば、その怒りは静めるべきもので御座いましょうや。
高らかに告げた母の前で、紫陽花の花は色を喪っていく。青から白へ。だがいくら待てど、白から赤へは変わらない。
それを見た母は深く一礼し、絵図を手に寺を出た。そして後日、絵師が回復した頃を見計らい、改めて寺を訪れ絵図を奉納したのだった。
語り終えて、彼女はくすりと笑う。
「これが祝縁寺の始まり。まあ、ただのこじつけだろうけどね。山の神様なのに行くのは寺だし。青い紫陽花を赤くしろなんて無理難題を、まったく関係ない仏に押しつけるし。まったくもって意味が分からない……けど切っ掛けが何であれ、あの絵のおかげで救われた人はたくさんいる」
そのたくさんの中に、彼女はいるのだろうか。寂しくはないと言っていたけれど、果たしてそれは救われた事になるのだろうか。
不安になり、彼女を見た。彼女は何も言わず、微笑むだけだった。
不意に、どこからか音が聞こえてくる。
音色のような、歌声のような不思議な旋律。何故か懐かしくて愛しくて、無意識に指が胸元を探る。
「――ねぇ、この音。何に聞こえる?」
穏やかに問われて、何も触れない手を握りながら耳を澄ませた。
懐かしい音色。愛しい曲。いつかどこかで、大切な誰かが歌ってくれた愛の歌。
「ラブソング。私のために歌ってくれた、大切な歌」
「そっか……あたしには、子守歌に聞こえるよ。母さんや兄貴が、あたしのために歌ってくれた、大切な歌だ」
優しい声音。彼女を見つめ、考える。
私とよく似た彼女が誰かを。優しくて不器用な、寂しがりな彼女の名前を。
彼女は何も言わない。ただ静かに、穏やかに目を細めて。
ふと何かに気づいて、彼女は一点を指を差した。
指差す先で、誰かが立っている。それは、とても大切な。
忘れたくはないと願っていたはずの――。
「お迎えだよ。いい加減行かないとね。待ちくたびれて、縁次なんかは泣いてそうだ」
そう言って立ち上がる。手を差し伸べながら、晴れやかに笑う。
「行こう、燈里」
名前を呼ばれ、同じように笑いながらその手を取った。
「うん。行こう――結」
立ち上がり、手を繋いで歩き出す。
庭に植えられた白の紫陽花が、花に溜まった滴を払うように揺れていた。
雨音が止んだ。
雅楽の音が正され、荘厳な音色が部屋に響き渡る。
外した額は溶けるように消えていき、残る赤い糸はその端から解けていく。
「燈里っ!」
糸が解けた事で傾いでいく燈里の元へ、冬玄は駆け寄りその華奢な体を抱きしめる。冷たい体を包み込み、鋭い目をして結の姿を探した。
だが部屋に結の姿はない。状況を飲み込めず祝言絵図の前で立ち尽くす承一と、傍らで倒れた縁次がいるのみだ。
「――どこ行った?あの娘」
「燈里の所だよ」
声がした。燈里の唇から、燈里ではない声が紡がれる。
「楓《かえで》?」
「正直堕ちるんじゃないかって思ってたけど、我慢が出来たようで何よりだ」
皮肉めいていながらも隠し切れない安堵を含んだ声音に、冬玄の眉が僅かに下がる。気まずさを抱え、それでも燈里を気にして声を掛けた。
「燈里は?」
「ひとつを二人に切り離している所。でもそのまま話に花が咲きそうだね……仕方ない。一人で我慢が出来たご褒美に、迎えに行ってきてあげるよ」
苦笑して、楓はそれきり沈黙する。状況が理解出来ぬまま、冬玄は燈里の綿帽子を外した。
眠る燈里の、熱を失った頬に触れる。泣くのを耐えて唇を噛みしめる冬玄の視界の隅で、倒れ伏す縁次が徐に起き上がるのが見えた。
「ゆい……ゆい……」
立ち上がる事が出来ないらしい。這いずり、結の名を繰り返し呼びながら、縁次は周囲を彷徨う。片手を伸ばし、ただ一人を求める姿から、冬玄はそっと目を逸らした。
「ゆい……」
「そんなに呼ばなくても、ここにいるよ。縁次の隣に、ずっといる」
柔らかな声音。はっとして視線を向ければ、そこには伸ばした縁次の手を取り、繋いで微笑む結の姿があった。
「ゆい……やくそく……はなれない……ゆい、ゆい……」
「分かってる。約束したからね。ほら、兄貴がちゃんと叶えてくれたんだよ」
繋ぐ手の指を絡めて、結に縋り付いていく縁次を抱き留めながら。結は冬玄を一瞥し、燈里へと視線を向ける。その視線から隠すように燈里を抱き寄せて、冬玄は燈里に体に僅かに熱が宿っている事に気づいた。
「燈里?」
頬に触れる。赤みを帯びていく頬の熱を感じ取り、願うように燈里の名を呼んだ。
唇を指先でなぞる。僅かな隙間すら厭うように、強く体を抱き寄せて。
触れた唇の熱で溶けてしまいそうな錯覚に、冬玄の世界がくらりと揺れた気がした。
「燈里」
見つめる燈里の瞼が微かに震える。ゆるりと開いたぼんやりとした目が、冬玄を見つめ焦点を結んでいく。
「――かずとら?」
どこか辿々しい呟きに、冬玄は泣くように微笑んで。
「おかえり。燈里」
離れたくないと、強く強く燈里を抱きしめた。
20250613 『君だけのメロディ』