梅雨の合間の青空の下。燈里《あかり》は楓《かえで》と手を繋ぎながら、久方振りの外出を楽しんでいた。
連日続く雨で出来た水たまりを避け、視界に入れないように視線を逸らす。水たまりを恐れる燈里とは対照的に、楓は楽しそうに水たまりを避けて燈里の手を引いた。
「おい。あまり離れるな」
少し遅れて歩く冬玄《かずとら》が声をかける。それに気のない返事をして、楓は表情の硬い燈里を見つめ声をかける。
「大丈夫?どこか、適当にお店に入ろうか」
気遣わしげな楓に、燈里は小さく笑い首を振る。無理をしているのが分かる、作った笑顔。眉を寄せた楓は、けれどすぐに笑顔を浮かべて、背後にいる冬玄に視線を向けながら指を差した。
「水たまりが怖いなら、お店に着くまでお兄ちゃんにお姫様抱っこで連れてってもらえばいいと思うな」
「楓っ!?」
突拍子もない楓の言葉に、燈里は悲鳴染みた声を上げる。
それ以上何かを言う前にと、慌てて止めようとする燈里であったが、それより早く体が抱き上げられた。
「ちょっ、冬玄!降ろしてっ」
「そんなに暴れると落ちるぞ」
抱き上げられた事ですぐ近くで冬玄の目と視線が合い、燈里の顔が真っ赤に染まっていく。慌てて周囲に視線を向け、偶然目が合った通行人が気まずげに視線を逸らして去っていくのを、燈里は泣きそうになりながら見つめた。
恥ずかしさで慌ててばかりの燈里とは対照的に、冬玄は周囲など欠片も気にする様子はない。涼しい顔で燈里を抱え直し、ゆっくりと歩き出した。
「良かったね、お姉ちゃん。これで水たまりなんか見えないもんね」
晴れやかに楓は笑い、足下の水たまりへと視線を落とす。青空を映して揺らぐ水面を一瞥して、二人を追って駆け出した。
「何だか雲行きが妖しいな」
出かけた時とは変わり、空の青は分厚く重い雲に覆われ出している。
手にした荷物を持ち直し、冬玄は横目で二人を確認した。燈里と楓。しっかりと繋がれている互いの手を見て、前を向き直る。二人を気にかけながら、少し前を歩き出した。
湿気を帯びた生ぬるい風が頬や腕を撫で過ぎていく感覚に、不快に眉を寄せる。周囲に視線を巡らせても、来た時とは違い、通行人の姿はどこにも見えなかった。
ぱしゃん。
どこかで水音がした。小さく肩を震わせる燈里の手を、楓は離れる事がないようにと強く握り直す。立ち止まりかけた燈里を促し、歩き続ける。
ぱしゃん。ぽちゃん。
あちらこちらから音がする。視界の隅に入り込む水たまりが、じわりじわりと色を変えていく。
曇天の灰の空から、暗い紺の空へと。雨を待つ昼間から、雨上がりの夜へと移り変わっていく。
「下を向いちゃ駄目だよ。顔を上げて、前だけを見てて」
楓の静かな声に、俯きそうになる顔を燈里は半ば無理矢理に上げた。震え立ち止まりそうになる足を叱咤して、楓に寄り添いながら家路を急ぐ。
太鼓の音が聞こえた。
打ち鳴らす太鼓に続いて、笙や笛の音が響き合う。
雅楽。燈里が以前寺で聞いた、厳かな音色。次第に近づき、それに合わせて複数の足音が聞こえ出す。
不意に前方を歩いていた冬玄が立ち止まる。それに合わせ燈里と楓も止まり、不安げに、訝しげにその背を見つめた。
「――本当にしつこいな」
低く呟く冬玄の足下で、水たまりが大きく揺らぐ。他のものとは違い、その水面に映しているのは曇天と冬玄。
そして、白無垢を着た一人の女。
声にならない悲鳴が燈里から漏れる。思わず冬玄へと近づこうとして、だがそれは楓に強く手を引かれて止まる。
楓を見れば、無言で首を振られる。近づく事で逆に足手まといになると理解して、燈里は唇を噛みしめながらも黙って冬玄を見つめた。
「そこまでして契る事に、何の意味があるんだか」
ゆっくりと近づく女に、冬玄の目が鋭くなる。両手に持っていた買い物袋を地面に置いて、背後の二人を庇うように立ち塞がる。
ぱしゃん、と小さな水音。水たまりが大きく揺らぎ、水面に白の紫陽花が浮かぶ。
たった一輪。だがその白を見下ろし、冬玄は何かに気づいて近づく花嫁を見た。
「ああ。燈里じゃなくて俺か」
無感情な呟き。その表情もまた能面のように。
身を屈めて、落ちた紫陽花を拾い上げる。冬玄が屈んだ事で女の姿をはっきりと見えて、その異様な姿に燈里は一歩後退った。
白無垢の半身が赤に染まっていた。近づく度に背後に赤の道を作るその女の右手には、ひび割れたスマホが握られている。
不自然に体を左右に揺らし、女は歩み寄ってくる。湿った土の匂いに混じり錆びた鉄の匂いが鼻腔を掠め、耐えきれず燈里は服の裾で鼻を覆った。
手を繋いだままの楓は動かない。紫陽花を拾い上げた冬玄も、無言のまま身じろぎ一つしない。込み上げる恐怖で視界が滲み出し、燈里は縋るように手を伸ばした。
「冬玄」
燈里のか細い声に反応して、冬玄の肩が小さく揺れる。静かに立ち上がり、花嫁を見据え。
「燈里」
名を呼んだ。
それは背後の燈里に向けられたものか、或いは目の前の女に対してか。
冬玄はそれ以上何も言わず。近づいた女が差し出す左手を受け入れるように手を伸ばした。
「冬玄っ!」
燈里の声に無言を貫き。女の元へ、水たまりの中へと足を踏み出して。
「っ、あの馬鹿」
「いやっ、冬玄。冬玄っ!」
燈里と楓の目の前で、その姿は水たまりの中へと音もなく沈んでいった。
「楓っ。お願い、離して!冬玄がっ!」
「燈里、いい子だからおとなしくして。無理だよ。あれはもうここにはいない」
「やだっ。いや、聞きたくない。お願い行かせてっ!」
半狂乱で冬玄の後を追おうとする燈里を止めながら、楓は険しい表情で視線を巡らせる。
女の姿はない。しかしまだ、雅楽の音と足音は聞こえている。
「まったく、あの馬鹿は面倒ばかり引き起こして!」
こぽり、と小さな音。辺りの水たまりから次々に浮かび上がる白の紫陽花に、楓は忌々しいとばかりに舌打ちした。
燈里と繋いでいる手とは逆の手を軽く振る。音もなく現れた翁の面を掴むと、燈里を強く引き寄せて涙に濡れる彼女の顔に面を被せた。
びくり、と燈里の体が震えて沈黙する。
「いい子。まずは家に帰るよ。いいね?」
動きを止めた燈里が楓の言葉に頷くのを見て、楓は彼女の手を引いて歩き出す。
水たまりを、そこに浮かぶ紫陽花を避け、雅楽の音色や足音から遠ざかるように急ぎながら。
足を止めぬまま、楓は背後を振り返った。遠ざかるそれを見遣り、纏う気配が鋭くなる。
白の旗。提灯を持つ子供。
花や香炉、供え物や霊膳を持った、喪服姿の人々が歩いていく。
葬列。だがその後に続くのは棺ではない。
黒紋付羽織袴を来た男。その男に朱傘を差し掛ける神職らしき男。
誰もが皆俯き、黙したまま。葬列でありがなら、参進の儀でもある行列が、燈里を追って進んでいく。
「冬玄」
か細い囁き。面の裏で静かに泣いている燈里に視線を向けて、楓は表情を和らげ繋いだ手に力を込める。
「大丈夫。あれは腐っても宮代《みやしろ》の守り神だ。最悪にはならないよ」
でも、と水たまりに浮かぶ紫陽花を見下ろし、楓は続ける。
「このまま梅雨明けを待ち続けるのは、確実ではないからね。あの馬鹿をそのままにしていても、燈里が悲しいだけだし……こちらから、出向く必要はあるかな」
目の前に、白の紫陽花が落ちた。
一つ、また一つと降る紫陽花は、しかし二人に届く前にすべてが赤い花びらへと変わる。
白が振り、赤が舞う家路を進みながら、楓は姿を消した冬玄を思い、顔を顰めて舌打ちした、
20250605 『水たまりに映る空』
6/6/2025, 8:44:26 AM