「冬玄《かずとら》っ!」
「燈里!下がって」
急いで扉を開け、中へと足を踏み入れる。
だが先に入った楓が、険しい表情で燈里を制止した。常とは異なる、楓の硬い声。おとなしく止まりかけた燈里は、だが首を振ると楓の隣へと立った。
「来たのか。悪いな、手間取らせて」
部屋の中央。そこに冬玄はいた。
常と変わらぬ表情で、声音で。僅かに眉を下げながら、すまんと謝罪する。
「何、して……」
「これか?もう少しで終わるから待ってろ。思ったより抵抗が強くてな。時間が掛かったが、それももう終わる」
薄く笑い、冬玄は背後を振り返る。
そこには以前三人で買い物に出た帰りに遭遇した、白無垢を着た女がいた。纏わり付く闇に、悲鳴を上げて藻掻いている。
闇を吐き出しているそれを見て、燈里がひっと小さく悲鳴を上げた。宙に浮く翁面。それは楓のものとよく似ていながらも、とても悍ましいものだった。
「いい加減、諦めればいいものを。俺に選ばれたのだから、光栄だろう?」
無感情な呟きに、女に纏わり付いた闇が強く女を締め上げ、悲痛な悲鳴が上がる。暴れたために被っていた角隠しが落ち、必死な形相の潰れた女の顔が露わになる。
髪を振り乱し、悲鳴を上げ。けれども次第にそれは弱くなっていく。
それを目にして、燈里はたまらず女へと駆け出した。
「燈里。あまり近づくな。お前まで巻き込まれるぞ」
女へと伸ばされた手は冬玄に取られ、そのまま引き寄せられる。いつもと変わらぬ優しい声が逆に怖ろしい。
「お願い止めて!なんでこんな事っ」
「燈里のためだ」
「何、それ。私の、ためって……?」
意味が分からず、燈里は恐る恐る冬玄を見上げた。やはり普段と変わらぬ笑みを浮かべ、冬玄は燈里の頬に指を滑らせる。
「燈里と同じ気持ちを返すには、人間の感情について知る必要がある。どうするかと困っていたんだが、丁度良くこれが現れたから、手早く取り込んでしまおうと思ってな」
「なんで。なんで、そんな……私、そんな事」
「これを取り込んだ後は、花婿の方も取り込んだら仕舞いだ。そうしたら、家に帰ろうな」
「止めて。そんなの駄目。お願い」
燈里の懇願も、冬玄は苦笑するのみでその言葉は届かない。
どこまでもすれ違い、道が交わる事はない。
その悲しみか、はたまた恐怖からか。膜を張り出す目元をなぞられ、燈里は一筋涙を溢した。
「大丈夫だ。怖い事は何もない。今までも、これからも俺が燈里を守るのだから」
「――阿呆もここまで極めると、清々しいくらいに気持ち悪くなるんだね。燈里が怖がっているのは、君自身だよ。この阿呆」
いつの間にか翁面の側に寄っていた楓が、呆れた声音で毒づきながら面に容赦のない手刀を入れた。割れこそしなかったものの床に叩きつけられ、面から溢れだしていた闇が途切れていく。
「楓っ!」
「おいで、燈里。怖かったね」
冬玄の腕から抜け出して、燈里は楓の腕の中へと飛び込んだ。自分よりも背の高い燈里をふらつきもせずに抱き留めて、楓は険を帯びた目で冬玄を見据えた。
「――燈里?」
微かな呟き。自身の腕を呆然と見つめる冬玄に、楓は警戒しながらも溜息を吐く。視界の隅で床に落ちた面が、ふわりと浮き上がるのを見て、躊躇なく面を掴み冬玄へと投げつけた。
「いい加減にしなよ。燈里は今にも堕ちてしまいそうな守り神《トウゲン》様が怖くて、畏れ多くて仕方がないんだってさ」
「……その名で、呼ぶな」
「今の君に、その名以外に呼べる名はあるのかい?少なくとも燈里の婚約者である冬玄は、こんなに独りよがりではないよ。燈里に寄り添って、同じ道を歩いてくれるような男だったはずだ」
あからさまに冬玄の表情が歪んだ。投げつけられた面は次第に姿を薄くし、消えていく。それに呼応するかのように、冬玄の纏う異様な空気も薄れ、それを見て燈里は密かに息を吐いた。
「冬玄」
呼びかける。どこか途方に暮れた迷子のような顔をする冬玄を見つめ、願うように言葉を紡ぐ。
「私は、冬玄が側にいてくれるだけでいい。それだけでいいの」
「燈里」
「だからもう……置いていかないで」
消え入りそうな程に微かな声。それはただの恐怖からでない事に気づいて冬玄は力なく頷き、眉を下げて泣くように微笑んだ。
「――あぁ、そうだな。ずっと側にいるって言ったのにな……すまない、燈里」
手を差し出す。燈里もまた微笑んで、冬玄へと手を伸ばし。
「そういうのは、これを何とかしてからにしようか」
だがその手は冬玄に届く前に楓に引かれ、届く事はなかった。
「これ?」
目を瞬いて、燈里は視線を落とす。力なく横たわる白無垢姿の女を視界に入れて、小さく息を呑んだ。
「どうするの、これ?もう祝言を挙げる事しか分からなくなってるから、ずっと付き纏うようになるよ」
「でも、冬玄は……」
「人間の言う未練って奴が、誰かと契る事だからね。寸前までいった相手を、離したくはないだろう」
僅かにも動かない女を見下ろし、無感情に楓は言い放つ。何も言わないながらも、冬玄もまた楓と同じく冷めた目をして女を見遣り、燈里は一人悲しげに目を伏せた。
ここにいる女の未練。渡り廊下で垣間見たものと、扉に貼り付けられた絵を思う。
女はただ、幸せになりたかったのだ。燈里と同じように、好きな誰かと共に寄り添っていたかった。唯一違うのは燈里には冬玄がおり、女には誰もいなかった事。
ふと、仏堂に飾られていた無数の祝言絵図が思い浮かぶ。奉納された絵図と女の描いただろう絵の違いを探し、ある一つの方法を思いつく。
「燈里?」
「おい、どこ行く」
二人の制止の声も聞かず、燈里は扉へと駆け出した。
落ちていた画用紙を拾い上げる。鞄に手を伸ばし、中から一本の万年筆を取り出した。
黒の飾り気のない万年筆。普段何気なく使っているそれが、今はやけに重く感じられた。
一度深く呼吸をして、燈里は画用紙の上部に万年筆で文字を書いていく。ゆっくりと、字が震える事がないように慎重に。
――『奉納』
そして、花嫁の下に名を書こうとして。燈里は女の名を知らない事に気づいた。
顔を上げる。
「――っ」
咄嗟に悲鳴を呑み込み、硬直する。
目の前に女がいた。白く濁った虚ろな目が、書いたばかりの文字を見つめ、そして顔を上げて燈里を見つめた。
「たかなし、あい」
女のかさつく唇から零れた言葉が、女の名なのだろう。
燈里の万年筆を持つ手が、本人の意思とは無関係に動く。燈里とは異なる、丸みを帯びた癖のある字が『高梨あい』と書いていくのを、燈里はただ静かに見守った。
「――ありがとう」
歪に割れた声で感謝の言葉を述べて、あいという名の女は微笑んだ。その姿は次第に薄く解けていき、消えたと同時に、画用紙の花嫁が女へと成り代わった。
同じように花婿も姿が変わる。冬玄ではない。おそらくは他の絵図のように架空の花婿なのだろう。
互いに微笑み合い手を繋ぐ姿を見て、燈里の体から力が抜ける。深く息を吐いて、万年筆を鞄へと戻した。
「ただの落書きを祝言絵図にするとはね」
半ば感心したように、呆れたように楓は絵を覗き込む。
「赤の他人を供養するなんて、燈里は本当に物好きだ……でもこれで、穏やかに還る事が出来るだろう」
そうであればいい。燈里は密かに願う。
不意に差し出された手に、顔を上げる。静かに笑う冬玄に燈里も笑い、今度こそその手を取って立ち上がった。
「今度は花婿をどうにかしないとな」
「そうだね。これからも冬玄と一緒にいるためには、向き合わないと」
冬玄の言葉に頷いて、燈里は仏堂の入口へと視線を向ける。
扉が開いていた。
振り向いて奥の間に続く扉を見れば、そこは既に無数の絵図によって再び閉ざされていた。その中にはいつの間にか額装された女の絵図も、花嫁が黒く塗り潰された絵図もある。
複雑な気持ちで燈里は塗り潰された花嫁を見つめ、気持ちを振り払うように頭を振る。
「行こうか。管理人さんに話を聞けば、何か分かるかもしれないから」
「そうだね。今はそれくらいしか、出来る事はないか」
燈里の言葉に同意して、けれどその前にと、楓は冬玄へ視線を向ける。
「僕はね。燈里の記憶の中に在る。だから燈里と同じものを見て、感じる事も出来る」
「何が言いたい?」
「僕と燈里は近すぎるんだ。だから君のように、燈里に寄り添って歩く事は出来ない。同じ道を辿れても、隣を歩く事は出来ないんだよ……その事を忘れるな」
「――肝に銘じておく」
楓を見据え、冬玄は告げる。二人を見守る燈里の手を引き、強く抱きしめた。
「か、冬玄っ!?」
「もう離れない。だから、燈里も俺を離さないでくれ」
冬玄のその言葉に、頬を染め慌てていた燈里は動きを止める。迷うように視線を揺らし、そっと冬玄の背に腕を回した。
「分かった。もう独りにしないでね」
そう言って笑う。一度強く抱きついてから離れ、燈里は冬玄の手を取り繋いだ。
離れないようにと力を込め。そしてゆっくりと歩き出す。
寄り添う二人の背を見つめ、少し遅れて楓もまた歩き出す。
背後の、閉じられた扉越しに聞こえる微かな雅楽の音色に眉を潜めながらも外へ出て、躊躇なく仏堂の扉を閉めた。
20250608 『君と歩いた道』
いつか夢は叶うものだと、誰もが歌っていた。
例えばクラスの冴えない女子が、ある日突然とある御曹司に告白されるように。
例えば一人ぼっちの寂しい女の子が、神様に愛されて幸せな日々を過ごすように。
例えば家族に虐げられたお姫様が、隣国の王子様と結婚するように。
物語の最後は、必ずめでたしめでたしで終わるのだ。
つまらない人生だった。
平凡な両親から生まれた、平凡な自分。
不細工ではなかったけれど、特に可愛い訳でもなかった。
クラスに馴染めずに、いつも一人きり。物語の中の世界が、唯一の居場所だった。
夢は叶うものだと、誰もが言っている。
ならば、この夢もいつか叶うだろう。
今のこの平凡でつまらない日々から連れ去ってくれるような、素敵な誰かと結婚をするのだ。
本当につまらない人生だった。
あっという間。眩しいヘッドライトと衝撃。
気づけば、一人ぼっち。手にしていたスマホは画面が粉々に割れて、好きだった物語の続きも読めない。誰にも気づいてもらえず、何もかもが終わってしまった。
夢は叶うと言っていたはずなのに、何一つ思い通りにはなっていない。
そう言えば、と思い出す。
雨上がりの夜。どこかの村で、花婿が花嫁を求めているらしい。それを見る事が出来れば、その人と結婚する事が出来るという。
ならば会いに行こう。本当ならば迎えに来てほしかったけれど、仕方がない。
そうして見つけた花婿は、でも一人の女性を追いかけて、私にはちっとも気づかない。
諦めきれなくて追いかけた先。花婿よりもとっても素敵な人に出会った。
彼女だろうか。花婿が追いかける女性の隣にいる綺麗な顔をした男性《ひと》。
やっぱり夢は叶うのだ。
女性は花婿と結婚する。それなら一人になる彼と、私が結婚すれば良い。
花婿の真似をして降らせた紫陽花の花を、彼は受け取ってくれた。
嬉しくて手を伸ばす。彼も同じように手を差し出した。
後は、祝縁寺で式を挙げるだけ。
「お姉ちゃんっ!」
楓《かえで》の声に、燈里《あかり》ははっとしたように顔を上げた。
寺の渡り廊下。仏堂の入口らしき黒塗りの扉に手をかける結《ゆい》の背を見ながら、燈里は詰めていた息を吐き出した。
遅れて襲う動悸に、胸を押さえて蹲る。楓に背をさすられながら、今し方過ぎていった誰かの記憶を燈里はただ漠然と思い返した。
まるで夢見る少女のような、拙くどこまでも他人任せな思い。独りよがりな感情が渦を巻いているようで、息苦しい。
「どうしたの?気分が悪いなら、無理せず今日は戻った方がいいと思うけど」
「だ、い、じょうぶ、です」
扉から手を離し振り返る結に、燈里は首を振る。何度か深く息を吐いて、ふらつきながらも立ち上がった。
「ここまで来て、今更戻れません……行かないと」
「そう?じゃあ開けるけど」
そう言って、結は扉へと向き直る。細い手が扉に掛かり、ゆっくりと開いていく。
暗い室内に外からもたらされた光が差し込み、露わになった異様な内部に、燈里は目を見張り息を呑んだ。
「これって……もしかして、この寺は」
仏堂と呼ばれながらも、そこには仏像が安置されていない。
何もない、板張りの部屋。だが代わりに、壁に掛けられた無数の絵が、ここがただの寺ではないのだと言葉なく告げていた。
「祝言絵図か。それもかなり古くから」
祝言を挙げた花婿と花嫁を描いたらしき絵図。
三方の壁を埋め尽くすほど、無数に飾られた絵を見渡しながら、楓は目を細め呟いた。
「しかもただの絵図じゃない。片方は未婚の死者を描いているね。祝縁寺とはよく言ったもんだ」
「幽婚……だから参進の儀でありながら、葬列」
「かなり前から描かなくなったけどね。ま、描いた所でもう飾る場所はないけどさ」
仏堂の隅に置かれた燭台に火を灯しながら、結は肩を竦めてみせる。呆然と絵図を見つめる燈里に近づき肩を叩くと、正面の壁を指差した。
「絵に覆われてるけど、この先にも部屋があるんだよ。たぶん、いるとしたらそこじゃない?」
結の指差す方へ視線を向ける燈里に、結は笑って頑張ってと声をかける。
踵を返し外へと向かい、だが入口で立ち止まると振り返る。
「あたしはもう帰るけど。もしここの今の管理者に話が聞きたいのなら、石段下りて最初の、ぽつんと建ってる小さな家に行くといいよ。出てきてくれるかは知らないけど」
「あ、ありがとうっ!」
それだけを告げ、今度こそ結は去って行く。その背に燈里は慌てて礼を言えば、返事代わりに手を振り。
結の姿が見えなくなるとほぼ同時。仏堂の扉が、音もなく閉まった。
「おっと、閉じ込められたみたいだ」
閉まる扉を一瞥して、楓は燈里に視線を向ける。
閉じ込められたという割に、焦る様子は見られない。燈里もまた取り乱す事なく扉を見つめ、そして正面の壁へと視線を移した。
「戻り道は、全部終わってから考えればいい。今は先に進まないと」
小さく呟いて、壁へと近づく。
遠目からでは分からなかったが、下方に小さな扉があるようだ。飾られている絵図が収まる額を、ひとつひとつ丁寧に外していく。
そのひとつを手にし、燈里は眉を潜めた。
「何だい、これは?」
隣で同じように額をよけていた楓が、燈里の手元ののぞき込み、同じように眉を寄せる。
「花嫁が真っ黒だね。よっぽど腹に据えかねていたのかな」
呆れたような楓に何も言わず、燈里は額を指先でなぞる。
花婿と花嫁が描かれた祝言絵図。しかし、その一枚だけは、花嫁の姿だけが黒く念入りに塗り潰されていた。
「幽婚は祖霊祭祀や、残された人々の慰めとして行われる、大切なものなのに」
かつて家を単位としていた頃の古い祖霊祭祀では、祝言を挙げ子孫を残す前に亡くなった霊は、酷く曖昧な存在だった。そのままでは無縁仏や荒霊になりやすいと恐れられ、故に幽婚や冥婚と呼ばれる、死後婚を行う事で防いでいた。
仏堂に飾られた、この無数の祝言絵図も幽婚の一種だ。未婚のままで亡くなった者のために、架空の花婿や花嫁を描いて奉納されたのだろう。
子を失った家族の嘆き。せめて婚礼を上げさせたいという、親のささやかな願い。
この絵を描いた残された者を思い、燈里は悲しげに目を伏せる。
「死者と生者を契らせる事は、人間にとっての禁忌だからね……でも残された者にとっては、それが許せなくなる事もあるものさ」
燈里の背を撫で、楓は額を取り上げた。
「それよりも、早くあれを見つけないと。燈里がさっき視たのがあれを連れて行ったやつなら、とてもよろしくない事が起きる予感がするよ」
「よろしくない事?」
「あれは燈里が絡むと、気持ち悪いくらい阿呆になるから」
大仰に肩を竦めて額を置く。残る最後の一枚を見て、可哀想にと微かに独り言ちながら手をかける。
それは、他の絵図とは明らかに違っていた。画用紙に描かれた、子供のような筆致の絵。可愛らしくデフォルメされた笑顔の花嫁と花婿が、余計に異様さを際立たせていた。
「この先にいるね……燈里。怖いなら、下がっておいで」
楓の優しい言葉に、燈里は笑って首を振った。画用紙に手をかけている楓の手に自らの手を重ね、そっと握る。
「大丈夫。行こう」
その言葉と同時、燈里と楓はテープで貼り付けられただけの画用紙を、躊躇なく引き剥がした。
「――っ!?」
扉に手をかけた瞬間。
向こう側から、耳をつんざく女の悲鳴が響き渡った。
20250607 『夢見る少女のように』
暗い室内。
窓辺に座り外を見つめ、楓《かえで》は小さく息を吐いた。
雨の降り頻る外では雨と共に白の紫陽花が振り、地面を白で埋め尽くしている。今は姿の見えない行列も、やがて雨が上がれば訪れるのだろう。
これから先の選択をいくつか思い浮かべる。そのいくつかに燈里《あかり》を巻き込まなくてはいけない事に、楓は心底嫌そうに眉を寄せた。
室内に視線を向ける。翁面をつけたままの燈里は、俯き座り込んだまま微動だにしない。
強制的に心を眠らせているからだ。楓の本体ともいえる翁面をつけた今、燈里の記憶の片隅に存在する楓が燈里の精神を支配している。
だがいつまでもそのままという訳にもいかない。気乗りはしないが、燈里はこの先を自分で選択する権利があるのだから。
「燈里」
燈里の側に寄り、楓は膝をついて翁面ごと燈里の頬を包み込む。
「燈里」
眼を合わせ、名を呼ぶ。面越しの虚ろな目に、僅かに光が灯る。
「燈里には今、いくつか選択肢がある。このまま梅雨が終わるまで僕に守られているか。それともあの花婿と対峙するか」
優しく問いかければ、燈里の目が静かに瞬いた。
「――冬玄《かずとら》」
微かに呟く名に、楓は苦笑する。
「そうだね。じゃあ、あれを迎えに行くのも選択肢に追加しよう……燈里はどうしたい?怖いのなら、僕が代わりに行ってあげる。燈里の望むようにすればいいよ。僕は燈里の記憶の中に在る妖だ。君の望みにはすべて応えてあげる」
目が瞬く。幼子のように指先で楓の服の裾を掴む。
それが燈里の望みなのだろう。
悲しげに微笑んで、楓は翁面をゆっくりと外す。燈里の頬を伝い落ちる涙を拭い、囁いた。
「分かった。一緒に行こうか」
「ごめんなさい」
目を伏せる燈里の頭を、楓はそっと引き寄せる。胸に抱かれ、燈里はまた一筋涙を零した。
「あなたを苦しめるだけだって分かっているのに、忘れられない。それどころか、こうして望んでしまう……本当に、ごめんなさい」
何度も繰り返されるごめんなさいの言葉に、楓の目が愛しげに細められる。
徒に苦しませないよう、認識を歪め姉妹ごっこを続けてきたが、燈里の罪悪感がなくなる訳ではない。出会い、別れの時に楓が告げた、忘れろという言葉を叶えられない事を、優しい燈里は負い目に感じ続けている。
その言葉を告げた妖は、すでに気にしてはいないというのにも関わらず。
「それはもう気にしなくていいよ。僕はもう燈里を守るって決めたのだから……だから、今度からはもっと望んで?僕は燈里だけの妖だから、君にこうして望まれるのはとても心地がいい」
燈里の頭を撫でながら、楓は歌うように囁いた。
恐る恐る顔を上げる燈里に微笑んで、手を離して立ち上がる。楓の服を掴んだままの燈里の手をそっと解き、手を繋いだ。
「楓……?」
「明日の朝に出発するから、今から準備をしようか」
どこに、と尋ねる小さな声に、楓は首を傾げながら外へと視線を向けた。
楓から笑みが消える。燈里に向けていた慈しみは欠片もなく、ただ鋭さだけを湛えた目を外の複数の気配に向けた。
「あれが何なのか、燈里の調べた情報以上の事を僕は知らない。けど始まりはあの寺なんだ。それに伝承では、行列を見た者は寺の中で契りを交わすんだとあった……それなら行くべき場所はあの寺――祝縁寺《しゅくえんじ》だ」
そう言って、燈里へと視線を移す。ぼんやりと楓を見る目に、大丈夫だと微笑んだ。
繋いだ手を軽く引く。
「さあ行こう」
そう告げれば、燈里はゆっくりと頷き立ち上がった。
境内の脇に咲く紫陽花の千切れた花びらが、風に乗って空を舞う。
手慰みに紫陽花の花を千切っていた少女は、ふと何かに気づき、山門へと視線を向けた。
山門の前。二つの影が立っている。
姉妹だろうか。互いに手を繋ぎ、ゆっくりと境内へと入ってくる。姉らし女性が以前取材で来ていた事を思い出し、少女は二人へと向き直った。
「また来たの?無謀というか何というか」
呆れを滲ませて、少女は声をかける。しかし女性――燈里の堅い表情に、少女の表情にも険しさが滲んだ。
「何か訳ありか」
「あなたはこの寺の関係者ですか?」
不躾な質問ではあるが、それだけ相手には余裕がないのだろう。少女は眉を寄せ、首を振る。
「もう随分前から、この寺には誰もいない。管理を任されている人はいるけど、梅雨の時期には近づきもしないよ」
家を訪ねたとして、出てはこないだろう。
暗に少女に告げられ、妹らしき子供――楓の目が鋭さを増した。
「お寺の中に入りたいんだけど、お姉さんはどうすればいいか知ってる?」
「この中に入りたいの?という事は、誰か代わりに連れて行かれたんだ」
「どっかの阿呆が、余所の女に現を抜かしたんだよ」
思い出すだけで気に入らないと、楓は不機嫌に鼻を鳴らす。けれど少女は楓の言葉に、訝しげに眉を潜めた。
「花嫁?花婿じゃなくて?」
首を傾げて、記憶を巡らせる。ややあって、ああと何かに納得したように少女は一人頷いた。
「あれか。ここの噂を聞いて、辺りをうろついている中の誰かか」
「……随分詳しいんだね」
「まあね。ここって何もない寂れた村だし?他に行く場所がないから。ずっとここにいれば、それなりに分かるようになるよ」
肩を竦め少女は言う。
「それで、この中に入りたいんだっけ?ならついておいでよ。裏の仏堂に続く渡り廊下からなら入れるから……お姉さん達の目的があの行列に関してなら、本堂よりも仏堂に行った方がいいし」
「あ、あのっ!ありがとうございます」
慌てて深く頭を下げて礼を言う燈里に、少女は僅かに目を見張る。そしてくすくすと楽しそうに笑い声を上げた。
「お姉さんって真面目なんだね。あたしとそっくりなのに、そこは正反対だ」
そう言って、少女は真正面から燈里と向き合い。
「まだ自己紹介がまだだったね。あたしは結《ゆい》。齋《いつき》結だよ。よろしくね、お姉さん」
鏡映しのように同じ顔を見つめ、大仰に礼をしてみせた。
20250606 『さあ行こう』
梅雨の合間の青空の下。燈里《あかり》は楓《かえで》と手を繋ぎながら、久方振りの外出を楽しんでいた。
連日続く雨で出来た水たまりを避け、視界に入れないように視線を逸らす。水たまりを恐れる燈里とは対照的に、楓は楽しそうに水たまりを避けて燈里の手を引いた。
「おい。あまり離れるな」
少し遅れて歩く冬玄《かずとら》が声をかける。それに気のない返事をして、楓は表情の硬い燈里を見つめ声をかける。
「大丈夫?どこか、適当にお店に入ろうか」
気遣わしげな楓に、燈里は小さく笑い首を振る。無理をしているのが分かる、作った笑顔。眉を寄せた楓は、けれどすぐに笑顔を浮かべて、背後にいる冬玄に視線を向けながら指を差した。
「水たまりが怖いなら、お店に着くまでお兄ちゃんにお姫様抱っこで連れてってもらえばいいと思うな」
「楓っ!?」
突拍子もない楓の言葉に、燈里は悲鳴染みた声を上げる。
それ以上何かを言う前にと、慌てて止めようとする燈里であったが、それより早く体が抱き上げられた。
「ちょっ、冬玄!降ろしてっ」
「そんなに暴れると落ちるぞ」
抱き上げられた事ですぐ近くで冬玄の目と視線が合い、燈里の顔が真っ赤に染まっていく。慌てて周囲に視線を向け、偶然目が合った通行人が気まずげに視線を逸らして去っていくのを、燈里は泣きそうになりながら見つめた。
恥ずかしさで慌ててばかりの燈里とは対照的に、冬玄は周囲など欠片も気にする様子はない。涼しい顔で燈里を抱え直し、ゆっくりと歩き出した。
「良かったね、お姉ちゃん。これで水たまりなんか見えないもんね」
晴れやかに楓は笑い、足下の水たまりへと視線を落とす。青空を映して揺らぐ水面を一瞥して、二人を追って駆け出した。
「何だか雲行きが妖しいな」
出かけた時とは変わり、空の青は分厚く重い雲に覆われ出している。
手にした荷物を持ち直し、冬玄は横目で二人を確認した。燈里と楓。しっかりと繋がれている互いの手を見て、前を向き直る。二人を気にかけながら、少し前を歩き出した。
湿気を帯びた生ぬるい風が頬や腕を撫で過ぎていく感覚に、不快に眉を寄せる。周囲に視線を巡らせても、来た時とは違い、通行人の姿はどこにも見えなかった。
ぱしゃん。
どこかで水音がした。小さく肩を震わせる燈里の手を、楓は離れる事がないようにと強く握り直す。立ち止まりかけた燈里を促し、歩き続ける。
ぱしゃん。ぽちゃん。
あちらこちらから音がする。視界の隅に入り込む水たまりが、じわりじわりと色を変えていく。
曇天の灰の空から、暗い紺の空へと。雨を待つ昼間から、雨上がりの夜へと移り変わっていく。
「下を向いちゃ駄目だよ。顔を上げて、前だけを見てて」
楓の静かな声に、俯きそうになる顔を燈里は半ば無理矢理に上げた。震え立ち止まりそうになる足を叱咤して、楓に寄り添いながら家路を急ぐ。
太鼓の音が聞こえた。
打ち鳴らす太鼓に続いて、笙や笛の音が響き合う。
雅楽。燈里が以前寺で聞いた、厳かな音色。次第に近づき、それに合わせて複数の足音が聞こえ出す。
不意に前方を歩いていた冬玄が立ち止まる。それに合わせ燈里と楓も止まり、不安げに、訝しげにその背を見つめた。
「――本当にしつこいな」
低く呟く冬玄の足下で、水たまりが大きく揺らぐ。他のものとは違い、その水面に映しているのは曇天と冬玄。
そして、白無垢を着た一人の女。
声にならない悲鳴が燈里から漏れる。思わず冬玄へと近づこうとして、だがそれは楓に強く手を引かれて止まる。
楓を見れば、無言で首を振られる。近づく事で逆に足手まといになると理解して、燈里は唇を噛みしめながらも黙って冬玄を見つめた。
「そこまでして契る事に、何の意味があるんだか」
ゆっくりと近づく女に、冬玄の目が鋭くなる。両手に持っていた買い物袋を地面に置いて、背後の二人を庇うように立ち塞がる。
ぱしゃん、と小さな水音。水たまりが大きく揺らぎ、水面に白の紫陽花が浮かぶ。
たった一輪。だがその白を見下ろし、冬玄は何かに気づいて近づく花嫁を見た。
「ああ。燈里じゃなくて俺か」
無感情な呟き。その表情もまた能面のように。
身を屈めて、落ちた紫陽花を拾い上げる。冬玄が屈んだ事で女の姿をはっきりと見えて、その異様な姿に燈里は一歩後退った。
白無垢の半身が赤に染まっていた。近づく度に背後に赤の道を作るその女の右手には、ひび割れたスマホが握られている。
不自然に体を左右に揺らし、女は歩み寄ってくる。湿った土の匂いに混じり錆びた鉄の匂いが鼻腔を掠め、耐えきれず燈里は服の裾で鼻を覆った。
手を繋いだままの楓は動かない。紫陽花を拾い上げた冬玄も、無言のまま身じろぎ一つしない。込み上げる恐怖で視界が滲み出し、燈里は縋るように手を伸ばした。
「冬玄」
燈里のか細い声に反応して、冬玄の肩が小さく揺れる。静かに立ち上がり、花嫁を見据え。
「燈里」
名を呼んだ。
それは背後の燈里に向けられたものか、或いは目の前の女に対してか。
冬玄はそれ以上何も言わず。近づいた女が差し出す左手を受け入れるように手を伸ばした。
「冬玄っ!」
燈里の声に無言を貫き。女の元へ、水たまりの中へと足を踏み出して。
「っ、あの馬鹿」
「いやっ、冬玄。冬玄っ!」
燈里と楓の目の前で、その姿は水たまりの中へと音もなく沈んでいった。
「楓っ。お願い、離して!冬玄がっ!」
「燈里、いい子だからおとなしくして。無理だよ。あれはもうここにはいない」
「やだっ。いや、聞きたくない。お願い行かせてっ!」
半狂乱で冬玄の後を追おうとする燈里を止めながら、楓は険しい表情で視線を巡らせる。
女の姿はない。しかしまだ、雅楽の音と足音は聞こえている。
「まったく、あの馬鹿は面倒ばかり引き起こして!」
こぽり、と小さな音。辺りの水たまりから次々に浮かび上がる白の紫陽花に、楓は忌々しいとばかりに舌打ちした。
燈里と繋いでいる手とは逆の手を軽く振る。音もなく現れた翁の面を掴むと、燈里を強く引き寄せて涙に濡れる彼女の顔に面を被せた。
びくり、と燈里の体が震えて沈黙する。
「いい子。まずは家に帰るよ。いいね?」
動きを止めた燈里が楓の言葉に頷くのを見て、楓は彼女の手を引いて歩き出す。
水たまりを、そこに浮かぶ紫陽花を避け、雅楽の音色や足音から遠ざかるように急ぎながら。
足を止めぬまま、楓は背後を振り返った。遠ざかるそれを見遣り、纏う気配が鋭くなる。
白の旗。提灯を持つ子供。
花や香炉、供え物や霊膳を持った、喪服姿の人々が歩いていく。
葬列。だがその後に続くのは棺ではない。
黒紋付羽織袴を来た男。その男に朱傘を差し掛ける神職らしき男。
誰もが皆俯き、黙したまま。葬列でありがなら、参進の儀でもある行列が、燈里を追って進んでいく。
「冬玄」
か細い囁き。面の裏で静かに泣いている燈里に視線を向けて、楓は表情を和らげ繋いだ手に力を込める。
「大丈夫。あれは腐っても宮代《みやしろ》の守り神だ。最悪にはならないよ」
でも、と水たまりに浮かぶ紫陽花を見下ろし、楓は続ける。
「このまま梅雨明けを待ち続けるのは、確実ではないからね。あの馬鹿をそのままにしていても、燈里が悲しいだけだし……こちらから、出向く必要はあるかな」
目の前に、白の紫陽花が落ちた。
一つ、また一つと降る紫陽花は、しかし二人に届く前にすべてが赤い花びらへと変わる。
白が振り、赤が舞う家路を進みながら、楓は姿を消した冬玄を思い、顔を顰めて舌打ちした、
20250605 『水たまりに映る空』
窓の外。暗い夜空を、楓《かえで》は無感情に眺めていた。
まだ雨は降り続いている。窓を打つ滴が、透明な線を描いて地に落ちていく。
ぽとり。雨に紛れて何かが落ちた。窓に白を張り付かせ、暗い地面を白で覆い尽くしていく。
白の紫陽花。
中へ入り込もうと必死なそれらに、楓は煩わしげに眉を潜めた。
「諦めの悪い……しつこい男は嫌われるだけだろうに」
いつの間にか背後に佇んでいた冬玄《かずとら》が、窓に張り付く紫陽花の装飾花を見つめ吐き捨てた。
「まるで君のようだね。同族嫌悪?」
冬玄の言葉を楓は笑い、窓に視線を向けたまま問いかける。問われ、冬玄はあからさまに顔を顰め楓を睨めつけた。
「お前にだけは言われたくないな。しつこさならば、今も燈里《あかり》の中に居続けるお前の方が上だろうよ」
「燈里は優しいからね。僕を忘れる事が嫌なんだよ。燈里があの祭を覚えている限り、楓の最期を覚えている限りずっと僕はこのままだよ」
楓と冬玄。そして燈里を繋ぐいつかの祭を思い、楓は淡く微笑んだ。
燈里がまだ何も知らない学生であった頃。とある廃村で起きた祭に巻き込まれた事があった。人が絶えた事で終わったはずの祭。しかし廃村に足を踏み入れた無法者が残されていた記録を暴き、祭の話を広めた。終わっていたはずの祭は広まった話によって再び目覚め、かつて村で生きていた者の血を継ぐ燈里が巻き込まれた。
「忘れてしまえばいいだろうに。まあ、あれだけ怖い目にあったんだ。忘れられるはずもないか」
「忘れる事はないのだろうね。一人を手放し、多数が生きる……人間の業をあの子はちゃんと理解して、その上で楓を、僕を覚えていようとしているのだから」
楓という存在は、正しくは遠い昔に村で選ばれた少女の事だ。今燈里の妹としてここにいる楓は、広がった話に祭は続いているという人の認識に応えて目覚めた妖。燈里を選ばれた者として祭に引き込み、そして贄としようとした。
燈里によって否定された祭は崩壊し、妖ごと消えるはずであった。だが他でもない燈里によって、妖は記憶の中に留め置かれ受け入れられて、ここにいる。
害そうとしたモノと害されようとした者。燈里でなければ、こうした穏やかな関係は築かれる事はなかったのだろう。
「僕は燈里の事が好きだからね。それはきっと恋でも愛でもないいけれど、燈里を守るためなら手段を選ばないつもりではいるよ……君はどうだい、トウゲン様?」
「……その呼び名はやめろ」
楽しげに目を細めて笑う楓に、冬玄は嫌そうに顔を顰めてみせる。
「燈里が俺に冬玄である事を望んでいる限り、俺は冬玄だ。トウゲンでもなく、況してシキの北でもない」
シキの北。燈里の巻き込まれた祭を、本来司る妖。それがかつての冬玄だった。選ばれた娘を逃がし、祭の破綻の切っ掛けとなった北の面は、娘が逃げ延びた先でその一族の守り神として奉られた。
そして今、娘の子孫である燈里の婚約者として燈里の隣にいる。
「燈里と契りは結ばないのかい?そうすれば相手も諦めてくれるかもよ」
冬玄は何も答えない。婚約者と言えど、人と妖。所詮は真似事でしかない事を、冬玄は理解していた。
「いずれ燈里も夢から覚めるだろうよ。その時に契りなんざ結んでいたら、足かせになるだろう」
「君って本当に面倒だね。いつまでも覚めない夢を見させているのは、他でもない君自身じゃあないか。手を離すつもりがあるのなら、事ある毎に燈里の交友関係を狭めたりしないだろう。可哀想に、そのせいであの子は未だに恋人の一人も出来なかったんだから」
「……今は俺がいるのだから、必要ないだろう」
心底呆れたと言わんばかりに、楓は溜息を吐く。冬玄の矛盾ばかりの言動に、肩を竦めて頭を振った。
「君のその執着は何だろうね。恋か、愛か、それとも妖として望まれたいという本能か……どれであっても、気持ち悪い事には変わらないのだけれど」
「煩い。俺にだって分からん……だが燈里と同じ気持ちを返せればと。返したいとは思っている」
低く呟く冬玄の表情はどこか苦しげだ。
妖と人と。決して同一にはならない二つは、やはりどこまでも違うのだろう。
恋や愛などの感情が、妖である冬玄には分からない。分からないなりに燈里を思い、それが執着となっている。手を離さなければという理想と、誰にも渡したくないという衝動。その二つを抱え、不安定に佇む冬玄を楓は一瞥し、視線を窓の外へと向けた。
気づけば雨音が止んでいる。いつの間にか雨は上がったらしい。窓に張り付く花は一面を覆い、僅かにも外は見えはしない。
不意に風が窓を揺らした。張り付く花は風に剥がされ、次第にその数を減らしていく。
少しずつ、外が見えてくる。暗い夜の景色が露わになる。
「――随分と熱烈だね。あのままずっと待つつもりかな」
呟く楓の視線の先で、黒い影が佇んでいた。
黒の羽織。そして袴。俯いているためにその表情は分からないが、男が一人窓の外に立っている。
黒紋付羽織袴。それは花婿の正装だった。
「よほど燈里が気に入ったのかな?花婿本人が出てきてしまったよ」
「迷惑でしかないな。燈里には俺がいるのに、往生際の悪い」
戯ける楓に対して、冬玄は忌々しげに吐き捨てた。
随分と余裕がない。そんな冬玄を楽しげに、だが呆れを乗せて見遣りながら、楓は呟いた。
「あれの執着は何だと思う?恋か、愛か、それとも……さて、何だろうね」
問われて、冬玄の顔があからさまに歪む。楓と同じように花婿に視線を向け、くだらないと吐き捨てた。
「ただの未練だろう?考えるまでもない……考える事すら虫唾が走る」
今にも襲いかからんばかりの鋭い目をして花婿を見据える冬玄に、楓は小さく息を吐く。これ以上は本当に外に飛び出して行きかねないと、カーテンに手を伸ばした。
その手が止まる。花婿よりも背後。小さく白の影が見えた。
目を凝らす。その姿を認めて、思わず楓は眉を潜めた。
「――花嫁?」
「どうした?」
沈黙する楓に、冬玄は訝しげに窓の外を覗き。
「増えてるな。花嫁まで来るとは」
遠く見える、白無垢を着て俯く女の姿に嘆息し、これ以上は見たくもないとカーテンを引いた。
20250604 『恋か、愛か、それとも』