窓の外。暗い夜空を、楓《かえで》は無感情に眺めていた。
まだ雨は降り続いている。窓を打つ滴が、透明な線を描いて地に落ちていく。
ぽとり。雨に紛れて何かが落ちた。窓に白を張り付かせ、暗い地面を白で覆い尽くしていく。
白の紫陽花。
中へ入り込もうと必死なそれらに、楓は煩わしげに眉を潜めた。
「諦めの悪い……しつこい男は嫌われるだけだろうに」
いつの間にか背後に佇んでいた冬玄《かずとら》が、窓に張り付く紫陽花の装飾花を見つめ吐き捨てた。
「まるで君のようだね。同族嫌悪?」
冬玄の言葉を楓は笑い、窓に視線を向けたまま問いかける。問われ、冬玄はあからさまに顔を顰め楓を睨めつけた。
「お前にだけは言われたくないな。しつこさならば、今も燈里《あかり》の中に居続けるお前の方が上だろうよ」
「燈里は優しいからね。僕を忘れる事が嫌なんだよ。燈里があの祭を覚えている限り、楓の最期を覚えている限りずっと僕はこのままだよ」
楓と冬玄。そして燈里を繋ぐいつかの祭を思い、楓は淡く微笑んだ。
燈里がまだ何も知らない学生であった頃。とある廃村で起きた祭に巻き込まれた事があった。人が絶えた事で終わったはずの祭。しかし廃村に足を踏み入れた無法者が残されていた記録を暴き、祭の話を広めた。終わっていたはずの祭は広まった話によって再び目覚め、かつて村で生きていた者の血を継ぐ燈里が巻き込まれた。
「忘れてしまえばいいだろうに。まあ、あれだけ怖い目にあったんだ。忘れられるはずもないか」
「忘れる事はないのだろうね。一人を手放し、多数が生きる……人間の業をあの子はちゃんと理解して、その上で楓を、僕を覚えていようとしているのだから」
楓という存在は、正しくは遠い昔に村で選ばれた少女の事だ。今燈里の妹としてここにいる楓は、広がった話に祭は続いているという人の認識に応えて目覚めた妖。燈里を選ばれた者として祭に引き込み、そして贄としようとした。
燈里によって否定された祭は崩壊し、妖ごと消えるはずであった。だが他でもない燈里によって、妖は記憶の中に留め置かれ受け入れられて、ここにいる。
害そうとしたモノと害されようとした者。燈里でなければ、こうした穏やかな関係は築かれる事はなかったのだろう。
「僕は燈里の事が好きだからね。それはきっと恋でも愛でもないいけれど、燈里を守るためなら手段を選ばないつもりではいるよ……君はどうだい、トウゲン様?」
「……その呼び名はやめろ」
楽しげに目を細めて笑う楓に、冬玄は嫌そうに顔を顰めてみせる。
「燈里が俺に冬玄である事を望んでいる限り、俺は冬玄だ。トウゲンでもなく、況してシキの北でもない」
シキの北。燈里の巻き込まれた祭を、本来司る妖。それがかつての冬玄だった。選ばれた娘を逃がし、祭の破綻の切っ掛けとなった北の面は、娘が逃げ延びた先でその一族の守り神として奉られた。
そして今、娘の子孫である燈里の婚約者として燈里の隣にいる。
「燈里と契りは結ばないのかい?そうすれば相手も諦めてくれるかもよ」
冬玄は何も答えない。婚約者と言えど、人と妖。所詮は真似事でしかない事を、冬玄は理解していた。
「いずれ燈里も夢から覚めるだろうよ。その時に契りなんざ結んでいたら、足かせになるだろう」
「君って本当に面倒だね。いつまでも覚めない夢を見させているのは、他でもない君自身じゃあないか。手を離すつもりがあるのなら、事ある毎に燈里の交友関係を狭めたりしないだろう。可哀想に、そのせいであの子は未だに恋人の一人も出来なかったんだから」
「……今は俺がいるのだから、必要ないだろう」
心底呆れたと言わんばかりに、楓は溜息を吐く。冬玄の矛盾ばかりの言動に、肩を竦めて頭を振った。
「君のその執着は何だろうね。恋か、愛か、それとも妖として望まれたいという本能か……どれであっても、気持ち悪い事には変わらないのだけれど」
「煩い。俺にだって分からん……だが燈里と同じ気持ちを返せればと。返したいとは思っている」
低く呟く冬玄の表情はどこか苦しげだ。
妖と人と。決して同一にはならない二つは、やはりどこまでも違うのだろう。
恋や愛などの感情が、妖である冬玄には分からない。分からないなりに燈里を思い、それが執着となっている。手を離さなければという理想と、誰にも渡したくないという衝動。その二つを抱え、不安定に佇む冬玄を楓は一瞥し、視線を窓の外へと向けた。
気づけば雨音が止んでいる。いつの間にか雨は上がったらしい。窓に張り付く花は一面を覆い、僅かにも外は見えはしない。
不意に風が窓を揺らした。張り付く花は風に剥がされ、次第にその数を減らしていく。
少しずつ、外が見えてくる。暗い夜の景色が露わになる。
「――随分と熱烈だね。あのままずっと待つつもりかな」
呟く楓の視線の先で、黒い影が佇んでいた。
黒の羽織。そして袴。俯いているためにその表情は分からないが、男が一人窓の外に立っている。
黒紋付羽織袴。それは花婿の正装だった。
「よほど燈里が気に入ったのかな?花婿本人が出てきてしまったよ」
「迷惑でしかないな。燈里には俺がいるのに、往生際の悪い」
戯ける楓に対して、冬玄は忌々しげに吐き捨てた。
随分と余裕がない。そんな冬玄を楽しげに、だが呆れを乗せて見遣りながら、楓は呟いた。
「あれの執着は何だと思う?恋か、愛か、それとも……さて、何だろうね」
問われて、冬玄の顔があからさまに歪む。楓と同じように花婿に視線を向け、くだらないと吐き捨てた。
「ただの未練だろう?考えるまでもない……考える事すら虫唾が走る」
今にも襲いかからんばかりの鋭い目をして花婿を見据える冬玄に、楓は小さく息を吐く。これ以上は本当に外に飛び出して行きかねないと、カーテンに手を伸ばした。
その手が止まる。花婿よりも背後。小さく白の影が見えた。
目を凝らす。その姿を認めて、思わず楓は眉を潜めた。
「――花嫁?」
「どうした?」
沈黙する楓に、冬玄は訝しげに窓の外を覗き。
「増えてるな。花嫁まで来るとは」
遠く見える、白無垢を着て俯く女の姿に嘆息し、これ以上は見たくもないとカーテンを引いた。
20250604 『恋か、愛か、それとも』
6/5/2025, 11:25:35 AM