sairo

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「おかえりなさい」

無邪気に笑う楓《かえで》に迎えられ、燈里《あかり》は強張る体の力を抜いて微笑んだ。

「ただいま。今日はありがとうね」

抱きつく楓の頭を撫でる。嬉しそうにきゃあと笑い声を上げて、楓は燈里に擦り寄った。
だがその眼は鋭く、険しい。燈里の後ろに立つ、同じように険しい表情を浮かべる冬玄《かずとら》と視線を交わし、さらに強く燈里に抱きついた。

「楓。あのね、傘の事なんだけど」
「そんな事よりも、早く入ろ?帰ったら、ちゃんと手洗いとうがいをしないと駄目なんだよ」

燈里から体を離して、楓は態とらしく腰に手を当て怒ってみせる。普段から楓に言っている事を逆に言われて、燈里は苦笑しながら靴を脱いで上がる。ほら早く、と靴を片付ける前に背を押されて、燈里は仕方がないと一人洗面台へと向かった。


「まさか直接来るとは思わなかったな。余程燈里にご執心らしい」

靴を片付けながら、楓は無感情に呟いた。

「迷惑なもんだ。婚約者がいるってのに、お構いなしとは」

吐き捨てて、冬玄も靴を脱ぐ。脱いだ靴の中に見えた白にあからさまに顔を歪め、舌打ちする。
手を差し入れ取り出されたのは、紫陽花の装飾花。冬玄の手の中でそれは次第に凍り付き、やがては粉々に砕けて消える。

「しつこいな。無駄だと気づけばいいものを」
「まあ、仕方ない。燈里は優しい、いい子だからね」

手を払い靴を片付けながらさらに表情を険しくする冬玄を見て、楓は肩を竦めた。
梅雨が終わるまで。あるいは梅雨が終わってからも、諦める事はないのだろう。
出かける前に楓が手渡した傘は、持ち帰られる事はなかった。一輪、また一輪と増えていく白の紫陽花。転がる傘を埋め、特に内側を余す所なく覆い尽くす紫陽花、はまるで覗く事が出来なかった中を暴き立てるように。
やがて傘は、紫陽花に埋もれ溶けるように消えてしまった。

「二人とも、どうしたの?」

未だに玄関から動かない二人を心配し、戻ってきた燈里が声をかける。

「お姉ちゃん!しばらくお仕事はお休みするんでしょ?じゃあ、明日から何して遊ぼうか?」
「え?……えっと、それは、ね」

嬉しそうに抱きつく楓を戸惑いながらも抱き返し、燈里は冬玄に視線を向けた。
冬玄から聞いたのだろう。まだ了承はしていないと文句を告げる前に、冬玄は態とらしくにこやかに笑い、楓の言葉を肯定した。

「そうだな。今ある資料を纏めて、記事を書いてしまえば暫く休みだ」
「冬玄!」
「言っただろう?俺やこいつの側を離れるなって」

だけど、と言い募る燈里の袖を楓は引く。視線を向けた燈里の眼を見つめ、楓は小首を傾げて笑ってみせた。

「折り紙とか、お絵かきとか……楽しみだね、お姉ちゃん」
「……うん。そうだね」
「無理矢理かよ。怖ろしいもんだ」

嫌そうに眉を潜めるが、冬玄は楓を止めるつもりはないのだろう。楓に頷く燈里を見つめ、そして玄関扉を振り返る。
ざあざあと、扉の向こうで音がする。また雨が降り出したらしい。
その雨音の合間に、何かが落ちる音。とさり、かさりと軽い何かが積み上がっていく。今扉を開ければ、積み上がる何かが雪崩れて玄関に入り込むのだろう。

「お買い物は三人で行こうね。梅雨の間はずっと一緒……お姉ちゃん、約束だよ」

無邪気に燈里の小指に自らの小指を絡め、楓は約束と念を押す。燈里が約束、と微かに呟くのを聞いて満足そうに頷くと、燈里の手を引いて居間へと歩いていく。
二人の姿を視界の隅に入れながら、冬玄は小さく息を吐く。
外ではまだ雨が降り続いている。
扉に伸ばした手を止め逡巡した後、手を下ろし扉に背を向けて、二人のいる居間へと向かった。





「約束だよ」

小指を絡めて、二人密かに笑う。
将来の約束。大人になったら契りを交わすという、二人だけの秘密。

「絶対よ。守ってくれないと駄目だからね」
「うん、絶対守るよ。だから誰の所にもお嫁さんに行かないでね」
「行かないわ。約束する」

額を合わせて囁き合う。お互い真っ直ぐに相手だけを見つめ。

「約束だよ」
「約束するわ」

吐息を重ね、静かに目を閉じる。
距離がなくなり、唇に触れたのは柔らかな熱。

その日交わした約束は必ず叶うものだと、欠片も疑わず信じていた。



白の旗がゆっくりと過ぎていく。
花や香炉、供え物や霊膳を持った、喪服に身を包んだ人々が歩いて行く。その後ろに棺を担ぐ人と位牌を持つ人。
棺を担ぐのは彼の兄と従兄弟だ。そして位牌を持つのは彼の父。
彼の眠る棺を見つめ、立ち尽くす。何も感じない。涙一粒さえ流れなかった。

雨上がりの濡れた地面を、葬列に参加する人々が踏み締めていく。水分を多分に含んだ土を跳ね上げ、濡れた音を立てていく。

「約束、したのに……嘘つき」

呟く声に答えてくれる、愛しい人はもういない。
暖かな腕に抱きしめられる事も、好きだと囁く甘い声も、何もかもを失ってしまった。

「絶対守ってくれるって、そう言ったのに」

葬列が過ぎていく。
俯く人々は皆、彼の早すぎる死を悼み俯いている。

やがて葬列は見えなくなり。

「約束だよって、指切りまでしたのに……なんでっ」

一人きりになって初めて、一筋の涙が頬を伝い流れ落ちた。



20250603 『約束だよ』

6/4/2025, 10:22:26 AM