sairo

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――夕焼け小焼けで日が暮れて。

手を繋いで歩いた帰り道。
朱い空。カラスの鳴き声。木々の騒めき。
繋いだ手の温もりが、地面に伸びる二つの影が嬉しくて、はしゃいで笑いながら帰った、幼い頃の記憶の欠片。
あの小道はどこにあるのだろう。地図を見ても、それらしい道は見当たらない。
手を繋いでいたのは誰なのだろう。欠けた記憶では、それすら分からない。
どうしても思い出せない。ただ朱い夕暮れだけが、記憶に刻まれ焼き付いている。
何もかもを忘れてしまったというのに。何故こんなにも――この小道だけは、懐かしいと感じるのだろう。



地図を辿る指を止めて、小さく息を吐いた。
幼い頃に住んでいたらしい家と、その周囲の地図。事故に遭い、それ以前の記憶が曖昧な自分の記憶を探る手がかりになればと、両親が用意したものだ。この地図があったおかげで、空白ばかりの過去が幾分かは満たされた。
例えば、季節が過ぎる度に表情を変える庭。例えば、縁側に座り祖母にせがんで聞いた物語の数々。例えば、友と遊んだ大人には秘密の広場。
あの遊び場へと続く小道は、地図には描かれていない。どこを辿って向かい、帰ってきたのだろうか。

――地図を見ても思い出せないのならば、直接探しに行けばいい。

ふと頭を過ぎたのは、一つの選択。
顔を上げ、卓上のカレンダーの日付を確認する。幸い明日は休日だ。出かけるのに何ら支障はない。
生家があった場所は電車を乗り継がねばならないが、早朝から出立すれば、行って帰れぬ距離ではない。
ならば行かない選択肢はないだろう。
地図をたたみ、机の脇に掛けていた鞄へと仕舞い込む。必要になるのは、この地図と電車賃。それから、と思考を巡らせながら、側に置かれた杖へと視線を向ける。
最近では滅多に使われる事のなくなったそれ。けれど遠出をするならば必要になるだろう。
一つ頷いて、隠し切れない笑みが浮かぶ。遠足を明日に控えた子供のように、胸の高鳴りを感じながらゆっくりと立ち上がる。
少し早いが、明日に備えて眠る事にした。





翌朝。電車を乗り継ぎ辿り着いた駅は、見知らぬ他人のようによそよそしく、懐かしさの欠片も感じる事が出来なかった。
改札を出て、生家があった場所へと歩いていく。
見覚えのない町並み。新しい小綺麗な家々に、揺さぶられる記憶はない。地図ではこの先が生家のはずであるのに、何も感じられないのが、逆に不安を掻き立てた。

――夕焼け小焼けで日が暮れて。

どこかで子供達の歌声が聞こえた。
空を見上げ、腕時計を確認する。時計の針は、正午を少しばかり過ぎた時刻を示しており、夕暮れとはほど遠い。

――お手々繋いで皆帰ろ。

楽しそうに、笑いながら歌っている。それに懐かしさを感じるのは、やはりここが幼い頃に過ごした場所だからなのだろうか。

「何してんの?こんなとこで」

聞こえた声に顔を上げる。
不機嫌に眉を寄せた青年が、此方を睨み付けるようにして見つめていた。
目を瞬く。慌てて周りを見渡せば、いつの間にか住宅街から外れて寂れた神社の鳥居の前に立っていた。

「聞こえないわけ?何してんのって聞いてんの」

何も答えない自分に焦れて、先ほどよりも険のある口調で訊かれる。強い言葉に肩が震え、慌てて手にしていた地図を差し出した。

「いえ……みち……」

青年の眉がさらに寄る。
掠れてざらついた自分の声が不快なのだろう。覚えてはいないが、記憶を失う切っ掛けとなった事故の前にも自分は事故に遭ったらしい。その時に声帯を傷つけたのだと聞かされている。

「あんたのその声、一時的なやつ?」

問われて首を振る。
小さな舌打ちが聞こえて、縮こまる。今日は諦めて、帰った方が良さそうだ。
これ以上目の前の青年を刺激しないように地図を鞄に詰め込み、一礼して踵を返す。この場を離れるため踏み出した足は、だが腕を掴まれて進む事はなかった。

「何、この杖。あんた、足でも悪くした訳?」

何と返したら良いのか分からずに口籠もる。
常に杖をつかなければ歩けない訳ではない。しかしそれをうまく説明出来るような、自分でも紡げる言葉が思いつかなかった。
どうすればいいのか何も思いつかないでいれば、掴まれた腕を引かれ体が宙に浮く。突然の事に硬直する体を青年は横抱きにし、鳥居を抜けて駆け出した。
あまりの速さに身が竦む。けれどそれも何故かすぐに慣れて、過ぎる景色の懐かしさに胸が痛み出す。
この景色を知っている。境内を逸れて辿る小道。手を繋いで帰ったあの夕暮れの、思い出の欠片。
泣きそうになるのを耐えていれば、ぐす、と鼻を鳴らす音が聞こえた。顔を上げれば大粒の涙を流している青年が、必死に嗚咽を噛み殺していた。
そこに不快さはなく、あるのは純粋な焦りと心配だ。急な変化に混乱する自分を気にする余裕もないらしい青年は、速度を上げて小道を抜けた。


「夕焼け小焼けで日が暮れて」

子供達の歌う声が聞こえた。
横抱きにされたままの状態で、視線だけで辺りを見渡す。
懐かしい広場。秘密の場所。楽しげに遊ぶ子供達。
記憶を揺さぶる景色に、目を細める。

「どうしたの。そんなに慌てて」
「死んじゃう。こいつ、これ以上人間として暮らしたら、今度こそ死んじゃう!」

必死な声とは裏腹に、繊細な手つきで降ろされる。
困ったように微笑む女性と目が合う。状況が何一つ理解出来ず、困惑しながらも取りあえず頭を下げてみる。

「あら、戻ってきたの?元気にしてた……訳ではなさそうね」

女性の目が悲しさに揺らぐ。今手元に杖はない。連れてこられた途中で落としてしまっていた。そして自分はまだ何も言葉を発していないはずなのに、彼女は自分のすべてを見通したような顔をして目を伏せた。

「預かっている手紙をちょうだい」

僅かに眉を潜めた。手紙など誰からも預かった記憶はない。

「鞄の中に地図があるでしょう」

そう言われて持っていたはずの鞄に視線を向ける。だが杖と同じく落としてしまったようだ。
探しに行くべきだろうかと悩んでいれば、背後から伸びた腕が、皺が寄った地図を女性に差し出した。
反射的に振り返る。まだ泣いている青年の手には、中が開けられた鞄。返して貰おうと手を伸ばす前に青年は鞄を無造作に地面に放り投げ、再び横抱きにされ運ばれる。
今度は広場の中央にいた、大きな狼の元まで足早に寄る。横になる狼の体に、背を凭れさせるようにして座らされた。

「取りあえず、声っ。声を治す薬探してくるから!」

それだけを告げて、どこかへと駆けていく。
一人残されて、気まずさに身動いだ。歌う声はもう聞こえず、とても静かだ。
いくつもの視線に見られている事が落ち着かない。
そもそも狼の体に凭れているこの状況は良くないと体を起こせば、こちらを見つめる狼と目が合った。

「お前が一番人間に近かった故に外へと出したが、傷をつけるだけであったか。すまないな」

やはり自分には分からない事を言われ、目を逸らす。

「どうした?」

そう問われても、首を振る事しか出来ない。
ここにいる誰もが、自分を知っているのだろうか。懐かしさはあれど、思い出せるものは何もない。途方に暮れていれば、先ほどの女性が地図を手にこちらに近づいてくるのが見えた。

「記憶の殆どが欠けてしまったようね。可哀想に。兄弟達が煩くなるわ」

手にした地図を狼に見せる。否、地図ではなかった。
達筆な文字で、何かが事細かに書かれている。何が書かれているのかは読めないが、読んで目を伏せる狼の反応から良い事が書かれている訳ではなさそうだ。

「こちらで静養させてほしいみたいだけれど、兄弟達はどうするのかしら」
「あまり過干渉にならないようにだけ気をつければいいだろう」
「それが一番難しい問題だわ。元より皆反対していたもの。二度と外へは出せないでしょうね」

自分を挟んで、分からない話題が過ぎていく。
聞いてみるべきだろうか。でも何と言えば良いのだろう。
悩んで入れば、いつの間にか周りには小さな動物に囲まれていた。
猫や犬。狸や狐に、兎。様々な動物達がこちらを見つめ、目が合った瞬間に距離を詰められ寄り添われる。
優しい温もり。懐かしくて、愛おしい。まるであの夕暮れの帰り道に、繋いだ手の温もりのように。

「夕焼け小焼けで日が暮れて」

誰かが歌っている。歌声が重なり、欠けていたものが満たされていく。空白ばかりの記憶の地図が、正しく書き込まれていく。
ここで色々な遊びをした。追いかけて、じゃれ合って。遊び疲れて、こうして皆で寄り添って眠った記憶が過ぎていく。

「眠いの?」

誰かの問いに頷いた。
記憶のせいなのか、それともこの温もりのせいなのか。次第に意識が微睡んで、過ぎる記憶と共に沈んでいく。

「眠れるのなら、少しでも眠っていなさい。あの子が戻ってきたら、眠る所ではなくなるわ」

あの子。あの青年の事だろうか。

泣かせてしまった。あの不機嫌そうな顔は、怒っていたのではない。泣くのを必死で耐えていた顔だ。ここを出て行った時のように、引き留めたい思いを堪えていたのだろう。
何故ならば、彼は自分の大切な――。

「あの子は最後まで、あなたが外で生きる事を反対していたもの。あなたのためだって無理矢理納得してたのに、傷ついたあなたが戻ってきたのだから、暫くは離れないと思うわよ」

苦笑する女性の言葉に、そうだろうなと心の内で同意する。
けれどそれは元からだ。それに今は、離れないという言葉がとても嬉しい。
夕暮れに伸びた影が二つ。手を繋いで、いつも一緒だった。
他の兄弟よりも近い。たった一人の自分の半身。

「こんな形ではあるけれど、戻ってきてくれて嬉しいわ。おかえりなさい。私の大切な弟」
「お帰り、愛しい子。妖と人間の血を継ぐ子よ。現世に拒絶され人間として生きる事を認められぬのならば、その分我らが共に在り、愛そうか」

優しい声に包まれて、いつかのように体を丸めて横になる。
ふと見上げた空は朱い。半身はいつ戻ってきてくれるのだろう。
帰ってきたのならば、ちゃんと告げよう。
笑って。手を繋いで。

ただいま、と。



20250616 『記憶の地図』

6/17/2025, 9:58:39 AM