sairo

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6/14/2025, 11:14:26 AM

それはほんの僅かな、気のせいだと思えるほど些細な変化だった。
鳴り響く雅楽の狂った音色が、僅かに正される。呪いから祝いへと成り代わるように。

「――きた」

呟いて、結《ゆい》は部屋の入口へと駆け出した。扉に手を掛け、渾身の力を込めて開いていく。

「結っ!?おめえ、なんで……」
「ばか兄貴、その話は後!早く絵を」

扉の向こう。仏堂にいた承一《しょういち》が、驚きに声を上げる。結はそんな承一を睨み強く声をかけると、奥を指差した。
奥に視線を向け、ひっと承一から掠れた悲鳴が漏れる。恐怖に見開かれ、動けない承一に結は焦れてその背を容赦なく叩いた。

「痛ぇ!?何しやがる、このじゃじゃ馬娘!」
「時間がないんだっての!男なんだから、あんなのに怯えんな!」

文句を言う承一にさらに強い言葉を返し、結は拳を振り上げる。それに慌てて、承一は腕の中の額――新しい祝言絵図を抱え直し、小走りで部屋の奥へと向かった。


「縁次《よりつぐ》と……さっきの嬢ちゃんか」
「無駄口はいいから、さっさと絵を掛け替えて!」

赤い糸で互いを繋がれている花婿と花嫁を見て、承一の眉が寄る。足を止める承一を許さないとばかりに、結は強く責め立てる。そして、縁次の糸を砕き続けている冬玄《かずとら》へと声を張り上げた。

「化け物!絵から伸びる糸を砕いて、そのまま外して!今なら外せるはずだ!」

声に反応して結と承一へ視線を向けた冬玄は、すぐさま状況を理解すると、弾かれるように絵図へと向かう。絵図から伸びる太い糸を掴み凍らせて砕くと、そのまま額を壁から取り外した。

「兄貴!」
「わぁってる!」

結の呼び声に叫ぶように返事を返し、承一は手にしていた額を壁に掛ける。
花婿と花嫁の描かれた、祝言絵図。
花婿の名は、遠見《とおみ》縁次。
花嫁の名は、齋《いつき》結。

二人の契りを示す絵図が、奉納された。





優しく揺り起こされて、目を覚ました。

「雨が上がった。だからもう起きないと」

まだぼんやりとする意識で目を瞬き、焦点を合わせていく。

「雨が上がったの?」
「うん。すっかり晴れてる」

手を伸ばす。同じように伸ばされ繋がる手の小指に巻かれた白の糸を見て、自身の右手の小指に視線を落とした。
何も巻かれていない事が、何故だか寂しいと感じてしまう。

「赤は間違った色だから、ないのは当たり前。ちゃんと正しい相手がいるんだから……それが単細胞のろくでなしでも」
「何?」

最後の方が聞き取れず、首を傾げた。それに何でもないと首を振り、手を繋いだまま立ち上がる。

「行こうか」

同じように立ち上がり、手を繋いだまま部屋の外へと向かう。
眠っている間に朝が来たのだろう。明るい室内には雨の名残はどこにも見られない。障子を開けて出た縁側の廊下は、眩いばかりの光が差し込み、外を見れば澄み切った青空が広がっていた。
記憶が混濁している。眉を寄せ、外と廊下、出てきた室内に視線を向け、そして繋がれている手を見た。

「ここは……?」
「あたし達の秘密の部屋」

記憶の中の。
そう付け加える私は、どこか寂しい目をしていた。

「――まだ、寂しいの?」

思わず問いかける。問われた私は、驚いたように目を瞬き、ふんわりと微笑んだ。

「もう寂しくない。ようやく寂しくなくなった」
「ならよかった」
「ありがとう……どうせ迎えが来るだろうし、それまで話していよっか」

そう言って手を離すと、縁側の窓を開け放していく。日差しの差し込む縁側に座って手招かれ、その隣に座った。
何を話そうか。話そうといいながら悩むその姿は、とても楽しそうだ。

「昔話でもする?この辺りの子供なら必ず聞かされる、祝縁寺の昔話」
「うん、聞きたい。聞かせて」

頷くと、私はその話を思い出すように空を見上げ、ゆっくりと語り出す。

「昔々。ある所に、一人の母親と小さな子供がおりました――」

緩やかに、穏やかに。
もの悲しい、祝縁寺の始まりが紡がれていく。


昔の事。夫に先立たれた妻が、幼子を抱えて必死に生きていた。
母一人、子一人。貧しくはあったが母は子を愛し、大切に育てていた。
しかしある春の終わり。子供は流行病にかかり、看病の甲斐もなく亡くなってしまう。唯一の子を喪って、母は深く嘆き悲しんだ。
とある絵師がいた。絵師は近所に住む子を喪った母を哀れに思い、一つの絵を描き上げた。
それは、亡くなった子が成長した姿を想像して描かれたもの。絵を渡すと母は大いに喜び、そしてある願いを口にする。

――どうかこの子に、伴侶を与えてやってはくれませぬか。

一人で亡くなった子の慰めに。そんな母の願いを快く引き受け、絵師は一枚の祝言絵図を描き上げた。
その日の夜。絵師は謎の高熱に魘された。起き上がる事も出来ず、何日も死の淵を彷徨った。
亡くなった子は、七つに満たない幼子だ。子は村の山奥に住む神に連れていかれたのだった。
その子を絵師は、絵の中で成長させ伴侶を持たせた。それは神の元から解き放つ導となり、子は母の元で祖霊として祀られたのだ。
絵師の謎の高熱は、神の怒り。それを知って、母は祝言絵図を手に近くの寺へと駆け込んだ。
境内に咲き誇る青の紫陽花を一本手折り、本尊の前で紫陽花と絵図を置き、こう告げた。

――絵師は子を喪い、嘆く私の願いに応えただけの事。もしも私の子への想いを、絵師の誠実さを誤りだと断ずるのであれば、どうかこの花の色を赤く染めて下さいませ。赤く染まるのであれば私は絵を手放し、どんな咎でも受け入れましょう。しかし青のままであれば、正しいとお認めになるのであるならば、その怒りは静めるべきもので御座いましょうや。

高らかに告げた母の前で、紫陽花の花は色を喪っていく。青から白へ。だがいくら待てど、白から赤へは変わらない。
それを見た母は深く一礼し、絵図を手に寺を出た。そして後日、絵師が回復した頃を見計らい、改めて寺を訪れ絵図を奉納したのだった。


語り終えて、彼女はくすりと笑う。

「これが祝縁寺の始まり。まあ、ただのこじつけだろうけどね。山の神様なのに行くのは寺だし。青い紫陽花を赤くしろなんて無理難題を、まったく関係ない仏に押しつけるし。まったくもって意味が分からない……けど切っ掛けが何であれ、あの絵のおかげで救われた人はたくさんいる」

そのたくさんの中に、彼女はいるのだろうか。寂しくはないと言っていたけれど、果たしてそれは救われた事になるのだろうか。
不安になり、彼女を見た。彼女は何も言わず、微笑むだけだった。

不意に、どこからか音が聞こえてくる。
音色のような、歌声のような不思議な旋律。何故か懐かしくて愛しくて、無意識に指が胸元を探る。

「――ねぇ、この音。何に聞こえる?」

穏やかに問われて、何も触れない手を握りながら耳を澄ませた。
懐かしい音色。愛しい曲。いつかどこかで、大切な誰かが歌ってくれた愛の歌。

「ラブソング。私のために歌ってくれた、大切な歌」
「そっか……あたしには、子守歌に聞こえるよ。母さんや兄貴が、あたしのために歌ってくれた、大切な歌だ」

優しい声音。彼女を見つめ、考える。
私とよく似た彼女が誰かを。優しくて不器用な、寂しがりな彼女の名前を。
彼女は何も言わない。ただ静かに、穏やかに目を細めて。
ふと何かに気づいて、彼女は一点を指を差した。
指差す先で、誰かが立っている。それは、とても大切な。
忘れたくはないと願っていたはずの――。

「お迎えだよ。いい加減行かないとね。待ちくたびれて、縁次なんかは泣いてそうだ」

そう言って立ち上がる。手を差し伸べながら、晴れやかに笑う。

「行こう、燈里」

名前を呼ばれ、同じように笑いながらその手を取った。

「うん。行こう――結」

立ち上がり、手を繋いで歩き出す。
庭に植えられた白の紫陽花が、花に溜まった滴を払うように揺れていた。





雨音が止んだ。
雅楽の音が正され、荘厳な音色が部屋に響き渡る。
外した額は溶けるように消えていき、残る赤い糸はその端から解けていく。

「燈里っ!」

糸が解けた事で傾いでいく燈里の元へ、冬玄は駆け寄りその華奢な体を抱きしめる。冷たい体を包み込み、鋭い目をして結の姿を探した。
だが部屋に結の姿はない。状況を飲み込めず祝言絵図の前で立ち尽くす承一と、傍らで倒れた縁次がいるのみだ。

「――どこ行った?あの娘」
「燈里の所だよ」

声がした。燈里の唇から、燈里ではない声が紡がれる。

「楓《かえで》?」
「正直堕ちるんじゃないかって思ってたけど、我慢が出来たようで何よりだ」

皮肉めいていながらも隠し切れない安堵を含んだ声音に、冬玄の眉が僅かに下がる。気まずさを抱え、それでも燈里を気にして声を掛けた。

「燈里は?」
「ひとつを二人に切り離している所。でもそのまま話に花が咲きそうだね……仕方ない。一人で我慢が出来たご褒美に、迎えに行ってきてあげるよ」

苦笑して、楓はそれきり沈黙する。状況が理解出来ぬまま、冬玄は燈里の綿帽子を外した。
眠る燈里の、熱を失った頬に触れる。泣くのを耐えて唇を噛みしめる冬玄の視界の隅で、倒れ伏す縁次が徐に起き上がるのが見えた。

「ゆい……ゆい……」

立ち上がる事が出来ないらしい。這いずり、結の名を繰り返し呼びながら、縁次は周囲を彷徨う。片手を伸ばし、ただ一人を求める姿から、冬玄はそっと目を逸らした。

「ゆい……」
「そんなに呼ばなくても、ここにいるよ。縁次の隣に、ずっといる」

柔らかな声音。はっとして視線を向ければ、そこには伸ばした縁次の手を取り、繋いで微笑む結の姿があった。

「ゆい……やくそく……はなれない……ゆい、ゆい……」
「分かってる。約束したからね。ほら、兄貴がちゃんと叶えてくれたんだよ」

繋ぐ手の指を絡めて、結に縋り付いていく縁次を抱き留めながら。結は冬玄を一瞥し、燈里へと視線を向ける。その視線から隠すように燈里を抱き寄せて、冬玄は燈里に体に僅かに熱が宿っている事に気づいた。

「燈里?」

頬に触れる。赤みを帯びていく頬の熱を感じ取り、願うように燈里の名を呼んだ。
唇を指先でなぞる。僅かな隙間すら厭うように、強く体を抱き寄せて。
触れた唇の熱で溶けてしまいそうな錯覚に、冬玄の世界がくらりと揺れた気がした。

「燈里」

見つめる燈里の瞼が微かに震える。ゆるりと開いたぼんやりとした目が、冬玄を見つめ焦点を結んでいく。

「――かずとら?」

どこか辿々しい呟きに、冬玄は泣くように微笑んで。

「おかえり。燈里」

離れたくないと、強く強く燈里を抱きしめた。



20250613 『君だけのメロディ』

6/13/2025, 11:21:54 AM

暗闇の回廊を冬玄《かずとら》は一人、奥を目指して歩き続けた。
調子の外れた耳障りな雅楽の音と雨音が、回廊内に響き渡る。笙や笛、太鼓の音が雨音と重なり、溶け合い。だがある節を過ぎると雨音だけを残してぷつりと途絶え、また同じ旋律を奏で始める。
延々と繰り返される同じ音に、冬玄は足を止めぬまま息を吐いた。
どれほどの間、この回廊内を彷徨っているのか。
周囲が見えぬ暗闇に、繰り返される調子の外れた歪な雅楽。遠ざかりはしないが、決して近くもならないそれは、ただの人であれば疾うの昔に心を病ませ壊しているのだろう。冬玄であるからこそ、まだ耐える事が出来ている。

「燈里《あかり》」

手にした守袋を握る。冬玄が回廊の奥へと進む唯一の理由であり、絶対的な存在。手の中で感触を確かめて、俯き立ち止まりそうになるのを堪えて、冬玄は歩き続けた。

「――なんだ?」

不意に雅楽でも、雨音でもない音が混じる。
途切れ途切れに聞こえてくるのは、微かな歌声。耳を澄ませる冬玄の記憶を揺さぶり、唇を噛みしめた。
それは以前、冬玄が燈里のために歌ったものだ。燈里の母校で起こった事件に巻き込まれた際、廊下に響き渡る音の渦に逆らうように歌ったラブソング。抱き寄せた時の燈里のぬくもりを思い出し、険しさを湛えていた冬玄の目が僅かに綻んだ。
一度立ち止まり、目を閉じる。聞こえる歌だけに意識を向けて、そこで冬玄は違和感に気づく。
歌声は燈里のものだ。だがそれだけ。抑揚のない歌い方。拙く辿々しい旋律は、まるで歌う事が初めてのように覚束ない。

「あの娘……何を考えている?」

燈里とよく似た、その身の内に燈里を取り込んだであろう結《ゆい》。彼女の行動の意味を理解できずに、冬玄は眉を顰め目を開けた。
今は考えていても仕方がない。この歌の方へ向かう以外に、燈里に辿り着く方法はないのだから。
ゆっくりと歩き出す。迷わず力強く、足を踏み出した。





穏やかな微睡みの中。
聞こえる歌声に懐かしさが込み上げ、思わず笑みが浮かぶ。

「まだ雨は止まないよ」

歌が途切れる。優しい響きの声に甘えながら、歌を止めないでほしいとぬくもりに擦り寄った。

「仕方ないな。初めて歌うんだけど」

苦笑して、また歌が紡がれる。
いつか誰かが歌ってくれた歌。思いが込められた、素敵なラブソング。I loveで終わる暖かな余韻に、もう一度と繋ぐ手をそっと握る。

「我が儘。そろそろ仕舞いだよ。ぐずらないでさっさとおやすみ」

窘められる声の響きも優しい。
暖かで優しくて、気を抜けば泣いてしまいそうだ。
嬉しくて堪らないのに、それと同じくらい苦しい。いずれ訪れるさよならに、いっそ泣き叫んで縋りたくなってしまう。
置いていかないでほしい。一人にしないでほしい。
誰に対してそう強く思うのかは、思い出せないけれど。

歌声が響く。
おしまいだと言いながら歌ってくれる優しさに、力強く握り返される手の暖かさに微笑んで。
僅かに浮かび上がった意識を、さらに深く沈めていった。





「ここか」

光が漏れ出す扉の前で冬玄は立ち止まった。
歌声はもう聞こえない。歪に繰り返す雅楽の音が雨音に混じり、扉の向こう側から聞こえている。

「燈里」

手の中の守袋に視線を落とし、扉を見据え手を掛ける。然程力を込めずとも開いていく扉は、軋んだ音を立てながら中の異様な光景を冬玄の眼前に晒した。
部屋の奥。俯き座る白無垢を着た燈里と、その隣に座る黒紋付を羽織った男。男もまた深く俯き顔は見えないが、おそらくはこれが遠見《とおみ》なのだろう。
互いに寄り添うように座る二人以外、他には誰もいない。部屋の中に雅楽の音だけが響いている。

「燈里」

名を呼び、冬玄は燈里へと歩み寄る。燈里は答えない。身じろぎ一つせず、俯いたまま。
燈里と遠見の前に置かれた銚子と重ねられた盃は、使われた様子はない。互いの家族もなにもない、形だけの祝言。
その理由に気づいて、冬玄は嘲るように口元を歪めた。

「体だけあった所で、誓いは出来ない……これが目的か。娘」

声を張り上げる。
動かない遠見へと一歩近づき、冬玄は腕を伸ばした。

「おとなしく燈里を返せ。さもなくば、貴様の大切な遠見を壊す」

その言葉はただの脅しではない。
冬玄の周囲に霜が降りていく。伸ばした指先が遠見の髪に触れ、一瞬で髪が凍り付いた。

「――化け物」

無感情な声音。
腕を降ろし振り向く冬玄を一瞥して、結は燈里と遠見を指差した。

「よく見なよ。単細胞」

鼻で笑われ、冬玄の目に怒りが浮かぶ。しかし無言で結が示す方へと視線を向けた。

「花嫁と花婿。もう繋がれている」

言われて目を凝らす。燈里の右手の小指と、遠見の左手の小指。赤い糸で何重にも巻き付けられていた。

「――これは」

目を見張る冬玄の前で、その赤い糸はさらに小指に巻き付いていく。やがては小指だけでなく、手に腕に巻き付いて、燈里と遠見を結びつける。
燈里と遠見の体が糸に引かれ、互いへと傾いでいく。
二人は寄り添っているのではない。糸に繋がれ、引かれていただけだ。
赤い糸は二人を絡めながら、背後へと伸びていく。気づけばそこには、あの祝言絵図がかけられていた。

「なんで、燈里の名が……」

絵図の黒く塗り潰された花嫁。その下には“宮代《みやしろ》燈里”と名が記されていた。仏堂で見た時には何も書かれてはいなかったはずだ。
呆然と絵図を見つめる冬玄の横で、結は不快だと言わんばかりに、吐き捨てる。

「燈里は行列に花嫁の位置で参加した。その瞬間に絵に名前が書き込まれる。かきこまれたなら、祝言は必ず行われるよ」

不意に遠見の右腕が持ち上がる。糸に釣られた腕が銚子に伸び、中の神酒を盃に注いでいく。

「っ、止めろ!」

冬玄の手が糸を掴み、瞬時に凍らせ粉々に砕く。だが新たな糸が絵図から伸び、再び遠見の腕を繋いでいく。
きりがない。銚子や盃を砕こうにも、何故かこれらが凍り付く事はなかった。

「あんたのせいで、燈里はここに戻ってくる事になった。あんたが手を離したから、縁次《よりつぐ》の手が繋がれた……全部、考えなしの化け物のあんたのせい」

冷たい目をして、結は告げる。
何も言えず、ただ糸を砕くだけの冬玄を睨み付け、入口を振り返る。
何かを待つように。目を細めて、閉じた扉を見つめ続ける。

雅楽の音が響き渡る。
先ほどよりも長い節を奏で、また初めから繰り返して。
歪な音色に合わせて、雨音が強くなっていく。



20250612 『I love』

6/12/2025, 10:34:16 AM

細かな雨が降り続いている。
雨に濡れながら、墓地へと運ばれていく棺。静かな葬列を、雨が包み込んでいる。
一人になってしまった。家に帰っても、出迎えてくれる人は誰もいない。
どうして。何度も繰り返した思いに、涙が滲み出す。両親が亡くなってからずっと泣き続けていたのに、まだ涙は涸れる事はないらしい。
ふと、違和感に俯く顔を上げて棺を見た。亡くなったのは父と母。けれど目の前で運ばれていく棺はひとつだけ。
これは父と母、どちらの葬列なのだろう。それともまったく違う誰かの葬列に迷い込んでしまったのか。
隣を歩く兄が持つ遺影に視線を向ける。雨に濡れた黒の額の中を見ようと、目を凝らす。

「――あぁ、そうか」

思わず呟いて棺を見た。棺の中で横たわる死体を想像して、そっと目を閉じる。

無表情でこちらを見つめていたのは、私だった。
両親ではない。
これは、私の葬列だ。



雨音が聞こえていた。
ざあざあと、激しく窓や地面を雨が打ち付ける。
風が強い。外では嵐が来ているようだ。
遠雷。体の内側から響く音に身を竦ませながら、閉じていた目を開けた。
薄暗い両親の部屋。気づけばその隅で、膝を抱えて蹲って泣いていた。
稲光。心の中で、ゆっくりと数を数える。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。
どおん、と、重苦しい音。まだ遠い事に詰めていた息を吐きながら、立ち上がる。
激しい雨と風が窓を鳴らす。今だけだ。明日になれば、きっとこの嵐は去るだろう。
この嵐で事故にあった両親とは違う。どんなに待っていても、二度と二人が帰って来る事はないのだ。
稲光。カーテンを白く染め、暗い室内を一瞬だけ明るく浮かばせる。
遅れてくるだろうその音から逃げ出すように、足早に部屋を抜け出した。



「――お願い」

雨音に紛れて、微かに居間から声が聞こえた。
入口からそっと覗き込む。
居間の片隅。喪服姿の私が立ち尽くしていた。赤く腫れた目を誰かに向けて、泣きながら願っていた。

「一人は寂しい。一緒にいて」

まるで迷子の幼い子供のようだ。必死に伸ばした手は、けれども誰かに取られる事はない。
居間には私以外誰もいない。当然だ。祖母は数年前に亡くなっている。そして両親がいなくなって、私は一人きりになったのだから。
一人きり。改めて突きつけられて、胸が苦しくなる。込み上げる涙を拭い、気づけば居間に入って私の手を取っていた。

「――寂しいの?」

喪服姿の私が問いかける。

「寂しい。私も、寂しい?」

頷いて問い返せば、私はきょとりと目を瞬いて笑った。

「うん。あたしも、寂しい」

どちらからともなく繋いだ手を解き、互いの背へと回す。熱を失った冷たい体を温めるように、強く抱きしめ目を閉じた。

「寂しいね。約束したのに」
「そうだね。一人になって、寂しいよ」
「なら、このまま雨が上がるまで、ひとつになって眠っていよっか」

この雨が上がるまで。
遠く雨音を聞きながら、嬉しくなって小さく笑う。
眠ってしまえば、雨も雷も怖くはない。それに一人でないのならば、きっと雨音も優しく感じられるだろう。
背に回した手に力を込める。離れないように。このまま溶け合ってしまえるように。

「おやすみ、私」
「おやすみなさい……ありがとう、あたし」

意識が混じり合っていく。悲しみも寂しさも雨音に溶かして、深い眠りへと落ちていく。
冷たいはずの雨音が、優しく包んでくれているようで。
小さく息を吐いて、何もかもを手放した。





ぷつん。
何かが切れたような、なくなってしまったような感覚に、冬玄《かずとら》は目を見張り息を呑んだ。

「燈里《あかり》?」

名を呼べど、答えはない。
込み上げる激情に、冬玄の影が揺らぐ。気を抜けばすぐにでも呑まれてしまいそうな衝動に耐えながら、冬玄は仏堂の扉に手を掛けた。
暗い仏堂の内部が、開かれていく扉から差し込む光で露わになる。吹き込む風が、壁にかかる無数の祝言絵図を揺らし、音を立てた。
仏堂内の正面。花嫁が黒く塗り潰された祝言絵図の真下に何かが落ちていた。それを認め、冬玄の表情が変わった。
足早に近づき、それを拾い上げる。紐の切れた守袋。それは冬玄が燈里に渡していたものだ。

「――燈里」

ぞわり、と空気が揺らめいた。
冬玄の影が大きく揺らぐ。顔を上げた冬玄からは表情が抜け落ち、花婿だけの祝言絵図へと視線を向けた。
唇が歪に弧を描く。冬玄の足下を中心に霜が降りていく。
静かに腕を持ち上げ、その指先が絵図へと伸びて。

「化け物」

背後から聞こえた呟きに、指が止まる。緩慢に振り返る冬玄の虚ろに濁った目が入口に佇む結《ゆい》の姿を認識し、困惑に瞬いた。

「燈里?」

結に重なるようにして、燈里が感じられる。
結でありながら、燈里でもある。まるで二人が一人になったように。

「――き、さまっ!」

その理由を理解して、冬玄の表情は怒りに歪んだ。

「死者の分際で、燈里を喰ったなっ!」

叫びと同時、結の右肩が凍る。
だが結は表情一つ変えずに、凍り付いた自身の右肩を見て。冬玄を見据え首を傾げた。

「いいの?」

無感情な疑問。訝しげに眉を潜めた冬玄は、だがすぐにその意味を理解して結の氷を溶かしていく。
燈里は今、結と同化している。結に傷をつける事は、燈里を傷つける事に等しい。
怒りや憎悪に歪んだ目に、焦りと恐怖が浮かぶ。激情のままに破壊する前に間に合った事に、安堵からか冬玄の体が一度大きくふらついた。
そのまま動けない冬玄を歯牙にも掛けず、結は自身の右腕を見た。何度か動かし問題がない事を確認して、冬玄の背後へと視線を向ける。
静かに結は冬玄へと近づき、その横を通り過ぎて奥へと向かう。結を追って視線を向ければ、そこに無数の祝言絵図はなく、ただ暗く長い回廊が続いているのが見えた。

「これは……」
「祝言が始まるよ。化け物」

結はそれだけを告げ、戸惑う様子も見せずに回廊へと足を踏み入れる。
奥から聞こえるのは、雨音と雅楽の音色だ。
祝言を祝う雅楽は歪み調子を外れ、それを単調な雨音が包み込む。異質でしかない音は、それでも冬玄を落ち着かせるには十分なもののようであった。
一度大きく呼吸する。手の中の守袋に冬玄は唇を触れさせて、回廊を見据えた。

「燈里……必ず連れ戻すから、諦めるな」

回廊はどこまでも暗く、結の姿は欠片も見えない。
だが冬玄の目は強い意志を湛えて前を見つめ、迷わずに回廊へと足を踏み入れた。



20250611 『雨音に包まれて』

6/11/2025, 11:36:10 AM

「妹は美しかった。容姿だけじゃねぇ。信念を貫く強さも、苛烈な生き方さえも……すべてが美しかった」

絵図に描かれた名を指先でなぞりながら、承一《しょういち》は目元を僅かに緩ませた。
その目はどこか遠く、在りし日を見つめ。過ぎ去り、届かない過去を思い目を細める。

「丙午《ひのえうま》の年に生まれちまったもんで、よく爺共からは疎まれていたよ。丙午に生まれた女は気性が激しく、夫を短命にさせるなんて、そんな迷信を信じて……けど結《ゆい》は、真っ直ぐに生きた。周りなんざ関係ないって、自分を曲げようとはしなかった」

その目に浮かぶのは、妹に対する親愛と誇りだ。そしてそれは悲しみと一抹の寂しさへと変わり、結を重ね見るようにして承一は燈里《あかり》を見た。

「あんた。結が死人だって知って怖くなったか?話を聞いて軽蔑するか?」

悲しみを帯びた問いかけに、燈里は目を逸らさず承一を見つめ。一つ呼吸をしてから、いいえと否定する。

「私は結さんに助けて貰ったんです。以前取材に来た時に……そして今回も。仏堂に連れて行ってくれて、管理人であるあなたの事を教えてくれました。そんな優しい人を怖がったり、況して軽蔑なんて出来ません」

燈里に言葉に、承一は口元を歪め。視線を絵図の中の花嫁へと向け、そうかと優しく呟いた。

「あいつの分かりにくい優しさが伝わるとはな……素直でないんだよ。優しいのに、言い方がきつくて誰にも気づかれん。今回もそうなんだろう。そこにどんな思いがあれ、知らぬ振りは出来なかったんだろうよ」

承一の、結を思う言葉はどこまでも優しい。花嫁の髪を撫ぜるような指先の動きもまた、愛おしさに満ちて。
静かに妹を思う承一に、燈里はただ頷く事しか出来なかった。

「あんたは容姿こそ結に生き写しだが、その在り方は真逆だな。冬に降る雪があんたなら、夏の差すような日差しが結だ。あんたのようにすべてを受け入れ包み込む、静かな美しさは結にはねぇ。どこまでも苛烈で、それでいて何もかもをその眩いばかりの光でさらけ出させる。真っ直ぐな美しさがあった……俺の自慢の妹だったよ」

深く息を吐いて、承一は顔を上げる。どこか泣きそうな、それでも決意を秘めた目をして燈里を見据え、笑った。

「――頃合い、なのかもしれんな」
「え?」
「あんたがここに来た。結に似ているってだけで巻き込まれた、可哀想な嬢ちゃんかと思ったが、そうじゃない。結に導かれて、訪れるべくして訪れた。それに幸い、一番に反対していた遠見の両親はとっくに墓の下だ……いい加減、兄として妹を送り出すべきなんだろうさ」

その決意は悲しいほどに美しく。
知らず燈里は俯き、膝の上に置いた手をきつく握り締める。しかしそれは上から冬玄《かずとら》の手に優しく包まれて、はっとして燈里は冬玄を見た。

「あんたが描くのか?」

冬玄の問いに、承一はあぁ、と頷いた。

「この絵も、遠見《とおみ》の絵も、俺が描いた。他の奴じゃあ、描き終えた瞬間に燃えちまうからな。それでも何度描き直してもすぐにこうなる」

だが、と言いながら承一は奥の部屋へと視線を向ける。絵図を持ってゆっくりと立ち上がり、話は終わりだと言わんばかりに歩き出した。

「遠見に言われて出せなかった絵がある。完成させる前に仕舞い込んだが、奉納する事にするよ。そうすれば、あんたも遠見から解放されるはずだ」

部屋の奥へと続く襖に手を掛けながら凪いだ声音で呟くと、承一はそのまま襖を開け部屋に入っていく。残された燈里達もまた静かに立ち上がり、承一の家を後にした。






「まだ油断は出来ないが、終わる目処はついたか」
「そうだね。後はどこかで籠城でもしてみる?」

幾分か険しさが和らいだ冬玄に楓《かえで》が楽しそうに同意する。そんな二人の背を見ながら、燈里は密かに息を吐いた。

「燈里。あまりあの娘に、心を傾けるものではないよ」

前を行く楓が不意に振り返り、燈里に忠告する。曖昧に笑って首を振り、差し出される手を見ない振りをした。
結が死者であった事に、悲しみだけでなく死者に対しての畏れも少なからずある。しかし結は最初から燈里を助けてくれたのだ。その優しさを、死者だからという理由だけで拒みたくはなかった。

「まったく。困ったもんだ」
「仕方がない。燈里は優しい、良い子だからね」

呆れたように優しく笑って、楓は前を向き冬玄と共に歩き出す。その背にごめんね、と声なく呟いて、燈里も少し遅れて歩き出した。
無理矢理繋がれないのは優しさであり、もうすぐに終わるという安堵からだろう。その優しさに甘えて、もう少しだけ結を一人思っていたかった。

不意に、太鼓の音が聞こえた。
太鼓に続いて、笙や笛の音。足音が聞こえ出す。

「っ、冬玄」

前の二人はまだ、気づかない。
手を伸ばし、冬玄の腕を掴もうとして。

その手は、何も掴めずに空を切った。

「――え?」

何が起こったのか。理解を拒むように燈里はすり抜けた手に視線を向け。
その手が背後から伸びた知らない誰かの手に繋がれるのを見て、燈里は声にならない悲鳴をあげた。
慌てて周囲を見回すが、前を歩いていたはずの二人の姿はどこにもない。

「みつけた」

歪にひび割れた声。硬直する燈里の耳元で、愛おしげに笑う。

「ゆい、やくそく……ゆい。ゆい」

声は只管に結の名を呼ぶ。違うと否定する燈里の声は、喉の奥に張り付いて声にならない。
何故。どうして。
疑問が巡る。忠告通りに、今まで一度も紫陽花に触れてはいなかったはずだ。
怯え混乱し、身じろぎ一つ出来ぬ燈里の視界の隅で、白の何かが零れ落ちていく。
白の花びら。紫陽花の装飾花が、燈里の左肩から滑り落ちていく。
いつの間に。そう驚く燈里の脳裏を、ある一つの行為が過ぎていく。
仏堂にて、結に奥の間を教えられた時の事。結は燈里の左肩を叩いてから、場所を示した。
思い出すと同時。急速に意識が沈んでいく。抗う事を許さぬほどの深みへと引き込まれていく。

「――燈里っ!」

どこか遠くから、冬玄の声がして。
だがそれに答える前に、意識は黒く塗り潰された。





微かな違和感に、冬玄は弾かれたように背後を振り向いた。
だがそこにいるはずの、燈里の姿はどこにもない。

「燈里!」

周囲を見渡し名を呼ぶが、答える声はない。舌打ちして、気配を探る冬玄の耳に、低い太鼓の音が響いた。
音のする方へと視線を向ける。触れれば切れてしまいそうな鋭さを湛えた目が、遠く祝縁寺へと向かう行列を認め苛立ちに細められる。しかしその目は、ある一人を捉えた瞬間に、驚愕に見開かれた。
黒紋付羽織袴を来た男の隣。俯いて寄り添い歩く燈里の姿。

「燈里っ!」

叫んでも、燈里に反応はない。追いかけるために駆け出そうとした冬玄は、ふと込み上げた違和感に隣にいる楓へと視線を向けた。

「っおい。どうした」

崩れ落ち、震える肩を抱きしめ俯く楓の姿。嫌な予感に、膝をついて楓と視線を合わせた。

「燈里に何が起きている?なんであれの隣に燈里がいるんだ!」

楓は答えない。目を見開き、不規則な呼吸を繰り返し続けている。
それでも冬玄を認識した楓は、戦慄く唇を無理矢理に動かし、掠れた声で告げる。

「祝縁寺……閉ざされた。奥の間……意識が……追い出されて……」

焦点が揺らぐ。浅い呼吸を繰り返しながらも、楓は笑みを形作り。

「堕ちるなよ……燈里を、置いていくな」

そう告げて、楓の姿は跡形もなく消えた。



「――努力する」

一人残され、冬玄は低く呟いた。
確約は出来ない。今の状況では、何一つ希望は持てない。
楓は燈里の記憶の中に在る妖だ。楓が消えたという事はつまり、燈里に危機的な何かが起きたという事。
静かに立ち上がる。
行列は既に見えない。去った方角へと冬玄は視線を向けて。

「っ、貴様」

山門の下。無表情でこちらを見下ろす結の姿を認め、冬玄の影が感情に呼応するかのように揺らめいた。

「これは貴様の仕業か!」

声を張り上げるも、結は答えない。冬玄の目の鋭さが増し、影がさらに大きく揺らいでいく。

「――化け物」

微かな呟き。揺らぐ冬玄の影を見つめ吐き捨てられた結の言葉に、冬玄は激昂した。
冬玄の影から翁面が現れ、結へと襲いかかる。だかその前に。

「燈里には、相応しくない」

口元に緩く笑みを浮かべ。目には激しい怒りを宿して。
結の姿は解けるように消えていった。



20250610 『美しい』

6/10/2025, 11:17:21 AM

結《ゆい》が教えてくれた家は、村から離れるようにしてひっそりと建っていた。

「やっぱり出ないね」

分かっていた事だけど、と楓《かえで》は小さく呟いた。
呼び鈴を鳴らせど、声をかけれど、中からの反応はない。
燈里《あかり》が前回取材に訪れた時も同じであった。この村の人々は、梅雨の時期に外へ出る事は滅多にない。運良く農作業に出ていた人に話を聞いた所、やはりあの花婿・花嫁葬列が理由のようだ。
薄々分かっていた事だけに落胆は然程ではないものの、他に行く当てもない。どうするべきかを悩む燈里の横で冬玄《かずとら》は涼しい顔をして扉に手を掛ける。そして躊躇いもなく玄関扉を開けた。

「ちょっと、冬玄!?」
「申し訳ないが、時間がないんでね。邪魔するよ」

無遠慮に家の中へと足を踏み入れる。突然事に呆然とする燈里の手を引いて、楓もそれに続いた。

「――なんだ。人の家にずかずかと……っ」

奥から出てきた初老の男性が、険しい顔をして家に入り込んで来た三人を睨みつける。だがその視線が燈里に向けられた瞬間、明らかに動揺した様子で息を呑んだ。

「結。お前……どうして」
「突然の訪問、申し訳ありません。私は結さんではなく、宮代《みやしろ》燈里と申します。結さんより、祝縁寺の管理をなされている方がこちらにいらっしゃると聞き、お邪魔させて頂きました」
「結、が?」

呆然と呟いて、男は緩々と首を振る。深く息を吐いてから改めて燈里に視線を向け、そして目を伏せた。

「入れ」

呟いて、部屋の奥へと男は戻っていく。

「結さんと、何かあったのかな?」
「何かあったとしても、それは二人の間での事で僕達が関わるべき事じゃない。それに今はあの花婿を何とかする方が先だよ」

男が燈里を結と見間違えた時、その目に浮かんだのは恐怖や悲痛の類いのように見えた。
気にはなるものの、楓の言う事は正しい。何も知らない部外者が口を出すべき事ではないだろう。
これ以上立ち止まっている訳にもいかず、燈里達も男の後を追って家の中へと入っていった。





「聞きたいのは、遠見《とおみ》の野辺送りの事だろう?」
「遠見?」
「なんだ。結から何も聞かされていないのか」

部屋に入り、促されるまま座った直後に男に言われた知らない名に、燈里は困惑する。
野辺送りとは葬儀の後、死者を火葬場や埋葬場所まで運ぶ事だ。おそらくは水たまりの向こう側で見た、あの葬列の事だろう。
だとすれば、遠見とは花婿の事か。俯く黒紋付羽織袴を来た花婿を思い出し、楓や冬玄の目が鋭さを増した。

「仏堂には行ったか?」
「あ、はい。その……無断で入り込んでしまい、すみません」

急いていたとは言え、燈里達がした事は立派な不法侵入だ。頭を下げる燈里に、男はぶっきら棒に構わんとだけ告げて、手元の湯飲みを呷る。はぁ、と息を吐いて湯飲みを置き、燈里を見据えた。

「あそこの中に、女の方が黒塗りされた絵があっただろう?あれが遠見だ」
「あれは……あの絵図は、どうして」
「あんたはあの絵について、どこまで知っている」

男に問われて、燈里は静かに答えた。
祝言絵図。幽婚。死者と架空の相手を描く、その意味を。
燈里の言葉を聞いて、男はまた深く息を吐いた。疲れたように、そして深い悲しみを吐き出すように。

「それなら禁忌についても当然知っているな。相手は必ず架空の人物で、決して生者を描いてはいけない……例え誓い合う相手がいたとしてもだ。描いてしまえば、そいつは死者に連れていかれてしまう」

楓の言葉を思い出す。
残された者、生者である婚約者には許せない事。将来を誓い合ったはずの相手が、例え架空の人物であれ違う誰かと結ばされる。
想像して、燈里は息苦しさに目を伏せた。

「以前はあれと似たようなものがいくつかあった。残された相手にとっちゃあ、業腹もんなんだろうな。だが、そうなるといつまでも祖霊として祀られん……どういう経緯で見たのかは知らんが、あんたが見ただろう野辺送りは、無縁仏化した遠見がイワイを求めて現れたものだ」
「イワイ……結さんも言っていました。イワイと契らされるって」

結だけでなく、黒い傘を差した男も言っていた事を思い出す。しかし二人は遠見がイワイであるかのように語っていた。男の話とはどこか違う。
男も気づいたのだろう。頭を掻きながら、あぁと苦笑し、視線を窓の外へと向けた。

「そりゃあ、表向きの祝《イワイ》だな。祝われる者。祝福される者と契るって意味だ……俺が言いてぇのは、本来の斎《イワイ》だ。斎《ものいみ》って字を書く」
「もしかして斎人《いわいびと》の……それじゃあ、遠見さんは祀って貰いたくてああして彷徨っているって事ですか?」

斎人。本来神を祀る人を差す言葉だ。
燈里の辿り着いた答えを肯定するように、男は視線を窓に向けたまま頷く。

「花婿・花嫁葬列だったか。例の噂が広まるうちに、あんな風に相手を消された絵はなくなっちまったよ。興味本位で夜中に寺に忍び込んだ馬鹿共が一人が消える度に、一枚消える。どこにいったのか、誰にも分からん……収められた中では、あれが最後の一枚だ。あんたはその最後の一枚に、イワイとして選ばれたんだろう」

それに、と何かを言いかけて男は口を噤む。眉を寄せ、それ以上語る事を拒むように首を振った。

「ならば、その遠見って男とその相手を描いてやればいいだろう?ああして彷徨い歩くよりは、誓った相手と契る方が、どちらにとっても本望だろうよ」

静かに話を聞いていた冬玄が、冷たく吐き捨てる。燈里が咎めるように視線を向けるが、気にする様子はない。
男は何も言わず、冬玄へと視線を向けた。苦悩を色濃く乗せながら、薄く笑う。

「何がそんなに気に入らんのかね。死者のためと言いながら、そこまで意固地になる事はないだろうに」
「元より、認められてはいねぇんだ。気の強い女はどうしても忌避されやすい」

その笑みが意味する事を理解して、冬玄は嫌そうに顔を顰めた。
確かに架空の花嫁を塗り潰す程の気性の激しい女よりは、架空であれ婚家に従順な女の方が喜ばれるのだろう。だがそれを求めるあまり、長くを祀らぬままであるのならば意味はないであろうに。
そう呆れる冬玄に、燈里は耐えきれずに声を上げた。

「冬玄。生者を描くのは禁忌だって言ったでしょう?そんな簡単に」
「あんた、本当に何も聞かされてないんだな」

しかし憤る燈里を、男の静かな声が止める。呆れたような、哀れむような声音に、燈里は戸惑いながら男に視線を向けた。

「それは、どういう……」
「どうしてこう、世界ってのは儘ならんのかね。僅かでも救いがあれば、あんたもここに来る事はなかっただろうに」

誰にでもなく男は呟き、立ち上がる。
少し待ってろと言い残し、男は奥の部屋へと入ると、ややあって何かを手にして戻ってきた。
ちゃぶ台に置かれたそれは、一枚の祝言絵図のようであった。だが花婿の絵は元が何であるか察せられぬ程に歪み、花嫁はきつくこちらを睨み付けている。

「生前の遠見が契ろうとした相手はもう死んじまってるよ。あの仏堂には奥の間があるんだが、そこで死んだ。花嫁を塗り潰した、そのすぐ後に」

花嫁の姿と書かれた名から目を逸らせないでいる燈里を哀れむように、男は静かに微笑み。

「そういや、まだ名乗ってなかったな。俺は齋《いつき》承一《しょういち》。五十年前に死んだこの花嫁――結の、兄だ」

そう言って、男――承一は、可哀想にと呟いた。



20250609 『どうしてこの世界は』

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