いつか夢は叶うものだと、誰もが歌っていた。
例えばクラスの冴えない女子が、ある日突然とある御曹司に告白されるように。
例えば一人ぼっちの寂しい女の子が、神様に愛されて幸せな日々を過ごすように。
例えば家族に虐げられたお姫様が、隣国の王子様と結婚するように。
物語の最後は、必ずめでたしめでたしで終わるのだ。
つまらない人生だった。
平凡な両親から生まれた、平凡な自分。
不細工ではなかったけれど、特に可愛い訳でもなかった。
クラスに馴染めずに、いつも一人きり。物語の中の世界が、唯一の居場所だった。
夢は叶うものだと、誰もが言っている。
ならば、この夢もいつか叶うだろう。
今のこの平凡でつまらない日々から連れ去ってくれるような、素敵な誰かと結婚をするのだ。
本当につまらない人生だった。
あっという間。眩しいヘッドライトと衝撃。
気づけば、一人ぼっち。手にしていたスマホは画面が粉々に割れて、好きだった物語の続きも読めない。誰にも気づいてもらえず、何もかもが終わってしまった。
夢は叶うと言っていたはずなのに、何一つ思い通りにはなっていない。
そう言えば、と思い出す。
雨上がりの夜。どこかの村で、花婿が花嫁を求めているらしい。それを見る事が出来れば、その人と結婚する事が出来るという。
ならば会いに行こう。本当ならば迎えに来てほしかったけれど、仕方がない。
そうして見つけた花婿は、でも一人の女性を追いかけて、私にはちっとも気づかない。
諦めきれなくて追いかけた先。花婿よりもとっても素敵な人に出会った。
彼女だろうか。花婿が追いかける女性の隣にいる綺麗な顔をした男性《ひと》。
やっぱり夢は叶うのだ。
女性は花婿と結婚する。それなら一人になる彼と、私が結婚すれば良い。
花婿の真似をして降らせた紫陽花の花を、彼は受け取ってくれた。
嬉しくて手を伸ばす。彼も同じように手を差し出した。
後は、祝縁寺で式を挙げるだけ。
「お姉ちゃんっ!」
楓《かえで》の声に、燈里《あかり》ははっとしたように顔を上げた。
寺の渡り廊下。仏堂の入口らしき黒塗りの扉に手をかける結《ゆい》の背を見ながら、燈里は詰めていた息を吐き出した。
遅れて襲う動悸に、胸を押さえて蹲る。楓に背をさすられながら、今し方過ぎていった誰かの記憶を燈里はただ漠然と思い返した。
まるで夢見る少女のような、拙くどこまでも他人任せな思い。独りよがりな感情が渦を巻いているようで、息苦しい。
「どうしたの?気分が悪いなら、無理せず今日は戻った方がいいと思うけど」
「だ、い、じょうぶ、です」
扉から手を離し振り返る結に、燈里は首を振る。何度か深く息を吐いて、ふらつきながらも立ち上がった。
「ここまで来て、今更戻れません……行かないと」
「そう?じゃあ開けるけど」
そう言って、結は扉へと向き直る。細い手が扉に掛かり、ゆっくりと開いていく。
暗い室内に外からもたらされた光が差し込み、露わになった異様な内部に、燈里は目を見張り息を呑んだ。
「これって……もしかして、この寺は」
仏堂と呼ばれながらも、そこには仏像が安置されていない。
何もない、板張りの部屋。だが代わりに、壁に掛けられた無数の絵が、ここがただの寺ではないのだと言葉なく告げていた。
「祝言絵図か。それもかなり古くから」
祝言を挙げた花婿と花嫁を描いたらしき絵図。
三方の壁を埋め尽くすほど、無数に飾られた絵を見渡しながら、楓は目を細め呟いた。
「しかもただの絵図じゃない。片方は未婚の死者を描いているね。祝縁寺とはよく言ったもんだ」
「幽婚……だから参進の儀でありながら、葬列」
「かなり前から描かなくなったけどね。ま、描いた所でもう飾る場所はないけどさ」
仏堂の隅に置かれた燭台に火を灯しながら、結は肩を竦めてみせる。呆然と絵図を見つめる燈里に近づき肩を叩くと、正面の壁を指差した。
「絵に覆われてるけど、この先にも部屋があるんだよ。たぶん、いるとしたらそこじゃない?」
結の指差す方へ視線を向ける燈里に、結は笑って頑張ってと声をかける。
踵を返し外へと向かい、だが入口で立ち止まると振り返る。
「あたしはもう帰るけど。もしここの今の管理者に話が聞きたいのなら、石段下りて最初の、ぽつんと建ってる小さな家に行くといいよ。出てきてくれるかは知らないけど」
「あ、ありがとうっ!」
それだけを告げ、今度こそ結は去って行く。その背に燈里は慌てて礼を言えば、返事代わりに手を振り。
結の姿が見えなくなるとほぼ同時。仏堂の扉が、音もなく閉まった。
「おっと、閉じ込められたみたいだ」
閉まる扉を一瞥して、楓は燈里に視線を向ける。
閉じ込められたという割に、焦る様子は見られない。燈里もまた取り乱す事なく扉を見つめ、そして正面の壁へと視線を移した。
「戻り道は、全部終わってから考えればいい。今は先に進まないと」
小さく呟いて、壁へと近づく。
遠目からでは分からなかったが、下方に小さな扉があるようだ。飾られている絵図が収まる額を、ひとつひとつ丁寧に外していく。
そのひとつを手にし、燈里は眉を潜めた。
「何だい、これは?」
隣で同じように額をよけていた楓が、燈里の手元ののぞき込み、同じように眉を寄せる。
「花嫁が真っ黒だね。よっぽど腹に据えかねていたのかな」
呆れたような楓に何も言わず、燈里は額を指先でなぞる。
花婿と花嫁が描かれた祝言絵図。しかし、その一枚だけは、花嫁の姿だけが黒く念入りに塗り潰されていた。
「幽婚は祖霊祭祀や、残された人々の慰めとして行われる、大切なものなのに」
かつて家を単位としていた頃の古い祖霊祭祀では、祝言を挙げ子孫を残す前に亡くなった霊は、酷く曖昧な存在だった。そのままでは無縁仏や荒霊になりやすいと恐れられ、故に幽婚や冥婚と呼ばれる、死後婚を行う事で防いでいた。
仏堂に飾られた、この無数の祝言絵図も幽婚の一種だ。未婚のままで亡くなった者のために、架空の花婿や花嫁を描いて奉納されたのだろう。
子を失った家族の嘆き。せめて婚礼を上げさせたいという、親のささやかな願い。
この絵を描いた残された者を思い、燈里は悲しげに目を伏せる。
「死者と生者を契らせる事は、人間にとっての禁忌だからね……でも残された者にとっては、それが許せなくなる事もあるものさ」
燈里の背を撫で、楓は額を取り上げた。
「それよりも、早くあれを見つけないと。燈里がさっき視たのがあれを連れて行ったやつなら、とてもよろしくない事が起きる予感がするよ」
「よろしくない事?」
「あれは燈里が絡むと、気持ち悪いくらい阿呆になるから」
大仰に肩を竦めて額を置く。残る最後の一枚を見て、可哀想にと微かに独り言ちながら手をかける。
それは、他の絵図とは明らかに違っていた。画用紙に描かれた、子供のような筆致の絵。可愛らしくデフォルメされた笑顔の花嫁と花婿が、余計に異様さを際立たせていた。
「この先にいるね……燈里。怖いなら、下がっておいで」
楓の優しい言葉に、燈里は笑って首を振った。画用紙に手をかけている楓の手に自らの手を重ね、そっと握る。
「大丈夫。行こう」
その言葉と同時、燈里と楓はテープで貼り付けられただけの画用紙を、躊躇なく引き剥がした。
「――っ!?」
扉に手をかけた瞬間。
向こう側から、耳をつんざく女の悲鳴が響き渡った。
20250607 『夢見る少女のように』
暗い室内。
窓辺に座り外を見つめ、楓《かえで》は小さく息を吐いた。
雨の降り頻る外では雨と共に白の紫陽花が振り、地面を白で埋め尽くしている。今は姿の見えない行列も、やがて雨が上がれば訪れるのだろう。
これから先の選択をいくつか思い浮かべる。そのいくつかに燈里《あかり》を巻き込まなくてはいけない事に、楓は心底嫌そうに眉を寄せた。
室内に視線を向ける。翁面をつけたままの燈里は、俯き座り込んだまま微動だにしない。
強制的に心を眠らせているからだ。楓の本体ともいえる翁面をつけた今、燈里の記憶の片隅に存在する楓が燈里の精神を支配している。
だがいつまでもそのままという訳にもいかない。気乗りはしないが、燈里はこの先を自分で選択する権利があるのだから。
「燈里」
燈里の側に寄り、楓は膝をついて翁面ごと燈里の頬を包み込む。
「燈里」
眼を合わせ、名を呼ぶ。面越しの虚ろな目に、僅かに光が灯る。
「燈里には今、いくつか選択肢がある。このまま梅雨が終わるまで僕に守られているか。それともあの花婿と対峙するか」
優しく問いかければ、燈里の目が静かに瞬いた。
「――冬玄《かずとら》」
微かに呟く名に、楓は苦笑する。
「そうだね。じゃあ、あれを迎えに行くのも選択肢に追加しよう……燈里はどうしたい?怖いのなら、僕が代わりに行ってあげる。燈里の望むようにすればいいよ。僕は燈里の記憶の中に在る妖だ。君の望みにはすべて応えてあげる」
目が瞬く。幼子のように指先で楓の服の裾を掴む。
それが燈里の望みなのだろう。
悲しげに微笑んで、楓は翁面をゆっくりと外す。燈里の頬を伝い落ちる涙を拭い、囁いた。
「分かった。一緒に行こうか」
「ごめんなさい」
目を伏せる燈里の頭を、楓はそっと引き寄せる。胸に抱かれ、燈里はまた一筋涙を零した。
「あなたを苦しめるだけだって分かっているのに、忘れられない。それどころか、こうして望んでしまう……本当に、ごめんなさい」
何度も繰り返されるごめんなさいの言葉に、楓の目が愛しげに細められる。
徒に苦しませないよう、認識を歪め姉妹ごっこを続けてきたが、燈里の罪悪感がなくなる訳ではない。出会い、別れの時に楓が告げた、忘れろという言葉を叶えられない事を、優しい燈里は負い目に感じ続けている。
その言葉を告げた妖は、すでに気にしてはいないというのにも関わらず。
「それはもう気にしなくていいよ。僕はもう燈里を守るって決めたのだから……だから、今度からはもっと望んで?僕は燈里だけの妖だから、君にこうして望まれるのはとても心地がいい」
燈里の頭を撫でながら、楓は歌うように囁いた。
恐る恐る顔を上げる燈里に微笑んで、手を離して立ち上がる。楓の服を掴んだままの燈里の手をそっと解き、手を繋いだ。
「楓……?」
「明日の朝に出発するから、今から準備をしようか」
どこに、と尋ねる小さな声に、楓は首を傾げながら外へと視線を向けた。
楓から笑みが消える。燈里に向けていた慈しみは欠片もなく、ただ鋭さだけを湛えた目を外の複数の気配に向けた。
「あれが何なのか、燈里の調べた情報以上の事を僕は知らない。けど始まりはあの寺なんだ。それに伝承では、行列を見た者は寺の中で契りを交わすんだとあった……それなら行くべき場所はあの寺――祝縁寺《しゅくえんじ》だ」
そう言って、燈里へと視線を移す。ぼんやりと楓を見る目に、大丈夫だと微笑んだ。
繋いだ手を軽く引く。
「さあ行こう」
そう告げれば、燈里はゆっくりと頷き立ち上がった。
境内の脇に咲く紫陽花の千切れた花びらが、風に乗って空を舞う。
手慰みに紫陽花の花を千切っていた少女は、ふと何かに気づき、山門へと視線を向けた。
山門の前。二つの影が立っている。
姉妹だろうか。互いに手を繋ぎ、ゆっくりと境内へと入ってくる。姉らし女性が以前取材で来ていた事を思い出し、少女は二人へと向き直った。
「また来たの?無謀というか何というか」
呆れを滲ませて、少女は声をかける。しかし女性――燈里の堅い表情に、少女の表情にも険しさが滲んだ。
「何か訳ありか」
「あなたはこの寺の関係者ですか?」
不躾な質問ではあるが、それだけ相手には余裕がないのだろう。少女は眉を寄せ、首を振る。
「もう随分前から、この寺には誰もいない。管理を任されている人はいるけど、梅雨の時期には近づきもしないよ」
家を訪ねたとして、出てはこないだろう。
暗に少女に告げられ、妹らしき子供――楓の目が鋭さを増した。
「お寺の中に入りたいんだけど、お姉さんはどうすればいいか知ってる?」
「この中に入りたいの?という事は、誰か代わりに連れて行かれたんだ」
「どっかの阿呆が、余所の女に現を抜かしたんだよ」
思い出すだけで気に入らないと、楓は不機嫌に鼻を鳴らす。けれど少女は楓の言葉に、訝しげに眉を潜めた。
「花嫁?花婿じゃなくて?」
首を傾げて、記憶を巡らせる。ややあって、ああと何かに納得したように少女は一人頷いた。
「あれか。ここの噂を聞いて、辺りをうろついている中の誰かか」
「……随分詳しいんだね」
「まあね。ここって何もない寂れた村だし?他に行く場所がないから。ずっとここにいれば、それなりに分かるようになるよ」
肩を竦め少女は言う。
「それで、この中に入りたいんだっけ?ならついておいでよ。裏の仏堂に続く渡り廊下からなら入れるから……お姉さん達の目的があの行列に関してなら、本堂よりも仏堂に行った方がいいし」
「あ、あのっ!ありがとうございます」
慌てて深く頭を下げて礼を言う燈里に、少女は僅かに目を見張る。そしてくすくすと楽しそうに笑い声を上げた。
「お姉さんって真面目なんだね。あたしとそっくりなのに、そこは正反対だ」
そう言って、少女は真正面から燈里と向き合い。
「まだ自己紹介がまだだったね。あたしは結《ゆい》。齋《いつき》結だよ。よろしくね、お姉さん」
鏡映しのように同じ顔を見つめ、大仰に礼をしてみせた。
20250606 『さあ行こう』
梅雨の合間の青空の下。燈里《あかり》は楓《かえで》と手を繋ぎながら、久方振りの外出を楽しんでいた。
連日続く雨で出来た水たまりを避け、視界に入れないように視線を逸らす。水たまりを恐れる燈里とは対照的に、楓は楽しそうに水たまりを避けて燈里の手を引いた。
「おい。あまり離れるな」
少し遅れて歩く冬玄《かずとら》が声をかける。それに気のない返事をして、楓は表情の硬い燈里を見つめ声をかける。
「大丈夫?どこか、適当にお店に入ろうか」
気遣わしげな楓に、燈里は小さく笑い首を振る。無理をしているのが分かる、作った笑顔。眉を寄せた楓は、けれどすぐに笑顔を浮かべて、背後にいる冬玄に視線を向けながら指を差した。
「水たまりが怖いなら、お店に着くまでお兄ちゃんにお姫様抱っこで連れてってもらえばいいと思うな」
「楓っ!?」
突拍子もない楓の言葉に、燈里は悲鳴染みた声を上げる。
それ以上何かを言う前にと、慌てて止めようとする燈里であったが、それより早く体が抱き上げられた。
「ちょっ、冬玄!降ろしてっ」
「そんなに暴れると落ちるぞ」
抱き上げられた事ですぐ近くで冬玄の目と視線が合い、燈里の顔が真っ赤に染まっていく。慌てて周囲に視線を向け、偶然目が合った通行人が気まずげに視線を逸らして去っていくのを、燈里は泣きそうになりながら見つめた。
恥ずかしさで慌ててばかりの燈里とは対照的に、冬玄は周囲など欠片も気にする様子はない。涼しい顔で燈里を抱え直し、ゆっくりと歩き出した。
「良かったね、お姉ちゃん。これで水たまりなんか見えないもんね」
晴れやかに楓は笑い、足下の水たまりへと視線を落とす。青空を映して揺らぐ水面を一瞥して、二人を追って駆け出した。
「何だか雲行きが妖しいな」
出かけた時とは変わり、空の青は分厚く重い雲に覆われ出している。
手にした荷物を持ち直し、冬玄は横目で二人を確認した。燈里と楓。しっかりと繋がれている互いの手を見て、前を向き直る。二人を気にかけながら、少し前を歩き出した。
湿気を帯びた生ぬるい風が頬や腕を撫で過ぎていく感覚に、不快に眉を寄せる。周囲に視線を巡らせても、来た時とは違い、通行人の姿はどこにも見えなかった。
ぱしゃん。
どこかで水音がした。小さく肩を震わせる燈里の手を、楓は離れる事がないようにと強く握り直す。立ち止まりかけた燈里を促し、歩き続ける。
ぱしゃん。ぽちゃん。
あちらこちらから音がする。視界の隅に入り込む水たまりが、じわりじわりと色を変えていく。
曇天の灰の空から、暗い紺の空へと。雨を待つ昼間から、雨上がりの夜へと移り変わっていく。
「下を向いちゃ駄目だよ。顔を上げて、前だけを見てて」
楓の静かな声に、俯きそうになる顔を燈里は半ば無理矢理に上げた。震え立ち止まりそうになる足を叱咤して、楓に寄り添いながら家路を急ぐ。
太鼓の音が聞こえた。
打ち鳴らす太鼓に続いて、笙や笛の音が響き合う。
雅楽。燈里が以前寺で聞いた、厳かな音色。次第に近づき、それに合わせて複数の足音が聞こえ出す。
不意に前方を歩いていた冬玄が立ち止まる。それに合わせ燈里と楓も止まり、不安げに、訝しげにその背を見つめた。
「――本当にしつこいな」
低く呟く冬玄の足下で、水たまりが大きく揺らぐ。他のものとは違い、その水面に映しているのは曇天と冬玄。
そして、白無垢を着た一人の女。
声にならない悲鳴が燈里から漏れる。思わず冬玄へと近づこうとして、だがそれは楓に強く手を引かれて止まる。
楓を見れば、無言で首を振られる。近づく事で逆に足手まといになると理解して、燈里は唇を噛みしめながらも黙って冬玄を見つめた。
「そこまでして契る事に、何の意味があるんだか」
ゆっくりと近づく女に、冬玄の目が鋭くなる。両手に持っていた買い物袋を地面に置いて、背後の二人を庇うように立ち塞がる。
ぱしゃん、と小さな水音。水たまりが大きく揺らぎ、水面に白の紫陽花が浮かぶ。
たった一輪。だがその白を見下ろし、冬玄は何かに気づいて近づく花嫁を見た。
「ああ。燈里じゃなくて俺か」
無感情な呟き。その表情もまた能面のように。
身を屈めて、落ちた紫陽花を拾い上げる。冬玄が屈んだ事で女の姿をはっきりと見えて、その異様な姿に燈里は一歩後退った。
白無垢の半身が赤に染まっていた。近づく度に背後に赤の道を作るその女の右手には、ひび割れたスマホが握られている。
不自然に体を左右に揺らし、女は歩み寄ってくる。湿った土の匂いに混じり錆びた鉄の匂いが鼻腔を掠め、耐えきれず燈里は服の裾で鼻を覆った。
手を繋いだままの楓は動かない。紫陽花を拾い上げた冬玄も、無言のまま身じろぎ一つしない。込み上げる恐怖で視界が滲み出し、燈里は縋るように手を伸ばした。
「冬玄」
燈里のか細い声に反応して、冬玄の肩が小さく揺れる。静かに立ち上がり、花嫁を見据え。
「燈里」
名を呼んだ。
それは背後の燈里に向けられたものか、或いは目の前の女に対してか。
冬玄はそれ以上何も言わず。近づいた女が差し出す左手を受け入れるように手を伸ばした。
「冬玄っ!」
燈里の声に無言を貫き。女の元へ、水たまりの中へと足を踏み出して。
「っ、あの馬鹿」
「いやっ、冬玄。冬玄っ!」
燈里と楓の目の前で、その姿は水たまりの中へと音もなく沈んでいった。
「楓っ。お願い、離して!冬玄がっ!」
「燈里、いい子だからおとなしくして。無理だよ。あれはもうここにはいない」
「やだっ。いや、聞きたくない。お願い行かせてっ!」
半狂乱で冬玄の後を追おうとする燈里を止めながら、楓は険しい表情で視線を巡らせる。
女の姿はない。しかしまだ、雅楽の音と足音は聞こえている。
「まったく、あの馬鹿は面倒ばかり引き起こして!」
こぽり、と小さな音。辺りの水たまりから次々に浮かび上がる白の紫陽花に、楓は忌々しいとばかりに舌打ちした。
燈里と繋いでいる手とは逆の手を軽く振る。音もなく現れた翁の面を掴むと、燈里を強く引き寄せて涙に濡れる彼女の顔に面を被せた。
びくり、と燈里の体が震えて沈黙する。
「いい子。まずは家に帰るよ。いいね?」
動きを止めた燈里が楓の言葉に頷くのを見て、楓は彼女の手を引いて歩き出す。
水たまりを、そこに浮かぶ紫陽花を避け、雅楽の音色や足音から遠ざかるように急ぎながら。
足を止めぬまま、楓は背後を振り返った。遠ざかるそれを見遣り、纏う気配が鋭くなる。
白の旗。提灯を持つ子供。
花や香炉、供え物や霊膳を持った、喪服姿の人々が歩いていく。
葬列。だがその後に続くのは棺ではない。
黒紋付羽織袴を来た男。その男に朱傘を差し掛ける神職らしき男。
誰もが皆俯き、黙したまま。葬列でありがなら、参進の儀でもある行列が、燈里を追って進んでいく。
「冬玄」
か細い囁き。面の裏で静かに泣いている燈里に視線を向けて、楓は表情を和らげ繋いだ手に力を込める。
「大丈夫。あれは腐っても宮代《みやしろ》の守り神だ。最悪にはならないよ」
でも、と水たまりに浮かぶ紫陽花を見下ろし、楓は続ける。
「このまま梅雨明けを待ち続けるのは、確実ではないからね。あの馬鹿をそのままにしていても、燈里が悲しいだけだし……こちらから、出向く必要はあるかな」
目の前に、白の紫陽花が落ちた。
一つ、また一つと降る紫陽花は、しかし二人に届く前にすべてが赤い花びらへと変わる。
白が振り、赤が舞う家路を進みながら、楓は姿を消した冬玄を思い、顔を顰めて舌打ちした、
20250605 『水たまりに映る空』
窓の外。暗い夜空を、楓《かえで》は無感情に眺めていた。
まだ雨は降り続いている。窓を打つ滴が、透明な線を描いて地に落ちていく。
ぽとり。雨に紛れて何かが落ちた。窓に白を張り付かせ、暗い地面を白で覆い尽くしていく。
白の紫陽花。
中へ入り込もうと必死なそれらに、楓は煩わしげに眉を潜めた。
「諦めの悪い……しつこい男は嫌われるだけだろうに」
いつの間にか背後に佇んでいた冬玄《かずとら》が、窓に張り付く紫陽花の装飾花を見つめ吐き捨てた。
「まるで君のようだね。同族嫌悪?」
冬玄の言葉を楓は笑い、窓に視線を向けたまま問いかける。問われ、冬玄はあからさまに顔を顰め楓を睨めつけた。
「お前にだけは言われたくないな。しつこさならば、今も燈里《あかり》の中に居続けるお前の方が上だろうよ」
「燈里は優しいからね。僕を忘れる事が嫌なんだよ。燈里があの祭を覚えている限り、楓の最期を覚えている限りずっと僕はこのままだよ」
楓と冬玄。そして燈里を繋ぐいつかの祭を思い、楓は淡く微笑んだ。
燈里がまだ何も知らない学生であった頃。とある廃村で起きた祭に巻き込まれた事があった。人が絶えた事で終わったはずの祭。しかし廃村に足を踏み入れた無法者が残されていた記録を暴き、祭の話を広めた。終わっていたはずの祭は広まった話によって再び目覚め、かつて村で生きていた者の血を継ぐ燈里が巻き込まれた。
「忘れてしまえばいいだろうに。まあ、あれだけ怖い目にあったんだ。忘れられるはずもないか」
「忘れる事はないのだろうね。一人を手放し、多数が生きる……人間の業をあの子はちゃんと理解して、その上で楓を、僕を覚えていようとしているのだから」
楓という存在は、正しくは遠い昔に村で選ばれた少女の事だ。今燈里の妹としてここにいる楓は、広がった話に祭は続いているという人の認識に応えて目覚めた妖。燈里を選ばれた者として祭に引き込み、そして贄としようとした。
燈里によって否定された祭は崩壊し、妖ごと消えるはずであった。だが他でもない燈里によって、妖は記憶の中に留め置かれ受け入れられて、ここにいる。
害そうとしたモノと害されようとした者。燈里でなければ、こうした穏やかな関係は築かれる事はなかったのだろう。
「僕は燈里の事が好きだからね。それはきっと恋でも愛でもないいけれど、燈里を守るためなら手段を選ばないつもりではいるよ……君はどうだい、トウゲン様?」
「……その呼び名はやめろ」
楽しげに目を細めて笑う楓に、冬玄は嫌そうに顔を顰めてみせる。
「燈里が俺に冬玄である事を望んでいる限り、俺は冬玄だ。トウゲンでもなく、況してシキの北でもない」
シキの北。燈里の巻き込まれた祭を、本来司る妖。それがかつての冬玄だった。選ばれた娘を逃がし、祭の破綻の切っ掛けとなった北の面は、娘が逃げ延びた先でその一族の守り神として奉られた。
そして今、娘の子孫である燈里の婚約者として燈里の隣にいる。
「燈里と契りは結ばないのかい?そうすれば相手も諦めてくれるかもよ」
冬玄は何も答えない。婚約者と言えど、人と妖。所詮は真似事でしかない事を、冬玄は理解していた。
「いずれ燈里も夢から覚めるだろうよ。その時に契りなんざ結んでいたら、足かせになるだろう」
「君って本当に面倒だね。いつまでも覚めない夢を見させているのは、他でもない君自身じゃあないか。手を離すつもりがあるのなら、事ある毎に燈里の交友関係を狭めたりしないだろう。可哀想に、そのせいであの子は未だに恋人の一人も出来なかったんだから」
「……今は俺がいるのだから、必要ないだろう」
心底呆れたと言わんばかりに、楓は溜息を吐く。冬玄の矛盾ばかりの言動に、肩を竦めて頭を振った。
「君のその執着は何だろうね。恋か、愛か、それとも妖として望まれたいという本能か……どれであっても、気持ち悪い事には変わらないのだけれど」
「煩い。俺にだって分からん……だが燈里と同じ気持ちを返せればと。返したいとは思っている」
低く呟く冬玄の表情はどこか苦しげだ。
妖と人と。決して同一にはならない二つは、やはりどこまでも違うのだろう。
恋や愛などの感情が、妖である冬玄には分からない。分からないなりに燈里を思い、それが執着となっている。手を離さなければという理想と、誰にも渡したくないという衝動。その二つを抱え、不安定に佇む冬玄を楓は一瞥し、視線を窓の外へと向けた。
気づけば雨音が止んでいる。いつの間にか雨は上がったらしい。窓に張り付く花は一面を覆い、僅かにも外は見えはしない。
不意に風が窓を揺らした。張り付く花は風に剥がされ、次第にその数を減らしていく。
少しずつ、外が見えてくる。暗い夜の景色が露わになる。
「――随分と熱烈だね。あのままずっと待つつもりかな」
呟く楓の視線の先で、黒い影が佇んでいた。
黒の羽織。そして袴。俯いているためにその表情は分からないが、男が一人窓の外に立っている。
黒紋付羽織袴。それは花婿の正装だった。
「よほど燈里が気に入ったのかな?花婿本人が出てきてしまったよ」
「迷惑でしかないな。燈里には俺がいるのに、往生際の悪い」
戯ける楓に対して、冬玄は忌々しげに吐き捨てた。
随分と余裕がない。そんな冬玄を楽しげに、だが呆れを乗せて見遣りながら、楓は呟いた。
「あれの執着は何だと思う?恋か、愛か、それとも……さて、何だろうね」
問われて、冬玄の顔があからさまに歪む。楓と同じように花婿に視線を向け、くだらないと吐き捨てた。
「ただの未練だろう?考えるまでもない……考える事すら虫唾が走る」
今にも襲いかからんばかりの鋭い目をして花婿を見据える冬玄に、楓は小さく息を吐く。これ以上は本当に外に飛び出して行きかねないと、カーテンに手を伸ばした。
その手が止まる。花婿よりも背後。小さく白の影が見えた。
目を凝らす。その姿を認めて、思わず楓は眉を潜めた。
「――花嫁?」
「どうした?」
沈黙する楓に、冬玄は訝しげに窓の外を覗き。
「増えてるな。花嫁まで来るとは」
遠く見える、白無垢を着て俯く女の姿に嘆息し、これ以上は見たくもないとカーテンを引いた。
20250604 『恋か、愛か、それとも』
「おかえりなさい」
無邪気に笑う楓《かえで》に迎えられ、燈里《あかり》は強張る体の力を抜いて微笑んだ。
「ただいま。今日はありがとうね」
抱きつく楓の頭を撫でる。嬉しそうにきゃあと笑い声を上げて、楓は燈里に擦り寄った。
だがその眼は鋭く、険しい。燈里の後ろに立つ、同じように険しい表情を浮かべる冬玄《かずとら》と視線を交わし、さらに強く燈里に抱きついた。
「楓。あのね、傘の事なんだけど」
「そんな事よりも、早く入ろ?帰ったら、ちゃんと手洗いとうがいをしないと駄目なんだよ」
燈里から体を離して、楓は態とらしく腰に手を当て怒ってみせる。普段から楓に言っている事を逆に言われて、燈里は苦笑しながら靴を脱いで上がる。ほら早く、と靴を片付ける前に背を押されて、燈里は仕方がないと一人洗面台へと向かった。
「まさか直接来るとは思わなかったな。余程燈里にご執心らしい」
靴を片付けながら、楓は無感情に呟いた。
「迷惑なもんだ。婚約者がいるってのに、お構いなしとは」
吐き捨てて、冬玄も靴を脱ぐ。脱いだ靴の中に見えた白にあからさまに顔を歪め、舌打ちする。
手を差し入れ取り出されたのは、紫陽花の装飾花。冬玄の手の中でそれは次第に凍り付き、やがては粉々に砕けて消える。
「しつこいな。無駄だと気づけばいいものを」
「まあ、仕方ない。燈里は優しい、いい子だからね」
手を払い靴を片付けながらさらに表情を険しくする冬玄を見て、楓は肩を竦めた。
梅雨が終わるまで。あるいは梅雨が終わってからも、諦める事はないのだろう。
出かける前に楓が手渡した傘は、持ち帰られる事はなかった。一輪、また一輪と増えていく白の紫陽花。転がる傘を埋め、特に内側を余す所なく覆い尽くす紫陽花、はまるで覗く事が出来なかった中を暴き立てるように。
やがて傘は、紫陽花に埋もれ溶けるように消えてしまった。
「二人とも、どうしたの?」
未だに玄関から動かない二人を心配し、戻ってきた燈里が声をかける。
「お姉ちゃん!しばらくお仕事はお休みするんでしょ?じゃあ、明日から何して遊ぼうか?」
「え?……えっと、それは、ね」
嬉しそうに抱きつく楓を戸惑いながらも抱き返し、燈里は冬玄に視線を向けた。
冬玄から聞いたのだろう。まだ了承はしていないと文句を告げる前に、冬玄は態とらしくにこやかに笑い、楓の言葉を肯定した。
「そうだな。今ある資料を纏めて、記事を書いてしまえば暫く休みだ」
「冬玄!」
「言っただろう?俺やこいつの側を離れるなって」
だけど、と言い募る燈里の袖を楓は引く。視線を向けた燈里の眼を見つめ、楓は小首を傾げて笑ってみせた。
「折り紙とか、お絵かきとか……楽しみだね、お姉ちゃん」
「……うん。そうだね」
「無理矢理かよ。怖ろしいもんだ」
嫌そうに眉を潜めるが、冬玄は楓を止めるつもりはないのだろう。楓に頷く燈里を見つめ、そして玄関扉を振り返る。
ざあざあと、扉の向こうで音がする。また雨が降り出したらしい。
その雨音の合間に、何かが落ちる音。とさり、かさりと軽い何かが積み上がっていく。今扉を開ければ、積み上がる何かが雪崩れて玄関に入り込むのだろう。
「お買い物は三人で行こうね。梅雨の間はずっと一緒……お姉ちゃん、約束だよ」
無邪気に燈里の小指に自らの小指を絡め、楓は約束と念を押す。燈里が約束、と微かに呟くのを聞いて満足そうに頷くと、燈里の手を引いて居間へと歩いていく。
二人の姿を視界の隅に入れながら、冬玄は小さく息を吐く。
外ではまだ雨が降り続いている。
扉に伸ばした手を止め逡巡した後、手を下ろし扉に背を向けて、二人のいる居間へと向かった。
「約束だよ」
小指を絡めて、二人密かに笑う。
将来の約束。大人になったら契りを交わすという、二人だけの秘密。
「絶対よ。守ってくれないと駄目だからね」
「うん、絶対守るよ。だから誰の所にもお嫁さんに行かないでね」
「行かないわ。約束する」
額を合わせて囁き合う。お互い真っ直ぐに相手だけを見つめ。
「約束だよ」
「約束するわ」
吐息を重ね、静かに目を閉じる。
距離がなくなり、唇に触れたのは柔らかな熱。
その日交わした約束は必ず叶うものだと、欠片も疑わず信じていた。
白の旗がゆっくりと過ぎていく。
花や香炉、供え物や霊膳を持った、喪服に身を包んだ人々が歩いて行く。その後ろに棺を担ぐ人と位牌を持つ人。
棺を担ぐのは彼の兄と従兄弟だ。そして位牌を持つのは彼の父。
彼の眠る棺を見つめ、立ち尽くす。何も感じない。涙一粒さえ流れなかった。
雨上がりの濡れた地面を、葬列に参加する人々が踏み締めていく。水分を多分に含んだ土を跳ね上げ、濡れた音を立てていく。
「約束、したのに……嘘つき」
呟く声に答えてくれる、愛しい人はもういない。
暖かな腕に抱きしめられる事も、好きだと囁く甘い声も、何もかもを失ってしまった。
「絶対守ってくれるって、そう言ったのに」
葬列が過ぎていく。
俯く人々は皆、彼の早すぎる死を悼み俯いている。
やがて葬列は見えなくなり。
「約束だよって、指切りまでしたのに……なんでっ」
一人きりになって初めて、一筋の涙が頬を伝い流れ落ちた。
20250603 『約束だよ』